2006年11月22日(水)
2059, あたりまえなことばかり −13
    (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜

ここでは、深い哲学のサワリを解りやすく書いてある。我われは「観念としての死」に、今まで取り付かれてきた。
そして物理的な時間軸を生から死へと一直線の前方に向け生きてきた。
ところがそれは違うというから、面食らってしまう。「永遠として直感される瞬間とは、それ自体で生死を越えて、
生死を飲み込んで今ーこの瞬間に立ち上がる!」ということは、人生の深い経験をしてこそ実感できるのである。
経験の裏づけがないと、言葉の言い回し位としてしか理解できないだろう。 いや、鋭いのは解るか?
その瞬間の「永遠」は、死後にあるのではない、生の真っ只中に垂直に立ち上がる。
(感動、歓喜の中で)著者の池田晶子の、その瞬間が以下の文章に立ち上がっている。
仏教でいう、悟り、覚醒感がそのまま伝わってくる内容だ。
 
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*死ぬのは不幸なことなのか ー?
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死は、恐るべき避けるべき事柄と、深く思い込んでいる。
転倒した生存本能としての死の恐怖は、人生の孝、不幸を量るわかりやすい
目安とも化し、観念と現実からも判然としないまま、今も岩のように人類を縛り付けている。
死は、恐れるべきものではなく、あるいは祝福すべきこと、喜ばしきことなのかも知れない、
という可能性である。これは死は恐ろしいもの、と言う可能性と同じく、その論拠は無い。
それを恐れとして、喜びとしての「死後」を提示することで答えようとする
宗教とは哲学は違う。あくまでも、「死後」を語っているのは、生きている人だけである。

永遠として直感される瞬間とは、そのこと自体で生死を越えている。あるいは、すべての生死を飲み込んで、今である。
考える精神として、一直線に前方へと流れる物理的時間塾から垂直に立ち上がる時、人は、自分が肉体として生き死ぬ
自分でない存在であることを知る。生きているか死んでいるかが、なぜ今さら問題であり得るのだろうか。
すべては永遠に存在し、永遠に生成する。今この瞬間に直感されるそれは、したがって、「死後」ではない。死後などない。
死後は死後に存在するのではない。 生の真っ只中においてこそ、それは永遠の時間として知られるものなのである。

ギリシャ人たちが、肉体を墓場であると呼んだことの背後には、このような確信が存在している。
精神でありながら、同時に肉体である我われが、永遠の存在であると同時に死するべき存在である。
しかし、死への恐怖に衝き動かされながら、直線時間軸上をよろめきながら、歩いているという
惨めな表象が錯覚であるとしたら,逆に肉体こそ死後であろう。 したがって、肉体が死ぬと
いうことは、本来の「生」、すなわち永遠的存在への開放に他ならない。死ぬということは、精神の再びの誕生として、
祝福すべきことでなかろうか。 だからと言って、死すべき肉体を粗末に扱うということにはならない。
摂食、生殖、快楽の意味、幸福の源泉であることで不幸の源泉でもあるところの肉体を、精神がどのように扱うか、
それが肉体によるこの生を、われわれが経験していることの意味だからである。
この生で幸福になるのでなければ、どの生で幸福になることができるのだろう。

じっさい、このような言い方は可能なのだが、生きながら死んでいる、かの「永遠」を想うその時間、思考の切っ先が
幽明の境に溶け出していくような、自分が誰で何であるか、およそ知りえないことすら快いような、それはその意味で
至福の時間なのである。いや、時間ではない。形而上には時間はないのだから、「存在」と触れ合ったその刹那、
全方位に底が抜ける万象の光景というべきだ。

   今ここに(生きて)在ることの奇跡、とは、正確にはこのような自体をいうのだろう。
   死なずに生きていることが奇跡ではない。 存在が存在していること、そのなぞに驚いている自分が
   存在していること、そのことが奇跡なのだ。すなわち、謎なのだ。謎を見てしまった者にとっての幸福とは、
   何か、謎と心中することと似ているだろう。観念にすぎない死を恐れ、観念にすぎない死後を空想することの、
   不幸は、真正の形而上学を経ることで、何がしかの甘味な困惑へと変容するはずである。
   
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  身体は、生の墓場か?  はたまた、糞袋か?それとも、手、足、頭という機能付き道具? 
  考えれば、いくらでも挙げられる。割り切って、それぞれを使うべし!ということである。 
                (*^ワ^*)i バイバイ
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