2007年08月29日(水)
2339, 意志について  ・ω・)ノはよー
 「狂人三歩手前」 ー中島義道
   −哲学などしないようにー

哲学は、全て根こそぎ疑い、そして疑いの中から真実を見つけようとする。
哲学は曖昧な言葉をミキサーのように砕いてしまう。 意志についても哲学者は、その言葉に含まれている前提を見逃さない。
殺人者は、殺そうという意志があって成り立つ。(衝動もあるが)一般的に意志は初めから「善いもの」という前提がある。
その前提を見逃さないのが哲学である。だから、嫌われるのである。 といって、曖昧な考えは、判断を狂わしてしまう。
真理をさけて通ることは、さけて通ったという事実が残る。

ーー                  P−174
世の中で信じて疑わないことのほとんどが眉唾ものである。
とは、10歳の頃から直感していたが、ーそれを一つ一つ「やっぱり」と納得していく過程が私の人生であった
「ある」とは何か、「いま」とは何か、「私」とは何か、「善い」とは何か、
人生経験を積めば積むほど夜中に森の中をさまようようにわからなくなっていく。

とりわけ、このごろ「意志」と呼ばれているものは、ただの社会的取り決めにすぎないのだ、という思いが
強くなってきている。 私はすべてにおいて優柔不断であり、何かを選んだ瞬間に後悔することはざらにある。
「タンメン」と注文した瞬間に、「味噌ラーメン」にすればよかったと後悔する。
だが、すぐ取り消すのは恥ずかしいし、もう作り始めているかもしれないし、とあれこれ考えて、ぐっとこらえるのだ。
現実社会は、「タンメン!」と叫んだことは私の意志だとして、それを固定化しようとする。
なぜなら、注文を取った直後に次々にくるくる訂正が入ると、商売ができなくなるからである。
すべての約束について、守るまで約束遵守の意志があるとみなされるのも同じこと。
意志とは、かように実際的な要求から生まれたものにすぎないのではないだろうか。
何がこの行為を生じさせたのか、何があの行為を生じさせなかったのか、こう問うと、
実のところめまいのするほど膨大な「原因」を考慮せねばならず、皆目わからなくなる。
だが、わからないと、社会生活上不便なので「意志」という架空物をとらえてて、
錯綜する原因をごく少数に整理整頓し、それらが「引き起こした」というお話しをでっちあげているだけである。

そして、このインチキ芝居も、われわれが大きな禍に直面したり、あるいは他人に大きな禍を及ぼすとき、
化けの皮が剥がれ落ちる。 われわれは「意志」などというチャチな贋造物など投げ捨てて、
「なぜこうなってしまって、ああならなかったのだろうか」と全身で後悔するのである。
後悔は、意志とは論理的に両立しない。なぜなら、後悔とは、私が意志したことを、同じ私がまさにそのとき
「ほかの意志もできたはずだ」という前提のもとに悔やみ続けるのであるから。
だが、それは矛盾だといくら言ってもわれわれは後悔をやめない。
そういう場合は一般に、論理より実際の行いのほうが「正しい」のである。
なお、後悔はこういうタイプのものぼかりでほない。
われわれは、試験会場であのヒントに気づかなかった自分の不注意にも、寝過ごして、
ハレー彗星を見損なった自分の怠惰にも、後悔する。

では、こんなにも嘘臭い意志がなぜ「ほんとうにある」かのように思われるのであろうか。
答えは存外簡単である。意志には、(時代や地域によってそのありょうは多少異なるが)
「意志の強い人」という理想的人間像がぴったり貼り付いているからである。「意志の強い人」とはどんな人であろうか。
それは、「正しい」と信じたことをいかなる障害にもめげずにやり遂げる人である。
ここで、(何が正しいかはともかく)「正しい」ことという限定が付いていることが重要である。いかなる脅迫を受けようとも、
黒人解放運動に身を捧げる人は、意志の強い人である。血の出るような修行のすえ悟りを開く人は意志の強い人である。
脅されると、すぐに解放運動を降りてしまう人、修行が辛くて夜逃げする人は意志の弱い人である。ここまではスムーズに話が進む。

だが、両親の涙ながらの懇願にも、警察の説得にも耳をかさず、子供を殺してしまう誘拐犯は意志の強い人だろうか?
「そうだ、俺は間違っていた」と反省して子供を返す人は意志の弱い人だろうか? こう問うと、違和感があることが
わかるであろう。 つまり、意志ははじめから「善いもの」とされており、その限り、どんなに脅迫されても意志を変えない人、
どんな窮地に陥っても意志を貫く人、が世間では賞賛される。 だから、みなそういう善い強い意志が自らの「うち」
にあるかのように思い込んで、がんぼろうと励むのである。 だが、こういうことは反社会的である。
みんな一致団結して、意志という捏造物を(半信半疑であるからこそ)必死に守ろうと誓い合っているときに、 
哲学者という「ならず者」は「それはフィクションですよ、そこには勝手な取り決め以上のものはありませんよ」
というのだから。社会がガラガラ崩れてしまうなどなんともない、所詮「ならず者」なのだからしかたない。
だから、世間はーまことに賢いことに-太古の昔から、哲学者を殺したり、礫にしたり、
追放したり、精神病棟に閉じ込めたりして、社会の安寧を守ってきた
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  そういうこと! 哲学など徹底的に割り切って鳥瞰していないと、
  社会を混乱させるに過ぎないだけである。
                   ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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