2006年11月14日(火)
2051, あたりまえなことばかり −7
            才八∋ウ_〆(∀`●) 

    幸福論も、あるところまでいくと、生死の問題に深く関わることになる。
    しかし生死がわかるはずが無いことは、前に論じてきた。
    観念としての幸福を、いくら説いてもラッキョウの皮を剥くようなもの。
    といって、人生の中で「自分ほど不幸ものはいない」と、思ってしまうのが人間の性。
    不幸という観念に捉われない為にも、孝・不幸は真正面から論じてみる必要がある。
    前に読んだー「私」のための現代思想ーもそうだが、過去の知識の総点検をしているような感覚である。
    知っただけ、経験しただけ生きてきたことになる。知識として知らないことがあまりにも多すぎた! 
    これが現在の心境である。
   ーー
「あたりまえなことばかり」
?・ 幸福はどこにあるのか ー ?

我われの幸福の観念は、生死についての観念に分かちかたく結びついている。
「死後」もしくは「来世」の観念の有無で、人の幸福感は劇的に変わるのである。
人類においては、「人生を、この世に限定しないほうが長かった」。
「私」という観念が、それと等しく漠としたものであったために、彼らの幸福はもっと大きくて広い、
何か天地自然のありようといったものに近かったようだ。しかし、「科学主義的的死生観」が、
われわれの観念のほとんどを規定している現代のような時代では「私」が存在するのは一方的に前進する時間軸にごく限られる。
その限られた時間の枠内で、私はなんとか幸福にならなければならないのだから、現代人の幸福は、常に脅迫的なのだ。

   何が脅迫的といっても、「私は幸福にならなければならない」というこの観念以上に、脅迫的なものは無いだろう。
   人はなぜ幸福でなければならないのだろうか。「幸福」という観念を持つと同時に人は不幸も所有する。
   「幸福」は言語、「私」もまた言語、おそらくは、言語以前の何らかそのように、とりあえずソット添えられていた
   名札のようなものが、言語以上の何かを指示すると思い込んだ時、それらはその反対物をも指示することになった。
   したがって「人は思うことによって幸福にも不幸にもなり得る」という言い方は、
   その意味で正確である。思うのはその人でしかないからである。

一般的に人は、生きていることを幸福といい、死ぬことを不幸という。
しかし人は、その生きるために労働することに不平を言い、生きるためには食べなければならないという。
しかし、本当に生きていること自体を幸福と思っていれば、その生きるために労働することも幸福であるはずだ。
そうすると、生きていること自体は、あるいは不幸と思っているのかもしれない。
だとしたら、なぜ人はこれほど、死を厭い、避けようとして生きているのだろうか。
生きることが不幸なら、死ぬことは幸福であるはずである。生存していること自体は、幸福なのだろうか不幸なのだろうか。

    生死それ自体と、孝・不幸とは、実は全く関係ない。生死という形式は、それ自体単純な事実だが、
    孝・不幸とは、それに付与されるところの観念だからである。したがって、生存していることによって
    発生する様々な肉体的苦痛も身体の苦痛という事実の中では、不幸であるという観念ではない。
    もしそれが不幸であるなら、それはその人が不幸という観念それに付与しているに過ぎない。

 身体の苦痛は、多く、人の心を不幸にする。苦痛は苦痛として明瞭にすぎる。だからこそ、
 身体の苦痛は心の不幸ではないという単純な事実を知ることが、われわれの幸福の新たの端緒となるのではなかろうか。
   ーー
   何事もそうだが、身体の苦痛だけではない、目先の苦痛や悩みは大きな流れの一つでしかない、
  直ぐに次の現象が洗い流してしまう泡である。 全てが地球への旅の経験でしかない。
  楽しみも哀しみも全て面白い経験である。 それも至高の!何で、そんなことに拘っているの? 
  何で、そんな人と群れているの?   孤独、孤独、それがキーワード!
  それがキチット出来てないから、否定でしか社会や世界に関われないの!
  孤独をキチッと確立してないのが群れたがるから、ゴミの山になるんじゃない。    
                    (*^ワ^*)i バイバイ
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