閑話小題 ~人生総括の時節に   ―学生偏―

f:id:horii888888:20201112052507j:plain



    
    * 若衆宿のような『青雲寮』の日々が懐かしい!
 御隠居生活に入って、過去は変えられないが、解釈の変更は可能と気づいた。
突詰めると、最後は独居の自問自答、体験を経験として心底に納める自己納得。
特に多感な青年期の基礎教養の質量の問題が自然と浮上がる。 …青年期は、
様ざまな立場の価値変更の決断が身に迫ってきて、それに対応するには経験、
知識の絶対量が足りなさ過ぎた。それは自身だけでなく、誰にもいえること。
有難いことに、溢れる激情そのままを、日記帳に書き残してあった。
 当時の私生活のバック・グランドに…『青雲寮』というシェアハウスの
ような25人の団体生活があった。この経験の人生における価値に気づくには…
その後、20~30年を要した。
 昨日のニュースに新宿牛込柳町のマンションの火災がニュースで流れていた。
早稲田の事務方の理事の私邸(500坪の角地に ‘『’に、部屋が並んだ平屋が
あり、部屋の外は土間。その前の部一室が集会場で、月に一回は誰か集まり、
主に酒飲み場になっていた。 しかし、普段は部屋で読書の空気が満ちていた。
寮生は、九州から、愛知、福島、秋田、新潟県などの出身者。半分が早大生で、
明治、日大、立教…等々の学生。日々が、興奮と、刺激に満ちていた。
 
 時代背景の1960年代後半は、学生運動が華やかなりし時代、若さに任せて、
得たばかりの知識と、経験を互いに披露しあっていた。自然と、様々な学生の
赤裸々な私生活が目に飛び込んでいた。 アルバイト先で、仕事を請け負い、
ピンハネをして1~2ヶ月、留置場に入っていた早大生が隣室にいた。女性狂い
の日大生や、早大の二部から大学院に進級し、オーストリアに留学していった
先輩も… 安保闘争の中で、社会が殺気だっていた中で、ゼミ、クラブ、寮の
人間関係の中で、様々な視点を肌で感じることが出来たのが、その後の人生に
大きな収穫になっていた。 そこは、重い空気の坂道だが、明るい青雲の光が
輝いていた。 ゼミ仲間の電通人生を全うした友人が卒業時に、
『貴君が、一番、変身したよ!』と言ったのを覚えている。クラス、クラブ、
ゼミ、欧州旅行仲間、寮生活と、ゴッタ煮の学生生活が、美化して輝いた記憶
として残った! 前期から、後期高齢の節目で、このような文章を書けるのは、
有難いこと!そこで想いだしたのが『若者組』 …それは次回に… ~つづき

・・・・・・
6816,閑話小題 ~「門」の話
2019年11月12日(火)
   * 「閑」で、「門かまえ」に興味を持って
 人間は動物や泥棒から身を守るため、垣根や塀をつくってきたが、当然、
そこには出入り口の「門」が必要となる。 それは物理的なものだけでなく、
自分という他者とのバリアをつくる意味合いもある。 「閑静の住宅地」の
「閑」は、他と隔離する「門」に「木」。幸福度を高めるためには、まずは、
己の周囲を一般から隔離して、己という木を手入れする。 なる程と… 
そこで、他に何か?と思いつく文字をあげてみると、耳で、聞く。口で問い。
日で間。才で閉。音で闇。 なる程と。門構えの中に、何をおくかで、その人柄
が見えてくる。
・「一」を入れると閂(かんぬき)。これは左右の扉もしくは扉と枠の双方に
 跨る様に通す事で建具を開かない様にするための棒状の金物や木材などの部材。
 なる程。門番が開門の時に引き抜く棒である。門に犬を入れたらと思ったが、
 さすがに、これはない。
・鳥居のカタチが入る「開」、門の奥の鳥居に向けて御開正か。
・「閣」とは{御殿・見晴し台など高く構えた建物」で、各階がある建物。
・「閊」は 〈つかえる。とどこおる。さしさわる。つまる。「後ろが閊える」。
 門の内側から見える山が、己を閊えさえる。

 ~「もんがまえ」で調べると、 
【 門. 1. 閂. 2. 閃. 3. 閊 · 閉. 4. 開 · 間 · 閑 · 閏 · 閔. 5. 閘. 6. 閣 ·
 関 · 閨 · 閤 · 閧 · 閥. 7. 閲 · 閭. 8. 閾 · 閻 · 閹. 9. 闊 · 闃 · 闍 ·
闇 · 闌. 10. 闕 · 闔 · 闖 · 闘. 11. 關関. 12. 闡. 13. 闥 · 闢 · かねへん ·
ながい ·もん ·おか こざとへん· れいづくり· ふるとり· あめかんむり…】
 ―
▼ 漢字も、改めてみると含蓄がある。闖入で使われる「闖 」は「突然現れる」
を意味する。突然、馬が門の中に闖入というと、目に浮かぶようだ。
 
・・・・・・
6452,つれづれに哲学 ~アドラーから学ぶ -2 感動を使う!
2018年11月12日(月)
             <「生きづらさからの脱却」岸見一郎著>
   * アリストテレスの「原因論
       ~「質料因」「形相因」と、「起動因」
 社会や、物事の原因を簡明の読み解くに、解りやすい事例である。
≪ アリストテレスは、彫刻を例に原因を、次の4つに分類している。
・まず、青銅、大理石、粘土などがなければ兆候は出来ない。この場合、
 これらは、彫刻の「質料因」(何からできているか)である。
・次に、「形相因」(何であるか)。彫刻が何を現しているかということ。
 彫刻家は像を刻むに時に、何をつくろうかというイメージを持っている。
・原因の三つめは「起動因」(動がそこから始まる始現)である。
 父親が子供の始原であるように、彫刻家が彫刻の起動因である。
・さらにアリストテレスは、これらの他に、「目的因」(何のために成立
 したか)を考える。彫刻家が、彫刻を望まない限り、彫刻は存在しない。≫
 ―
   * アドラーの「原因」論
 ~ 感情も脳も、感動さえ使う、極意とは ~
≪ アドラーも、行動について「なぜ」と問う時、「原因」という言葉を使う。
アドラーは「なぜ」という問いによって、行動の「目的」を答えとして期待して
いる。「どこから」でなく、「どこへ」を問うのである。アドラーの「原因」は、
プラトンアリストテレスのいう4つの原因のうちの「目的因」である。…
アドラーは、他の原因は目的に従属していると考えた。
  ―使用の心理学―
 …またアドラー心理学は「所有(何が与えられているか)の心理学」でなく、
「所有(与えられたものをどう使うか)の心理学」である。人が置かれている
状況がそのまま人のありかたを決定するのではない。
『大切なのは、何が与えられているかでなく、与えられたものを如何使うか』
 … アドラーは、アリストテレス原因論にプラスして「目的」を加えた。
目的論とは、「善」を目指し、それを目的にしているという観点から行動や
症状などを理解することである。 脳を例えると、私と脳は別物であり、私が
脳を使うのであって、脳が私を使うのではない。脳は大事ではあるが、人が行動
する時、それによって目標を決める起源ではなく、脳が心を支配するわけでない。
【善を実現する目的のため、脳を使う。】のである。
  ―感情を使う―
感情もまた、我々を支配するのではなく、感情をある目的のため使うのである。
感情は意志の力によって左右する。交通事故で車をぶつけられた時に、男は
美人と意地悪そうな相手では全く対応が違ってくる。感情なぞ使い方で如何様に
良くも悪くもなる。ヒトラーは大衆煽動に怒りの力を利用した。怒りは、隠れた
エネルギーとして直接的になる。

▼「感情を使う」の論を考えていると、「感動をつかう」の言葉が類推された。
秘・異郷ツアーの旅先で、何度も何度も感動体験をする。その結果、脳に蓄積
された精神面でのデ・トックス(体内に溜まった有害な毒物を排出させること)
で、心というより、魂の解放を実感する。「感動を使う」こと、そのものになる。
早朝の一時間のミニ・チャリも、小さな感動の旅になる。目的は、デ・トックス
の「善」の自己実現。このブログの書き込みも一種のデ・トックスになっている。

・・・・・・
6087、閑話小題 ~ 「日の名残りに」 (2)―つれづれに
2017年11月12日(日)
   * 51歳の誓い
 人生を変える切掛けになった、カズオ・イシグロの『日の名残り』を読んだ
51歳の時節に、「還暦までの9年間に80歳までの大よそ30年分を圧縮して生きる」
と決心し、実践した。そこで「具体的に、どのように生きたか」を思い返した。
・まずは、捨身で! 目先に面白そうと思えば、迷うことなく決断。常識的な人
 や会合と一線を画す。何故か、その頃、近しくしていた友人・知人が、亡く
 なるか、転勤などで遠ざかっていった。
・その頃、拡大戦略の教えのペガサス・クラブから脱会。拡大路線の見直しに
 入っていた。
・また、意識の重心をパソコンとネット世界に移動することに決心した。
 まず、取引先のパソコンに詳しい人を紹介してもらい、個人HPの開設のための
 基礎の教えを乞うことに。その数年後に自宅近所にパソコン教室がオープン。
 早速、通うことに。その数ヶ月後に、このブログを開設することになる。
・40歳代の10年間に合計10数回、2年に3回?近く、海外ツアーに参加していたが、
 2年で5回近く?にアップ。結局、50歳代では20数回、行くことに、 40,50歳代
で40回、年に2回近くの割合になった。それも秘境・異郷の難易 を数ランク アップ。
・母親の介護の5年半で、子供たち二人が巣立っていった。

死に物狂いで、目先の面白そうなチャンスには躊躇することなく挑むことに。
少し迷うと曽野綾子女史の言葉、<人生の良いところは還暦まで、今を楽しめ」
のキーワードを想い浮べ実行していた。毎日が面白く、楽しく、精一杯の日々。
そしてハッピー還暦を向かえることに。
☆ そういえば、1994年のケニアツアーの同行者の一人が、『父親の介護を
 終え、念願のケニアにきた。万感の想いだ』と涙を浮かべてキリマンジェロ
を見ていた。イスラエルでは60歳の女性が目を血ばらし『2000万の退職金の全て
を毎月のツアーで使い切る予定。働きづめの人生を取り返すの!』と宣っていた。
アフリカ・中近東の一人参加には、深い人生を背負い、思い詰めて来る人が多い。
人生、生きているうち、動けるうち、気力があるうち、笑えるうち、泣けるうち!
追)日々是口実か、結局は自慢話ですか!それも似たようなことを何度も何度も。
 でもね、何度言いたいのが、「楽しんだもの勝ちさ、人生は」。
<エッ、楽しそうに思えない?> <薄汚れているからね、日常に、誰の眼も。> 
 …これを「日々是口実」という。 

――――
「45」ギリシャ                    2007
「44」北イタリア                   2006・
「43北ケニア                     2005・08
「42」オーストリア                  2004・08
「41」アイスランド                 ー2003・10
「40」アラスカ                    2003・07
「39」パタゴニア                  ー2002・12
「38」スイス                    ー2002・07
「37」西アフりカーコート-ジボアール・ガーナ・ベナントーゴ /02・03
「36」ベトナム                   ー2001・11
「35」北欧ーロシア-スカンジナビァ          ー2001・06
「34」メキシコ                     2001・01
「33]モッロコ                    ー2000・11 
「32」パキスタン・中国                ー2000・06     
「31」シリア・ヨルダン・レバノン            2000・04  
「30」ノルウエー                   ー1999・12 
「29」ケニア                     ー     ・08   
「28」イスラエル                   ー    ・04     
「27」ネパール                      1999 ・02
「26」北インド                    -1998・10   
「25」 北スペイン                    1998・07  
「24」タンザニア・ウンゴロウンゴロ・セレゲッテイ高原) 1997・12  
「23」 べネゼイラ・(ギアナ高地)                ・08
「22」 ペルー・(マチュピチ・チチカカ湖)        1996・06    
「21」エジプト・トルコ(カルナック神殿・ ピラミット)     ・02   
「20]南アフリカ(ビクトリアの滝・チョベ国立公園・喜望峰)1995・10   
「19」ニュージイランド(クウーンズタウン・ミルフォードサウン)ー ・05    
「18」ブラジル(リオのカーニバルイグアスの滝)・  ー   ・02?
「17」ケニヤ(ナクル湖・       )         1994・06 
「16」ドイツ・パリ(ライン川下り・ロマンチック街道)  1993・12 
「15」フィジー(コマ島・ )              1992・11
「14」スペイン1周の旅(アンダルシア・アルハンブラ・闘牛) 1991・08  
「13」カナダ・ロッキーの旅              ー ・05
「12」香港クルージング                 1990・07 
「11」アメリカ・ペガサス(ボストン・アトランタ)    ー・04     
「10」スペイン・イタリア・パリ・ヘルシンキの旅    1989・12   
「9」 中国(北京・けいりん・上海)          1988.09    
「8」アメリカ西海岸SC・ペガサス           ー  ・06
「7」カナダ・ナイアガラの旅              1987・08 

・・・・・・
2016/06/29
60歳までに、人生を前倒しをしていて!

 70歳を過ぎた現在、「60歳までに人生を前倒しをしていて良かった!」と、
つくづくと思うことしばしば。以下にコピーしたの13年前の文章を読返すと、
1年後に中越地震、その3年後に刈羽柏崎沖地震、4年後の2008年に、リーマン
ショック、更に8年後に東北大震災が、たて続いた。その結果、私も、まさかの
事業整理に至った。 作家の曽野綾子が、「人生の良いところは、60歳まで」
といっていたが、体力も考慮すると、成るほど正しいと実感する。 
 以下の内容を書いて13年間、友人、知人、親族が次々と倒れ、亡くなった。
病に倒れて発する共通の言葉は、「まさか、自分が! これから、ノンビリ
するつもりだったのに!」である。 死に直面した時の恐ろしさと動揺は、
「人生に、やり残した無念」があるため。 とすると、老後の残務整理は、
それを探し、潰していくこと。そうこう考えると、【して失敗した後悔より、
しなかった後悔の方が遥かに大きい】ことになる。 どうだろう?
「してしまった後悔1に対して、しなかった後悔が3」ではないか。
 30年分を10年に圧縮して生きた50歳代は、充実感があって実に面白かった。
60歳代の最大のイベントが、会社整理だったが、3・11もあって、未練も後悔も、
最小になっていた。両親の晩年に同居していたこともあって、「その都度、
計画的に楽しんでおくべし」という、人生の何たるかを、後姿から学んでいた。
この教えを学んで実行していたのは大きい。10年前と、13年前に書いてある
文章を読返してみると、計画通りに、遊び、楽しむ必要性を知っていた。
その時々に、真面目?に学び、楽しみ、遊んでおけ、ということ。
 辛いことも多かったが・・ それも楽しみの内。
――――
2003/06/16
50歳の頃ー1
  -60歳までの人生
 曽野綾子の本で『人生の良いところは60歳まで』という文章があった。
丁度私が50歳の時であった。50歳で、母親を見送り(亡くなり)人生の
損益分岐点を超えたという思いがあった。あとの人生を如何生きようかという
自分への問いかけをしていた。その翌年、下の子供と家内と3人で南米の
ギアナ高地に出かけた。テーブル・マウンテンのキャンプ場で、夕陽を見ながら
息子と日本酒を飲みながらふと思った、「自分の人生の元は充分にとった」と。
 その時に考えたのは、
曽野綾子の『人生60歳までがよいところ』なら、それ以降の人生を60歳
までに詰め込んで生きよう!『人生の純益』を60歳までにとってしまおう」と。
・海外旅行をそれまでに50回行くことー不景気で無理か?
・人の目を気にしない生き方を更に徹しよう
・好きな事を可能な限りしよう 等、生き方を変えようと。
しかし曽野綾子は60歳少し前の文章である。
その時、母の行き方を見ていたこともあり、まだ解っていないと思っていた。
本当に良いのは60歳からというのを母から教わっていたが、しかし
「60歳以降の前倒しにする決心』は良いと解釈した。 
 その翌年にネパールに行ったとき、67歳の初老の人から人生の秘訣を
教えてもらった。「私は43歳までに必ず死ぬ家系であった。それを前提にし、
そこまでに人生のすべてを燃焼し尽くした。その一つに日本を全てを家内と
娘と3人で回り尽くした。しかし死ななかった。その後は世界にチャレンジを
始めて、ほぼ全てをまわり尽して現在もこうして生きている。短命の家系の
前提がなかったら人生をここまで味わいつくせなかった!」。 深い人生の示唆
であった。「60歳までに人生の全ての前倒し」を自分の生き方に取り入れた
直後であったから、尚のこと心に響いた。あと2年半で、その60歳である。
「それでは60歳以降如何いう生き方をするのか?」。
元を取ってしまったので、逆にあとは一日一日をじっくりと味わって生きる
ことができるのではないだろうか。そして、それまで経験をしたことのない
分野を探し出しチャレンジすることである。その意味では、逆に広い世界に
飛び出せるのではないかと考えている。
 最近、景気後退ー恐慌一歩手前になってきたり、SARSやテロなどで
アフリカや中近東には以前ほど気楽に行けなくなってきた。
この時勢に優雅に海外旅行などともいっていられなくなってきた。
あの時点にやはりギアチェンジをしていて良かったと思っている。