2005年03月31日(木) 1458, はだしの学者ー西江雅之

以前、図書館から借りた西江雅之旅行記「花のある遠景」を読んで、
常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。

世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究に従事、50ヵ国の言語を話す。
ハダシの学者といわれるように、目線が現地人になっている。
そのためか、どこの地に行っても誰とでも友人になってしまう。深い教養があってこそである。

「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、どちらかが失敗したら
死ぬであろうというギリギリの状況で二月、三月と一緒に過ごしたというような
経験がたくさんある。別れたらもうその人と生涯会えない。
住所を聞こうにも、手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。
居所もわからない。 そういう経験を何十回も重ねて・・・・・
そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、
ときには言葉を重ねないことの大切さを述べている。
無理に言葉に置き換えるという作業が、驚きを別のものにしてしまいがちになる。

「外国の何とか村を紹介した本があって、読むと面白かったりするでしょう。
だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、書いた人が面白いんです。
その人は何とか村を面白がれる力があるんです。面白がる力があれば、世界中どこでもおもしろい。
実力のない人は、変わったものでないとよく見えないんです。」

以上の言葉から見ても、その言葉の奥行きの深さを充分に知ることができる。
以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
 
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「花のある遠景」
 西江雅之著 (旺文社文庫
 副題は「東アフリカの裏町から」である。

アフリカであっても、普段多くの人間は街に住んでいる。
働いてもいるし、食事もするし、酒も飲むが、しかしほぼ働いていない。

この旅行記で出てくる女たちは娼婦である。彼女らは著者にとっては、性の相手対象ではなく、
キクユ語の先生であり友達である(著者は、言語学者文化人類学の研究をしている)。
彼女らは娼婦だからといって、娼婦的な陰鬱さが全く無い。
さわやかさまで感ぜられるほど、さばさばいている。

この本の内容は日本では考えられないことがほとんどだ。
彼らにとって、それがなんでもない日常でしかないのだ。
旅行をしているというと、じゃあ俺も一緒にいこうという。
荷物持ちでも何でもいいから雇ってくれ、と。西江は中古車を買って、
運転手を雇って旅行しようと思い立つ。雇った運転手に車を修理してもらい、
出発する段になって雇った運転手の男が、じゃあ荷物をとってくるから待てという。
もってきたのは帽子とズボンだけ。しかもそのズボンを、この部屋で帰るまで預かってくれという。
バッグも金もなんにも無い。面白そうだからただその話に乗ろうというのだ。
そういう動機の方が自然で面白い。本当に着の身着のまま。他に何が必要か。
恐らく真剣には考えていない。考えたところで仕方が無いのだ。

お前が行こうとしているところに俺の婚約者がいる。
久しぶりに会えるというので大変にはしゃいでいる。
ところが着いたとたん、そこで偶然知り合った女と仲良くなってどこか消えてしまう。
彼女と会うのはまた今度でいいや。出発する時には何にも悪びれる様子もない。
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まあ、こんな感じでアフリカの原住民の生活が、そのまま正直にリアルに書いてある。
そのため読んでいて、引き込まれてしまうのだ。
読んでいると、現地にタイムスリップしたような気分になってしまうから不思議である。
その運転手と、突きつめた自分と何処が違うというのだろう。 何も違わないのだ。
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ー以前書いた著者の本の感想文である。
2003/11/14 954、「意味」の意味を考える

 言葉や言語を考える時、重要な事として、すぐに「意味」が出てくる。
「人生の意味」とか、「意味がないよ」とか、「このことにどういう意味があるか」
とか、言葉と意味は一体である。考えるとは、言葉の羅列の繰り返しをしているといってよいが、
それは羅列によって意味を幾とおりも置き返していることである。
といって「意味」の意味を考えると何が何だか解らなくなってしまう。
「意味」の意味を考えるとは、半分ジョークみたいな話だ。

 言語学者西江雅之氏の本に、「意味は『価値』である」に注目をした。
「意味がない!」などと1人で解ったような気になるのは、
「自分の価値観とは違う」とっていることでしかないのだ。
「人生の意味」も「人生の価値観を何処においておくか」の問題でしかないことになる。
  言語学者西江雅之の「『言葉』の課外授業」ー洋泉社
 という本の中(p78)に「意味」の意味を簡潔にまとめてあった。

・一つ目は「意味」とは「価値」である。
 世界のほとんどの言語では「意味」というのは、「価値」のことを言っている。
「あの人の話は意味深い」とか「あの人の話は意味がない」とか、
「面白い」とか「つまらない」とかは、受けての「価値判断」のあり方を「意味」と呼んでいるのだ。

・二つ目は、「意味」というのは、出された例の、別の表現への「置き換え」なんです。
 たとえば「『椅子』とは何か」と言ったら、「それは『人が座る道具』
 である」と。この置き換えが、ある種の「意味」になる。
「置き換え」の二番目は、別の言葉に置き換えると言うことです。
「‘desk’の意味は何だ」というと、辞書に「机」と書いてある。
「あ、意味がわかった。この単語の意味は‘机’なんだ」となるような、 別の言葉への置き換えである。

・三つ目は、「世界の創り変え」である。現状から出発して新たに見出そうとする意味である。
現状を否定して、いっそう本物を求めようという場合の「求めるもの」と言ってよい。
日常生活で「意味を問う」などというのは、現状を疑い、現状を変革させることなんです。

 意味には「分析的」なものと、「連想的」なものがある。
「分析的」は欧州風科学で考えるもので、「連想的」は
「ひらめき」や「インスピュレーション」などの科学で扱わない部分である。

ー以上が抜粋であるー
 一つ目の ー「意味」とは「価値」であるーについて考えてみよう。
ある出来事を、結果として意味付けをしたがるが、それは「自分の価値観
に対して無意識的に押し込もうという働き」と見ると理解ができる。
そうすると、意味を考えることは価値を考えることなる。
そういう知識のない人が、必死になって「意味づけの演説?」をしているのを
聞いたことがある。その時「この男、馬鹿じゃないか?」と聞いていて思ったことがある。
「結局は、自分の価値観、意味づけを言っているだけじゃないか」と聞いていた
ことを思い出して納得をした。まあ、同じことを自分もしているのだろうが。

 二つ目の「置き換え」は、少し解りづらい。
意味というのは、同じことを置き換えているに過ぎないというと解りやすい。
「deskは机だ」という言葉の置き換えがよい例だ。もっとわかりやすい場面が、
夏休みにNHKの「子供ラジオ電話質問コーナー」がある。
こどもの単純な質問に窮した回答者が苦し紛れに、ただ言葉の置き換えで
説明をしてしまうことがある。「死ぬってどういうことですか?」という哲学者でも答えられない
問題を一言で片付けなくてはならない時に、言葉の置き換えで誤魔化すケースだ。

 三つ目は「世界の創りかえ」である。良い意味でも悪い意味でも、宗教家が使う手法である。
経営も政治も、考えてみれば「世界の創りかえ」である。
その時、背後には大きな意味がなくてはならない。その点では、「意味」や「価値」は最重要事項である。

「ところで、このホームページって何の意味があるの?」と問われたらと考えてみた。
何回も書いているが、「公開の日記と魂の記録」といってよいが。

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