当時、雲屯庵に若い僧侶がいた。 外見は茫洋としているが、この男がなかなかの博識で、俗にいう玉。
 最近調べたら新井の姓になっていたので新井石龍禅師の養子になったか?、名前だけ継いだのか?
 この人の異世界の話しが面白い。 もう40年も前の話だがよく憶えている。
《 数年前に社会勉強と修行のために二年間ある工場に入った。 そこで僧侶の感覚で、朝6時に出社。
 他の人が出社する前に徹底的に掃除をした。 9時出社なら、三時間も前に来て働いているのだから、
 上司に直ぐに認められ、一〜二年もしないうちに、工場のトップクラスに登りつめてしまった。
 別に、必死に働いたのではない、ただ僧侶の感覚で仕事をしただけ 》
 この一言は当時、勤めたばかりで身体も精神も出来てない‘柔’の私にとって、激務で疲れ果て憔悴していた私にとって、
 ショックであった。何時の間にか、周りの勤め人に感化されていたのである。彼の一言一言が鋭いナイフのようであった。
   また、その時に寺社会の底知れぬ昔からの風習を聞かされた。 
 その世界は裏表がハッキリしていて、チャンと「何?の方の世界」はシステム(風習)としてあるという。
 もし若い庵女なら、隠れ旦那の風習があり、通い婚のシステムになっている。
 そういえば「午前様には過去に何度か女性で失敗、本来は本山のトップになれる経歴と能力が十分にあったが、
 それが原因で、この寺で終った人物」と私の父親から聞いていた。 この歳になっても、少し綺麗な女性が身辺に来ると
 直ぐに手をつける?」等々、なかなか面白い話題で満ちていた。 更には、預金通帳には?千万(現在なら?億)あり、
 非常に裕福であるとか・・云々。 今でも??は度々、訪ねて来るが、品が良く、綺麗な人。
 問題になるから、この位にしておくが、40年も以前のことだとしても人間の俗社会と大して変わらない。
 名寺で京大印度哲学科出の午前様なら、昔なら御殿様クラスの存在なのだろう。
  ーー
 ー9月01日 1969年
その夜、休暇で日本に帰ってきていた慶応を出て、ハーバード大のビジネス・スクールの学生がいた。 
彼と高橋さんと、そこの雲水と話をする。ところが、その雲水が博学で、高橋さんと私はダンマリ。
ハーバードと雲水の議論に全くついていけないのだ。どうしたのだろう? 禅師に昼間真っ二つに甘さを指摘され、
夜は夜で二人の議論についていけない自分が、そこにいるのだ。 何だろう、何だろう、何だろう!
実践としてスーパーに入ったが、何にもできない中途半端な自分がいる。
実際のところ濁流の中で、もう水を飲んでアップアップしているだけの自分が、神戸の垂水に一人呆然としているだけだ。
どうしたのだ、どうしたのだ。 適当に真面目に考えることもないが。
 2005年 ー1月14日記ー
 ーこの時のショックは計り知れないものがあった。身近で、これだけの知的水準の高い、同年代のハーバード大学の人と
接したのは初めて。 会話さえついていけないのだ。 一言一言の言葉が宇宙語のようであった。
その逆の環境の真っ只中にいたから、その段差がなおのことあったのだろう。
「学生時代に自分は何をしてきたのだろう?」という、疑問を持ったまま卒業をしたこともあり、
「いま一度一人になって知識の再構築したい」という気持ちが芽生えたキッカケになった。
司法試験受験をしていた高橋さんが三条市で弁護士になっていると、聞いたことがある。
まだ会ってはないが、実直な無口な人であった。懐かしい日々であった。
ー09年1月16日記ー  そりゃそうだろう、中学校を出て全く無垢の僧侶が、京大哲学科の老僧の直接の
 指導で10年近く学んでいるのだから、当時の私など足元にも及ばないのは、当然のことである。
 ハーバードも、恐らくかなりのレベルの人だから本人と対等に話せたのだろう。
 今から考えてみても、その若い坊様が逸物なのである。
 近くの名寺の住職が、以前、私が開いていた会に度々来ていたが、その人物に良い印象を持ってなかった。
 「何処かで酒を飲んで大虎になり、俺は雲頓庵の??だぞ〜」と喚いていたとか云々。
 それと人物かどうかは、別のことだ。(酒癖については、身に覚えがあるので寛大か??)
 そういうショックと、卒業真近かの興奮もあって、学校や寮の人たちとも色いろあって、グチャグチャになって卒業した、
 そして、卒業後は、一日2〜3時間は本を読む習慣をつけて、現在も続けている。そして、この程度である。
 「学生時代は、徹底的にグチャグチャになると良い」と、何かの本の中で誰かが言っていた。
 それが新たな創造の前の破壊ということだ。 それにしても、小さくまとまってしまった。 
  大小もないか・・・、砂利は砂利ということだ。

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