閑話小題 ~トランプ劇場 ―2

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    * この程度のシナリオで終らないだろうが…
 トランプ大統領自身がコロナに倒れるシナリオだけでは、インパクトが小さい!
他にも何か手段があって然るべきだが、そのシナリオの中身は如何に…?
ホワイトハウスの集団感染もあったが、これでも小さすぎる。感染する方も、
命懸け。コロナウイルスの集団感染(クラスター)は、ホワイトハウスの要人達
も用心をするから、これも困難極まりない。この騒ぎで不在者投票が拡大する為、
結果を遅らせる思惑もあるが、これとて見えみえ! 見栄をきっていた当人が
感染するのだから、3流のハリウッド映画のコメディになる。首になった側近が、
中国要人に次期大統領への手助けを求めたと暴露したとか、しないとか!
この漫画チックの大統領を「中流以下の白人が支持している」というから、
事態は、当時のナチ支持のドイツ人並み。岩盤離れした一部白人へのアピール?
 
 バイデンの勝利は、ほぼ間違いないが… 歴史に残るトランプのパロディも
面白く捨てがたい。落選の場合、ロシアか、中国に一家そろって亡命も有りうる! 
国内の政治体制も、トランプ落選を織り込んで、NO/2の菅政権に衣替えをした!
ポチも、ポチなりに、生存する戦略が必要となる。

 ・・・・・・
6780,閑話小題 ~そんなまでして生きたいか ー3
2019年10月07日(月)
 どんなに達観している人も、いざ!自分に直面すると… 
「拷問は、むしろ苦しみを紛らわせてくれる」というから。
< 十分たったら、いや、三十秒たったら、いまにも魂が肉体から脱けだして、
もう二度と人間ではなくなるんだということを、確実に知る気持ちのなかにある>
 成るほど、最後の30分の苦痛がキツイというが、それは、逆に、心の苦痛を
癒してくれている? 一人称の、この私しか経験できない恐怖と苦痛、苦悩に
対峙して消えていく。この極めの中に、それまでの人生が集約されるのでは!
以下の内容を直視しなくては… 一人称のそれは、絶対孤独だもの。

  ~その辺りをネット検索から… 
≪ <思想犯として逮捕され、死刑を宣告されながら、刑の執行直前に恩赦に
 よりシベリア流刑に処せられた著者の、4年にわたる貴重な体験と見聞の記録。
地獄さながらの獄内生活、悽惨目を覆う笞刑、野獣的状態に陥った犯罪者の心理>
<彼が二十八才の時、ある政治事件で逮捕され裁判にかけられて死刑判決を
 受けました(ぺトラシェフスキー会事件 一八四九年)。刑場に出た彼は、
銃殺刑直前に皇帝の恩赦が出て処刑を免れましたが、三十秒後の確実な死と直面
した時の体験を小説『白痴』の中で次のように書いています…(引用)>
    ★☆★
◉ 「…まあ、ひとつ考えてみてください。たとえば、拷問ですがね。この場合
は、その苦しみも傷も、すべて肉体的なものです。ですからそれはかえって心の
苦しみをまぎらしてくれるんです。ですから、死んでしまうまで、ただその傷
のためにだけ苦しむわけです。でも、いちばん強い痛みというものは、きっと、
傷なんかのなかにあるのではなくて、あと一時間たったら、十分たったら、
いや、三十秒たったら、いまにも魂が肉体から脱けだして、もう二度と人間では
なくなるんだということを、確実に知る気持ちのなかにあるんですよ。
肝心なことはこの『確実に』という点ですよ。…
 
◉ …いいですか、頭をこうやって刀の下において、その刀が頭の上へするすると
 すべってくる音を耳にする四分の一秒こそ、何にもまして恐ろしいんですよ。…
…殺人の罪で人を殺すこと(死刑)は、当の犯罪よりも比べものにならないくらい
大きな刑罰です。判決文を読みあげて人を殺すことは、強盗の人殺しなんかと
比べものにならぬくらい恐ろしいことですからね。

◉ 夜の森などで強盗に切り殺される人は、最後の瞬間まで、かならず救いの希望
 をもっているものなんです。もう喉を切られていながら、当人はまだ生きる
希望をもっていて、逃げたり、助けを求めたりする例はいくらでもあるんです。
ところが、死刑では、それがあれば十倍も楽に死ねるこの最後の希望を、確実に
奪い去っているんですからねえ。そこには判決というものがあって、もう絶対に
のがれられないというところに、むごたらしい苦しみのすべてがあるんです。
いや、この世にこの苦しみよりもひどい苦しみはありませんよ。 ≫

 ――
▼ 考えてみたら、私たちは須らく「死刑囚そのもの」。犯罪と言えば、
 生きてきたこと。特に無知と無能が、それを拡大させている。だから、
確実にある目先の「いま、ここ、私」が、気に入った触媒を探し、事として
味わうしかない。それが充実!ということ。50歳代に、これを徹したから
還暦以降、何かえの知れない解放感があった。会社清算も、肩に羽根が生えて、
飛んでいるような感覚があった。 『寝たきりでも、何でもいいから、生きて
いたい。』 拷問が如くであっても、そんなまでして生きたい!のが、本音か。
ということは、このテーマが甘い! ということ。 露わに生きるしかないと
しても。逆に、そう簡単に死なせてくれないのが現代医療。
 73歳と8ヶ月の実感、
『こんなに面白い娑婆、何でまた、生き急いでいる?』… 
『楽しいものは楽しまないと。何せ先は少ないし、元に戻れない!』
   ~成るほど、煉獄の心的現実は、こういう処ですか。

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3847, 創造的破壊
2011年10月07日(金)
「創造と破壊」について考えてみる。何か新しいものが創造される時に、
古いものの破壊が、そこにある。新しく創造されたものも、時間と共に古くなり
破壊される運命にある。破壊をマイナスだけで捉えるのではなく、創造のベース
として捉えることが創造的破壊である。 人生での挫折は、新しい自己へ生まれ
かわるための破壊になる。但し、それを糧に生まれ変わった場合だが。 
社会的な立場だけでなく、内面も重ねての人生の再生である。破滅の際だから
こそ変われる。順調に来た人ほど後半になっての挫折は、心に大きい重石となる。
しかし挫折は人生の節目をつくる機会でもある。竹の節は、これがあるから
大風の時に折れない機能として全体のシナヤカさのバネになる。
予定挫折のいう言葉もあるとおり、人生で無くてはならない節目は必要のこと。 
半年前の挫折?で、比較的平然でいられるのは、人生の前半に、多くの節目が
あったためである。 節目時は耐えるしかない。 しかし挫折経験こそ人生を
充実させてくれる。 どちらにしても人生に挫折の2や3つはつきもの。  
創造というと、まず「創造的破壊」が浮かんでくる。 ネットで調べると、
【 創造的破壊とは、オーストリアの経済学者シュンペーターによって
 唱えられた考え方で、非効率な古いものは効率的な新しいものによって駆逐
されていくことで経済発展するという考え方であり、その新陳代謝のプロセスを
そう呼んだ。不況は創造的破壊に必要であり、政府による介入はこれを妨げる
ものとして否定した。 現在ではこれを読み替えて、 企業活動の中で古いもの
を打破し全く新しいものを生み出す行動、という意味合いで使われることが多い。
 ドラッカーは、これに近い意味として体系的廃棄という言葉で述べているが、
組織でも何でも発展にはイノベーションが不可欠。「脱皮できない蛇 は死ぬ」
も、脱皮しおえた蛇はまたその外皮が支えられる体型までは急速に成長するが、
そこまでいくと、退化が始ってくるという意味。 創造と破壊は、対をなして
いるといってよい。・・・ 】
▼ デジタル化、ネット化は、この創造的破壊を加速する。
 情報化とグローバル化は、NO1以外のものを即座に駆逐するため、
創造利益を得るのが一部に限られる。しかし効率性からみて、最良のものが
生き残るシステムも決して否定できない。現在の世界の政治、経済の大混乱も、
ネット世界が現実世界とは別に出来、上位にたってしまった結果生じている
創造的破壊。この中で生き抜くことは至難の技。 全ての技がデジタル化し、
合理化を促すからだ。「面白こわい時代」である。 今回の私の挫折を
創造的破壊とすると、如何いうことか?考えるほど、人生の際(きわ)
が見えてくる!次の段階に踏み込め!ということ? 

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6416,読書日記 神さまって、そもそも何? ~2
2018年10月07日(日)
   * 神を信じる方に賭ける(パスカルの賭け)
 学生時代、愛読書だった『パンセ』の<パスカルの賭け>に、嫌に納得した
ことを思いだした。都会暮らしに慣れず、孤独感にさい悩まされていた時に
手にした新約聖書に救われていた時があった。子供の頃、二年ほど、教戒師
家に来て、家族と説教を聞き、賛美歌を歌っていた時期があったから、抵抗感
なく聖書の世界に入ることが出来た。 学生時代の後半、同級生に、その話を
すると、「何で?」と不思議そうな目で見つめられた。 教養課程に、
キリスト教倫理』の科目があったが、他の学生はツマラナソウだったが、
一言一言が、心底に突き刺さるようであった。
・一日二時間の読書時間の確保と、
・心底に濁らせてはならない純真・純白たる領域の確保!
 これが学生時代の一番の収穫である。

≪ ‘パスカルの賭け’とは、
 「神を信じて、本当に神が存在すれば天国に行き、
 もし存在しなければ天国も地獄もない。
 神を信じないで、もし神が存在すれば地獄へ行き、存在しなければ
天国も地獄もない。ゆえに、 神の存否が分からない時は、神を信じた
ほうがよい。(パンセ)≫

 パンセといえば、第一節
< 人間は一本の葦にすぎない。自然の中で一番弱いものだ。
 だが、それは考える葦である>
があるが、その先の文章がよい。
< これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要はない。
ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。>

  今さらだが、‘パスカルの賭け’ネット検索をすると…
≪・パスカルの賭けは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、
理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても
失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。
パスカルは、神の本質は「限りなく不可知である」として、神の実在/非実在
人間の理性では証明不能だという前提を出発点とした。理性がその問題に答え
られなくとも、人は憶測や盲信で「賭け」をすることになる。実際には我々は
既に(信仰の)選択を行って生活しており、パスカルの観点から言えばこの点に
関しての不可知論はあり得ない。我々は「理性」と「幸福」という2つのことだけ
を秤にかける。パスカルは、神の存在についての問題は理性では解けないため、
コイントスのような「損失と利益の等しいリスク」があると見なした。そういう
わけで我々は、神の存在を信じたときの損失と利益を考慮して、自らの幸福に
したがって判断しなければならない。パスカルは「得るときは全てを得、失う
ときは何も失わない」として神が存在する方に賭けるという判断が賢いと主張。
すなわち、神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しない場合でも死に際
して信仰を持たない場合より悪くなることは何もない。
パスカルの賭けで定義される可能性は、以下のような意思決定マトリックス
使い不確かな状況での選択として考えることができる。なお、パスカルは地獄
については何も言っていないし、神が存在してそれを信じない場合に得るものに
ついて何も言っていない。彼の観点からは神を信じることで無限の利益が得られる

▼ 中原中也の『汚れちまった悲しみに』が、ふと思い立った!

「汚れちまった悲しみに・・・」

 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまった悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる

汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

 汚れちまった悲しみは
 なにのぞむなくねがうなく
 汚れちまった悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
              【中原中也


後記: 個人HP内検索に【パンセ】を入れると、2004、2005年に
 テーマにして書いていた。本来は、これを書上げる前に気づくべきだった。
〔 行蔵、嘘つかない! 〕 我ながら真面目。メルクマールそのもの…  
それにしても詩人は凄いこと、お書きになる!

――――
2005/07/31
1580, パンセについて

昨日の随想日記の昨年の同日分に、パスカルについて書いてあった。
その中の格言を読み返してみて、現時点の考えを書きたくなった。
学生時代に感じたこととは自ずから違ってくる。

・人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。
 むしろ同時に二つの極端に達し、その中間を全て満たすことによって、
 それを示すものである。
 ーー
 二つの極端とは、善と悪・神と野獣・観念と実践、等々あるが、
 中庸こそ偉大さがあるということか。
 偉大さも所詮は人間の価値観の判断でしかない。

・人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。 
  自分自身においても、また他人に対しても
 ーー
 偽装・虚偽・偽善と気づくかどうかだ。

・もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。
 人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい。
 -ー
 恋愛の原因と結果とを眺めてみて、男とは他愛のないものである。
 それだけ若き性欲は昇華して恋愛を促進する。
 その障壁が高ければ高いほど燃え上がり、お互いが見えなくなるから困ったものだ。
 
・人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。
 --
 それが、親から・環境からの植えつけられた強固な先入観であれば、
 養老猛のいうバカの壁になってしまう。
 
・人間相互の尊敬を結ぶ綱は、一般的に必要から生じたものである。というのは、
 全ての人間が支配者になりたがるが、みながそれになるわけにはいかないし、
 種種の階級が存在せねばならないのだから。
 ーー
 お互いの尊敬か~ 

・悲しみは知識である。多く知る者は恐ろしき真実を深く嘆かざるをえない。
 知識の木は生命の木ではない。
 ーー
 軽く、いや生命の木でもある!といえないところが、この格言の深いところである。
 不条理が何事にもついてまわるし、無知の涙と同じくらい知識は涙をともなう。 

・好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。
 たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。
 --
 実をいうと、これがあるから、この「随想日記」が続いている。
 これが無かったら、これだけ毎日本や雑誌などこれほど読まない。
 といって、その時点時点の好奇心を書き残すのは、
 自分のためのメルクマールである。
 パスカルもそうだったのだろう。
 
・人からよく言われたいと思ったら、自分のよいところをあまり並べ立てないことである。
 --
 このHPを閉鎖して方がよいと、忠告されてはいるが。
 人に良く思われたいと全く思わないから自分のことを並べ立てることができるのだが。。