* 雑念と小猿
 SJのスタジオ・ヨガ教室に参加して、はや4年3ヶ月になる。
前半の二年は、週2回、後半は週3〜4回、参加しているが、既に
生活習慣の一つで、足腰のセルフ・マッサージにもなっている。
それにしても、50人の集団が一同に会したヨガは、その人数分、
気が集まり、少し疲弊した気を強くする働きがあるような。 
イスラムのドームには、それがあるのでは?
ヨガの目的は、瞑想をしている時の身体と呼吸を整えること。
そこには、どうしても小猿が、彼方此方に飛び回る。ジムのヨガで、
インストラクターが、時どきヨガや瞑想の本質について面白い譬え話をする。 
『内側から次々に出てくる雑念は、自分の身に取り付いた小猿(気)の先。
惑わされないよう、自らを律してください!』という。成るほど、小猿は、
彼方此方飛び回り、ジッとすることなく遊びまわる。思い浮ぶ雑念とは、
小猿(気)が遊び回った先でしかない。猿に惑わされ、本来の自分を
冷静に見つめることが出来ぬまま一生を終えるのが人の常。 
 世には、小猿なら未だしも、大猿になって飼主を支配しているのが多い。
その大猿の群れが、彼方此方で猿芝居をしているのが娑婆世界。
猿は愛嬌があるが、服を着た猿どもは、どうもこうも!
 それより、猿にひかれた私?、貴方?  お後が宜しい様で。
  〜いつもの偶然だが、3年前にヨガについて書いていた。
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4453, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー1
2013年05月26日(日)
 スポーツジムのヨガに週二回参加して15ヶ月になるが、家ではやらない。
ジム内のフリースペースで常に数人がヨガやストレッチをしている。
半年前にストレッチマットを買って始めようかと考えていたが、何もしなかった。
丁度良いタイミングに、図書館でこの本を見つけた。100回以上のヨガで、
ここで取り上げているポーズの殆ど経験している。その中で、自宅用として
要約して、「どうですか!」と提示されたよう。 独り部屋でヨガをしている
姿も奇妙といえば奇妙。
  ー著者からの内容紹介ー
動かすだけで、体に自然と力がみなぎり、元気になる!!
1日5分、1週間でマスターできるように、「息の出し入れ」「体の動き」
「気の流れ」の3大要素を、徹底図解。読んでいくだけでも、ヨーガの効果が
体得できてくる!私の師匠が長年提唱し続けてきたヨーガは、インドの伝統に
のっとったうえで、体位法などの形のみに偏らない、呼吸を大切にして
「気の流れ」のあるヨーガでした。しかもそのエッセンス的ヨーガの中に、
伝統的に重要な行法をすべて濃縮した、極めて濃度の濃いものなのです。
本書で説くヨーガも、難解な体位などの実修は含まれていません。
「ヨーガ独得の呼吸法の解説」と、それを通して得られる「生命エネルギー、
気の獲得」そしてなによりも、こうした要素を簡単に
「1日5分、2種類の実修から」始められることが、大きな特徴となっています。
 ●4つの呼吸    ●1日目 胸を開いて   ●2日目 足腰を軽快に  
 ●3日目 身体の前後両面と手指  ●4日目 背骨にいきいきと 
 ●5日目 胸と脇を開き  ●6日目 上体を反らせる 
 ●7日目 1週間の疲れを癒し  
  ●オーダーメイド・ヨーガ   ●症状別のヨーガ    
 次回には、4つの呼吸法を紹介するが、なかなか良い。
 ―
 瞑想は釈迦も取り入れて悟りに至ったが、ヨガとして確立したのは、
後のようだ。  「まえがき」の冒頭で〜
≪ ヨーガは、もともとインドの哲学や宗教のすべてに共通する宗教的な
 実践法でした。仏教も例外ではなく、心を集中し統一するための実践という
意味で、ヨーガ(瑠雌)ということばが使われています。とくにインドの宗教史
のうえでは、グプタ王朝(4〜6世紀頃)の時代に『ヨーガ・スートラ』を根本
聖典とするヨーガ学派が成立し、ごれにもとついてさまざまなヨーガの流派が
出現しました。そのなかでも、12〜13世紀以後に発達した「ハタ・ヨーガ」
と呼ばれるものがもっとも重要で、現在行われているヨーガに直接的に影響を
与えています。「ハタ・ヨーガ」とは、肉体的な修練や呼吸の制御などによって、
心の集中、統一に適する身体と精神力を築き上げる方法です。ヨーガは主と
して健康法として人々に受け入れられていますが、本来は真の意味での
心の安泰、あるいは真実の自分の発見という宗教的な目的をもった
行法であり、瞑想と深いつながりがある。≫
▼「心を集中し統一するための実践法」で、心の安泰と、真実の自己発見が
 ヨガの目指すところ。ヨガの先生が言うには、「私の日常の行為の殆どが
ヨガに繋がっている。歩いても座っても寝ても、靴を履く行為さえも」。
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5185,閑話小題 〜ヤマダ電機、46店舗閉鎖
2015年05月26日(火)
   * ヤマダ電機が5月末に46店舗の閉鎖
ヤマダ電機が5月末に閉鎖する46店舗のうち45店舗は郊外型で、
 需要低迷が目立つ地域で事業を縮小する。一方、今年度の新規出店数は
15店舗と従来の半分程度に抑えつつ、目玉店舗として東京駅・八重洲口側に
新規出店する方針。増加傾向にある訪日外国人の需要を取り込む狙いがある。≫
 というニュースが、先日、突然発表された。
以前も書いたが、郊外型店舗で欲しい商品を見て、実際に購入するのはネット。
確実に二割はお買得になる。ヤマダ電機の総店舗数は国内外あわせて4,401 店舗
もあるから、僅か一%あまりだが、発表後、一週間で閉鎖とは・・
 買ってはないが、目立たない「自転車用ヘルメット」をネットで調べたが、
思いもしなかった帽子に組み込む隠れヘルメットがあった。また、帽子に組み
込まれたヘルメットもあった。それらは、自転車専門チェーン店も販売してない。
 情報化は、あらゆる業態の既存のシステムを根こそぎ破壊している。
   * カースト制度
 インドに行ったときに、まず疑問に感じたことが、『何故、カースト制度
三千年も存在し続けたのか? 階級間の争いが起きなかったか?』であった。
それに対して、階級が高いアーリア人のガイドが曰く、『それぞれ階級には、
その下の階級が存在しているので、上からの差別を、そのまま下にするため、
バランスが取れている』と、平然と話していた。平等は分かっているが、肌の色、
人種、宗教上からして、アーリア人が、それ以下の人種と混血にさせないため、
つくり上げたヒンズー教。分かってはいても、階級を容認するしかない、という。
考えてみたら、自由、平等、博愛の理念は理想であって、現実は、その逆。
日本のような島国では、実質的なカースト制度が長年かけて構築されている。 
 笑い話?に、『平等の理想が困難なのは、みんなが自分より上位の人間との
平等を願うから!』がある。 なるほど、確かである。その希求は、思いの他に
強いものがある。そのため、下方ほど、他人の粗探しに精を出す「世間びと」
になる。が、それも、差別。『世間虚仮、唯仏是真』というが、せめて、自分も、
「世間びと」の自覚を。ところで、老いるたび、社会の隅に押しのけられていく?
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4820,閑話小題 ー22年ぶりの車選び
2014年05月26日(月)
  * 22年ぶりの車選び
 日常生活の中で、TV、パソコン、車の位置づけは大きい。
この年齢になれば、便利で、面白そうで、実利的であることが第一になる。 
年金生活者ということがあるが、これが最後の車の買物?となると、大いに
迷いが出る。しかし、選定のための中古車センターまわりは、なかなか面白い。
 22年間、乗っソアラの車検の見積で、修理費など30万といわれていた
経費がマフラーの交換が加わり、50万以上の見積になった結果、急遽、買替え
を決め、先週、連日、市内と見附と三条の中古車センターをまわった結果、
メーカー直の販売所に比較的良い車があることを知る。まず、ソアラ・クラスの
三ナンバーの大型車か、普通車のセダンか、スポーツタイプかと判断に迷った。 
まわって思い知ったのは、22年も乗っていた車より、どの車も、遥かに良い!
ということ。「このソアラは当たり!」という思い込みが、過剰に縛られる
ことになっていた。
 日産とトヨタというと、先代のソアラと、その前のコロナを加えると、
35年以上もトヨタ車を乗ってきたため、トヨタ系を選びたくなる。 
また、車は家内名義になるため、どうしても最安の選定に引っ張られる。
こういう時に、偉そうなことをいっても、森の生活とサバンナの年金生活の差
が出てくる。歳からして、あと?年しか乗れないから、可能な限り良いものか、
逆に安いものか、大きな迷いになったが・・ 何の制約もなければ、年齢を
考えても、トヨタスポーツ車にするが、中古でも結構な値がする。
今更、遠出も、スピードも出さないため、考えた末に止めた。
 で、決めたのが、トヨタの「マークXジオ」、走行距離57千キロの格安
のワゴンタイプ。一応スタイルも気に入った上に、実用的が判断基準。
オーナーは、もちろん家内。で、ますます頭が上がらない。産業廃棄物とは、
よく言ったもの。で、車選定も一歩手前の己と似たのを探し出す!
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4079, 老いの見本帳ーダークサイト −3
2012年05月26日(土)
      「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)   
  * 第一章 孤独な人       
 孤独は、老人に一番、似合っている。老いれば老いるほど、人間は頑固に
なると同時に、愛想がなくなり殻に篭るようになりがちになる。この章で紹介
している老人は、比較的強い人たちで孤独の世界にドップリとつかっている。 
私も長く生きるほどに、この中の誰かに似た人になっていくのだろう。
いや、既にそうか?「長生きはしたいが、歳はとりたくない」という絶対矛盾
が誰の心にもあるのだろう。理想的老人は、孤独でなくてはならないようだ。
社会的にも、経済的にも弱者に追いやられ、孤立せざるをえないのが老人。
≪ 菊蔵は、他人の不幸が嬉しいのではない。まだ自分と無関係にはなり
 きっていないがどんどん遠ざかりつつある「世間」で生じた惨たらしい
出来事が、孤身の自分の気楽さと寄る辺なさとをマゾヒスティックに際立たせて
くれるから、「また、子供が落ちて死んでいないかな」などと思わずには
いられないのである。 そこに孤独な晩年の鬱屈と醍醐味とがある。・・
わたしとしては心の深いところで共感したくなってしまう。わたしはこの章で、
自分の憧れる、あるいは好ましく思う老人たちを紹介してみようとした。
すると、どの老人も孤独な影を携えた人ばかりではないか。 老いに伴って、
心身の能力は衰えていく。もちろん人生経験を踏まえて円熟したり豊かになって
いく要素もある。 が、おしなべて衰えは我々に違和感や困惑を与えてくる。
自分自身がマイナス方向へ変貌していくという実感は、孤独感に通じるだろう。
家族や友人に囲まれていてもなお、ある種の頼りなさや不安、無力感や孤独感
が、多かれ少なかれ付いて回るのではないか。 老人となることは、死に
近づくことでもある。また、馴染み深い人や大切な人がいち早く彼岸へ
旅立ってしまう機会も増えてくるだろう。死とは、おそらく究極の孤独である。
だからこそ恐ろしい。だからこそ祈りが求められる。孤独であっても、淡々と、
あるいは瓢々と、あるいはふてぶてしく生きていく老人たちに興味が向いて
しまう理由には、そのように死への不安が伏在しているからなのかもしれない。
もちろん自身の孤独癖が大きく関与しているからでもあるのだが。≫
▼ 友人や、連れ合いにも先立たれ、誰も見向きもしなくなった頑固一徹
 老人が長生きの果てに待っている結末か。逆に90歳半ばを超えて元気で、
あと10年は生きると仲間たちと運動している老人も、何か変である。年寄の
愚痴と、悪口、噂話ほど醜いものはないが、それは、孤独を更に際立てる。 
とぼしい行蔵の棚卸も孤独を増すだけ。 人生の終え方は難しい。  
・・・・・・
3713, ジャズについて −8
2011年05月26日(木)
 モダン・ジャズの誕生 ー�    ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
  * ビバップのキーマン、 チャーリー・パーカー
【 四〇年代に出現した、ビバップ・スタイル以後に続く流れを総称して、
 モダン・ジャズという言い方もする。それほど、ビバップ・スタイルの出現
は革命的だったのだ。そのビパップの"スポーグスマン"的役割を担ったのが、
トランペット奏者デイジーガレスピー(一九一七〜一九九三年)。
クレオパトラの夢」で有名なピアニスト、バド・パウエル(一九二四〜
一九六六年)も、のちのジャズメンに多大な影響を与えた
(アルバム『バド・パウエルの芸術』『アメイジングバド・パウエル』など)。
 だが、最大のキーマンといえば、その飛び抜けた才能を死後になってようやく
正当に評価されたサックス奏者チャーリー・パーカー(一九二〇〜一九五五)
があげられる。 ジャズという音楽において、ペルギー人が発明したとされる
管楽器サックス(サキソフォン)が果たす役割は、他の音楽に対して比較に
ならないほど大きい。バリトン、テナー、アルト、ソプラノと四種類があるが、
いずれもジャズと切り離すことができない大切な楽器である。 このように
ジャズにとって命ともいうべきサックスの演奏家として、あえて代表をあげる
なら、のちに触れるジョン・コルトレーンカンザス・シティ出身のこの
チャーリー・パーカーをおいてほかはない。サックスを、それこそ自在にはね
回る鳥のごとく縦横無尽に操る早業から、‘バード’名称をミュージシャン仲間
につけられたパーカー。芸術肌のミュージシャンのご多分にもれず、彼は酒と
麻薬に溺れ、34歳の非業の死を遂げるが、ジャズに新し息吹を吹き込んだ
天災であったことは間違いない。 】
▼ それぞれの楽器で、その時代のジャズを特徴づける奏者が出てきてきて
 いた。パーカーはサックスである。モダン・ジャズでのサックスの役割は
大きい。モダン・ジャズは、更にクールジャズへと変っていく。
 ・・・・・・・
3348, 閑話小題 
2010年05月26日(水)
  * 何か凄い夢をみた!
 一昨日の夜半に、変わった夢を二つ立てつづけにみた。これ以上の不愉快が
ない夢をみた。これは不徳のなせること?もう一つが夜空の星雲をみている夢。 
それが壮大なスケールで美しく今だかって見たことのないイメージ。
何かの宇宙映画の映像が頭の隅にあったのだろう。 神の目線のような、
夢でしか経験できない内的な経験である。もっと近づいて見ようとするうちに
夢が終わってしまった。 宇宙に浮いて立体的に星座の星をみている夢は初めて
だが、こんなリアルで壮大な夢をみたのに驚いている。「アバター」や
「2012年」をシアターでみたのもあるか。3Dの映画やTVで、これに近いか、
それ以上の経験もできるのだろうが。脳の奥行きの深さを夢で知らされた
思いである。こんな夢をみるとは、お迎えが近いのかもしれないゾッとする
内的経験であった。内面は宇宙ということ? 
  (字数の関係でカット2011年5月26日)
 ・・・・・・・・
2973,超円高社会
2009年05月26日(火)
 「超円高社会」 水澤潤著 ー読書日記
 この本は初めから終わりまで、たとえ話のオンパレードである。
下手な分析より、たとえ話の方が解りやすいことが多い。
「まえがき」の一行目の冒頭から、
《 日本は世界のATMだと言われてきた。お金が必要だと思ったら、
欲しいだけ、いくらでもニッポンATMからゼロコストで引き出しできる
というのだから。そこで引き出された金は、みんな日本以外のところに
流れていき、世界中を潤してきた。21C初頭の世界的な好景気の原動力と
なったものこそ、実はニッポンATMがしゃぶしゃぶに供給してきた
キャッシュだったのである。アメリカ、中国、欧州、ロシア、インドが、
産油国が好景気を堪能した。 (字数の関係でカット2008年5月26日)
・・・・・・
2609, サルトルについて、考えてみる ー1
2008年05月26日(月)       ..φ(ー ̄*)カキカキ_φ(* ̄0 ̄)ノオハ
 最近は、サルトルは人気がないが、私が学生時代は最も人気のある思想
・哲学者であった。サルトルといえば「存在と無」である。その中で説かれて
いる「対自」と「即自」と「対他」というキーワードがある。これらの言葉に
出あった時の驚きを今だに忘れることが出来ない。
この言葉から「自分の裂け目」を言葉で初めて知った。
 ・そのままの存在が「即自」。犬は己を犬と思わない。
  自分が何者かを問わない存在。
 ・その己に語りかけるのが「対自」になる。自分が「?である」ことを
  意識して生きている存在。 
 ・そして、他人から「もの」として見られる存在という意識が「対他」。 
「実存が本質より先立つ」人間はまずは生まれて「存在」となる。その後に、
それぞれの本質が作られる。実存主義だが、サルトルは、それで、「私」
という殻から抜け出て「外に出よう」と....。 この辺が学生時代の「私」の
理解である。当時、これを読んでいるうちに少しオカシクなりかけた記憶がある。
先週は、面白いので手持ちの哲学書入門書の何冊かを引っ張り出して、サルトル
に集中してみた。なるほど大戦後に一世を風靡するだけのことがある。
共産主義の理解者として、左派のイメージが当時あったが、現在振り返ると、
それほどでもない。 さて、この一週間で サルトルで思い出した知識といえば、
・「主体性」の哲学であること。
デカルトは「あらゆるもの疑ってみた結果、疑っている自分、そのように
考えている自分がいる、ということだけは疑うことが出来ないのではないか」
と考え、「私は考える、ゆえに私は存在する」とした。それをサルトル
批判をした。彼は「私が、何かを見ている」「私が何か考えている。」
の「私」が疑問という。「何か考えている」は確かだが、「私」は振りかって
「反省」をしていた時に生まれる対象。つまり反省している意識とは、
意識自身を対象とする意識なのである。「私とは一人の他人」なのである
・人間は自由の刑に処されている。「人は何も決められてない投げ出されて、
 一から自分をつくりあげていくしかない。それが人間の「自由」である。
 投企とは、現在の自分を乗り越えるため未来へ 自分を投げ出していくこと。
 人生を前向きに生きていくことということである。
・アンカジュマン=自分の選択をする以上、自分の行動には責任を負わなければ
ならない。と同時に社会の未来に対して責任を負うべきである。ー 等々である。         
次回は、新たに知ったことを要約してみる。     ヾ(^ω^*)