「結論で読む人生論 ―トルストイから江原啓之まで」勢古 浩爾 (著)
                              −読書日記
  古今の人生論を批評しながら著者の人生論を展開する本。
  著者の「わたしを認めよ」「まれに見るバカ」「この俗物が」を読んだが、
  非常に軽妙で、自虐的な文章が私の性に合って面白かった。
  この人生論も、勢古の人生論批判で、「結局何なんだよ〜」という彼の主観が面白い。
  まずは、アマゾンの内容紹介文と、まえがき、の一部を紹介して、
  次からは、それぞれの章の面白そうなところを抜粋しながら、考えてみる。
  人生論は、哲学と同じく読まなくてはならない。それが自分の人生の司令塔になるからである。
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 ーまずは、この本の概要からー
  ー内容紹介ー
人は何のために生きているのだろう? 
この問いには、紀元前から現代まで、老子孔子、カント、トルストイ漱石アッラー……などなど、
作家、哲学者から、思想家、科学者、果ては神(の代弁者)に至るまで、ありとあらゆる「賢者」たちが答えを示してきた。
しかし、実際に彼らの人生論をひもといてみると、迂遠で、晦渋で、いつのまにかはぐらかされたり、結局「結論」
がよくわからなかったりする。  そんな「賢者」たちの人生論を「結局なにが言いたいのか」の1点で読み解き、
著者独特の視点から「判定」「批評」するという大胆不敵な試みである。 
人類史上の叡智が凝縮された何十通りもの「人生の意味」を、端的に紹介する。

  ーまえがきよりー
伝説の登山家、ジョージ・マロリーの言葉(返答)である。もともとは、ニューヨーク・タイムズ紙記者の
「なぜエベレストに登るのか」という質問に」(そこにエペレストがあるからだ)と答えたものである。
では「人はなぜ生きるのか?」。 なぜなら「そこに人生があるからだ」。いや「すでに生きているからだ」。
この答えでいいか。十分である。だが、その先がある。どの山にどのように登り、どのように下山するのか、
をわたしたちは身をもって示さなければならない。そのときに重要なのが「どのような人生を自分はよしとするのか」
という人生観である。 もちろん、事は簡単ではない。 生老病死愛別離苦につかまれた入生には、
そんなわかったかわからないような、禅問答的な、のんきな父さん風の答えは許されない。人生につかまれた人間は、
その人生に意味を求め、生き甲斐を求め、そのためにさまざまな「意味の物語」を創作したのである。
人生論を読むとは、その「物語」を読むことにほかならない。「主要な人生論を総覧し」と書いたが、
いうまでもなくおこがましい。せいぜいフランス料理のフルコースの前菜の一口を齧った程度、
スープを一口畷った程度にすぎない。 いや、そうではないな。フレンチも和食も中華もステーキも
フィッシュアンドチッブスもジャンクフードもゲテモノも一応食べてみました、といったほうが適切か。
でもいい。 人生論は人生観の土台である。 人生論は「価値」を論じ、人生観は「意味」を論じる。
そのふたつを問うて、謙遜すれば、本書はそれなりに有益な人生論、人生観読本にはなっているはずである。
謙遜になっていないか。読まれる方の人生観構築の参考になってくらべれば、という期待もある。
だが、それでも執拗な疑問が残る。人生をこねまわしてつべこべいうんじゃない、という気分がある。
はたして、人生は論じるに値するのか。 
  〜〜
後記)
 勢古の本を数年、読んでなかった。その間に多くの本を出していた。
何処にもいる普通の才能の人が、自虐的に書いているから、親しみを覚えるのである。
特に古今東西の人生論を、彼の目線で書いているから,同調するのである。
人生論は人生という旅の歩き方に似ている。
地図としてみれば、位置や方角がわかるし、訪れたい場所と他の場所との位置関係もわかる。
人生論を考えない者は、地図無しで異国にいるようである。
自分が道に迷って、混乱している者にとって、どの角も道も同じように見える。
しかし実は違うことを人生論の中で示唆してくれる。 人生論を読み、哲学書を読んで考えない限り、
到着した場所はただ行き着いた場所でしかない。 それはそれで良いのだろうが、
その人のレベルでしかない場所だけである。 実際のところ、書いている自分が一番、身につまされる。
若い時に、より多くの地図を見て、計画を緻密にたて、多くの場所を見ておけば良かったのに!と、
この歳になって気づかされる。  携帯電話が、若い人に、こういうジックリ考える機会を奪っている。


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