2019年10月 粟島、内浦八所神社の秋祭り|栗コロッケ|note

 

 

閑話小題 ~人生総括の時節に -2  …『若者組』とは?

    * 若者組の応用編のような学生寮
 人生を振返ると、学生時代の共同生活の『青雲寮』が多大な影響を与えた
ことが思い出される。日本には、江戸、明治、大正、昭和の時代から「若者組」
のシステムが存在していることを知った。家庭とは別の共同生活の経験である。
その後、徴兵制度で組織の一員として、上下関係を徹底的に叩きこむシステムが、
代用することになる。それと、個々の存在の小ささと、そのエゴと、組織力
存在を叩き込まれる。『青雲寮』では、人間の中にある汚辱と、理想を追い
求める若者の純粋の必要性を垣間見た。

   ~ネット辞書によると~
< 若者組とは、伝統的な地域社会において、一定年齢に達した地域の青年を
 集め、地域の規律や生活上のルールを伝える土俗的な教育組織。>とあった。
青雲寮は、これを都会風にした寮にして、全国から「青雲の志」を育成しようと
学生寮にしたのである。
 …当時、光熱費+部屋(個室)を含めて4千円は、破格の安さであった。
現在の10倍の4~5万ぐらい。早大の政治志望の学生が主に、夜間の苦学生?が、
これに加わっていた。資産家の子弟から、苦学生まで多種多彩の学生が、全国
から寄り集まっていた。 実家は、寺院、政治家、商家など… ブリジストン
製紙会社などの大手会社の子息などがいたが、学生時代のタブーで、実家など
具体的実家の詮索は暗黙のタブーで、本人の教養と、人品が優先されていた。
しかし自ずと見えてくるのは家柄から滲み出る人柄。御金を出しあい酒と肴を
買って朝方まで、訳の分からない議論の中から、先輩諸氏の薫陶を受ける。
苦々しい反面、その愉し食面白いコト!この上ない。 
 基本的には、実家の貧富に関係なく、ギリギリの生活費しか送金がない。
まだ、明治、大正、昭和の規律規範が各家庭に厳然とあった! 

【実家の質×本人の素質そのままが、その人物。】が、青雲寮で知り得たこと!
特に、ガールフレンドの対処が、その人物を計るに端的に表立っていた。
決定するに、その時節の実力そのままが、その相手として決まってしまう。
その紙一重が人生を決めてしまうことに、意外と人は安易である。
何で、まあ、この人物に… 最終学歴×最終判断の連れ=その人物の限界!
とは… 二度とない人生、一回きりの娑婆経験! 人生は、あまりに厳しい! 

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6088,閑話小題 ~改めて想う、親の愛
2017年11月13日(月)
   * 相性のあった両親に出会えて
 ある席で、中学校を卒業後、大手メーカーに勤めながら、夜間高校を卒業。
地方公務員試験に合格し、公司として無事、勤め上げ、今は年金暮らしという男。
後日、『あなたの話を聞いて、頭が下がる思いだった』と、問いかけると、
『実は、親父が大酒飲みで、家に金を入れず、生活に瀕していた。自分が長男の
ため、少しでも早く自立したかった』とのこと。逆に私といえば真逆で、9人
‘きょうだい’の末っ子の立ち位置もあって、両親、とりわけ父親に間接的に、
溺愛されて育った。その人の生き様から、特に「私は愛情のベースの上で生きて
こられた」と、つくづく思い知らされた。その温もりの体質が「幸せな一生」を
引き寄せてくれていた。大きな節目の判断ごとに、『父だったら、どうするか?』
の自問自答と、読書習慣から得た知識と知恵が、自らを救ってくれていた。
最後の最後まで、家族を、とりわけ不祥の末っ子の幸せを祈ってくれていた。
人生を総括すると、時代背景と両親に恵まれ、時節の出会う人に恵まれていた。
こういうのを「運」という。 その「運」とは、「判断」の結果をいう。
判断が良ければ「幸運」、悪ければ「不運」と。判断を誤らないために、
心の芯を純白にして、正しい判断を…  私の多くの判断ミスは、
・1990年前後のバブル崩壊への対応と、
・1995年の「ウィンドウ95」から始まったネット情報社会の到来からくる
 「断絶の時代」への社会的大変動への読みと、
・2001年の9・11テロの歴史的転換の事象への認識と対応の甘さと、
・2008年9月のリーマン・ショックの大波、とりわけ地方経済影響。

 父親が死期を悟り、その恐怖に七転八倒をしている中で、人生を振返り、
<「太平洋戦争」が、あまりに大きな出来事であったと… > 呟いていた。
「社会は突然、何が起きるか分からない。常に備えは怠りなく」と家宝の教えの
伝授をしてくれた。時は昭和40年代後半。ドルショックと石油ショックが起きた。
創業に向け動き出した直後で、人生の出発時の環境として最悪の事態。考えて
みれば、その最悪の事態が力を試すという面では良かった。 何はともあれ、
前向きに、無心に、真正面に、全力を持って立向かえば、悪条件が好条件に好転
すると、信じるしかなかった。「想い」とは、死んでも、何かを通して、世に
残るもの。残らないのは、残さないから。 残すこともないが…
 太平洋戦争から70年以上も何事もなかった、平和な島国の日本に、真っ黒な
暗雲がたちこめてきた。これだけは「ケセラセラ、なるようになる!」の世界。
<相性にあった両親と時代に出会えた幸運に感謝し、戦争回避を祈るしか。>
役者の顔ぶれが、劣悪すぎ。 世界が燃え上る空気感とは、こういうこと?
金のバラまきで、一部は浮かれているが。所詮は、あぶく。戦争は残虐である。

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5721,閑話小題 ~アメリカ大統領選挙 ~③
2016年11月13日(日)
   * メガトンクラスの衝撃に、驚愕!
 この選挙結果を総括していうと、こういうことになる。
< 泡沫候補の戯言に乗って、アメリカがグローバル化政策から、内向きへの
 大転換の道を選んでしまった。世界中のエコノミストも、政治家も、この驚愕
の選択に、今だに信じられない思い。とりわけ、日本にとって、最大級の衝撃。
これがメガトン級の地震なら、問題は、これから押し寄せてくる大津波である。
 明治維新も、太平洋戦争と敗戦も、1985年のプラザ合意による意図的な
日本経済のバブル化と崩壊による日本経済の弱体化も、アメリカのアジア支配の
一環としての力学の結果。 それが一人の泡沫の実業家の戦法、
グローバル化の恩恵を受けなかった下層白人に的を絞ったアン・グロ政策」
に賛同し、得体のしれない野心家に絶大な権力を与えてしまった。
 受けを狙って、まずは、日本に矛先を向けてくるのは必至。日本の改憲派
とって、非常にプラスになるが、その前に、近くの強盗に、家中の現金、資産を、
ごっそり持っていかれる。明治維新以来の、あるべき真の独立が、嫌が応にも、
突きつけられる。「前門の虎、後門の狼」の虎を中国に例えれば、後門の狼が
アメリカになる。今までは、後門の狼に尻尾さえふれば、前門の虎は、後門の
狼を怖れて襲ってこなかったが、これからは、違ってくる。後門の狼も、牙を
剥いて、襲いくる可能性も出てきた。
 2045年が技術的特異点になるというなら、今回のアメリカの選挙結果は、
欧米にとって、日本にとっても、『特異点』になるのでは? その中、日本は
東京オリンピックの乱痴気騒ぎが、始まっている。 江戸末期の、
「ええじゃないか、ええじゃないか!」の狂乱が、東京オリンピックそのもの。
「それも、ええじゃないか」で、目先、行くしかないとしても・・・
「まさか」の坂が次々と現れ出てきたが、2045年問題を含めて、これが21世紀。

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5356,そこに困っている人がいれば ーベストエッセイ ①
2015年11月13日(金)
           ーベストエッセイ 2015(文藝春秋)ー
  * そこに困っている人がいれば ー角田光代
 毎年のベストエッセイを特集した単行本で、面白いのが揃っている。
その中からランダムに面白いエッセイを幾つか紹介する。物書きのプロは
流石と、思い知らされる。このエッセイに、タイの仏教色が滲み出た国民性
が、色濃く表現されている。江戸・明治時代は、こんな仏教色豊かな空気が
日本にも漂っていたのだろう。 ~その辺りから~   
 ≪ 完全な仕事で、遊べるような時間どころか、ゆっくり食事をする時間も
 ないほどのせわしなさだったのだが、数日間、バンコクにいった。タイに
初めていったのは一九九一年。もう二十三年も前で、以後、七度訪ねてきてる。
町はどんどん変わる。スカイトレインができ、地下鉄が走り、ピンクのタクシー
が多く見られるようになり、飛行場も場所が変わった。毎回、驚いている。
 二十三年前の旅は、私にとってははじめての自由旅行だった。宿もいき先も
決めない、一カ月の滞在だった。私がその後、二十年以上ひとり旅を続ける
ようになるのは、あの旅がすばらしかったからだ。何がすばらしいって、人。
食事もおいしい、光景もすばらしい、ものすごい体験もたくさんした、けれど
魅了されたのは、すれ違うだけのような関係の、多くの人たち。地図を開けば、
何か困っているのかと人が近づいてくる。ここにいきたいと伝えると、自分は
用もないのにいっしょにバスに乗りこんで、目的地で下ろしてくれる。炎天下、
バスがくるのをいっしょに待って、運転手に私の目的地を説明してくれる。
あまりのバスの混雑に辟易していたら、席を譲られそうになったこともあった。
目が合うと、みんなにこっと笑う。
 それから訪れるたびに、町の変化と同様に、人の顔つきも変わってきた。
バンコクはどんどん大都会になり、人の顔つきも都会のそれになった。
町も人も、洗練されたのだと思う。 パリとか、ニューヨークなんかと同じ
ように。そうした都会では、旅人がひとりで歩いていても、ふつうはだれも
声をかけてこない。と、思っていたのだが、今回、びっくりすることの連続。
方向を確認するために地図を開くと、「どうした、どこにいきたいのか」
と歩いていた人が近づいてきて、ていねいに道案内をしてくれる。ある場所
をさがして迷いに迷い、店番をしている人に訊くと、「こっち」と歩き出し、
目的地まで連れていってくれるではないか。なんにも変わっていないと、
驚きをもって思い知った。なぜ、都会的に洗練されたなんて思い込んでいた
のだろう。私が旅した二十三年前に生まれてなかっただろう若い人たちも、
戸惑う位親切で、あたたかい笑顔を見せる。ありがとう、とタイ語で言うと、
「まいど!」と笑顔と日本語が返ってきたりする。
 バイクタクシー乗り場をさがして、あるビルの駐車場にいたスタッフに、
乗り場が近くにないかと訊いた。バイクタクシーでどこに行くんだ、と彼が訊く。
私は目的地を言った。地図には載っていないムエタイジムだ。その彼は、
場所は知らないがジムの名だけ知っていると言い、ついてきてと手招きをして
歩き出す。どこにいくかと思っていると、車の走る大通りに出て、空車を
見つけては手を上げる。止まったタクシーのドアを開け、運転手にムエタイ
ジムの名を告げる。みな知らないらしく、首を横に振る。この人、私が
とめないと、ジムを知っているタクシーがあらわれるまで、えんえんと、
タクシーを止め続けてしまう! 自分の仕事を放ったまま、と気づいた私は、
もういいんです、だいじょうぶです、自分でさがしますと彼に伝えた。
いいんです、戻ってください、ありがとうございますと言い続けると、釈然
としない顔つきで、彼は駐車場に戻っていった。この国の人たちは、困って
いる人を見ると、平気で自分の時間と労力を差しだすのだ。
 二十三年前からずっとそうだ。だれかを助けたなんて彼らは思っていない。
そうして助けられた日本の若い女が、その後、人において圧倒的な信頼を持つ
に至ったなんて、考えることもない。例のジムは、その後にさがしあてて
乗ったバイクタクシーの運転手が、すれ違うバイクタクシー仲間にさんざん
訊きながら、なんとかたどり着いてくれたのだった。「文藝春秋」九月号}≫
▼ フィジーでも、その国民性の純粋さ、暖かみに驚かされた。
 イギリスから独立した国で、欧米と南太平洋の大らかさが、ほどよく
ミックスされている。近くにあるフランス領ニューカレドニアとは、
えらく違う空気。何か地中海の飛地にいるような感覚で、原住民は、
片隅に追いやられているような。海産物や果物など自然の幸が豊かで、
キリスト教が、プラスに働いているようだ。天国より、煉獄が似合って
いる私など、10日もいれば飽きあきするのだろうが。
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4991,暴走する世間 -7
2014年11月13日(木)
      「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹(著)
   * なぜ日本の男はマザコンなのか
 世間が、そのまま家庭に入り込んでいるため、そこにあるのは甘えの構造。
その延長を男は、酒場の女将に「ママ」として求める。マザコンは、どこか
乳離れしない母子関係の名残。 ーその辺りからー
≪一般に日本では、恋愛が恋愛として完結しない。恋愛関係はいずれ壊れるか
壊れなければ「母子関係」に移行するかのどちらかになる。奇妙なことに、
日本の家庭で夫婦がお互いをよぶときに、「ママ」「お母さん」や「パパ」
「お父さん」がつかわれる。子どもが親をよぶときの名前が、そのまま夫婦の
呼称になっているのだ。これは、そもそも夫婦がお互いに個々の人格として向き
合っているのでなく、あくまでも子どもを媒介として向き合う関係を示している。
そして面白いことに、飲み屋のおねーさんや、バーの「ママ」、クラブの
「ちーママ」も「ママ」。つまり夫の場合、家庭の外に複数の「ママ」が存在
することになる。妻に家庭外に「パパ」がいることもあるかもしれないが、
それは、愛人関係など特殊な場合だろう。妻にとっては、家庭での「パパ」は、
ただちに「父子関係」を意味しない。だが夫にとっては、家庭内外での複数の
ママとの関係は「甘え」の関係であって「母子関係」を意味する。ようは、
男はいわば複数の「家庭」をもってることになる。さらに夫の側が、家庭は
「癒しの場」や「憩いの場」だというときには、根底にはこの「母子関係」
がある。つまり、自分が癒される場所、憩える場所だと考えている。
しかし妻の側にとって、家庭はあくまでも「夫を癒してあげる場所や、夫を
憩わせる場所」なのである。そこにある癒される自分のちがいは決定的である。  
阿部さんは日本では、西欧のような「個人の時間意識」ではなく、
「共通の時間意識」があるため、母親と子供の関係も、母親が90,70歳
でも、息子は息子であり、いくつになっても、母と子の関係が続く。 ≫
▼ 日本の夫婦間の喧嘩で常に妻から出る罵声、『マザコン!』。
 外向きは亭主が上だが、内情は、妻のほうが上位にある。これは「母子関係」
が、知らぬ間に夫婦間に移行したため。私など、マザコンファザコンの上に、
4人の姉の存在もありシスコンが加わる。これが悲しいかな大家族の末子の宿命。
家の中は「憩いの場」は一切なく、常に緊張をした「集いの場」で、無言で
大人しくするしかない。そう自分とは、家庭内の他者と、家庭外の他者から、
形づくられていることが分かる。健全な家庭こそ、全ての基本になるが、
ファザ、マザ、シスコンの歪んだ私が健全の家庭をつくってきたのだろうか?
ところで健全な家庭って存在するのか?程度の問題? マザコンファザコン
が絡みあった二人が家庭をつくるのだから、それは大変なことである。

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4624, 夫婦格差社会 ー1
2013年11月13日(水)
 『夫婦格差社会 - 二極化する結婚のかたち』橘木 俊詔 (著), (その他)
図書館の中公新書のコーナーで、この本を手にとって、てっきり夫と妻との
格差と思った。私など今では妻との立場が逆転、家内の家に年金を収めて
住まわせてもらっているよう。ママ(ババ)リッチ、パパ(ジジ)プアー。 
ところが、これは家庭間格差の問題。現在、パワーカップル(夫婦共に医師など
の高学歴・高収入世帯)と、ウィークカップル(非正規労働同士の低収入世帯)の
二極化が進んでいる。嫌な話だが、学生時代の欧州旅行で知り合った友人たちの
相手は、誰もがつり合いのとれた?家庭環境で、間違えてもシンデレラ物語の
相手でない。病院で、医師と看護婦の職場結婚が案外少ないのと同じである。
医師同士か、その収入レベルの出身者になる。女性の選択基準は、学歴と、
所得、家の資産状況、そして容姿になる。まずは互いに釣りあった条件の相手
を求めるのである。 卒業間近に「学生時代に伴侶を見つけるのが最良」と
気づき、半年の間、友人に頼んで探したが間に合わず? 今から振り返ると、
居ないことはなかったが、それが誰かを判断し、決断する能力が無かった、
ということ。それより、覚悟が出来たのが結婚をした27歳。事業創業を
目指す!と決めていたことが、相手の選定に大きは壁になっていた。
それと四人の姉と遜色ない相手の中で、なびく女性を探し出す能力と自信が
なかった?(シスコン?) やはり、一番面白い20歳から26歳に、独り者
の方が良かった?と言える。「結婚とは一人以外のすべての女性との(結婚の)
可能性を捨て去ること」という格言も効いていた? 二度とない、あたら
青春を早そう捨てることもない。 人それぞれだが・・ 
  まずは ーアマゾン~内容紹介ー
〔 格差が拡大しつつある日本。家族の最小単位である「夫婦」もその流れに
 拍車をかけている。さまざまなデータに基づき、日本の夫婦の今を探ると
 見えてくるのは、夫の所得と無関係に働くようになった妻の影響力の大きさ。
 医師夫婦に代表されるパワーカップルと、対極にある若いウィークカップ
 など、興味深い事例を紹介。 また、結婚できない人たちから、離婚、
 そして地域差まで視野を広げ、夫婦をめぐる格差を考える。 〕
ー目次ー 第1章:夫の所得と妻の所得   第4章:結婚できない人たち
    第2章:どういう男女が結婚するのか 第5章:離婚による格差  
   第3章:パワーカップルとウィークカップル 第6章:地域差を考える
▼ 目次からみると、日本の結婚像と夫婦像を分析する構成でなっている。
 東大卒女性104人の結婚相手の大学の内訳や、早慶卒の相手の学歴の傾向、
中卒男子の相手の学歴?とか、離婚率は欧米では高学歴ほど高く、日本は真逆
とか、著者の教え子の女子学生?が補佐したこともあり、切り口が醒めており
女性週刊誌的で面白い。子供の頃から姉達や、実家が商売をしていた環境の中、
若い女性に多く接して、年頃を過ぎた後の変容の激しさを見てきたこともあり、
選定には用心をしたが、その結果が? 互いに(●≧�・≦):(/ェ\。))である。
結婚は百人が百人、そうだから? 書けるが! ライオンのメス集団の
ボス・オス選び以上に、女性の場合、結婚相手の選択にシビアになるのは
自然のなせる技。世間でいう階層をアップする最初で最後の機会、自分の特性
を最大限にアピールをして売り込むしかない。それが、つり合いの取れた
チョット上の相手。 ーつづく  で、結果が、以下の文章になってしまう。 
 ーこれも、たまたま偶然だがー 
・・・・・・
4259, しまった!  ー8
2012年11月13日(火)  ーしまった! 「失敗の心理」を科学する
                 ージョゼフ・T・ハリナン(著)     
   * 人は、聞いた話を自分なりに綺麗に改変する  
≪学生の被験者に、ある物語を聞かせ、後で、その物語を語らせると、大きく
 歪曲する事実があった。問題は、その話の程度が予想を遥かに超えていたこと。 
全談話の61%に情報の追加、省略、誇張、最小化をおこなっていた。
それを学生の42%しか、認めてなかった。それは学生が偽りだったとは思って
なかったことを示している。・・そのうえ、学生は話を聞き手の好みに合わせた
だけでなく、更に重要なことは自分の目的に合わせていた。特に面白い話の場合、
大幅に誇張したり、うそを加えたりした。後で聞くと、被験者の6割が、その話
に嘘を入れていた。人は談話をするときには、情報伝達をする目的と同時に、
ある目的を達成する手段になるもの、という結果になった。その意味で、対話の
目的とは事実を伝えるのではなく、印象を伝えることだと。もっと面白い作用は
聞き手だけでなく、話し手自身に対するもの。語り手が自分の作り話を、何度か
話しているうちに、作り変えた話が、その人にとっての記憶になるケースが多い。 
私たちは自分の嘘を本気で信じるようになるのである。更に悪いことに、本人に、
その自覚がないことである。≫
▼ 私が小さな地域社会で、アウトサイダーに徹しているのは、これを知って
 のこと。社会学を40年以上、独学してきて、その馬鹿馬鹿しさを知っていた。
逆に、それを独り楽しんでいる自分がいる。割切ってしまえば、これほど面白い
ものはない。B層の、さらに下のC層という何も考えない旧来の価値観から一歩
も出たことのない人たち。彼らにゾンビが多い。彼らは普通の風体をしているが、
中身はカラカラの干物。水気が失われているため、真っ当な人間に対する語り部
になるしかない。彼らの毒は、「作り話」として人に襲いかかる。 襲われ、
その毒に侵された人間は、その瞬間、ゾンビに変身する。そして地域社会の多く
がゾンビ化してしまう。彼らは思考能力ゼロのため、その自覚も無く、屍の
群れは今日も人を襲い続ける。これが城下町レベルでなく、情報化の御蔭で
全国区レベルになっている。