* 神を信じる方に賭ける(パスカルの賭け)
 学生時代、愛読書だった『パンセ』の<パスカルの賭け>に、嫌に納得した
ことを思いだした。都会暮らしに慣れず、孤独感にさい悩まされていた時に
手にした新約聖書に救われていた時があった。子供の頃、二年ほど、牧師が
家に来て、家族で説教を聞き、賛美歌を歌っていた時期があったから、抵抗感
なく聖書の世界に入ることが出来た。学生時代の後半、同級生に、新約聖書
救われた話をすると、「何で?」と不思議そうな目で見つめられた。教養課程
に、『キリスト教倫理』の科目があったが、他の学生はツマラナソウだったが、
一言一言が、心底に突き刺さるようであった。
・一日二時間の読書時間の確保と、
・心底に濁らせてはならない純真・純白たる領域の確保!
 これが学生時代の一番の収穫である。
 神といえば‘パスカルの賭け’である。
≪「神を信じて、本当に神が存在すれば天国に行き、
 もし存在しなければ天国も地獄もない。 神を信じないで、もし神が存在
 すれば地獄へ行き、存在しなければ天国も地獄もない。ゆえに、神の存否
 が分からない時は、神を信じたほうがよい。(パンセ)≫

 パンセといえば、第一節
< 人間は一本の葦にすぎない。自然の中で一番弱いものだ。
 だが、それは考える葦である>
があるが、その先の文章がよい。
< これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要はない。
ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。>

  今さらだが、‘パスカルの賭け’ネット検索をすると…
≪・パスカルの賭けは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、
理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても
失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。
パスカルは、神の本質は「限りなく不可知である」として、神の実在/非実在
人間の理性では証明不能だという前提を出発点とした。理性がその問題に答え
られなくとも、人は憶測や盲信で「賭け」をすることになる。実際には我々は
既に(信仰の)選択を行って生活しており、パスカルの観点から言えばこの点に
関しての不可知論はあり得ない。我々は「理性」と「幸福」という2つのことだけ
を秤にかける。パスカルは、神の存在についての問題は理性では解けないため、
コイントスのような「損失と利益の等しいリスク」があると見なした。そういう
わけで我々は、神の存在を信じたときの損失と利益を考慮して、自らの幸福に
したがって判断しなければならない。パスカルは「得るときは全てを得、失う
ときは何も失わない」として神が存在する方に賭けるという判断が賢いと主張。
すなわち、神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しない場合でも死に際
して信仰を持たない場合より悪くなることは何もない。
パスカルの賭けで定義される可能性は、以下のような意思決定マトリックス
使い不確かな状況での選択として考えることができる。なお、パスカルは地獄
については何も言っていないし、神が存在してそれを信じない場合に得るものに
ついて何も言っていない。彼の観点からは神を信じることで無限の利益が得られる

▼ 中原中也の 『汚れちまった悲しみに』が、ふと思い立った!

「汚れちまった悲しみに・・・」

 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまった悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる

汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

 汚れちまった悲しみは
 なにのぞむなくねがうなく
 汚れちまった悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
              【中原中也


後記: 個人HP内検索に【パンセ】を入れると、2004、2005年に
 テーマにして書いていた。本来は、これを書上げる前に気づくべきだった。
〔 行蔵、嘘つかない! 〕 我ながら真面目。メルクマールそのもの…  
それにしても詩人は凄いこと、お書きになる!

――――
2005/07/31
1580, パンセについて

昨日の随想日記の昨年の同日分に、パスカルについて書いてあった。
その中の格言を読み返してみて、現時点の考えを書きたくなった。
学生時代に感じたこととは自ずから違ってくる。

・人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。
 むしろ同時に二つの極端に達し、その中間を全て満たすことによって、
 それを示すものである。
 ーー
 二つの極端とは、善と悪・神と野獣・観念と実践、等々あるが、
 中庸こそ偉大さがあるということか。
 偉大さも所詮は人間の価値観の判断でしかない。

・人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。 
  自分自身においても、また他人に対しても
 ーー
 偽装・虚偽・偽善と気づくかどうかだ。

・もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。
 人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい。
 −ー
 恋愛の原因と結果とを眺めてみて、男とは他愛のないものである。
 それだけ若き性欲は昇華して恋愛を促進する。
 その障壁が高ければ高いほど燃え上がり、お互いが見えなくなるから困ったものだ。
 
・人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。
 −−
 それが、親から・環境からの植えつけられた強固な先入観であれば、
 養老猛のいうバカの壁になってしまう。
 
・人間相互の尊敬を結ぶ綱は、一般的に必要から生じたものである。というのは、
 全ての人間が支配者になりたがるが、みながそれになるわけにはいかないし、
 種種の階級が存在せねばならないのだから。
 ーー
 お互いの尊敬か〜 

・悲しみは知識である。多く知る者は恐ろしき真実を深く嘆かざるをえない。
 知識の木は生命の木ではない。
 ーー
 軽く、いや生命の木でもある!といえないところが、この格言の深いところである。
 不条理が何事にもついてまわるし、無知の涙と同じくらい知識は涙をともなう。 

・好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。
 たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。
 −−
 実をいうと、これがあるから、この「随想日記」が続いている。
 これが無かったら、これだけ毎日本や雑誌などこれほど読まない。
 といって、その時点時点の好奇心を書き残すのは、
 自分のためのメルクマールである。
 パスカルもそうだったのだろう。
 
・人からよく言われたいと思ったら、自分のよいところをあまり並べ立てないことである。
 −−
 このHPを閉鎖して方がよいと、忠告されてはいるが。
 人に良く思われたいと全く思わないから自分のことを並べ立てることができるのだが。。

・この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる。
 
・人間は考えるために生まれている。
 ゆえに人間は、ひとときも考えないではいられない。
 −−
 一日、6〜7万位のことを考えるというが。
 人は本当に考えるために生まれてきたのかどうか?

・ひとつの事柄についてすべてを知るより、すべての事柄について何らかのことを 
 知るほうが、ずっとよい。

・我々は現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、
 それはただ未来を処理するために、そこから光をえようとするに過ぎない。
 現在は決して我々の目的ではない。
 過去と現在は我々の手段であって、未来のみが目的である。
 −−
 若いうちは、そうだとしても未来がだんだん少なくなってくると、
 現在と過去に光を与えようと必死になる。
 それも必要ではないのか?
 
・習慣は第二の自然だといわれているが、
 人は、自然が第一の習慣だということを知らない。
 ーー
 自然体を基礎においた習慣を意識してないと、習慣そのものが続かない。
 
・誤った法律を改正する法律くらい誤ったものはない。
 法律は正義であるがゆえに従うといって服従している者は、
 自分の想像する正義に服従しているのであって、
 法律の本質に服従しているのではない

・偉人が我々より偉いのは頭が少しばかり高くでているだけのことで、
 足のほうが我々と同じくらい低いところにある
 ーー
 足の位置が同じとみて、同じ気になってしまうから困ったものだ。
 しかし、少し頭の位置が高く出るということは大変なことである。

・実物には一向に感心しないくせに、それが絵になると、似ていると言って感心する。
 絵とはなんとむなしいものだろう。
 ーー
  実物も移り変わるものだから。
 関心をもつチャンスになることも確かだ。
 画家の意図を見てくれる人が必ずいるものだが。

――――
2004/07/30
1214,パスカル(3)−哲学についてー24

ー「賭けの断章」

「賭けの断章」は『パンセ』の中でも最も有名な断章の一つである。
神の存在と信じる方に賭けることの有利さを確率的議論から
説得しようとするものである。

「神は存在するか、しないか。どちらに賭ける? 」
すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。
賭けないということ自体が、結果的に一つの選択になる。
賭ける対象は、「自分の人生そのもの」であるから大きな命題だ。
 
・神が存在するという方に賭けて、
 勝てば永遠の生命と無限に続く喜びを得て、人生は意味あるものとなるが、
 賭けに負けても、失うのものは何もない。
・反対に、神は存在しないという方に賭た場合、たとえ賭けに勝っても、
 儲けは現世の幸福だけである。
 死後は虚無とみなことになるから、得るものは何もない。
 
 逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。
 来世の幸福をすべて失うことになるからである。
 如何みても神の存在を認めるほうが有利であると言いたかったのだ。

 37年前、『パンセ』のこの断章を読んだとき、ナルホドと納得をした。
といって、今さらキリスト教関係のクラブに入るには遅かった?
せっかくミッション系の大学だったのに惜しいことをしたと悔いが残った。
理性で納得し、心情が同意するためには時間がかかる。
そのためには人との出会いと時間が必要であった。

しかし、今から考えてみて、自分は仏教の方が向いているが。
 
ー以下はパンセの中の断片集の抜粋である。

・人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。
 むしろ同時に二つの極端に達し、その中間を全て満たすことによって、
 それを示すものである。 

・人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。 
  自分自身においても、また他人に対しても

・もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。
 人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい。

・人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。

・人間相互の尊敬を結ぶ綱は、一般的に必要から生じたものである。
 というのは、全ての人間が支配者になりたがるが、
 みながそれになるわけにはいかないし、種種の階級が存在せねばならないのだから。

・悲しみは知識である。多く知る者は恐ろしき真実を深く嘆かざるをえない。
 知識の木は生命の木ではない。 

・好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。
 たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。

・人からよく言われたいと思ったら、自分のよいところをあまり並べ立てないことである。

・この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる。

・人間は考えるために生まれている。ゆえに人間は、ひとときも考えないではいられない。

・ひとつの事柄についてすべてを知るより、すべての事柄について何らかのことを 
 知るほうが、ずっとよい。

・我々は現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、
 それはただ未来を処理するために、そこから光をえようとするに過ぎない。
 現在は決して我々の目的ではない。
 過去と現在は我々の手段であって、未来のみが目的である。

・習慣は第二の自然だといわれているが、
 人は、自然が第一の習慣だということを知らない。

・誤った法律を改正する法律くらい誤ったものはない。
 法律は正義であるがゆえに従うといって服従している者は、
 自分の想像する正義に服従しているのであって、
 法律の本質に服従しているのではない

・偉人が我々より偉いのは頭が少しばかり高くでているだけのことで、
 足のほうが我々と同じくらい低いところにある

・実物には一向に感心しないくせに、それが絵になると、似ていると言って感心する。
 絵とはなんとむなしいものだろう。
 
――――
2004/07/28
1212, パスカル(1) −哲学についてー22
 学生時代には、パンセが常に傍らにおいてあった。
当時の不安な気持をいつも和らげてくれた愛読書であった。
現在、読み返してみて当時の哲学書の幾つかが、心の底の根幹をなしていた
ことに気がついた。
特に人間観は、大きくパンセに影響を受けていた。
生き方はニーチェとロマン・ローランである。
当時のささやかな読書が、人生を大きく左右しているとは。

「人間は一本の葦にすぎない。自然の中で一番弱いものだ。
だが、それは考える葦である」パンセの第一節である。
彼は物理学、数学などで成果をあげたが、哲学者としても名を成した。

あまり知られてないが、慢性的な病による苦痛の中で
人間とは何か、生きるとは何かを問い詰めた。
彼の20年の慢性病が哲学を深めていった。

「考える」という一事において、
「自分が苦しんでいる」という一事において、
パスカルの「尊厳」のすべてがある。
パンセの中の所々に「病の善用を、神に願い祈る」部分が見られる。

パスカルが31歳の時、神秘的な体験した。
1654年11月23日22時30分〜24時30分の間に、
パスカルの生涯を一変させる出来事であった。
「火」の夜の出来事である。
(恐らく)ヨハネ福音書17,18章を読んでいた時に、
白光色の「光」が見えた。
彼の死後に、上着の裏に縫い込んだ『覚書き』が発見された。
その一節が次の文章である。
 ーー
アブラハムの神、イサクの神、ヤコプの神よ。
あなたは哲学者や学者の神にあらず。
感動、歓喜、平安!
ああ、イエス・キリストの父なる神よ。
あなたが私の神となってくださったとは!
キリストの神がわたしの神。
わたしは、あなたを除くこの世と、その一切のものを忘却します。
福音書に示された神こそ実在の神です。
わたしの心は大きく広がります。
裁しき父よ、世はあなたを知りませんでした。
しかし、私はあなたを知ります。
歓喜歓喜歓喜歓喜の涙!
私はあなたから離れ、命の水の源を捨てていましたが、
わが神よ、あなたは私を捨てたりなさいませんでした。
どうか私が、これより後、永久にあなたから離れませんように。
永遠の命とは 、まことに、唯一の真の神であるあなたと、
あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることにあります。
イエス・キリストイエス・キリスト
わたしは彼から離れ、彼を避け、捨てて、彼を十字架につけました。
しかしこれよりのち、私が彼から離れることが永久にありませんように。
福音書に記されたあなたこそ、実在の神です。
ああ、全き心。快い自己放棄。
イエス・キリストよ。
私はあなたとあなたのしもべたちに全く従います。
わたしの地上の試練の一日は永遠の歓喜となりました。
わたしはあなたの御言葉を、とわに忘れません。アーメン。
 ーーー
以上が、その時の文章である。
心の奥で深い痛苦を抱え、社会のひずみ、欺瞞に満ちた人間関係の幻滅等が、
この一夜で一挙に溶け去った。
そして歓喜にいたった。

キリスト教徒でない私が読んでも感動する言葉である。
                        
――――
2004/07/29
1213, パスカル(2) −哲学についてー23

 キリスト教の秘義とは、キリストが十字架にかけられ、苦痛の悲鳴の中で
悶え死んでいった不条理を解くことであろう。パスカルの信仰は、その苦痛で、
底深く沈んでいったのだ。
「私を救ってください、助けてください、お願いします、お願いします、
お願いします」
この祈りが、キリストの苦痛と一緒になった時、秘義となるのだ。

先ほど書いたパンセの第一節「人間は一本の葦にすぎない。
自然の中で一番弱いものだ。だが、それは考える葦である」があるが、
その先の文章がよい。<
「これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要はない。
ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。
しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより
尊いであろう。人間は、自分で死ぬこと、宇宙が自分が勝っていることを
知っているからである。宇宙はそんなことを何も知らない。
だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。

まさにここから、私たちは立ち上がらなくてはならないのであって、
空間や時間からではない。わたしたちには、それを満たすことができない
のだから。だから、正しく考えるように勤めようでないか。
如何に生きるかの根底はそこになるのだから」

パンセは学生時代、一言一言断片だが、心の奥に突き刺さるように響いた。
 ーパスカルの概略ー
フランスの思想家、数学者、物理学者。
数学的確実性を信じ、懐疑論に反対。
のち宗教的回心を経てヤンセニズムに共鳴し、イエズス会による異端審問を批判。
思想的には現代実存主義の先駆とみなされる。
数学では、円錐曲線論・確率論を発表、物理学では、流体(液体・気体)
の圧力に関する法則「パスカルの原理」を発見。  
 (一六二三〜六二)                
                        つづく

pan class="deco" style="font-weight:bold;">