閑話小題 ~3・11から10年の記念日 ~2
あと講釈になるが… 原発の第二回目の爆発の可能性もある中での撤収作戦の
二つの問題が絡むが、兎に角、会社の整理である。債権のある銀行まわりと、
取引先への電話。それは針の筵だが、弁護士が横についているのは心強い!
弁護士曰く、
「倒産には良質と悪質がある。この案件は良質のため問題ない。まず気持ちは
前向きに、後ろ向きの心が一番の敵。…としても、決して明るい案件でない。」
これをプラスに転じるには日々の生活習慣を、理想的日常に転じることと、
こんな経験、滅多にない社会経験のチャンス… 週間単位の理想的スケジュール
をつくり、日々自らを変えていく事。怒り、マイナス思考に沈まないこと。
「日々、是、好日」と、自らを導くこと。拡大も事業なら、撤収も事業の内。
実兄と幼馴染の二人ともが、『弁護士に委託するのがベスト。全てを代行して
くれる』と教えてくれていた。なる程、経営部分の根幹部分を、全て預けるため
起きてくる問題は全てを…『あとは弁護士に!』で事が済む。問題は、その費用。
資金繰りに目がいき、そこまで余裕が無いのが世の常。 ただ、報告を聞くだけ
になる。その瞬間から一種の経済犯そのもの。ことは金銭が絡むため尋常でない。
ただ、後ろ向きにならないのは、なかなか難しい。 世情は、東北大震災と、
現在進行中の福島第二原発の爆発か否かと、被害の実情と、余震に向いている。
こうなると、創業期の、思わぬ問題発生時の血の滲むような経験が、そのまま、
知恵として地の底から湧いてくる。これで、刑務所行き以外の経験を全てした
ことになる。ある意味、自問自答の世界で、その知恵を自ら湧きだすしかない。
そこで沸き出てきた言葉が…『地獄の沙汰も金、次第』。 綺麗ごとなら誰でも
言える。 が、なる程、こういう事かと!
なる程、同じ経験をした幼馴染が、<最後の最後は『お金だよ!』>
そして、それに私が加えるなら、<行蔵だよ!> になる。
人生は、東北大震災と、このコロナ禍も加えて、『まさかの坂』がある。
その時にユダヤ人ではないが、お金の大事さに初めて気づく。
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6936,閑話小題 ~新型コロナの現状と、行方は? ~12
2020年03月11日(水)
* 世界恐慌の可能性は?
◉ リタイアから9年も経過すれば、世界規模の経済崩壊に対する危機感覚が
鈍ってしまったが、これはキツイ。まず… 何もかもの先行きが見えない
のが気がかり。 大型倒産の連鎖も、一度始まったら速度が早くなる。
身近で危機を垣間見れるのが、週に4~5回は通うスポーツジム。ジムは
深刻度が高いのが見てとれる。新規オープン直後から通い始めたが。9年も
すれば初期投資の元は取れた?だろうが、その間に、個性的な新規ジムが
次々と開店しており、先行きが甘くはない。1月前には、インストラクターが
無人に近いカテゴリーキラーのジムがオープン。その上、新コロナ騒ぎ。
この事態は、全ての業界にとって、ブラック・スワンの到来になる。
中国、韓国からの労働者と観光客で、何とか息をつないできた日本経済。
それが渡航中止ともなれば、日本経済は大打撃。
SJのインストラクターの世界は一見、華やかだが、実は過酷労働の世界。
短時間労働の組合せが可能もあり、辞めて直にも新たなインストラクターが
補給される。それが一夜にして…
◉ <新型コロナ菌は、実は二種類あって…>と知ると、「やはり?」と、
不可解さ、疑問が増してくる。韓国ではキリスト教系の新興宗教の集まりで、
イタリアでは、キリスト教系が多い。イランではイスラム教系… 相討ち?
とも穿った見方も出来る。としても年越しの可能とは、ことは深刻。
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◉ その渦中にある中国の武漢で習主席が…
< 「ウイルスは基本的に抑え込んだ」と強調。中国国営テレビは10日、
習主席が新型コロナウイルスの感染症が発生してから初めて武漢を訪れ、
病院を視察する様子などを伝えた。平国家主席「絶対にウイルスとの戦いに
勝てるだろう。武漢は必ず勝つ、湖北は必ず勝つ、全中国も必ず勝つと…
習主席は、「病気のまん延と拡散の勢いは、すでに基本的に抑え込んだ」と
述べ、「党と国をあげて団結奮闘した結果だ」と強調したと。 >
◉ <イタリアのコンテ首相は3月9日、新型コロナウイルス拡大を防ぐため、
事実上の封鎖にあたる移動制限措置をイタリア全土に拡大すると発表した。
【画像】移動制限され、人のいないベネチア
ベネチアやミラノを含むイタリア北部では、すでに移動制限が敷かれていたが、
この措置がイタリア全土に広がることになる。封鎖は3月10日~4月3日まで。
■結婚式や葬儀も中止へ
コンテ首相は9日の記者会見で、「自宅にとどまるよう」求めた。国内の移動は、
急ぎの仕事や緊急事態など、差し迫った必要のあるもののみに求めている。
学校は休校になり、スポーツの試合や、映画、ジム、美術館、大型SCは閉鎖。
結婚式や葬儀なども中止するよう政府は求めている。 人口約6000万人の
イタリアでは感染者数が急増しており、中国以外で最も感染者数が多い。 >
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―
▼ これから世界各地で、パンデミックが始まろうという矢先に、それなりの
裏づけがあってだろうが、世界中が神経を逆立る中で、中国・国内向けの発言
ならよいが、一つ間違えると国家威信が丸つぶれになる。 それが事実なら、
疑惑の切っ先が??に向けられる。政治とは実に怖ろしい世界。
「事実は小説より奇なり」そのものに… 現実になってきた。これが最悪の
事態なのか、世界中に起きようとしているのか? 最悪を想定しようにも、
想定不能が本当のところ。イタリアの事態を日本に重ねて考えると、さて…
『まさか、そんなワケがない!』と言っていられないから、ことは複雑。
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6570,閑話小題 ~こともあろうに、会社清算の渦中に…
2019年03月11日(月)
* 東北大震災から今日で八周年ですか?
何か書こうと前年分を読返したら、いま書きたいと思ったことそのままが、
書いてあった。それも何年の3月の今時分に。文章化としてパッケージにする
記憶の記録は、不思議な作用が脳内に働くもの。その時々の出来事を実録で
残す意義というか、意味は… 時代の大波の渦中で、その時々の自分が
確かに息づいていた温みがそのままが伝わってくる。それがまた、半世紀前の
友人との邂逅の思い出が、当時の日記から現れ出てもくる。 人生は多重の
行蔵で出来上がっている厳然たる事実がある。
2人の女性と、ご遺体、祈っている若い僧侶と、背景に被災地。
私の当時の心象風景そのもの。 南無阿弥陀仏!
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6206,閑話小題 ~「3・11」に何をしていたか?
2018年03月11日(日)
* 3・11の、私の事情
3・11からはや、まる7年になる。創業30年の会社の自主廃業と、東北大震災が
重なったが、こういう不幸は、えてして重なるものだが、それにしても…
会社の万一用の「予備資金」に手を付けざるを得なくなったら、躊躇なく
会社清算をすると、決めていたが、冬枯れの時節とはいえ、その日が到来し、
年末から新年にかけ、独り真剣に清算の見極めを考え始めていた。
2001年の9・11テロ以来、中越地震、柏崎・刈羽沖地震、リーマンショックと、
10年で、売上が3分の1近くへの減少の流れが止まらないのである。その背景に
情報化社会の到来もあって、首都圏からは日帰り圏に入っていたこともあった。
社内留保や家内の保証を入れると、数年は維持できるが、これでは、何かも
失うことになる。今、清算すれば銀行債権以外は、何とか清算が可能。
そして年明けから、創業以来の右腕だったOと、財務の検討に入っていた。
そして2011年の3・11に、事務所で話合いが終わり、立上ろうとした瞬間、
何か異様な揺れが始まった。これは遠くの大震災では?と、TVを入れると、
東北地区で大震災のニュースが。 「こういう事情の時に、こういうのが
重なることは、経験上、有り得ることは知っていたが…
私に強い「意味ある偶然の一致(=シンクロニシティ、共時性)」があるが、
あまりに出来過ぎと考えつつ… さて、この異常事態に如何すべきか?と。
そこに新幹線が不通とテレビのテロップ。県内の被害は、今のところ皆無なので、
まず当日の長岡への帰宅の心配。 それならバスは?と、電話で聞くと、通常
どおり運行、という返事。列車通勤客がバスに流れるので、サラリーマンの帰宅
時間前の17時に乗車と決めて、バス乗り場にいくと、空席があり何とか…。18時
過ぎに帰ってTVをみて驚いた。画面から絶叫に近いアナウンサーの避難勧告の声…
「ああ、私の事業清算の、後押しが、これか」の内なる声。その混乱で、迷い
少なく、決断出来たことが不幸中の幸いになっていた。 350室で新潟駅前の
シリーズを終えて、新潟東バイパス近くに切替えるべきだった。まさか、9・11、
中越地震、刈羽沖地震、リーマンショック、東北大震災と、情報化社会の到来の
影響が、直に、ここまで衝撃を与えるとは、思いもよらなかった。事業とは、
そういうものかと、思い知った。 バブル期に一万円した「東京電力」の株価が
390円というから…25分の。 バブル当時、私の友人が、3人の兄妹で、10,000株
を持っていたというが、如何したのだろう? 他人事ではないか。でも、自分の
「愛と死」?を見つめているような墓石の日である。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!
当時の文章を、コピーしたが、書くこと、書き残すことの秘儀を実感させられる!
何もかも、「あとは朧、あとはオボロ… 、横浜ブルースになる。
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3638, 大地震 ーつれづれに
2011年03月12日(土)
数年前に地元の中越地震、柏崎・刈羽地震を身近で経験したばかりなのに、
更に国家を揺るがすような大地震に遭遇しようとは。事務所のある新潟駅前では
震度4の震度だったが、揺れかたが広域の地震のような気がした。直ぐにTVを
つけたところ、リアルタイムに生々しい地震と津波が中継されていた。
特に大津波が海の彼方から押し寄せてくるのを据付カメラが写しだしていた。
そういば先週みた映画「ヒア・アフター」で、ヒロインの一人が大津波に
襲われ九死に一生を得る場面があった。 津波に飲み込まれ流される場面は圧巻。
しかし、これは現実である。TVの画面は長い海岸線に何波も線を描いて押し寄せ
てくる場面がリアルである。その上に、お台場のビルや、石油基地のタンクが
炎上している場面などが生々しい。夜になっても全国彼方此方から津波が注意報
が流されていた。観測が始って以来最大のM8・8の大地震。 規模は東北全体と
関東甲信越にわたっている。 この文章を書いている現在でも、現在進行形で
余震が発生しており、TVからライブで流れている。 江戸時代には、地震が多発
していたというが、1896年 明治の三陸地震 - 岩手県綾里 の津波高さ 38.2 M
- 死者不明者 22,000 人が知られている。今回は、7メートルだったが、被害は、
死者が数千か、数万人になるのか。東北6県の人口合計と東京都の人口はほぼ同じ。
もし関東に地震が起きて同じような大津波が襲ってきたと想定したら被害は莫大
になる。結果として、これまで起こっていた東北の地震は、この地震の予兆と
いうことになる。
今朝も、震度4の地震があった。これだけの大規模の地震に対して、即応は
無理のはず。救援を待っている被害者が多く存在してことを思うと心が痛む。
まさか、まさか、まさか、で、今でも現実として受け止められないの大方だろう。
国内では部分的な地震は多くあっても、これだけ広域にわたった地震と、津波
は私が知っている限り初めてである。
そういえば、学生時代の友人が仙台飛行場近くの河口辺りに住んでいるが
大丈夫だろうか心配だ。病ある連れ合いがいるので動き辛いはず。
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3641, 大地震 ーつれづれに -4
2011年03月15日(火)
* ところであの男、大丈夫だろうか?
学生時代の友人が、仙台飛行場近くの阿武隈川の河口の漁村に、終の住家に選んだ。
このM9の地震と津波が直撃したのでは?とブログに書いたら、それをみた友人
から電話が入った。仙台区若林区荒浜は多くの犠牲者が出ている。生きていて
欲しいが・・・ いや生きているはずである!
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3040,卒業40年周年か~ -4
2009年08月01日(土)
昨日届いた、この手紙を本人の了解無しに公開すべきかどうか一日かけて
考えた上で判断をした。私の40年ぶりの問いかけに充分に答えてくれた手紙で、
自分の人生を心を込めたダイジェストとして書かれた手紙を貰うのは初めて。
私一人の心におくより、記しておく方が良いだろうと勝手に判断させて貰った。
‘学生時代の卒業間近に真剣に対話した延長線上’の手紙上の対話だから魂が
入ったのだろう。それとキャリアの転勤生活で鍛えられた人生の極みの経験の
積重ねがある。学生時代の友人との対話というより、高潔な精神と魂の対話を
させて貰ったような気持ちである。私にとって一期一会の対話になった。
それだけ良い学生時代を過ごしてきた証明にもなる。
ーー
* 奥野君からの手紙
お懐かしい堀井さんのお便りを頂戴し学生時代の記憶が一気に甦りました、
本当にお久しぶりでございます。合気道の道場、同志社や学習院への合同稽古、
合宿打上げ時の泥酔・不味い学食・ご自宅に泊めていただいての佐渡旅行等々
四十年前の皆さんのお顔と行状のあれこれが懐かしく浮かんで来ました。
堀井さんは当時から将来は事業家の道を目指して行くのだろうなと私なりに
思っていました。どうして? と問われれば、同僚に比べて社会経済の出来事
への関心が強かったとお答えします。その方向に真直ぐに進まれたのですね。
しかも大成功されて本当にすばらしいですね。
プログも拝見させていただき堀井さんの人生の一端を垣間見ました。
暖かな生活が伝わってきました。
その後の小生ですが資生堂に入社し最初の赴任地名古屋をスダートし所沢、
福岡、東京、札幌、仙台、名古屋、広島、東京、仙台と転勤族の暮らしを送り、
56歳時に早期退職をして現在地に居を構えました。最終の役職は支店の責任者
でした。50歳台に入ると親しかった先輩、同僚、後輩等が次々と鬼籍に入られる
ようになりその方々の浬繋のお顔を拝む都度、一度の人生を思うように生きら
れましたか、満足されていますか という思考が強くなってきました。
仕事は化粧品の製造、販売業務なので二十歳前後の若い女性が多く気持は若く、
楽しく送れた自負しています、が人生の残り時間があとわずかになってきたと
感じ始めると、時が無性に愛おしくなり、100%の自分の自由時間をはやく手に
入れ、日ごろより感じていた、生物として本来の姿、自然の中で自然と共に
暮らそうと決めた次第です。 日常生活は太平洋の日の出をワンちゃんと一緒
に拝み作った野菜を食し蔵王連峰に沈む夕陽に1日の健康を感謝する毎日です。
趣味は海釣りとゴルフです。自宅のすぐ目の前が海です。阿武隈川の下流域
にて魚影が濃く、黒鯛、サヨリ、ヒラメ、カレイ、海タナゴ、アイナメ、スズキ、
ハゼ、イシモチ、アナゴ等々を釣ってきては命をいただく感謝をしながら食して
います。 季節とともに変わり行く波と風と海水の濃淡をみて釣り時をきめます。
時の刻みが止まっているように思える一時です。
ゴルフはシーズン30-40回といったところです。自己目標が年1回以上30台
のスコアーをだすということでやってます。ちなみに今季は5月に38が出て
満足しています。 家族状況ですが29歳の時妻を娶り子供は息子が一人です。
妻は若かりし時準ミス瀬戸で容姿はそれなりだったのですが6年前に○○○○
を発症し・・・。 最新治療を受診しているのですが○○疾患の為大変厄介な
病気です。現在私のサポートが少々必要な状態です。
そんな事情で立教会や同窓会といった宿泊のともなう集いは参加を断念して
います。息子は堀井さんの八と同じように名を新八(しんばち)といいます。
丸の内の○○生命国際投資部で海外債権の売買業務に携わっています。
平均睡眠時間は4・5時間との事です。親より出来がよかったのはカミサンの
弟が岐阜大の教授をやっているのでそのようなDNAをすこしばかりひきついで
くれたのかなとおもってしまう親馬鹿です。
ざっとした近況ですが一献傾けながら積もる話をしたいと思いつつ
先の事情でそれもかなわず拙文とあいなりました。 状況が好転したらぜひ
お会いしたいですね。堀井さんとご家族のご健康をお祈りいたします。
7月28日 奥野和男
―――
* 奥野君への手紙
2009年07月22日 (今日、本人の手元に届く)
学卒40周年記念に参加をしてクラスの名簿に貴君の名前をみて懐かしく、
手紙を書いています。卒業前の半年間(S43・9~44・2)日記をつけており、
それを20数年前に倉庫の隅から見つけ出しました。書いたことすら忘れていた
ので、タイムマシーンで当時に戻ったような気持ちで読み返しました。
8年前に始めた私のHPの中央の下にある分類のブログに書き写してあります。
ブログに同月同日に毎日載せたものです。従って、毎年半年は、当時の日記を
毎日読み返しています。その時、貴君が、あの馬小屋のような寮に卒業間近かに
訪ねてきて、これから社会に出るにあたって多くを語ったことや、佐渡に広瀬君
などとご一緒したことを思い出しています。
先日の会では石川譲治君や、服部学園の園長の染谷(服部)、川村、福田君
などの顔が見受けられました。その前日に銀座に合気道の面々が集まり、一杯
やりました。三崎、木矢、伴、鈴木(加藤)、高杉です。三崎さんは10年前まで、
新潟に16年近く転勤できていて、2~3ヶ月に一度のわりで古町などで酒を飲んで
いました。 ところで私は、その後
・ジャスコに一年在社後に、
・産業能率大学に途中編入をし、
・その後金沢の「いとはん」(その後ジャスコに吸収)に一年半在社、
・千葉の郊外に貸しビルをつくり、その中に居酒屋の養老の滝のFC店と、
やはりFC店の焼きたてのベーカーリーを二年間従事(その当時に結婚)
・家の事情で実家の事業(衣料量販店と衣料専門店)を5年間従事をし、
・34歳から新潟駅前でビジネスホテルを30年近く経営をしています。
2001年の9・11のテロと、去年の9・15の金融恐慌以来、苦戦をしていますが、
何とかやっています。どちらかというと、創業屋的な人生だったと思います。
30歳前半までに問題を吐き出し、後半は、それまでの勢いで何とか辿り着いた
というところです。ところで、貴君の住所をグーグルアースに入れてみたら、
仙台空港の南10キロほどの漁港のようなところで驚いています。
資生堂に入社して、都会にドップリと浸かっているかと思いきや、
その正反対の場所で。実際のところ、東京のアスファルトジャングルなどより、
遥かに良いことは、新潟飛行場の周辺をみれば分かります。それだけでも良い
人生を過ごしてきた貴君の姿が目に浮かびます。(それぞれに価値観があるで
しょうが)
何かチャンスがあったら、会うのも面白いでしょうね。それでは、お元気で。
あの日語り合った、延長の気持ちで思いのまま書いてみました。 堀井八郎
追文)8年前より、ブログを開いています。暇のおり覗いてください。
検索に堀井八郎を入れると出てきます。当時の写真や、先日のクラブや、
同級の二次会の写真があります。 分類には当時の私の日記があります。
~ 22・23・24歳の日記のコーナー ~
ー-
ー11月19日ー 1968年
・11時起床。
13時半に同級の奥野君が私の部屋に突然くる。1~2年の時、
席が隣のこともあって親しかったが。専門課程になってから疎遠になって
いたのに。話をしたかったのだろう。人生について、倫理観について、
その後読んだ本で感銘したことを必死に話をしていった。
特にケネディの自伝に感銘を受けたというのが印象的であった。
見違えるように自信を持ったらしい。男っぽくなったという言葉がピッタシ。
4時間ばかりして帰っていった。もうこうして彼と話合うことは無いだろう。
アパートから一時間以上かけてきたのだから、自分のメッセジーを伝えた
かったのだ。
それにしても最近多くの人が吹き付けるように来るのに驚く。聞き役に
徹していることもある。それと大学最後の時が来ているためだろう。