2005年03月17日(木)
1444, 孤独について−5

孤独は心の問題をそのものをズバリ語っている。
絶望の果てに突詰められる心の状態は、人生で何度もある。
孤独は絶望感の果てに到達するケースが多い。。
「孤独であるためのレッスン」NHKブックスー諸富 祥彦 (著)
の本の内容で考えさせられる部分を書き出して、更に考えてみる。

・「ひとり」と「孤独」についてムスターカスによると、彼の孤独について考えを語るうちに、
さまざまな反論を受けました。孤独というものは、人間関係の失敗であり、挫折の印に他ならない、
と言われ続けてきたのです。

彼によると、孤独の真の意味を理解できない人の多くは、
・ひとりでいる体験と、
・深い孤独との区別ができない ゆえに誤解を生じているのです。

 両者の区別について、いずれも大切なものだと断りながら、次のように言っている。
「孤独とは対照的に、ひとりの時には、私達は意識的なコントロールを働かせて、
 意図し、考え、決断している。ひとりでいると、私達は必要な休息を得られる。
 一方、孤独でいると、私達はギリギリの状態に追い込まれる。
 ひとりの時は、私達の体験に、展開と継続性がもたされる。
 一方、孤独の時は、全体的、革新的な変化を私達にもたらしてくれる。
 ひとりの時は人の中に帰っていく。孤独な時は自分に帰っていく道を開いてくれる。」

 また、別の箇所では、
「ひとりとは、たいてい過去や未来にまたがった中間的な状態であるが、
 孤独とは、常に生命に直接、今、ここでかかわっている状態である。
 ひとりとは、自分に没入していることである。
 孤独とは、自分とともにありながら、さらにそれを越えて、
 新しい自己を創造しようと激しく一瞬に生きることである。」と説明を加えている。
 
ムスガーカスのいう孤独な時とは、
「人生の一大転機点の時であり、孤独に浸っている時、人は、もっと
この激しさが続けばよいと願ったり、永久に離れたくないと思ったり、
あるいは、底なしの絶望感に捕らえられたり、信頼が裏切られたり、
さんざんに打ち砕かれてしまうことがある。
このような強烈な驚きに震え、深いショックに身を砕かれた時に
『私はひとりだ』と言っても、その体験を伝えるには不十分である。
それでは孤独の肯定的部分も否定的部分も伝えられない。
一方、『私は孤独だ』と言うと、独特のニュアンスが付け加えられ、引き裂かれた状態が示される。」

過去と未来を断ち切り、新たな自分に生まれ変わりを余儀なくする、
有無を言わせぬ、一瞬の体験を意味するのです。
次に、ムスターカスは「孤独に対する不安」と「実存的な不安」を区別します。
「孤独に対する不安」は
ー生と死の重要な問題に直面するのを避けるために、絶えず他人とかかわりを
求めて、忙しく立ち働いて、本質的な孤独を打ち消そうと防衛から生まれる。
一方、
「実存的な孤独」とは、ー人間の本質に目ざめていることの証であり、
生の動乱や悲劇、変転に直面していく際に育まれるものである。
この世に生まれて、激しく生き、ひとり死んでいくことの本質にある孤独が、実存的な孤独である」
さみしさは、しばしば、人と人とのつながりが拒否されたり、
離れ離れになることによって体験されているものである。
一方、孤独とは、自然の静けさの中で無言で木や雲や波に語りかけたり、
静かに詩をひとり読んでみたり、音楽に聴き入ったり、芸術作品をひもといていたときに去来する。

孤独になる勇気を持つこと。 孤独を楽しむ能力を持つこと。
この二つを備えた人間にしか、これからの時代、ほんとうのしあわせを獲得はできないはず、である。
ーーー

孤独は誰も何時も直面している問題である。だから教養とての知識の必要性が出てくる。
社会通念としての「孤独はさびしいもの、避けるもの」を、まず疑ってみることだ。
特に、携帯を持った猿にとって! 「自覚のないゴミ」になり下がる前に。

去年の同日の、永六輔がいう「虚しさ」を知った孤独こそ
永遠への扉の「いま、ここ」を覗いていることになる。

・・・・・・・・