「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * 世間学的エポケー
 節目時は、それまでを一度、清算して、新たな世界への区切りである。その時に重要なのは、
その時に感じたことを優先すべしというのは、現在の私に言えること。その意味で、毎日、書き続けている、
このブログは、大きな役割を果たしている。だから、世間という幻想、幻覚に迷いそうな、いや、迷っている
自分を見つめ続け、世間学的エポケーの立場を守らないと、その節目が薄れてしまう。ーその辺りからー
≪ エポケーというのは、E・フッサール現象学の用語である。エボケー{現象学的判断伴止}とは、
自分がそれまでとらわれていた主観/客観という世界認識の方法の自明性を、いったんカッコに入れるという、
世界像の判断停止のことである。これにならっていえば、自分がこれまで自明であたり前だと思っていること
の一切を、デカルトのように徹底的に疑い、すべてをいったんカッコに入れる。
 〜フッサール現象学的判断停止について、哲学者M・メルロー・ポンティが、次のように説明している。
< われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、このことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する
 運動を中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フナサールがしばしば
語りているように、この運勤に参与しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に
置くことである。それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて―それどころか逆に、
これらの確信こそが哲学の恒常的なテーマなのだ― むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として
〈自明なものになっており〉、それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それら
を喚起しそれとして出現させるためには、われわれはそれらを一時さし控えねばならないこそそうするのである。>
 そのさいに重要になるのが、「内在」という現象学の方法である。それによれば、自分の判断の根拠を、自分の
「感じ」だけに置く。いいかえれば、たいていのものは「可疑的」、つまり疑いうるが、疑いえないものがたった
ひとつあり、それが自分が「こう感じた」ということだという。 簡単にいえば、他人がいうことではなく、
「世間」の評価ではなく、自分が素直に「感じたこと」だけを信じる、ということである。思いだしてほしい。
じつは、さきほどのべたように、これが阿部さんの「世間」論の方法だったのだ。自分が「感じた」ことだけを信じ、
これに徹底的に言葉を与えてゆく。すべてのものは疑いうるが、たったひとつ、疑いえないものがある。
それが自分の「感じたこと」なのだ。≫
▼ 「大病による長期休養」や、「長期間の旅」はエポケーになる。人生には、一度、属している世界の外に出て、
 自分を見つめなおす必要性がある。外側から、内側で「感じたこと」を感じなおす必要性である。以前から、
小さな洞窟内を自己に、その前にある湾を世間に例え、その外海を社会に例えていた。自分(洞窟)と、世間
(その前に広がる砂場)と、外界を見極めて、外から、これらを見つめなおすことが必要である。所詮は、
これらは集団幻想でしかない、そのことを自覚するためにも! 
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4619, 君は1万円札を破れるか? ー6
2013年11月08日(金)
    * 内部表現とは? そして、内部表現の書き換えー①
  「内部表現」という言葉が新鮮である。目には見えない「心(脳)」「無意識」「潜在意識」ということ。 
 人は、この内部表現によって自動操縦されている。この随想日記は、「内部表現」そのもの。過去文を読むと、
 よくわかる。  ーまず内部表現を記した部分を、この本とネットから抜粋してみる。
◇ 「内部表現とは、一言でいえぱ、その人に固有の情報状態です。この世界について、自分の認識している
 情報だけを書き込んだハードディスクのようなものです。そして、情報である以上、それは書き換えが可能。
 人間の認識をなんらかの操作によって、別の認識に換えてしまうことを‘内部表現の書き換え’といいます。 
 あなたが今、現にもっている内部表現は必ず、あなた以外の他者による書き換えを受けています。」
◇「外界を視覚で認識すれば、視覚野での神経が活性化し、その結果が前頭葉で認識される。この視覚野から
 前頭菓までのすべての脳内での情報状態が内部表現である。内部表現は神経の物理レベルの情報状態のみならず、
 概念や感情など、心理レベルでの表現も含まれる。すなわち、脳内の物理レベルから心理レベルまで含めた
 すべての抽象度における外界の表現が内部表現である。自分自身の表現や自己の記憶、内省的な自我、
 さらには現在時の自分の思考状能や会話、言語の認識状能も内部表現の一部である。内部表現は常に外界と
 情報をやり取りしながらリアルタイムに情報状能が更新されているため、その動きは非常にダイナミックだ。
 脳内にある自分自身を含めたあらゆる抽象度における世界のモデルが内部表現。ただ、内部表現内のそれぞれの
 情報状態は、巨大な相互関係のネットワークを構築し、それが常にリアルタイムでダイナミックに更新されて
 いるので、実際にそれを我々が記述することができるか否かは別問題である。」
◇「内部表現は、進化のレベルに従って複雑になつてきている。これは脳が進化している結果である。
 人間においては、内部表現という外界のモデルとして脳内で表象される世界が、物理的な現実世界だけではなく、
 映画や小説の仮想世界にも持てるのが特徴的。例えば、言語で表せられた世界は、物理的な現実世界ではない。
 それでも小説で描かれる世界を整合性をもって、臨場感を感じて認識することができる。
 これは小説の仮想的な世界を、内部表現として脳内で表象できるからだ。」
◇「内部表現を変える」には、①狩りのゴールを設定し、そこに向かってコンフォートゾーンを変えていく
 ー>内部表現の中で「自我」を定義している情報を選択的に書き換える。②抽象度を徹底的に高めて、
 この世界・宇宙を見つめ直すー>内部表現全体を書き換える。
 【コンフォートゾーンとは、自分がラクでいられる 範囲のことで、 人は、
 この居心地のいい環境や場所は楽なので、ここにとどまろうとする 】
▼ 高度成長期の右上がりの時代背景に、「創業者人生」を20歳時に決めた。それから私の「内部表現」の
 書き換えが始まった。と同時に、俄然、人生が面白くなってきた。大空を掴むような得体の知れない目標に
向かい、ドンキホーテのようなコミカルな人生が始まった。それが「内部表現」そのもの。事業人生を終わって、
しみじみと傷口から45年間を振り返った時、その自分が可笑しくて、独り笑いがこみ上げて大笑いをした。
人生は、結果はどうであれ、こんなものか。 笑えるだけ、まだ良い? か!
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4244, しまった!  ー3
2012年11月08日(木)    
            ー しまった! 「失敗の心理」を科学する ー ジョゼフ・T・ハリナン (著) 
   * 見ていても見えているとはかぎらない
 この年齢になって、つくづく感じるのは自分の無知。特異と思っていた自分の人生も、小さな世界に縛られた
凡庸な枠内。知っていたつもりが、何も知ってなかった厳然たる事実。それでも可能な限り考え、前向きに生きて
きたつもりだったが、振り返れば「しまった!」の連続。「見ていても見えなかった」のである。結局、地頭の
限界が、その人の程度。「知ったかぶりするな!」が、何事についての基本。知りもしないのに、知っている
つもりだったのである。そう、実験に昨夜、ビデオに録った「居酒屋放浪記」を、見たが、二度目に見たとき、
一度目は、殆ど何も見えてなかったことに思い知らされた。大部分の人が、そうだとしても、こと重要案件に
対しては、それは許されるものでない。   ーまずは、その辺り部分を抜粋してみるー
 ≪ 私たちは何かを、または誰かを見るとき、そこにあるすべてが見えていると思う。しかし実際はそうでない。
 小さなもの、背景などが目に入らないことが多い。目はカメラではない。出来事の「画」を撮りはしないし、
一度にすべては見えてない。視野の中で常に見えるのは、全体の数分の一に過ぎない。たとえば通常の視距離で
ハッキリ見えるのは、視野の四分の一に過ぎない。目はこの制約に対処するため、絶えず視野を動かし、一秒に
およそ三回の割合で動いて止まってを繰り返す。さらに動いている目に何が見えるかは、見る人によっても
変ってくる。たとえば、男と女では、気づくものが違う。男が女の財布をひったくられたのを目撃したとき、
女性はひったくられた被害者の容姿や行動に目が行きがちだが、逆に男性はひったくられた犯人の風体を覚えている。
・・・交差点では、右折か左折かをするとき、右利きの人は右折を、左利きの人は左折を選びがちである。
結果として、ある研究の報告者は、こう助言した。「店や銀行で、なるべく短い列を探すとき、まず左側を
見るべきだ」と。・・・「人は探しだすのが難しそうだと、早めに「あきらめる』ようにプログラムされている」
また、レントゲン技術者は画像に写った悪性腫瘍の9割を見落としている」というし、アメリカ国内で
10年前に調査された結果だが、四丁に一丁の割合で見逃されていた。≫
▼「自分は、見れど見えず、知っても理解できず」と、突き放すべき。 昔読んだ本を再読して、果たして、
 この本の主旨を理解していたのだろうかと疑問を持つことが多い。その時の自分の知識レベルで中途半端に
理解していたに過ぎない。 リタイアをし、過去を振り返ると「しまった!、あの時の、あれは」と、日々、
独り言を呟くことになる。その上に「手ごわい後バイアス」のフィルターがかかっていれば、独り思い込みの
世界に、それぞれが居るようなもの。 しかし、人は、失敗を恐れ、「何もしないという、より大きな失敗」を
選択してしまう。そして、これが限界と、自嘲するしかない。そして誰かに向かい「自分の人生を返してくれ!」
と、嘯くしかない。それが両親に向かったとき、自爆、無知の極みの悲劇になる。
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3879, 閑話小題
2011年11月08日(火)
   * 焼鳥屋、鳥梅
 私の幼稚園の頃の、一番初めの友達が、近くの焼き鳥屋の息子であった。幼稚園の一年間と、小学校の二年の
三年間である。ある日の午後、そこに遊びに行くと、今から思うと焼き鳥の串さしの仕込みを御父さんがしていた。
子供なりに、仕事の場には近づいてはならないことは知っていた。ところが手招きをして、その一本の焼き鳥を
差し出してくれた。 そして、食べて驚いた。その美味いこと。ガムのようで噛んでも噛んでも、噛み切れないが、
その味わいと香りは、今でも強烈な記憶として残っている。その後、成人になって長岡にUターンをしてから
1〜2度、飲みにいったことがある。 私の幼馴染は何があったか分からないが、店から引退し、姉さんと、
奥さんが店に出ていた。その店の前を二月ほど前にポタリングの帰りに通ったら、店の看板が無くなっていた。
そこで、姉さんらしき女性が、店の前で掃き掃除をしていた。 そこで、長岡の夜の博士と自認している?人に、
聞いてみたところ、「この春に閉店したが、その閉店の日に行ってきた。姉さんも高齢と不景気で止め時と
言っていた」という。それにしても、幼稚園時代の記憶の原点の一つの店が閉店とは、時代の変わり目である。
  * 11月7日になると
 毎年、11月7日になると思い出すことがある。私が27歳で初めて貸しビルを完成、その一角で養老の滝の
FCの居酒屋をオープンした日である。 まだ生々しく憶えているが、開店直後からパニック状態でオロオロし、
身体は硬直し、冷や汗が出て、茫然自失とは、あの状態である。一週間は使いものにならない廃人状態。 
後で分かったことだが、20年、30年の経歴を持っていた人でも、殆ど同じ状態になるという。 それを
聞いて安心したが、あの切なさは言語を絶している。それでも両親の創業時の姿からみれば、全く甘いもの。
実際に自分が現場で七転八倒をして、両親の苦しみの一端を知ることになる。酒飲みの酔った時の異常な振る舞い。
カウンターの内と外側の一歩の大きな差。 立場が変わった時の風景の違いを、そこで思い知った。
 数ヶ月は、朝7時から夜11時までの世界。千葉の郊外のニュータウンの真ん中で、ズブの素人が、顔色を変え
醜態を曝していた。その二年後に、隣の一角でベーカリーの立ち上げを始めたのだから、振り返って我ながら
驚いているより、呆れている。しかし商売の原点を、肌で学んでいた日々になる。 思い返せば、ジャスコも、
その次に勤めた会社も、創業のプロセスにあった。そこは究極の異常世界。 仕事の現場は、どの世界でも
厳しさは同じ。創業は、捨て身で全てのエネルギーを叩き込まなければ、一つの生命としての事業は生まれない。 
振り返ってみると「人生は、良いことが51に、悪いことが49」ということか。その辺の輩が一現象だけ
をみて分かったようなことを言うが、一つの現象の背景には、多くの血と汗が隠されている。馬鹿さもだが。
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3514, ペットロス ー2
2010年11月08日(月)
 インコの死で、何か家の中がシーンとしてしまった。 僅か一年だったが、存在感のあったインコだった。
呼びかけた言葉を憶えてしまい、居間のガラス戸越しに、その言葉で必死に呼びかけてきたからである。
今までにない経験である。ここで、ペットロス症候群というウツ病を知った。ペットの死で幼い子供の死と
同じぐらいのショックを受け、立ち直れなくなる欝症。先日、私のブログでペットの死を知った友人が
「飼い犬の死に際の逸話」を聞かせてくれた。「15年間飼っていた犬が、あと一日で死ぬときに、県外にいる
三人の子供全員が別れのため帰省してきた。ところが友人は私と酒を飲んでいて午前様になってしまったが、
犬は帰ってくるのを待っていたかのように本人が頬ずりをした直後に息を引き取った」という。うちのインコが
長男が知らせを聞いて駆けつけてきて撫ぜてもらった直後に死んだのも偶然だけではないと思っていたので、
丁度よい内容であった。 動物も、人間と同じようなことがあるのかどうか。休日だったこともあり死に際に
立ち会えたが、ペットが一日かけて死んでいく姿も人間のようであった。何度も危篤になるが、頭を摩りながら
呼びかけるとハッと我に返る。そして時々、餌場から下に堕ちてしまい、力を振り絞って金網を登ってくるが、 
その都度、衰弱してくる。しかし目は虚ろになりたっているのも難儀になり、蹲ってしまう。呼吸が苦しくなり
ヒューヒューという息遣いが聞こえてくる。そして、時々大きな深呼吸をする。意識が遠くなるが、その都度、
何かを待っているように戻ってくる。最後は、長男が喉を摩っている中、ドッサと下に落ち、息絶えてしまった。
長男も、家内も、涙を流していたようだ。ところでペットは何故、あれだけ人をひきつけられのだろうか。 
それは彼らが無条件でなついてくれるから、人間の方も無条件で受け入れるのである。それが愛情の原点である。 
愛情とは無条件だからである。人間は子供の頃は無条件だが、時間とともに自立していくほど薄れていく。 
しかしペットは、何時までも無条件で愛情を求めてくるため、人間も何時までも愛情を無条件で与えることができる。
したがって幼くして亡くなった子供の悲しみとペットロスの悲しみは酷似するほど深くなる。 特に子供たちが
結婚などで巣立っていった中高年の家庭では、ペットは実際の子供と同じように愛情をもたらしてくれる。
それだけ、悲しみも深くなるものである。それが犬や猫を10数年も飼っていれば・・・
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3139, 「法則」のトリセツ −4
2009年11月08日(日) 
* フット・イン・ザ・ドア・テクニック
    ー小さなウソの積み重ねー
 OKしやすいことからはじめて、そのOKしてもらった内容を少し変えていきながらクロージングする方法。
よくあるのが「お試し」。「どうぞ、ちょっと試しに着てみてください」と言われて試着すると、あの手この手の
ほめ言葉でいろいろと買わされてしまう。 アメリカの心理学者スティンプソンたちが行った実験で、女子大生
たちに環境に関する。 アンケートを実施し、それに回答した者に、さらに難題を要請するというものがある。
最初の依頼、「環境問題に関する10の質問に答えてください。」
第2の依頼、最初の依頼にOKしてくれた女子大生を対象に、「環境浄化に協力をして下さい。
 指定の場所 (大学から数マイルはなれている)に、苗木を植えてもらたいのですが、お願い出来ますか?」
いきなり、2番目の依頼をすると半数以上の人が拒否をしたにも関わらず、このステップを踏むと、承諾率は
80%近いところまで跳ね上がった。 このテクニックは、通販広告(ダイレクトレスポンス広告)で良く
利用されている。サンプル無料提供、モニター募集、などである気軽に試乗してください。 よろしかったら
一度試着しませんか、というセールストークもこの原理を利用している。1番目の依頼と2番目の依頼のバランスが
ポイントである。この2つの間にあまり大きな開きがあってはいけない。 この心理を応用した説得の方法を言う。
――
こういう手口は、過去経験の中で、幾らでも転がっている。その事例を幾つか。騙す本人も知らないで?
使っているケースが多々ある。そう解釈したい。もしかしたら、成り行きで自分も? 動機の問題もあるが・・・
 * ゼネコンが受注する時が、ほぼ、この手段を使う。完成品を買うわけではない。 素人の隙の部分をねらう。
   要は、追加工事である。ダムとか道路工事の計画もしかり。出来っこない計画で着工させ、初期工事の途中で
   到底無理と分かっても誰も指摘をしない。
 * 倒産間際の資金繰りに窮して身内や知人からウソを積み重ねて借金。初めは小さなウソの積み重ねも、
   積もり積もると立派な詐欺行為。刑事事件にならない際のウソの繰り返しは見ていて人間観が変わるほど。
   まずは自分の創作した物語に自分自身が酔ってしまう。そうでもしないと、他人を引き込めない。
   倒産劇からの親戚を巻き込んだ借金話のもつれほど、ストレスなものはない。 
   他人を騙す場合、まずは一番の身近から始める。 これを知っておくと知らないとでは大きな違いになる。
   もう一つ最近にもあった。生生しいから書けないが・・・、 倒産は人間の本性を露出させる。
 * 「まあ、私を信じて下さい!」が殺し文句の男がいる。 この人、ウソを重ねている自覚がない?から罪深い。
   すべて、いざとなると、この言葉で煙をまく。それも何度、騙されても、つい信じさせる技の蓄積がある。
 * ネット上のマッチポンプも、居る。 何年も続ければ立派な『犯罪行為』。  
 ・・・・・・・
2774, 仮説思考 −1
2008年11月08日(土)
  「仮説思考」 内田和成 著         −東洋経済新報社
 実のところ、これを読んでショックであった。 私の場合、仮説を多用してきたが、ある課題があると、
問題点を幾つか探して、対案を幾つか考える。その対案を仮説と思っていた。しかし、早い段階の「仮の答え」を
仮説というから、驚いた。リーマンの倒産直後に、大恐慌が始ったと書いた。 その時は、違うかもしれないが、
8割方は間違いないと。確信はあったが、それでも半信半疑で、そう書いてしまった。 
ところが、その視点で現象を見据えると、明らかに恐慌であり、その後の経過から現在は多くの人が、
そのトバグチに立っていると信じている。「あと一週間で死ぬとしたら何をしますか?」という問いかけも
分かりやすい仮設である。そうすることで、現在の「いまここ」の重要性に気づくことになる。
間違いなく恐慌と確信したら、現在すべきことは全く違ってくる。「まずは結論から言いなさい。そして、
その結論に至った理由を三つ分かりやすく説明しなさい」と、よく言う。それを思考に使うということだから
世界のコンサルトは違うものだ。この本は必見に値する。 勘の鋭い人は、この文章だけで充分だが。
  ーまずは、この概要をまとめてみた。ー
 仮説思考とは何なのかというと、 情報収集の途中や分析作業以前に持つ「仮の答え」のことである。
『情報の少ない早い段階で結論を出し(仮説)、問題解決の筋道を大体決めてしまえ』というアプローチをいう。
・問題の課題の洗い出しをし 
・課題を発見したときも原因の追求をする、
・そして解決策を考える。
 この3つのプロセスにおいて事前に仮説を構造化していれば、漏れなく、早く、本質を当てることができる。
 大切なことは仮説を立て、仮説を構造化することである。 仮説を構造化するために  So What?を使用する、
 訓練を行うために "Why?を5回繰り返す" などがある。  (字数制限のためカット11年11月8日)
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2007年11月08日(木)
2410, 「あたりまえ」ということ
 金子みすず の「不思議」という素晴らしい詩がある。
*不思議
 (字数制限のためカット10年11月8日)
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2006年11月08日(水)
2045, あたりまえなことばかり −2
   「 あたりまえなことばかり」 池田晶子著  ー 読書日記    (。^0^。)オッハ〜        
 この本の面白そうな項目から取りあげてみると「考えるとはどういうことか」になる。
「考える」とは、実際のところなんだろうか? 言葉の羅列?それとも、思いつき?、
  (字数制限のためカット09年11月8日)
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 2005年11月08日(火)
1680, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−4
   ー「メタモルフォーゼ」ー ?
     <意識の変容>
 一万年続いていた農耕社会の重心が、工業化社会から情報化社会に移動しようとしている現在、
猟社会の本能が再び目覚めようとしている?のか。  ≪字数の関係でカット2011年11月8日≫