2006年11月17日(金)
2054, あたりまえのことばかりー8
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪

   団塊の世代が本格的に60歳を向えようとしている。その中でサラリーマン生活を過ごしてきた人達が、
   大量に定年を向えようとしているが、彼等にとっての大問題が第二の人生である。
   常に集団社会の中で、「孤独」の確立が出来てない人が大部分である。
  「どうしてよいのか解らない」のが、本当のところだろう。 せいぜい、前の会社のOB会の集まるスナック・居酒屋とか、
   ゴルフ会とか、町内会の会に出るぐらいしか知恵が出てこない。この問題を、著者は「孤独」の意味を探りながら論じている。
    彼らこそ、群から離れて「隠棲」に入ることが、サラリーマン社会に生きてきた人ほど必要であろう。
   隠棲といっても、ブログで繋がる便利さもできているから、それほど深い寂寞感はないだろう。
   しかし、孤独は生やさしいものでないことも事実である。
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ー孤独は苦しいものなのか ー?

隠棲するということは、静かで豊かな魂のありようのために、意志的に選ばれる行為だったはずである。
それが、「引きこもり」という言い方によって、何らか心理的に問題のある
一種の症候群に目されるようになったのはなぜだろう。

    自宅や自室に引きこもって、長時間にわたって社会と全く接触を持たない若者が、30万人はいるという。
    家族とさえ打ち解けず、家族でさえその理由は解らない。 本人たちは、非常に苦しいものらしい。
    孤独を欲していて、実は孤独を欲してないのだろう。本人は人と関わりたいと思っているが、
    うまく関われない、無力感、挫折感、自己嫌悪感の泥沼の長期化、恐らくそういうことなのだろう。

一方で、携帯電話やメールなどで常に「つながって」いなければ気がすまない若者たち、彼等もやはり孤独であることを恐れている。
彼らは何ゆえに孤独を恐れているのだろうか?孤独であるということは、文字通りには独りであること、独りで自分であることである。
これは、これ以上疑いのない現事実である。それが耐えられないということが事実なら、自分であるということの、
何でそれほど耐え切れないことなのであろうか。

   自分が自分であることを自分で証明することは不可能であるか、無意味である。
   そこで彼らは、その証明のため他人や社会といった外的契機を求めることになる。
   しかし、社会や他人によって証明されたと思われるような自分は、まさにその理由によって、
   他人や社会と代替えのきくものということになる。あるいは、他人や社会によってしか、自分であることが出来ない。
   自分の何たることか自分によって証明できないという事実に変わりはない。孤独は空虚なままである。

おそらく、孤独を恐れているのは、この「空虚である」ということ。
そのような他人や社会によっての空虚は、実は当たり前のことであって、対社会的な、文字通りの「形式」にすぎないからである。 
誰の某という「姓名」、どこそこの社員という「肩書」、それ以上でないのは、当たり前のことである。
「私は誰の某である」と発語する時の「私」、その「私」は何であるか、これが、自我の向こうの自己への問いである。

    人が、自分を自我と同一とするとき、空虚であるか、絶えられないと感じるのは、
    自我というものがその本性上、世界と自分とを対立するか、別のものと捉えるための形式である。
    世界、すなわち、さまざまな人格としての他者たち、変転してやまない諸現象、
    あるいは雄大なる天地と自然、そういった世界の内実としてのすべてを、「自分ではないもの」「自分とは別もの」
    とすることによって、自分であるような自我は、したがって、「孤独である」。自分以外「何もない」。

その本性が否定的であるところの自我としてのみ居ることは、苦しいことに違いはない。内実のない自我は、
内実を得ようと世界に関わるが、しかしその関わるということが、やはり世界を否定するという仕方でしかあり得ないのである。
関わりたいが関われないという、若者たちの矛盾したありようは、自我という矛盾した存在のありようを、そのまま示している。

    自我と世界とを対立するものと捉えるのは、近代の特有の世界観である。この世界観で、自然科学は進歩を遂げたが、
    もともと目には見えない捉えがたい自己、こちらの側を探索する作業は怠られたようである。
    自分を自我として、自我をこの肉体とすることで人は納得しようとしたが、納得できない綻びが、彼方此方に生じてきている。
               バイー♪(^_^)/~~
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