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2006年12月22日
2089, 道教と儒教
<(_ _)><(_ _)>
おはようございます!
少し硬い一席を!
昔から中国では二つの役割を儒教と道教が果してきた。中国人は長い歴史の中で、
功なれば儒教の徒になり、失意の時や隠居の身になった時は、道教を奉じるようになる。
・儒教は、人間社会を構成していく基盤として男性原理的であり、を説き、
それぞれの分を戒め、それに忠実に従うことを求める。
・それに対し道教は、老荘の哲学が元になっている。
無為自然を基本におき、人間の色いろな規則からなる社会の掟をことごとく否定。
また儒教などを超越した世界に住むことが最上としており、女性原理に支えられる。
道教の自然主義は傷ついた心を癒す力になるが、現実からの逃避主義ともいえる。
孔子は時の権力者に都合のよい思想をつくり上げ売り込んだという見方がある。
それは自分の思想で世の中を良くしたいという一心から出たものである。
どちらかというと窮屈な悲観的イメージがついてまわる。
「自省・反省」を常に自分に課す思想といえるが、その「自省・反省」という裏には、
常に「世間的に認められる人」になりたいという意味が隠されている。
その「認められる人」は社会的に偉い人ではなく「人間としてでき上った人」の意味が強い。
これに対して、老子は孔子の世俗的なものを根本から否定する。
山の中の一軒屋に住んで仙人的な生活を良しとするイメージがついてまわる。
どうでもよいことに汲々とするな、無為自然に日々を生きよと説く。
老子の思想の中で「三宝」が説かれている。「慈」と「倹」と「先に立たず」である。
・「慈」は、万物を包容する広さ、
・「倹」は、自分の状況に応じて慎ましやかにしていられる心のゆとり、
・「先にたたず」は、名声を求めない心の落ちつきである。
これを持つためには、私利・私欲を捨てさえすれば自然の中にいるような、無心の気持ちになれると説く。
常に大宇宙のような森のように大自然であれ。人為的な差別や争いから一歩退いて水のように柔軟であれ。
名利にとらわれないで、自らを誇るな。 足るを知れ。 大自然の道に従え。 等々である。
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以上であるが、学生時代に貝塚茂樹著「諸子百家」の中の『師徒行伝』と、『老子の哲学』『荘子の立場』を読んだ。
その本が現在、手元にあるが、学生時代の感想は、孔子に対しては「権力者に尾を振る人」、
老子には「山中の田畑を耕して隠れ住む人」、荘子は「農家で晴耕雨読をする人」であった。
今でも論語に対しては、「何で自分から首輪をつけなければならないのか?」という気持ちは変わらない。
0∧ ∧
[^ェ^]
=== わん
000( ω ω ) 彡
あくまで教養の一端として把握しておけばよい、というレベルしか理解していないということ?
この思想を手っ取り早く言えば、厳しい父親と、優しい母親ということ!
得意の時は心の中で父親と酒を交わし、失意の時は母親とお茶でも飲んで社会を鳥瞰しているイメージか。
ごきげんよう さようならm(__)m
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