* 哲学という気晴らし  〜『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 
 こういう文章を読むと、この10〜20年、独学で「哲学」を学んできました
など、よくも言っていたと自嘲をしてしまう。どの道も、命がけでなければ
プロとはいえない。「ひきこもり」と「哲学をする」は、紙一重
20歳代に、スランプになると度々、六日町にある「雲屯庵」という禅寺に
本を持ち込み座禅をしたりしていたが、そこの若い雲水が、時々、強烈な
批判をしてくれた。「野狐などしてもしなくても同じだ」と。若き雲水は
命がけで、禅道を歩んでいるのに、少しの挫折で横たわる代わりの私の野弧禅
など、この馬鹿野郎だろう。でも、今から考えると、決して無駄ではなかった。
 これと同じことが、哲学の道でもいえること。 〜その辺りから(p91)
≪ 私が哲学にのめり込んだのは大森荘蔵先生に会ったからである。東大
 法学部に進むはずであった二十歳の私は、突如哲学に鞍替えしようと決意した。
その頃、大森先生の書いたものをむさぼるように読んでいた私は、大森先生に
じかに会って、いったいこんな自分でも市民から哲学者という「ならず者」へと
転落する資格があるのか賭けに出た。「駄目だ」というわずかな言葉をも、
視線をも、サインをも見逃さず、その時は哲学を潔く諦めよう。
 こうした悲壮な決意で先生に対したが、思いがけないことに、私は先生から
文句なしの適性を保証されてしまった。「来なさい」と言われ、胸も張り裂けん
ばかりに嬉しかったが、同時に奈落に突き落とされた。ああ、これで俺はもう
まともな市民としては生きていけない。哲学で行き詰ったら、後は死ぬしかない
と思い、泣きたくなるような気分だった。 それがまもなく現実になった。
法学部を捨てて先生の所属する教養学科の科学史。科学哲学分科に進学するや
否や、私は深刻なノイローゼに陥った。現実の哲学に失望したわけではない。
哲学は、そして先生はますますすばらしい存在として私に迫ってきた。だが、
だからこそ、自分に絶望した。そんなにすばらしい世界が与えられたのに、
それを充分活用できない自分の愚かさ、無能さに絶望したのである。
 蛆虫のような老婆を殺した瞬間に、自分もまた蛆虫だと悟った『罪と罰』の
ラスコーリニコフのように。俺は誤解していた、分不相応の高望みをしていた、
俺は真理のために生きることなぞできないのだ、俺はやはり蛆虫として真理を
横目で睨みながら何もわからずに死ぬほかないのだ。そう思った。そう思って、
自分の浅はかさを嘆きながら引きこもり、死ぬことを考えていた。
 ずっと後になって、奥様から「あの頃たびたび、主人は中島君自殺するかも
しれないと言っていました」と聞かされた。そんな苦しい時でも、私を哲学
へと「誘惑した」先生を瞬時も恨んでいなかった。ただ、せっかく見込んで
くれたのに、こんなテイタラクで申し訳ない。そのために死のうかと思った。
それからいかにして「治った」のかは、長い話になるので割愛する。
とにかく、私は門下の仲間たちとはよほど違って不思議なほど転び、蹟き、
滑りながら、哲学を続けている。といって、私は先生に普通の意味で
「感謝している」わけではない。私が駆け込み寺のように先生のもとに身を
寄せてから、本当に辛くきつい人生が待っていた。だが、私はこうしか生き
ようがなかったのだから仕方ない。先生との出会いも運命であり、私が哲学
を志すと「そこに」先生がいたのだ。 先生は私の恩師であろうか? 
いまさら「恩師」などと言えば、「私は中島君の師であったことなどない」
と切り返されるであろう。そうなのだ。私が先生を、一番煩わせた問題児で
あったとは確かであるが、先生は私の恩師なのではない。私は先生に哲学とは
こういうものだということを教えてもらったが、その後いまに至るまでその通り
のことをしていないのだから。だから先生は権威・権力におもねることを蛇蝎
のように嫌った。『哲学の教科書』がベストセラーになり、わずかの褒め言葉を
期待して勇んで病院に見舞いに行った時、「もう少ししたら何か言います」
と言われた。だが、何も言わずに死んでしまった。これもずっと後から聞いた
話であるが、私がウィーンから帰ってきて人より十年も遅れて駒場の助手に
なった頃、「今度帰ってきた中島という男は難しい所もあるが、どうか寛大に
見てくれ」と哲学仲間に訴えていたという。何も知らなかった。涙が出る思い
である。それほど気にかけてくれた先生は、物書き業に堕した私を許してくれ
ないであろう。魂が擦り切れるまで哲学をしていない私を軽蔑するであろう、
それが苦しいので、時折私は必死に叫んでみる。「私は先生とは違うのです、
こういう形でしが哲学ができないのです」そうしながら、「それでいいのだよ」
という先生の優しい言葉を期待する。だが、いくら耳を澄ましても何も聞こえて
こない。≫
▼ この部分を何度も読み返えすたび、それぞれの人生の節目の苦悩が蘇える。
 多かれ少なかれ、青年期には、各自が、似たような苦悩を抱えて苦闘するが、
 いつの間に現実に同化してしまう。  で、娑婆娑婆して、この有様!
・・・・・・
4830,「事業人生を決心して45年」の語り直しー8
2014年06月05日(木)
  * 「語り直し」を始めて驚いたことは
 3年前の結末で、オセロゲームの駒が白から黒に変わったと思い込んでいた。
ところが、変わったのは細部の記憶が次々と最近のことのように思い出すこと。
嫌な出来事と思っていた中に、自分自身の姿が垣間みることが出来ることだ。
むしろ、不遇の渦中こそ、人生の醍醐味がある。ただ、気づくか気づかないか。
不遇であればあるほど、周囲の人に親切になる。だから、多くの邂逅が生まれ、
味のある日々になっている。成るほど、人生は面白いものである。生きてきた
課程で、日々、世界が変化している。そして自分自身も、大きく変化している。
特に、20歳代の変化は激しく、留まることはない。金沢にいた頃の会社は、
最後は吸収合併をされて、今は、何一つ残ってない。あるのは抽象画のような
記憶だけ。しかし、これが自分の基礎に大きく根を張っている。
 金沢に来たのだからと、能登一周の観光バスで一日一人旅をしたり、
同僚との東尋坊へのドライブに行ったり、早朝の金沢港でのキス釣とか、
金沢駅前の居酒屋で騒いだりとか、入社前の研修での永平寺の座禅とか・・・ 
 ところで、東尋坊は北陸随一の景勝であり、自殺の名所としても知られている。
同僚から聞いたのが、自殺者の霊が管理事務所に尋ねて来たとか、断崖から
下を見たところ、多くの手が伸びてきたとかは日常茶飯事という。 
 せっかくの金沢なら、茶道でもと思いたち、同僚の女性の紹介で、寮の近くの
家に習いにいっていた。異様な緊張感が漂う中、来ている女性は、なかなかの
若い美人ばかり。週の火・木曜日の週二回のどちらかに行くが、これが心落着く。
それぞれの日で、来ている人が違うが、そこでの美人を見るのが楽しみに
なっていた。ただ、それだけだが、金沢を急遽、去るにあたって、その事情を
師匠に話すと、「ところで結婚相手が決まっているの?」と聞いてきた。
「職場の女性以外に、チャンスもないし、同僚は付合わない主義で・・」
と答えると、「どっちの娘がいいの?」と! 結婚相手など微塵だに考えて
なかったので、「別に!」と答えたが、悪くはないが今さら時間が無い。
考えてみたら金沢での伴侶の選定も考えられた。 浅く広い、いちゃつき
レベルでは、多くの思い出はある。一番、惨めで、嫌なことばかりの日々の中に
こそ、多くの心の痕跡がある。それが青春ということか。人生は多くの
出来事と、その記憶の重なりで出来ていて、「自分」は、その蓄積そのもの。 
そうこう振返ると、創業準備期間の15年の方が、創業以降の30年より、遥かに
エネルギーが入っていたことになる。結果が、どうであれ、野心を持って、
ひたすら日々を過ごしていた20歳代が、人生の醍醐味があったようだ。
 結果としてみて、20歳代は、非常に合理的配転を自らしていたことになる。
今だから言えるが、面白い日々だった。
・・・・・・
4463, 余命半年 −1
2013年06月05日(水)
        「余命半年  満ち足りた人生の終わり方」大津 秀一著
 老いるにも準備が必要であるが、死ぬことにも準備が必要のようだ。
「あと余命半年」と悟った時に何をするか?その時には、苦悩と苦痛が頭を
占めて殆ど何もできない。あと半年と悟った時、「準備をしてきて良かった」
と言えるよう、普段から一歩ずつ足を踏みしめて生きなければならない。
それにしても、それほど遠くない未来に、余命半年+−数ヶ月の余命を宣言
されるか、自分で悟る時がくる。これが脳溢血、心不全、交通事故など瞬間死
の数倍の確率というのが現実である。その瞬間から悟りすまして生きるなど、
無理。それまで積み重ねた知識と経験と覚悟を持って、平静に保つしかない。
  ーまずは、「はじめに」より抜粋---- (要約でもある)
≪「あなたの余命は半年です」突然そう宣告されたら、あなたはどうする
 だろうか? とりあえず遺産をどうするか、そこから手をつけるだろうか。
あるいは、かねてより行きたいと思っていた海外に旅行に出かけるだろうか。
いずれにせよ、ぼやぼやしていたらあっという間に半年など過ぎてしまう。
半年・・・たった六ヶ月である。「命はそれまでですよ」と告げられたあなたは、
その半年の間にやるべきことをすべてやり、心にも折り合いをつけて最後を
向かえることが出来る自信はあるだろうか? ・・まさに人の数だけ物語があり、
バッドエンドもハッピーエンドもある。ある時から、私は何がこの二つを
分けるか、あるいは、ある人の終末期に光が包まれるのに、ある人の終末期に
色濃い闇に閉ざされるのか疑問に思った。 結論から言うと、老いる前から
老いることを、病気になる前から病気になることを、死ぬ前から死ぬことを
考え、そこで悲観的になるのではなく、だからこそ一足一足を踏みしめて
生きようと、そう思った人間にはそれ相応の最期が約束されるということが
わかった。老いること、病気になること、死ぬこと、それを事前に考えるのは、
ものすごく精神力を使い、大変な作業である。ともすれば抑うつ的になって
しまうこともあるだろう。しかし、その差は必ずいつか出る。ひょっとすると、
最期ばかりか、明日からも大きな差となって現れるかもしれない。・・ ≫
▼ このところ、老い、病気、死についての本を読むことが多い。 
 読んでいると安らぐのである。どっちにしろ、そう遠くない先に直面する。
その時になって、急ごしらえの準備は、それでしかない。しかし、この本も、
  健康時からの心得、病初期・病中の心得、病末期の心得、死の心得と、
段階をおってるから、シビアで引き込まれる。緩和医療のお医者さんもあり、
著者は、その実態を紹介することで不安を少なくしたいのが、この本の主旨。
 「精一杯生きました。悔いはありません」そういって誇らしげに言える
ための準備、それは「今を幸せに生きる」こと。
・・・・・・
4089, 老いの見本帳ーダークサイト −9
2012年6月5日(火)
       「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)
  * 役割としての「年寄り」   
 ここで、「老人と年寄の意味合いの差は、喧嘩の仲裁ができるかどうか」。
村の長老は、争い事の仲介者としての役割が最も似合っている。若づくりを
した粋な老人も良いが、何もかもしりつくした重みのある長老も良いもの。
≪【老人と年寄り】 老人という言葉には、老化現象の起きた人間とか老衰
間近の人間といった印象を覚えてしまって、好きになれない。老人ホームとか、
老人病院といった具合に。それよりは「年寄り」といった呼称のほうが、経験
や年輪を重んじている気配が感じられる。相撲界でも年寄株は必ずしも高齢者が
持つわけではないし、江戸時代の武家では役員待遇的な意味合いではなかったか。
長老、なんて尊称も最高齢者というよりは「年寄り」に近いニュアンスであろう。
 わたし個人の勝手なイメージでは、年寄りとは喧嘩の仲裁ができる人である。
「ここはひとつ、年寄りの顔に免じて堪えてくれんかのう」と言えば、
それで喧嘩している同士はしぶしぶ矛先を納める。立腹しつつも、どこか安堵
した表情を浮かべながら。そんなふうに心の機微を読み取り、また最後の
最後に腰を上げる状況判断の確かさと、人生経験を重ねてきていることへの
万人の敬意とかが、その場を収めるのである。
 ・・ 六十歳を超えると急に「余りにも下世話な」妄想が突出するケースが
散見されることは、既に第5章で触れた。その背景には、若さから遠ざかった
ことへの無念さとともに、年寄りであることを受け入れるに足る価値感が高齢者
に与えられていないことがあるだろう。暴走老人などというものが出現したのも、
老人であるという無力感や孤独感のみならず、年を重ねたという事実を劣化と
いった文脈でしか認識しない世間への恨みが大きかったからだろう。
年長だからとそのことだけで威張るのも、あるいは落胆するのも問題だけれど、
年長者の顔を立てるといった世の中の「知恵」が通用しなくなっている。
その辺りの軋みを是正するには、もはや老人が年寄りであることを意識的に
「演じる」ことから再スタートするしかないのではないか。世の中が認めて
くれるかどうかはさて置き、年寄りというキャラクターを、役割を、もっと意識
してみてはどうなのか。そのキャラクターが現今においては「カッコ悪い」と
いった了解があるから、年寄りであることを皆が演じたがらない。若く見える
意外性ばかりを狙いたがる。 団塊の世代がこれから老人へと突入していく。
どのような老人像を頭の隅に思い描きつつ年寄りになっていくのか。ジーンズや
Tシャツが少なくとも外見的に旧来の老人とは違ったイメージをもたらすだろうし、
家族のあり方も変化してきているのだから、過去の年寄りの姿がそのまま手本には
なるまい。還暦に赤烏帽子と赤いちゃんちゃんこを贈られていた頃とは時代が違う。≫
▼「あえて自分らしい年寄りを演じてみることで、配役として全うしてみる
 ことを楽しんでみればベスト、人生など所詮は座興に過ぎないのだから」という
著者の言葉が説得力がある。清濁併せ飲む老人を演じるのも面白いが・・
どうも、クソ真面目は? 年寄りは、目立たないことだ。団塊の世代の年寄が、
目立ち始めてきた。だから海外旅行者の数が不景気にかかわらず減らない。
  彼らは「皆んなで渡れば怖くない世代」である。兄弟、友人も皆んな
年寄りになっていくため、無力感や孤独感は少なくて済む。
 ・・・・・・・
3723, ジャズについて −15
2011年06月05日(日)
  * 日本のジャズはどうなっている? ー「音楽の本」三枝成彰著より 
【 二十世紀初頭にアメリカに生まれたジャズが日本に入ってきたのは、
 明治から大正に入り、第一次世界大戦が勃発した頃だ。当時は社交ダンスが
華やかなりし時期で、ダンス音楽として輸入されたのである。一九三〇年代にも
なると、東京を中心にダンス・ホールがお目見えし、日本人によるバンド演奏も
行なわれるなど、第一次ジャズ・ブームが起こる。わが国最初の本格的なジャズ
メンとの評価を得るトランペッター南里文雄が活躍を始めたのも、そんな時代。
しかし、ジャズが本当に日本にもたらされたのは、第二次世界大戦後の進駐軍
占領時代といっていいだろう。それというのも、戦争が激しくなる一九四〇年
前後には、ジャズメンの主な活躍の場であったダンス・ホールは閉鎖され、
やがては「敵性音楽」との理由から演奏そのものが禁止されるなど、ジャズの
空白期間に入るからである。戦後のジャズ。それは、進駐軍として駐留する兵隊
の娯楽として、NHKがジャズなどアメリカのポピュラー音楽を放送したことを
直接のきっかけとする。やがては慰安のため進駐軍のキャンプを巡ってジャズを
演奏する日本人も出現。同時に、日本人の心もとらえ、五〇年代に入って
ルイ・アームストロングベニー・グッドマンデューク・エリントンなど
本場の巨匠たちが来日するにいたって、第二次ブームとも呼ぶべき様相を呈した
のである。もちろん・進駐軍とともにもたらされたジャズは、アメリカと同じ
ようなスタイルの変遷を経ながらも日本にすっかり定着していき、一方、日本の
流行歌にも大きな影響力を及ぼすのである。そんな日本のジャズで活躍した
多くのプレイヤーの代表をあげるとすれば、サックスの松本英彦渡辺貞夫
トランペットの日野皓正、ピアノの秋吉敏子、菊池雅章、山下洋輔らになる。
なかでも日野晧正や菊池雅章、秋吉敏子といった面々は、ジャズの本場アメリ
を拠点に活躍。日本におけるジャズも、本場がそうであるように、八○年代以降
やや沈滞気味だが、そもそもは輸入された 音楽であるジャズの世界でも、
世界に通用するアーティストを輩出していることだけは忘れてはならない。】
▼ 私が学生時代に、TV番組でジャズが多く流れていた。それだけでない、
 カントリーにウエスタン、ブルースにロックと、当時はアメリカに如何に同化
するかが、大きなバロメーターのところがあった。現在も、その傾向が残っては
いるが。地方出身の学生であった私も、何の抵抗もなく、アメリカナイズされて
いった。それから考えれば今さら何がジャズか、になる。 とはいえ、当時の
刷り込みのあるジャズに、興味を持つのは当然といえば当然で、むしろ抵抗なく、
その世界を楽しめばよい。
 ・・・・・・・
3358.すでに世界は恐慌に突入した ー1
 2010年06月05日(土)
「すでに世界は恐慌に突入したーデリバティブとドルはあと数年で崩壊する」 
                      ー船井幸雄 朝倉慶 著
  ーまず、アマゾンの 内容紹介 よりー
いよいよ、資本主義が音を立てて、崩れていきそうな気配。今の我々のシステム
はデフレという状態では崩れません。貨幣への信頼があるからです。ところが、
世界的に始まってきた、石油や食糧をはじめとした、今の商品高が止まらなくなり、
酷いインフレ状態に陥ると、やがて貨幣に関する信用が失墜して、経済活動、
その他も収集がつかなくなってしまいます。そうなれば、資本主義の崩壊です。
そのきっかけを作るのがドルの暴落です。ドル暴落という引き金が引かれれば、
国債大量発行という借金漬けの日本の状態もそうですが、中国の体制の問題、
イラン、イスラエルに見る中東問題、インド、パキスタンの紛争、さらには
ロシアや東欧、書きだしたらきりがないほどの世界を取り巻く矛盾が一気に
噴き出てしまう。・・(中略)恐らく今回の混乱は、経済的な破壊に留まらず、
天変地異や、鳥インフルエンザなどの破壊的な疫病も伴うこととなる。 
まさに人類史上最大の困難が幕明けようとしています。しかし、この事態を
決して悲劇的なことと捉えないでほしいのです。豊かになった我々は、実は、
多くのものを失ってきているのです。親殺し、子殺し、無差別殺人、振り込め
詐欺、こんなことはなかったことです。豊かさとともに何かが変わったのです。
家族や隣人への愛情、屈託のない笑顔、世の中には、お金では買えないものが
山のようにあって、そのものすべてを取り戻す旅が始まるのです。
お金や人の地位などは目で見ることができます、しかし愛情や信頼などは、
目では見えませんし、計ることもできません。一番大事なのは、この目に
見えないもので、これから、我々はこの目に見えない、今まで失った
一番大事なものを取り返しにいくのです。
▼ しかし朝倉慶の「大恐慌入門」は、たとえ話を多く取り入れながら分かり
 やすい内容で、非常に多く売れたよう。その続編といった内容で、6京という
信用取引の残高のマイナーは、まだ世界中の企業、金融機関、政府系機関の金庫
の中でジッと眠っているだけ、その損失処理をしなければならない時期がくる。
それが今や刻々と近づいているのは誰の目にも明らかである。対処処理で札を
刷りまくった結果は、札の価値の下落、ハイパーインフレである。
 今年の暮れから2012年には、発生するのは間違いないこと。
・・・・・・・
2983,超円高社会ー 6
2009年06月05日(金)
 (字数の関係でカット15年06月05日)