ー世の中それほど不公平じゃないー浅田次郎
  * うつ病は、まず睡眠コントロールから
 ひき続いて‘うつ病’の悩みについて。
人間には、躁鬱症と、分裂症と癲癇症など、精神に異常をきたす病がある。
以前は、うつ病はノイローゼと軽くみられていたが、今では立派な病気。
大方の人は、若い時分に一度は通った経験を持つ。この穴倉の深さ、複雑さは
各自違うが、一度落ち込むと這いあがるに膨大なエネルギーを要する。
  ● 相談: うつ璃を治したい
《 私はうつ病です。仕事も満足にできず、アルバイト生活です。
バイト先で変なヤツに見られ針のむしろ状態。病気のため作業能率も上がらず、
バカにされたり嫌がらせを受けたりしています。昔からやつていたマンガ般稿
(原作)に夢を見出し送ったものの、御社の某編集部からは「返信する」と
言われたきり。待てど暮らせど連絡がありません 》
  ● 回答: 
・次郎: よく杜会のオヤジ連中は、うつ病は気のせいだとか、根性がどうとか
 言ってるけど、これはもうれっとした病気ですから、まずは治療に専念する
こと。確かに治療だけで良くなるわけないけど、心臓が悪いとか胃が悪いとか、
それと同じことなんだから。僕もうつ病だった時期がありますよ。青春時代には
誰でも1〜2はあるんじゃないか。多かれ少なかれ。これね、住まいを変えるとか、
場を変えるとか、環境を劇的に変えるというのは効果があります。それから、
精神疾患というのは、どんな種類のものでも初期段階で睡眠障害が伴います。
だから、その症候が見えたら睡眠をコントロールするのが一番の予防らしい。
今は睡眠薬もいいのがたくさんあるから、ちゃんとした精神科医にかかれば
きちんと処方してくれるはずだ。 君、丈夫か?
・太朗: 今のところは大丈夫です。 
・次郎: 編集者は多いからな。知人の精神科医も編集者に会うのが怖いってたよ。
 「患者に会ってるみたいだ」って。
・太朗: 先生、あまり笑えません。
・次郎: あ、もうひとつあったよ、うつ病の特効薬。あなたは年齢制限で無理
 だけど、若い人だったら軍隊に入れて治る。毎日、眠れないなんて言って
 られないもの。2年くらい入院するつもりで自衛隊に……。
・太朗: 自衛隊の何がいいのですか。
・次郎: ひとりを伸ばすんじゃなくて、落ちこぼれをつくらないようにする
 教育だから。東大に何人、入れたという学校教育とは根本的に違う。
 兵隊に落第ない。あったら誰かが死ぬんだもの。だから、そのうち有無を
 言わさず心身ともに鍛えられてくる。》
▼ 空襲で逃げ惑って時代にノイローゼは存在しないという。生きることに
 精一杯になるからだ。私の経験からして、目先の究極の問題に取組んでいる
時に、悩みなど言っていられない。5年近く前も、内面も含め、目先に生じる
問題を、一日一日、処理するのに手一杯。「ああ、こんな経験は滅多にない!」
と、面白く?さえあった。(咽喉すぎればだが) 『正中心一点無』で、
問題から目を背けないで、凝視し続ければ、後は時間薬が解決する。それと、
長年かけた趣味を作っておくことだが、それが無いからウツになるから、
答えとしては矛盾するか。潜在意識は幼児みたいなもの。その幼児が、大の
大人の顕在意識を揺するのが躁鬱である。だから、幼児を、まず宥めないと。
その為には、充分、睡眠をとらせ、不自由な姿勢を正し、愛情を注ぎ、笑い
かけてやれば良い。幼児は親の気持ちに微妙に反応する。親本人が、まず
睡眠をとり、自由の時間を持ち、自分に愛情を注ぎ、腹の底から笑えば、
心の奥の幼児にも届く。これ、習慣化しようと思えば、出来るから不思議!
・・・・・・
4986,暴走する世間 −3
2014年11月08日(土)
      「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * 世間学的エポケー
 節目時は、それまでを一度、清算して、新たな世界への区切りである。
その時に重要なのは、その時に感じたことを優先すべしというのは、現在の
私に言えること。その意味で、毎日、書き続けている、このブログは、大きな
役割を果たしている。だから、世間という幻想、幻覚に迷いそうな、いや、
迷っている自分を見つめ続け、世間学的エポケーの立場を守らないと、
その節目が薄れてしまう。 ーその辺りからー
≪ エポケーというのは、E・フッサール現象学の用語である。
 エボケー{現象学的判断伴止}とは、自分がそれまでとらわれていた
主観/客観という世界認識の方法の自明性を、いったんカッコに入れるという、
世界像の判断停止のことである。これにならっていえば、自分がこれまで
自明であたり前だと思っていることの一切を、デカルトのように徹底的に疑い、
すべてをいったんカッコに入れる。 〜フッサール現象学的判断停止
について、哲学者M・メルロー・ポンティが、次のように説明している。
< われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、このことに気づく唯一の
 方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいは
この運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フナサールがしばしば語って
いるように、この運勤に参与しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、
この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度のもっている
諸確信を放棄することではなくて―それどころか逆に、これらの確信こそが
哲学の恒常的なテーマなのだ― むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟
の前提として〈自明なものになっており〉、それと気づかれないで通用している
からこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させる
ために、われわれはそれらを一時さし控えねばならないこそそうするのである。>
 そのさいに重要になるのが、「内在」という現象学の方法である。
それによれば、自分の判断の根拠を、自分の「感じ」だけに置く。
いいかえれば、たいていのものは「可疑的」、つまり疑いうるが、疑いえない
ものがたったひとつあり、それが自分が「こう感じた」ということだという。 
簡単にいえば、他人がいうことではなく、「世間」の評価ではなく、自分が
素直に「感じたこと」だけを信じる、ということである。思いだしてほしい。
じつは、さきほどのべたように、これが阿部さんの「世間」論の方法だった。
自分が「感じた」ことだけを信じ、これに徹底的に言葉を与えてゆく。
すべてのものは疑いうるが、たったひとつ、疑いえないものがある。
それが自分の「感じたこと」なのだ。≫
▼「大病による長期休養」や、「長期間の旅」はエポケーになる。人
生には、一度、属している世界の外に出て、自分を見つめなおす必要性がある。
外側から、内側で「感じたこと」を感じなおす必要性である。以前から、
小さな洞窟内を自己に、その前にある湾を世間に例え、その外海を社会に
例えていた。自分(洞窟)と、世間(その前に広がる砂場)と、外界を見極めて、
外から、これらを見つめなおすことが必要である。所詮は、これらは集団幻想で
しかない、そのことを自覚するためにも! 
・・・・・・
4619, 君は1万円札を破れるか? ー6
2013年11月08日(金)
    * 内部表現とは? そして、内部表現の書き換えー①
「内部表現」という言葉が新鮮である。目には見えない「心(脳)」「無意識」
「潜在意識」ということ。人は、この内部表現によって自動操縦されている。
この随想日記は、「内部表現」そのもの。過去文を読むと、よくわかる。 
ーまず内部表現を記した部分を、この本とネットから抜粋してみる。
◇ 「内部表現とは、一言でいえぱ、その人に固有の情報状態です。
 この世界について、自分の認識している情報だけを書き込んだハードディスク
のようなものです。そして、情報である以上、それは書き換えが可能。
人間の認識をなんらかの操作によって、別の認識に換えてしまうことを
‘内部表現の書き換え’といいます。あなたが今、現にもっている内部表現は
必ず、あなた以外の他者による書き換えを受けています。」
◇「外界を視覚で認識すれば、視覚野での神経が活性化し、その結果が前頭葉
 で認識される。この視覚野から前頭菓までのすべての脳内での情報状態が内部
表現である。内部表現は神経の物理レベルの情報状態のみならず、概念や感情
など、心理レベルでの表現も含まれる。すなわち、脳内の物理レベルから心理
レベルまで含めたすべての抽象度における外界の表現が内部表現である。
自分自身の表現や自己の記憶、内省的な自我、さらには現在時の自分の思考状能
や会話、言語の認識状能も内部表現の一部である。内部表現は常に外界と情報を
やり取りしながらリアルタイムに情報状能が更新されているため、その動きは
非常にダイナミック。 脳内にある自分自身を含めたあらゆる抽象度における
世界のモデルが内部表現。ただ、内部表現内のそれぞれの情報状態は、巨大な
相互関係のネットワークを構築し、それが常にリアルタイムでダイナミックに
更新されているので、実際にそれを我々が記述することができるか否かは別問題」
◇「内部表現は、進化のレベルに従って複雑になつてきている。これは脳が進化
 している結果。 人間においては、内部表現という外界のモデルとして脳内で
表象される世界が、物理的な現実世界だけではなく、映画や小説の仮想世界にも
持てるのが特徴的。例えば、言語で表せられた世界は、物理的な現実世界ではない。
 それでも小説で描かれる世界を整合性をもって、臨場感を感じて認識すること
ができる。これは小説の仮想的な世界を、内部表現として脳内で表象できるから」
◇「内部表現を変える」には、①狩りのゴールを設定し、そこに向かって
 コンフォートゾーンを変えていくー>内部表現の中で「自我」を定義している
 情報を選択的に書き換える。
②抽象度を徹底的に高めて、この世界・宇宙を見つめ直すー>
 内部表現全体を書き換える。
【コンフォートゾーンとは、自分がラクでいられる 範囲のことで、 人は、
 この居心地のいい環境や場所は楽なので、ここにとどまろうとする 】
▼ 高度成長期の右上がりの時代背景に、「創業者人生」を20歳時に決めた。
 それから私の「内部表現」の書き換えが始まった。と同時に、俄然、人生が
面白くなってきた。大空を掴むような得体の知れない目標に向かい、ドンキ
ホーテのようなコミカルな人生が始まった。それが「内部表現」そのもの。
事業人生を終わって、しみじみと傷口から45年間を振り返った時、その自分が
可笑しくて、独り笑いがこみ上げて大笑いをした。人生は、結果はどうであれ、
こんなものか。 笑えるだけ、まだ良い? か!
・・・・・
4244, しまった!  ー3
2012年11月08日(木)    
  ー しまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン(著) 
   * 見ていても見えているとはかぎらない
 この年齢になって、つくづく感じるのは自分の無知。特異と思っていた
自分の人生も、小さな世界に縛られた凡庸な枠内。知っていたつもりが、
何も知ってなかった厳然たる事実。それでも可能な限り考え、前向きに生きて
きたつもりだったが、振り返れば「しまった!」の連続。
「見ていても見えなかった」のである。結局、地頭の限界が、その人の程度。
「知ったかぶりするな!」が、何事についての基本。知りもしないのに、
知っているつもりだったのである。そう、実験に昨夜、ビデオに録った
「居酒屋放浪記」を、見たが、二度目に見たとき、一度目は、殆ど何も見えて
なかったことに思い知らされた。大部分の人が、そうだとしても、こと重要
案件に対しては、それは許されるものでない。  
   ーまずは、その辺り部分を抜粋してみるー
≪ 私たちは何かを、または誰かを見るとき、そこにあるすべてが見えて
 いると思う。しかし実際はそうでない。小さなもの、背景などが目に入らない
ことが多い。目はカメラではない。出来事の「画」を撮りはしないし、一度に
すべては見えてない。視野の中で常に見えるのは、全体の数分の一に過ぎない。
たとえば通常の視距離でハッキリ見えるのは、視野の四分の一に過ぎない。
目はこの制約に対処するため、絶えず視野を動かし、一秒におよそ三回の割合
で動いて止まってを繰り返す。さらに動いている目に何が見えるかは、見る人
によっても変ってくる。たとえば、男と女では、気づくものが違う。
男が女の財布をひったくられたのを目撃したとき、女性はひったくられた
被害者の容姿や行動に目が行きがちだが、逆に男性はひったくられた犯人の
風体を覚えている。 ・・交差点では、右折か左折かをするとき、右利きの人
は右折を、左利きの人は左折を選びがちである。結果として、ある研究の
報告者は、こう助言した。「店や銀行で、なるべく短い列を探すとき、
まず左側を見るべきだ」と。・・・「人は探しだすのが難しそうだと、
早めに「あきらめる』ようにプログラムされている」また、レントゲン技術者
は画像に写った悪性腫瘍の9割を見落としている」というし、アメリカ国内で
10年前に調査された結果だが、四丁に一丁の割合で見逃されていた。≫
▼「自分は、見れど見えず、知っても理解できず」と、突き放すべき。 
 昔読んだ本を再読して、果たして、この本の主旨を理解していたのだろうかと
疑問を持つことが多い。その時の自分の知識レベルで中途半端に理解していた
に過ぎない。 リタイアをし、過去を振り返ると「しまった!、あの時の、
あれは」と、日々、独り言を呟くことになる。その上に「手ごわい後バイアス」
のフィルターがかかっていれば、独り思い込みの世界に、それぞれが居るような。 
しかし、人は、失敗を恐れ、「何もしないという、より大きな失敗」を選択して
しまう。そして、これが限界と、自嘲するしかない。そして誰かに向かい
「自分の人生を返してくれ!」と、嘯くしかない。それが両親に向かったとき、
自爆、無知の極みの悲劇になる。
・・・・・・
3879, 閑話小題
2011年11月08日(火)
   * 焼鳥屋、鳥梅
 私の幼稚園の頃の、一番初めの友達が、近くの焼き鳥屋の息子であった。
幼稚園の一年間と、小学校の二年の三年間。ある日の午後、そこに遊びに
行くと、今から思うと焼き鳥の串さしの仕込みを御父さんがしていた。
子供なりに、仕事の場には近づいてはならないことは知っていた。
ところが手招きをして、その一本の焼き鳥を差し出してくれた。そして、
食べて驚いた。その美味いこと。ガムのようで噛んでも噛んでも、噛み切れ
ないが、その味わいと香りは、今でも強烈な記憶として残っている。その後、
成人になって長岡にUターンをしてから1〜2度、飲みにいったことがある。 
私の幼馴染は何があったか分からないが、店から引退し、姉さんと、奥さんが
店に出ていた。その店の前を二月ほど前にポタリングの帰りに通ったら、
店の看板が無くなっていた。そこで、姉さんらしき女性が、店の前で掃き
掃除をしていた。 そこで、長岡の夜の博士と自認している?人に、聞いて
みたところ、「この春に閉店したが、その閉店の日に行ってきた。
姉さんも高齢と不景気で止め時と言っていた」という。それにしても、
幼稚園時代の記憶の原点の一つの店が閉店とは、時代の変わり目である。
   * 11月7日になると
 毎年、11月7日になると思い出すことがある。私が27歳で初めて
貸しビルを完成、その一角で養老の滝のFCの居酒屋をオープンした日である。 
まだ生々しく憶えているが、開店直後からパニック状態でオロオロし、身体は
硬直し、冷や汗が出て、茫然自失とは、あの状態である。一週間は使いものに
ならない廃人状態。 後で分かったことだが、20年、30年の経歴を持って
いた人でも、殆ど同じ状態になるという。 それを聞いて安心したが、
あの切なさは言語を絶している。それでも両親の創業時の姿からみれば、
全く甘いもの。実際に自分が現場で七転八倒をして、両親の苦しみの一端を
知ることになる。酒飲みの酔った時の異常な振る舞い。カウンターの内と外側
の一歩の大きな差。立場が変わった時の風景の違いを、そこで思い知った。 
数ヶ月は、朝7時から夜11時までの世界。千葉の郊外のニュータウン
真ん中で、ズブの素人が、顔色を変え醜態を曝していた。その二年後に、
隣の一角でベーカリーの立ち上げを始めたのだから、振り返って我ながら
驚いているより、呆れている。しかし商売の原点を、肌で学んでいた日々。 
思い返せば、ジャスコも、その次に勤めた会社も、創業のプロセスにあった。
そこは究極の異常世界。 仕事の現場は、どの世界でも厳しさは同じ。
創業は、捨て身で全てのエネルギーを叩き込まなければ、一つの生命としての
事業は生まれない。振り返えると「人生は、良いこと51に、悪いこと49」
ということか。その辺の輩が一現象だけをみて分かったようなことを言うが、
一つの現象の背景には、多くの血と汗が隠されている。馬鹿さもだが。
・・・・・
3514, ペットロス ー2
2010年11月08日(月)
 インコの死で、何か家の中がシーンとしてしまった。僅か一年だったが、
存在感のあったインコだった。呼びかけた言葉を憶えてしまい、居間のガラス
戸越しに、その言葉で必死に呼びかけてきたからである。今までにない経験。
ここで、ペットロス症候群というウツ病を知った。ペットの死で幼い子供の死
と同じぐらいのショックを受け、立ち直れなくなる欝症。
先日、私のブログでペットの死を知った友人が「飼い犬の死に際の逸話」
を聞かせてくれた。「15年間飼っていた犬が、あと一日で死ぬときに、
県外にいる三人の子供全員が別れのため帰省してきた。ところが友人は私と
酒を飲んでいて午前様になってしまったが、犬は帰ってくるのを待っていた
かのように本人が頬ずりをした直後に息を引き取った」という。
うちのインコが長男が知らせを聞いて駆けつけてきて撫ぜてもらった直後に
死んだのも偶然だけではないと思っていたので、丁度よい内容であった。 
動物も、人間と同じようなことがあるのかどうか。休日だったこともあり
死に際に立ち会えたが、ペットが一日かけて死んでいく姿も人間のよう。
何度も危篤になるが、頭を摩りながら呼びかけるとハッと我に返る。
そして時々、餌場から下に堕ちてしまい、力を振り絞って金網を登ってくるが、 
その都度、衰弱してくる。しかし目は虚ろになりたっているのも難儀になり、
蹲ってしまう。呼吸が苦しくなりヒューヒューという息遣いが聞こえてくる。
そして、時々大きな深呼吸をする。意識が遠くなるが、その都度、何かを
待っているように戻ってくる。最後は、長男が喉を摩っている中、ドッサと
下に落ち、息絶えてしまった。長男も、家内も、涙を流していた。
ところでペットは何故、あれだけ人をひきつけられのだろうか。それは彼らが
無条件でなついてくれるから、人間の方も無条件で受け入れるのである。
それが愛情の原点である。愛情とは無条件だからである。人間は子供の頃は
無条件だが、時間とともに自立していくほど薄れていく。しかしペットは、
何時までも無条件で愛情を求めてくるため、人間も何時までも愛情を無条件で
与えることができる。したがって幼くして亡くなった子供の悲しみとペット
ロスの悲しみは酷似するほど深くなる。 特に子供たちが結婚などで巣立って
いった中高年の家庭では、ペットは実際の子供のように愛情をもたらしてくれる。
それだけ、悲しみも深くなるもの。それが犬や猫を10数年も飼っていれば・・・