つれづれに

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 さて、今日が甲子園の決勝戦になるが、
履正社が優勝が順当だが、これだけはミズモノ!








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3437, 64歳の現時点で、感じること! ー2
2010年08月23日(月)
 * あと5ヶ月で65歳になるが
 65年の人生を振り返ると、月並みだが長いような短いような感じだが、決して長くはない。アッという間。
家庭に恵まれていたし、時代背景にも恵まれていた。 満足度は70、いや80点である。
明日の金が無くて呆然としたことも無かったし、人間関係で悩むことも比較的少なかった。
また事業を四十年近く、やれたことが良かった。また装置産業を選択したため、自由時間に恵まれたのが
良かった。好きな秘境ツアーも、私の環境=条件内では最大限に楽しむことができた。好きな本も充分に読む
ことができた。好きな箱物(ビル)造りも、小規模だが増築を含めると8棟を立ち上げることができた。 
もっと事業を大きくできたチャンスがあったが、恐慌になった現在、それが良かったかどうか。
 第二次世界大戦の終了から、米ソの対立、朝鮮戦争ベトナム戦争、中国の文化革命、そして、ソ連と東欧の
崩壊、日本の高度成長、バブルと、その崩壊、そして失われた20年という長期の停滞。アメリカのニューヨーク
9・11テロと、アフガン・イラク戦争。そして、極めつけがアメリカ発の大恐慌である。それが今後、
10~20年と色いろなカタチで、20世紀的なものや、文化の破壊がすすむ。65年の人生で、半分以上は
成長期の時代を味わってきた。特に20代、30歳代は、高度成長期にあたっていた。もう日本が、これだけの
右上がりに成長を謳歌する時代は二度とこない。そうこう考えると本当に良い時代背景だった。情報化社会の
到来で、劇的変化を始めた時代の入り口を生きている。その変化は想像を遥かに超えている。 毎日が驚きと、
感動と、おののきの日々である。それにしても知らないことが多すぎる。
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3062,階級社会だと! -2
2009年08月23日(日)
 上流階級?の人が落ちぶれた時に、階級の存在をシビアに知ることになる。
その時のハビトゥス(その人の習慣をつくりあげている文化構造)の崩壊のプロセスを、身近で何人か見てきた。
その崩壊は人間性の崩壊になる。 階級社会にとって必要なことは、その入れ替えの弾力性である。弾力性が
無くなれば階級社会が自滅することを経験的に知っているからである。 時間軸の長短から考えれば誰もが
成上がりでしかない。 イギリスは階級制度のハッキリした国であるが、その入れ替わりには長年の経験上、
当然のように受け入れるシステムになっている。新しい価値をつくりあげれば、その価値の創造者として認める。 
日本でも明治時代の伝統で、家柄より学歴を優先する社会的システムができている。日本の最も優れた文化資産。
 ところで一番上の姉が(設立した会社の倒産後)歌の先生をしていた。そこで聞いた城下街世界が面白い。
10人位のグループを幾つかつくって教えていたが、そのグループ分けがユニークである。 未亡人だけを集めた
グループとか、医者の奥さんだけを集めたグループとか、金持ちの有閑マダムの社交クラブである。それも
「プラティーク」の世界? こぞって慶応幼稚舎に子供を入れたがるのは、その階級に参加したいため。 
かなり前の話だが、経営セミナー東京のホテルで受けた時期に、夕食で隣に座った人と名刺の交換をした。
飲食業界の大手の社長で私と同年輩の人だった。 その人の奥さんが柏崎の出身で、ブルボンの娘という。
「何処で知り合いましたか?」と聞いたところ、母親同士が慶応出身で、女性だけの何かOB会の役員をして
いた因縁で話がまとまったという。 成るほど、そういう世界があるのである。 地元にもゴルフ場の格付け
があって、そこの会員権を持てるかどうかが登竜門になる。反対に、その会員権を売却すると倒産の前兆の噂
になるという。海外旅行に46回行ったが、秘境ツアーに参加する人は、世界中を周っている人達。そこで聞く
彼らのプラティークの話は非常に参考になる。私を含めて変なのも多いが・・ ライオンズ・クラブとか
ロータリー・クラブとかいう活動も、その登竜門? というより、トップセールスを互いに容易にするための
集まり? どうみても、文化遺産のあるようには思えないが。「売り家と 唐文字で書く 三代目」という
古川柳にあるが、文化遺産の引継ぎだけでも駄目だから、難しいところだ。「目くそ、鼻くそを笑う」の話。
「上を見ればキリがない、下を見れば底がない、横を見れば情けない」か~ ッタク!

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2697, 散歩について
 2008年08月23日(土)
散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。1月から3月半ばを除けば毎朝、豪雨でない限り歩いている。
もう25年ほどになる。年々少しずつだが歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。
日本人の歩行は、この三十年で激減しているという。30年前で7000歩が現在では6000歩弱に、
車通勤では、4000歩も歩かない。江戸時代には日本には散歩という概念がなかった。車がないので、
何処に行くのにも歩いていたから、敢えて歩く必要も無かったようだ。それでも、現代人と比べると3倍から
5倍は歩いていたという。西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前を散歩と名をつけたのは、
勝海舟であった。氷川清話には、散歩の話がところどころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の
内服薬を飲んだあと、その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。勝海舟は、外国人が生活の中に
散歩を取り入れているのを見て、心身の健康の効用を看破した。私にとって、散歩のない日々は考えられない
ほど、日常の生活の一部になっている。大雨で歩かなかった翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)
が抜けていくのがわかる。それと、脳の活動が活発になるのも分かる。これを続けていると鬱病などなる訳が
ない。早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川のせせらぎの音を聞きながら、深呼吸をして歩いていれば、
マイナス思考など出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も取り入れた。
哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識しないですむ道という。ソクラテスでは
ないが、プラトンなどと問答しながら歩いたのは、脳が活性化するためである。散歩を健康のためとか、考え
るため、というのでは長続きはしない。あくまで楽しい日課の一つとして取り入れて、スキップするような
気持ちで歩くことだ。最近80歳過ぎの少し痴呆症の入った年配の人が散歩をしている。道に立って、来る人
来る人に手を上げて親しそうに話しかけている。それが一日の大きな楽しみになっているようで、決まった
時間に決まった何人かと親しそうに話しをしている。私も話しかけられたが、どうも苦手で笑って通り過ご
しているが・・。痴呆症にとっては、あの習慣は一番の薬になる。ところで何でもっと多くの人が早朝散歩を
しないのだろう。あれだけ心身にとって良いことを。時間が無いのなら、チョットした時間に意識をして
あるくことだ。もし私が散歩を取り入れてなかったら間違いなく現在、娑婆には居いだろう。寝る前の風呂と、
早朝の散歩で猿コールを蒸発させているから、事なきを得ている。二十年ほど前に「散歩について」書いた
随想を読んだ恩師が手紙をくれたことがあった。その恩師は鬼籍に入られてしまった。
 後記)面白いものだ、偶然の一致になるが「夜明けのリゾートタイム」であとに書いてあった。
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2007年08月23日(木)
2333, ホッファー  -2
               *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!
この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のように我々に知られるに至ったのは、マーガレット・
アンダーソンという「コモン・グラウンド」編集長である。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を
待っているのだと思えることが、  自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。
世に出た著書は、好評だったが、爆発的に売れたわけではない。あくまでも彼は本の“著者”にすぎない状態。
1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で週に一度の学生たちとの講義も担当するようになったときも話題
をよんだわけではなかった。ホッファーのような変わった人物を講師にするのは、バークレーのやり方である。
しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。
「人にはこのように、世界のどこかでそれを待っているところが、
少なくとも一カ所はあるものなのだ」ということを。
  以下は、ある本からの抜粋である。
  --
ホッファーが人気をもつきっかけは、テレビであった。
1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映され、大反響になった。
それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。
かれ自身はつねに目立たない存在を望んだが、どんな評価も名声もホッファーの生活を
豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかった。
社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”を必要とした。
こういうホッファー・フィーバーのなかで、彼はまったく変わらなかった。
沖仲仕をやめて著述に専念するようになるのは六十五歳をすぎてから。
八十一歳で死ぬ(一九八三)まで、本を書きつづけ主要な著作は十一冊をかぞえる。
うち六冊は日本でも邦訳が出たが、現在も入手可能なものは一冊しかない。
これほど数奇な人生があろうかと思わせるほど波乱に富んでいるが、これ以上に面白いのが、
彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。
この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがつまっている。
その一つ一つが、まるで短篇小説以上の仕上がりになっている。
こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっているのである。
(以下、字数制限野関係でカット 09年8月23日)
                         -つづく      
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2006年08月23日(水)
1968.事業百訓・・・? -1991・1992年(6)
  H0301新年を迎えて!!
 (字数の関係でカット 08年8月23日)
ーH0307事業百訓 ー
 今より20年前、人間には周期(波動)があるのではないかと気がついた。
九年が一周期で前半が陰・後半が陽である。
(マイナス3才~5才) (6才~14才) (15才~23才) (24~32)
(33~41) (42~50才)(51~59)(60~68才)(69~77)……。
そして周期の変わり目が厄年となり 人にとって非常に危険・不安定の年となる。これは決して人の
論理の借物ではなく私自身の周期であるが、昔より数え年で24・33・42才と厄年と丁度一致する。
中高年の当社の応募の人の履歴書をみていると、大体厄年をきっかけに何か失敗しているケースを見うける。
厄年は、丁度肉体的に精神的にも節目の年ではないかと考えられる。現在の私は今年までが陰で来年が
転換の年となり1993年より陽転になっていく。偶然の一致か事業計画も丁度それにあわせて立ててある。
過去を振り返ってみると全て陰陽はかったように明確になっており、一年の狂いもない。
少し運命論的な書き方になったがそうではなく、いかにその“節目”をみつけ“運”という波動(勢い)
に乗るかである。“陰”の時は“陽”の為の内的エネルギーの充実をはかる時になる。これを書いていて
マイナス3才(生まれる前の3年)とは、どういう意味なのか非常に興味がわいてきた。
私の兄が三才年上という年まわりに関係あるのだろうか? それとも……
ーH0309事業百訓ー
(字数の関係でカット08年08月23日)
ーH0311事業百訓ー
 最近私が造った言葉で“夜明けのリゾート・タイム”がある。(江藤淳の“夜明けの紅茶”をもじったもの)
・早朝(4時半~5時半)起床 ・近くの土手を一時間散歩 ・テレビ体操 ・瞑想 ・家族全員のお祈り・
 食事と続く。特に散歩がよい。山の彼方をみながら複式呼吸をして歩く。季節ごとの草花や鳥をみながら
 川のせせらぎを聞き、時々に般若心経をとなえる。この散歩に全てが含まれても過言ではないという“気”
 にもなる。これを実施して4年、副産物として夜に出あるく事と、酒量が激減した事だ。健康食品を口に
 する事も加えて七kgも体重が減った。時々不節制が続くと散歩していると身体がだるく重くなるのがわかる。
 また朝の風呂も非常によい。当初は疲れが残ったがなれると気分爽快になる。
 早朝型のきっかけは松下電器の山下俊彦元社長の講演を聞き感激して、自ら挑戦してみた事だ。
 彼は登山がライフ・ワークであり、その訓練も含め毎朝3時半起床。 1時間半10km歩くという。
 そして読書とシャワーをあびるとの事。夜は定時がくるとすぐ帰宅。夜のつきあいは一切断っている。
 これが逆に考える時間と、心の余裕をつくったのでないか。山下跳び(飛躍的出世)の秘密もこれが
 ポイントではないか。
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事業百訓ー1992年(11)
H0401新年を迎えて!!
            (字数の関係でカット)
ーH0403事業百訓ー
 385 、否定は結論であって、探究を中止する事だ。
   正しい結論は自ら体験をして、あらゆる角度から探究をして、疑問を解明してこそ出るものだ。
   根拠のない否定は自らを否定する事になる。(高橋信次
  386、負けた時、すぐ反省することは一番良くない。反省するのは2番目でよい。
   反省というのは、まじめにものを考えすぎてしまうからです。そこには笑いがありません。
   趣味や道楽でもそうですが、とにかく無心になる、これが一番です。そして心底で笑うことです。
  “商売にうまくいく”“勝負に勝つ”すべてに共通している事は、無心になり笑うことです。
   それが幸せになれる最大の条件です。(米長邦雄
  387 つきつめよ!あいまいにするな!先に伸ばすな!(渥美俊一
  388 “人間の奇妙な特質の一つは他人の欠点はすぐみつけるが、
   失敗の原因となるような己の特質には気付かないという点である。
   ”この問題は人間に限らず企業にもあてはまるもので、危機管理における重要な課題を示している。
  389 「人間の真価は、その人が死んだとき、何をなしたかで決まるのではなく、
     彼が生きていた時何をなそうとしたかである。」  (ユング
ーH0405事業百訓ー
  (字数制限のため中間カット2010年08月23日)
ーH0407事業百訓ー
  395 ~402,字数の関係でカット
ーH0407高野山へ旅してー
 十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。
初日は比叡山延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。
また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も延暦寺ならではのものであった。
翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は神秘的で左右の墓石群に千年の歴史の深さを感じた。
何げなくみた墓が上杉謙信明智光秀、浅野内匠・伊達政宗前田利長豊臣秀吉等の墓であった。
三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、あげていたのが武田信玄の墓であった。県内では
村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。他にも代々の天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。
この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、形容しがたい感動的なものである。その奥に
ある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげており、奥の院そのものという感じであった。
秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、“柳の間”(関白秀次が切腹させられた間)
がそれとは知らず、突然目の前に歴史を見せつけられたようであった。
高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前によくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。
ーH0407城下街小唄 ー
 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。
その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。
その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちりできており漫画的ですらある。
彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、彼等の
出す“ウワサ”がその社会を大きく左右する。それが事実であろうがなかろうが“マンダラ”の中心に近い
人間が言った事こそ絶対?(“ウワサ”として)彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”と評価。
固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベストなのだ。“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”
と言える。先日もいやな“ウワサ”を聞いた、今は下火になったのだが、新興の各業界の?1の社長が聞くに
耐えない“ウワサ”を流された。“一種の集団いじめ”、そのストーリーが陰湿でリアル。冷静に考えれば
ほとんどが尾鰭のついたウソである。それがおもしろおかしくて集団ヒステリック的につくりあげられており、
自らの名が出るかどうか怯えている。“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのもの。
ーH0407霊的体験ー
二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。
死後一週間後位か妙な夢をみた。私自身父の気持になり“死にたくない。
もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。
そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。
いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。
夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が実感できたのだと思う。
それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!という不思議な実感。
経験した人間ではないとわからないはずだ。また死後二~三日後の夢も強烈な夢であった。
何か強烈な恐怖感がおそってきた。その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。
と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。
そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが、その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがり
トイレに行った。全身汗びっしょりであった。まだまだ不思議な事がいっぱいある…。
あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。
ーH0407禁断の秘密 ー
「近年の分子レベルの系統進化学は、神学者や哲学者によって数千年守られ続けてきた
禁断の秘密を一気に暴露してしまった。DNA(遺伝子)の構造上の相違量を測ると、
ヒトと二種のチンパンジーは1.6%であり、一方我々に近縁なもう一つの類人猿ゴリラは、
人とも二種のチンパンジーとも2.3%異なっていた。
この結果はゴリラがチンパンジーと人類が分枝する少し前にわれわれより分枝した。
となるとチンパンジーにとって最も近縁な動物はゴリラではなくヒトであり、
チンパンジーは実は“チンパン人”だった。……せいぜい六万年前まで
「単なる大型ほ乳類の一種あるいは、ちょっと変わったチンパンジーにすぎなかった。」
“7/14読売新聞” 東大、動物行動学 助教授・長谷川寿一
霊長類ヒト科ヒト属ヒト、これが我々の今までの分類上信じられており、
人類だけが高み立って勝手に分類していた事になる。
ヒトも含めた三種のチンパンジーの一種でしかなかった。 本当に刺激的“禁断の秘密”