閑話小題 ~女性社会の話題は尽きず!

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   * 私の同年代の男女格差がリアル
 私の年代は、終戦直後もあって、男女格差がリアル! 男にとっては天国で、
女は地獄。 同年代から数年下は団塊の世代で人口が山ほど存在する。
1対2の割りあい。様ざまな条件を入れると1対3にはなる。 それもあってか、
男はノンビリしたのが多い。 …何故か、声がかかる割が多いのは、その為と
当時から理解していた。 何れの世界にもNO1の美人が存在している。美人は
絶対に有利になる。生涯格差は7800万と社会学者は宣う。
 …NO1は数うちゃ当たるで、八方美人的に色気を打ちまくる。
…振られても、直に誰かから声がかかる。
 ― 
   * パンデミックが、どんどん身近に…
【 県内では3日、新たに47人の新型コロナウイルス感染が発表された。
  このうち10人が新潟市で、37人はその他の市町村です。】
  毎日、そのタネが尽きることがない… 
ジワジワと身近に迫っているコロナ禍が不気味である。 スポーツジムや、
歯医者の通院も考えなければならないのか?  恐ろしいのは、最悪の場合、
後遺症が一生、ついてまわり、人生そのものが破壊される可能性があること。
人生の90~95%以上も終えてしまい、元をとった手応えのある身なればこそ、
他人事で済まされるが… 若い人は注意をし過ぎることはない。無知の涙
流す前に、いま一度、この流行り病の意味を知っておくべきである。 
 …時間経過とともに、コロナ菌が、猛毒化しているような。不思議なことに、
中国が何事も無いように、沈静していること。 怪しいなら、アメリカも、
それ相応な細菌を仕込んで、ばら撒くのも至極当然。第三次大戦の可能性も、
頭の隅に置いて置くべきである。その事態に発展しないことを祈るばかり。
 
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6990,閑話小題 ~父親の話
2020年05月04日(月)
   * 感謝しても、しきれない人
 父親が亡くなったのが、67歳。現在の私は74歳だから7年も年長になる。
8人兄弟の末っ子もあって、両親に、とりわけ父親に溺愛されて育った。
明治人で、潔癖で、真面目な人物であった。私の知る限り浮いた
話は聞いたことがない。骨董商の二代目で、太平洋戦争を挟んで、二つの
時代を生き抜いた生涯だった。 戦前には、現在の10億クラスの資産形成が
あったが、長岡空襲で殆どを失っていた。戦時中の稼ぎは、戦死者の急増で
仏壇販売を中心に乗りきり…、戦後は古着販売と、貸布団を中心にしていた。
地元大手の津上製作所の社長に骨董を納めていた因縁から、互尊翁と言われた
野本恭八郎宅にも自由に出入りしていた。二番目の姉の名前が「恭子」。
私の名前の「八郎」は… 野本「恭八郎」から頂いた。

 10歳までは常にペットのごとく、父親が出かけ先に手をひかれて同行して
いた俗にいう「父親っ子」。敗戦後に小商人の古美術商が、転業に成功した
事例として名を成していた。子供の頃から、時世について父親の薫陶を子守歌
かわりに聞いていたのが、このブログの下地になった。

 父親が年に数回、近くの「行楽」「角八」「喜京屋」のラーメンを食べに
行くのが最大の愉しみだった。派手好みの長女を除いて、兄姉の生活は地道
だったのは父親の刷り込み。太平洋戦争の敗戦で、体制と価値観が根こそぎ
変ったのが骨身に応えたようだ。 収入の4分1を株価の手堅い東北電力
北陸ガス株などを別口に積み立てる必要性を、何度も教えられていた。
9年前の思わぬ黒鳥の到来で、何とか事なきを最小で終えたのは、父親の
刷り込みがあったため。さらに‘人生も仕事も楽しむこと’を後ろ姿から、
学んだ事がある。そう簡単に生きる知恵は身につきはしない。毎朝、仏前の
両親と祖父母の写真に向かって手を合わしているが、これも幸福への習慣。

 ‘魂’について、これまで数限りなくテーマにしてきた。 
私の魂とは…両親、とりわけ父親の愛情そのもの。死ぬ時に、それと供に
永遠の彼方に放出されていく。だからか今のところ、死への恐怖は少ない。 
70歳代半ばにして、こう言えるだけでも両親に感謝している。

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6622,閑話小題 ~AIについて
2019年05月03日(金)
    <「AIが人間を殺す日~車、医療、兵器に組み込まれる人工知能
                        小林雅一(著) >
 最近の情報機器の進化には目をみなることが多々ある。数年前に、居間
から寝室に移住空間の主体を移動してきたことは、何度もテーマにしてきた。 
廊下を挟んで対角にある仏間の書斎コーナーのパソコン前の空間を加えると、
一日の三分二に近い15時間は「奥の院」に在住している。そこでネットTVと、
録画した映画・ドラマと、旅紀行、各種の講演や、YouTubeで動画サーフィン
などに没頭する。そこは現実社会とデジタル映像の世界が交差する不思議な
空間でもある。AIが人間をコントロールする可能性がある「2045年問題」
 奥の院では睡眠以外の時間は情報端末で、コントロールされている。
  
  ~Amazonの内容紹介より~
≪   ◉ 誰も言わない「一番の脅威」 ◉
 飛躍的な進化を遂げる人工知能(AI)。明るい未来が語られる一方で、
「AIに雇用が奪われる」という見方や、超越的な進化を遂げたAIが人類を支配する
「二〇四五年問題」などのAI脅威論も少なくない。しかし著者はむしろ、目前に
迫る危機として、車、医療、兵器の三つを挙げる。共通するのは、私達の命に直結
する分野であること。ここに今、最先端のAIが導入されようとしているが、中身の
見えないブラックボックスであるうえに、ときに暴走の危険性をはらむ。
 世界の制御権が人間からAIへと移譲されたとき、その先に見えるのは自ら判断
する機械・システムが人の命を奪う衝撃の未来。AIの真の脅威が明らかに! ≫
   ~読者、感想より~
・本書でキーワードとなるのは、「Human in the Loop」「Human out of the Loop」。
すなわち制御の輪の中に人間を含めるか、それとも人間を除外するかということで、
自動運転車でいうと、Googleなどが目指しているような完全自動運転車は
「Human out of the Loop」の思想に基づくものになる。今やAIの主流となる
ディープラーニングではビッグデータに基づきAI自身がある法則性の下でアウト
プット(判断や命令など)を出すが、その過程はブラックボックスでAIの開発者
でさえなぜそういう判断になったのかを理解することができない。AIの判断が
統計・確率に基づくものである限り、現実世界との微妙な誤差により誤った判断
をする危険性があることを著者は指摘しており、自動車や医療分野など判断が
人の生死に関わる分野では「Human out of the Loop」は危険であると論じている。
一方、半自動運転車のように人間の関与も含める形の場合は、どこまで人間が
運転に注意を払わなければならないか曖昧な点が問題、実際に実用化されている
半自動運転車の死傷事故の分析では「ドライバーの混乱」が事故の主な原因と
されている。ということで、AIの判断にどこまで人間が関与するかは難しい問題
であるが、急速な勢いでAIの開発と応用が進んでいる今こそ社会全体で考えて
いかなくてはならないことは間違いないであろう。
・本書では、主にAIの技術的な面に焦点を当てて論じているが、基本的にAIの
判断過程がブラックボックスでしかもIoTで様々なAI搭載機器がネットにつながる
時代では、悪意を持った個人やテロリスト、国などによる脅威もどんどん高まって
いるだろう。自動運転車搭載のAIに外部からの操作で誤作動をさせて事故を起こす、
医療分野で治療を支援するAIのプログラムを操作して誤った治療方針を提示させ
結果患者を死亡させるといったケースがまったくあり得ないことではない時代に
なりつつある。AI搭載の兵器がテロリストなどの手に渡った際の脅威は言うまでない。
こういったケースも想定した上で、AIの信頼性を更に高め、悪用を防ぐ方策を
考えていくことが特に人間の生死に直結する分野への応用においては重要であろう。

▼ AIといえば、最近、コマーリャル等で、見かける『ポケトーク』。
 翻訳は、端末ではなくクラウド上のエンジンを用いている。そのため、言語
ごとに最適な翻訳エンジンが活用できる。 従来のオフラインの翻訳機ではなし
えない高度な処理を実現している。これで海外旅行での会話の心配が少なくなる。 
 これをみて、直ぐに考えついたのが『ポケフレンド』。何かを思いついたとき、
話しかけると、即座に、自分では考えつかないレベルの面白い考えを自動的に
伝えてくる機能の端末…。そう遠くない内に、こんなのが出てきたら、如何なる? 
これは思考AI、いや思考サイボーグである。協働ロボットならぬ「協考AI」。
もっとも、グーグルの検索機能も、その類。 自宅の2台のTVはソニーだが、
パナソニックのTVは、音声で直接呼びかける機能と言うが…

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6260,閑話小題 ~17年書き続けると
2018年05月04日(金)
   * 5月4日は、このブログ開始記念日
 このブログは、私の人生を根底から変えてくれた。
まる17年間、6260回も続けてきた。学生時代に、基礎教養不足に気づき、
読書習慣と本屋通いを習慣に取入れた。読みっぱなしのためか、
読んだ割に知識が身に付いてなかったことに焦りがあった。55歳時に、
何とかパソコンを我が生活の中心に取り入れたいと近所に出来たての
PC教室の通うことにした。当時は、ブログは出始めた頃。
「個人HPの作成の過程でネット社会に近づくこと」を目的にした。
以来、現在に至っているが、2007年12月から、「はてな」のブログを
始めて10年あまり、今では、来訪者は、ほぼ「はてな」に移動した。
 しかし個人HPの「内部検索」が、私にとって非常に効果的になっている。
以下にコピーした過去のテーマは、これによる。例えば、「イスラエル」と
検索すると、数秒もしない内に、時系列で現れ出てくる。脳のクラウド化の
感覚が何とも奇妙。写真も、然り。 下記の中に書いてあるように、学生時代
のカード日記作成の下地」がある。下記も「カード日記」で検索したもの。
 ある意味、潜在意識化された記憶をキーワードで引張り上げが可能に…。
ささやかだが、私には、非常に効果的システムである。TVで「タンザニア
の放映があれば、タブレットで検索すれば、たちまち当時の記憶が鮮明に
現われ出てくる。若者、子供が、こんなことより遥かに情報機器を使い
こんでいるのだから… 情報化社会の一端を連日、目の当たりにして、
その面白さ、楽しさを充分に満喫できる日々が信じられない感がする。
 何事も一万時間か、10年続けることですか。

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2016/12/08
なぜ本を読むといいか? ~7
        <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博
  * 確実によい本に出合う方法はあるのか?
 本の選択能力を磨くには、どうしたらいいか。
“どのよんなジャンルでもいいから、数にあたることが大切”と著者はいう。
あたり前のことだが、その中で、著名人の読書指導書を、何処かで読んでおく
べきである。ツボを心得ているかどうかで選択肢が変わってくる。
それ以前に、あらゆるジャンルの絶対量の読書が必要になる。
 ~その辺りを、第5章に具体的に述べてある。
≪・“こうしたよい本に出合う機会は、当然のことながら、読書の量を
 重ねれば重ねるほど多くなる。「これだ!」という本を数えたことがない
から確かなことはいえないが、私の場合、おそらく300冊ぐらいだろうか。
300冊という数字だけを見れば多いかもしれないが、それでも3千冊読んで
の300冊だ。9割の本は、私の感性には引っかからなかったということ。
でも、それで損をしたとは思わない。無駄な本に出合わずに効率的に本を選ぶ
ことなど、どだい無理だと思っているからだ。
・また、他人の脳のかけらをつなげて新しい視点を獲得したいと思うならば、
自分には相場観のないジャンルや著者の本を手に取ることも大切だ。相場観を
持たない世界では、だれだって効率もクソもない。全く外れになる可能性も、
おおいに歓迎しよう。そのリスクを取ることで、リターンが得られるのだから。
・大事なので、結論を繰り返す。
 本当に自分に必要な本と出合いたいと思う人には、「乱読」の習慣化をすすめる。
予想もしなかった考え方に出合ったり、本を介して未知の人物との遭遇が将来
起こる可能性もある。その化学反応は、読む前にはわからないことが多い。
 本に即効性を期待する人もいるが、私は違うと思う。
本1冊の値段は文庫本で500円前後、新書で700円~900円、単行本で
1300円~2000円程度である。買ったうちの9割がダメでも我慢できる。
 外れる確率は高くても、偶然の出合いがあるほうが、よほど面白い物語に
なると思う。それは人生における人間との出会いと変わらない。 人生における
偶然の素晴らしい出会いを、効率的に設定することなどできはしない。
本との出合いも、同じなのである。数をこなそう。≫
――
▼ 現実の体験や読書評を連日書いてきたが、一つのテーマに対して、
 その選定から、起承転結をマトメルに膨大のエネルギーを入れている。
文字の認識度が低いためである。子供の頃から漫画が好きで、絵からの
認識度があるが、読書脳は希弱のベース。 まして、文章化など・・ 
 それに気づいたのが学生時代。それを取り戻す為、毎日2時間以上の読書量
の確保と、日記と、メモを小まめにとることにした。 で、辿りついたのが、
ブログ、この雑記帳的随想日記である。 大学を卒業直後、何か足りないと
気づき、一年間、独学に近い状態で、産能大学で遊学。フィールド(現場)の
情報を効率よく残すには、如何すべきか? そこで得たのが、記録方法。
この随想日記の原型の方法、カード日記である。それも、大型カードに、
記録を残し、日付を入れて、毎日、得た知識のカード化。新聞切抜きは、
それを二枚重ねホチキスでファイル状にして、カードに挟んで茶封筒に入れる。
 ところが、これに問題が生じてきた。そうすると、最少単位のテーマを
二度と見ることがなくなる。その弊害が、その習慣の自然消滅の原因になって
しまう。 現在のブログに、毎日、同月同日の文章をコピペをしているのは、
かって書いた内容を、一年に一度、目を通す為である。また、ブログ内検索で、
思い出すキーワードで過去文を瞬時に引出している。実際、この随想日記は
私には非常に有効なシステムになっている。「私は無能で、遊び好きで、怠け者」
と自覚しているため、習慣化という第二の天性を多く重ねるしかないことを、
人生で学んできた。 他者の冷たい蔑視に、殆ど気にしないでいられるのは、
<少し離れてみれば、所詮、石の形、大小が違えども、砂利、砂でしかない> 
 を自覚しているため。 良質の量の増加は、質の自然変化を促す。それも、
 砂利の中の比較世界の話、アフォと、パーの違い。
トランプとクリントン女史の討論を見れば、自明? 韓国の女子たちも然り。
すると、安倍・麻生コンビも如何だろう?と 自然考えてしまう。・∀・)ニ 

・・・・・・
2005年11月03日(木)
1675, 「自薦エッセイ集 魂の光景」-1
                      -読書日記
「創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から
日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。
読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。
数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に入ってから大きな
手術をし、死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。
心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶の存在を感じている。
神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、
神秘思想のところがありながら、「意識は脳の働きである」という
意識を明確に持ったまま、心の奥深い世界を描写している。
 印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。

ー「書くことの秘儀」ー
”小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、
リアリティを生み出すことだ、”
”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、
悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる条件ではなかっただろうか。
死者を弔い。祖霊、神霊への祈り、祭り。
それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 歌と壁画。
食って寝て性交をして子供を育てる以上の膨大な事柄が、
われわれの生を満たすようになったのだ、意識と言葉の進化によって。
一口に言語といっても、他人とのコミュニケーションのための話し言葉と、
ひとり物思い思考しその過程と結論を刻みつける書き言葉とは、
ほとんど異質なものである。 新人を、その抽象的・象徴的能力を
特徴づけるのは、書き言葉とその洗練である。

”「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」
「当人は口をきかない、別の人格の言葉なのだ」
本当に、このことはとても微妙で重要だ。
<「別の人格」とは何のことか>ユングは「神話的元型」といった。
インディアンの祈祷師マツゥスは「沈黙の知」といった。”

”自分自身の言葉で自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、
よく知っているはずだ―文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、
自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態に
なる瞬間があることを。 以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械
のように、その正体不明の何者かの、言葉以前の暗い想念のエネルギーの
ゆらぎを言葉に翻訳するような具合になることを。”

”少し落ち着いて考えてみれば、”自分の言葉”などないのだ。何万何十
万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が折り重なり、まといつき、
溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。
ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。”

”より自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは
「沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れることができる。
心ならずも近き触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまう。”

”自覚的に書く人―書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、
書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、
世界を少しでも意識化しようとして書く人、すなわち職業的にではなく運命的に
”書く人”である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。
神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。
彼あるいは彼女を駆立て支えるものは、そのように<自分のために書くことが
(特定の読者層に向かって書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう>
という信念というより信仰に近いものだ。”

”少なくとも結果の保証のない賭け。
賭け金は自分でもよく分からない自分の生涯の体験の闇の奥行と自己判定
不能の才能。確実に失われるのは、保証された人生の幾つもの現実、
その安定と安心。”

読んでいるといつの間にか、深い心の底に導かれてしまっている。
[深いことを書くこと]は、読者を深いところに導くことになる。
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2017/08/25
閑話小題 ~ 随想日記、6000回超え、

   * 随想日記も、6千回超え
 千回単位を超えた度に、その時々の実感を書いてきた。この16年と数ヶ月の間、
‘テーマ探し’が、遊びの柱になっている。 凡庸な者が書上げるには、膨大の
時間とエネルギーを使うしかないのが最大の利点になるが、時おり何も浮かばず、
茫然とする。 この下地が20歳半ばにあった。卒業の直後に感じたことは、
「長い人生で、多くの経験をするのだろうが、それを高めるため、現場体験や、
情報をコンパクトに纏める能力( =経験を言葉に変換し、起承転結に完結する
物語化する技能)こそが重要と… そこで会社を辞め、産能大に籍を置き、KJ
法や、創造工学の書を独学で学んで、辿りついたのが、ハガキ大のカード二枚を
ホチキスでとめファイルにし、カードに感想文などを書き、その間に新聞やメモ
を挟み、カードボックスに分類して放りこむ、システムである。それそのままが、
個人HPであり、ブログになっている 16年前に、ネット上のブログとして公開、
外部脳として、活用している。 情報収集に検索と、ネットサーフィンが非常に
有効に働いている。まだ、ブログが出揃う前後で、パソコン教室で「個人のHP」
の共同制作を通して、ネットに別世界をつくり始めていた。現在でも、細菌対策
のバックアップの役割として続いている。これは、ブログ閲覧の10分の1以下
だが、当初からの閲覧者が根強く存在している。6千回も続くのは、それなりの
軌跡があってのこと。批判・批評なら誰も出来るが… 好きにならなきゃ無理。
 2つの合計、350人前後の閲覧者が、今年に入って500人近くに増えた。
少しでも力を抜くと、即、減るため… 抜くに抜けないのが実情。結果、馬鹿
丸出しになる。自覚をしているため、平気だが… 
 要するに、「ライフワークになってしまった」ということ。