2005年09月26日(月)
1637, 37年前の私への手紙−1

ー22歳の日記を読み返してみて、当時の自分に手紙を書いてみたくなった。 37年前の自分は、
自分のアイデンティテーであるが、全くの赤の他人にも思える。だから手紙が書けるのだろう。

ー37年前の私への手紙ー
あなたの日記をまさか30数年経って、読み返してみるとは思っていなかった。どうして書いたかさえ憶えていない。
倉庫で偶然その日記を見たとき、書いていたことさえ記憶になかった。見つけた後、決して手に取ろうとしなかった。 
見たくなかったのが本音である。そこにいたのは正に自分自身の姿がそのままあった。
数年前、この随想日記に思いきって書き写すプロセスで、露わなあなたを冷静に?
振り返ってみることができるようになった。あなたは社会に飛び出す前後で、緊張の絶頂だったのが窺い知れる。
弱い自分をどう強くつくり上げるか必死のように思える。 社会全体がが学生運動や高度成長期の真っ只中で、
燃え上がっていたが、あなたは当時の言葉でいうノンポリもよいところだ。

あなたは、人生の根本的なことで迷っているようだが、それが若さだ。根本的なことで悩んでいるからこそ、青春の輝きがある。
現在の私は、あなたに比べて本当に強くなった。自己改造を積み重ねてきた結果強くなったのである。
いや社会そのものに鍛えられたのだ。 その結果として、何か大きなものを失ってしまった。
あなたの弱さこそが自分を駆り立ててくれているのだ。
いま考えてみて、貴方(37年前の自己)の悩みこそ大事である。そのことを貴方は直感しているはずだ。

歳を重なることは、強くなる反面、純粋さを失う。膨大な未知の世界を前に好奇心と期待に胸を膨らませている姿勢は認める。
しかし本心を決して開いてない。開いても中には何もなかっただけか。 貴方の日記を読んで好感を持つ反面、
狡猾な嘘つきと思えてならないのは、どういうことか。気まぐれなハッタリ、大言壮語を言っているだけではないのか。
もう少し、哲学書を読みこなしておくべきということも感じる。
あちこちと、浅く知識を摘み食いをしていただけだったが、まあ、それはそれでよい。

ただ、他に多くの文章(思い)を書いていたことを私は知っている。それを全て捨てたことも。
なぜ彼方は捨ててしまったのだろうか。捨てたから良かったのか、悪かったのか何ともいえないが。
あの時、真剣に書いた内容は、現在書いている随想日記の内容に決して劣ってなかった。
そのことを手紙を書きながら憶え出しただけでも、この手紙を書いてよかった。

あなたが内面を書きだしておかなければ、自分が押しつぶさていたことも理解できる。
あなたは、まさに基本的な足固めをしているのだ。その後、三十数年の自分を振り返ると、
決してあの時の理想とは一致はしない。しかし方向は考えていた通りであった。
あなたが思っていたことは、高度成長期の時代背景の妄想かもしれない。
しかし気にすることはない、高度成長期にいかに生きるかが課題でよいと思う。
自分の人生は深く生きることが、一番大事なことである。まあ、説教になってしまうので、この辺で止めておく。
少し力を抜いて、思いやりを持って、生きたほうがよいよ! 他人をもっともっと大事にしなさい。 
これが私の最後の言葉です。 
              ーつづく
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ー後記
人生の反省会みたいで、なかなか書いていて面白い。意外とスラスラ書けるのも驚きである。
当時の自分に強く愛着を感じるのは当然だろうが、「気持ちを書きのこす」ことは、非常に大事なことだ。
当時の自分と対話さえ可能になり、心の芯同士の、魂の対話になる。
過去と対話をしているが?、実際は現在の自己会話でしかない。 それがよい。
旅行先で、知人や家族に手紙を出すついでに、自分に手紙を書いている人を見かける。
一番思い出になるからだろう。 これは過去ではなく未来に対して書いていることになる。

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