「ことばの顔」ー鷲田清一    中公新社
   被膜に隔てられてー ミッシェル・セールの哲学
     ーもし君が身を救いたいと思うのなら、君の皮膚を危険にさらしなさいー

  何気なく読んでいたら、鋭い指摘に目を凝らしてしまった。
   ーその一部をまとめてみるー
 私たちは傷つくことを深く恐れているらしい。いつも被膜越しに、防禦壁ごしにものに、出来事に関わろうとする。
 関心がないわけではない。強く惹かれるけれど、それにふれて、ぶれてしまうことを恐れるのだ。 
 そう、火遊びをこわがるのだ。 とりかえしのきかない痕跡が残ることを怖がるのだ。
 TV、ビデオをまるでマジックミラーをのぞくかのように、まるで透明人間のように、
 他人のプライベートな空間に入って行きたいと思う。
 あるいは殺人事件の現場、他人のセックスを身近でみたいと思う。自分がその場に身体をもつことなく。
 ・ホラーや怪奇のビデオは今も人気がある。 バラエティ・ショーも、この場合は、自分も実は観たいし
  参加したいが、画像を通せば簡単に参加した気分になれる。
 ・TV、インターネット、携帯電話、など全てが皮膜を通している。
 ・透明ラップ ー> スーパーの魚や肉も同じである。 調理済みにしてパックされている。
 私たちは、自分の皮膚をさらさない、避難所に立てこもったままで、しかし他者に、異物に関わりあいたいと願う。 
 いや、現代ではその被膜こそが、唯一の対象なのかもしれない。
 物ではなくて媒体そのものが最初の、異物と思われない異物なのかもしれない。
 そうすると、他人でも物でもなく、媒体という遮蔽膜が私の環境になっているかもしれない。
  セールは、(内部)を皮膚という表層の効果としてとらえた人だ。皮膚と皮膚とが接触するところに
〈魂〉が生まれると考えた。 唇を噛みしめる、額に手を当てる、手を合わせる、括約筋を締める、
 そうすると〈魂〉が生まれる、と。 そう〈魂〉をさらしたゲームの中で、ひとはじぶんの存在に触れる。
 そう、傷の中で、時間がなにかのきっかけで思い出したように疼かせるあの傷の中で、そう、負った傷だけ、
 たしかに〈わたし〉は存在する。少なくとも。
 「美には傷以外の起源はない」。そういったのはジャン・ジュネである。
  ーー
 以上だが、中高年になって人生を振り返ると、この言葉の深さが思い知らされる。
 最近になって、傷の痛みが深く疼く。忘れていた嫌な記憶がフラッシュのように蘇る。
 しかし、その痛みの分だけ〈わたし〉は存在してきたのである。〈魂〉をさらした分だけ、自分は生きてきた。
 そして、その痛みに疼くこと、それが生きていることになる。
 情報機器で私たちは何時の間にか囲まれてしまい、我が身を危険にさらすことが少なくなっている。
 それが、自分自身の真の危機であることをしらないで・・・そういう私も年齢を重ねるごとに皮膜が厚くなる。
 それが老いるということなのだろうか? この恐慌で世界中が情報機器の便利さも重なり、内籠り傾向に
 なってきた。 それが実は恐ろしいことである。 充分に皮膚をさらした後なら、まだ良いが。
 中年クライシスや、初老性鬱病は、その過剰や過小を起因する。 
  充分すぎるぐらい曝してきたか? こんなものか? 傷の疼きに聞いてみよう!

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