つれづれに

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 あいも変わらず天候不順が続いている。
それでも猛暑続きより良い。





・・・・・・
2333, ホッファー  -2
2007年08月23日(木)
               *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!

この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のように我々に知られるに至ったのは、
マーガレット・アンダーソンという「コモン・グラウンド」編集長である。
「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、
自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。

世に出た著書は、好評だったが、爆発的に売れたわけではない。
あくまでも彼は本の“著者”にすぎない状態だった。
1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で週に一度の学生たちとの
講義も担当するようになったときも話題をよんだわけではなかった。
ホッファーのような変わった人物を講師にするのは、バークレーのやり方である。
しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。
「人にはこのように、世界のどこかでそれを待っているところが、
          少なくとも一カ所はあるものなのだ」ということを。

以下は、ある本からの抜粋である。
  --
ホッファーが人気をもつきっかけは、テレビであった。
1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映され、大反響になった。
それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。
かれ自身はつねに目立たない存在を望んだが、どんな評価も名声もホッファーの生活を
豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかった。
社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”を必要とした。
こういうホッファー・フィーバーのなかで、彼はまったく変わらなかった。
 
沖仲仕をやめて著述に専念するようになるのは六十五歳をすぎてから。
八十一歳で死ぬ(一九八三)まで、本を書きつづけ主要な著作は十一冊をかぞえる。
うち六冊は日本でも邦訳が出たが、現在も入手可能なものは一冊しかない。
これほど数奇な人生があろうかと思わせるほど波乱に富んでいるが、
これ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、
数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。

この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがつまっている。
その一つ一つが、まるで短篇小説以上の仕上がりになっている。
こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっているのである。

自分自身がそのような不適応者の一人であり、その不適応者にまじって
生きつづける中で、「人間社会における不適応者の特異な役割」という、
彼の生涯を通じての思索のテーマ発見する。
「人間の独自性とは何か」ということを考えつめていくうちに、
「人間という種においては、他の生物とは対照的に、
 弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ということと思いあたる。
つまり、「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えている」のである。
そしてアメリカを作った開拓者たちというのも、実は、社会的不適応者が故に、
家を捨て荒野に向かわざるをえなかった放浪者たち(弱者)だったのであり、
それがアメりカ社会の独特の特質をもたらしているという考察にも導かれていく。
  ーー  ー「ぼくの血となり肉となった500冊」立花隆著よりー

ホファーの思想の根幹を成しているのは「思いやり」である。
不適応者に対する温かい眼差しと理解である。
不適応といえば、誰もが他人事ではない。
誰もが思い当たる自分自身へのレッテルである。
自己不一致こそ、本来もっている近代社会の中の特質である。
それぞれが情報化の中でも孤立しているから、
誰もが不適応の弱者と思い込んで自己嫌悪に落ち込んでいるのである。
組織内では、歯車の一つとして自分の自己存在の意識の希薄さに、
孤独感にさい悩まされる「自己疎外」に陥っているのである。
それぞれが孤立している中で、それぞれが自己認識を深め、その中で他人を、
弱者を思いやることこそ、アメリカ社会の特質と考えたのである。
 ボランティア運動も、このような思想の中から生まれてきた。
アメリカの開拓者は、実はそれぞれの国を追われたミス・フィットの人たち
放浪者だった!という説は、なるほど説得力がある!
逆に、ミス・フィットでない適応者?とやらが、哀れに思えてくる本である。           
      
      ホンジャ ミス・フィット紳士淑女諸君 ヾ(´Д`、)マタネ
                         -つづく              
・・・・・・・・・・
2006年08月23日(水)
1968.事業百訓・・・⑥ -1991・1992年(6)
  H0301新年を迎えて!!

 今年は当社にとて第三の節目の年となります。
第一は創業期(十年前)であり、第二は6~7年前の64室→275室に増加した時期。
昨年より五百室へ向けプロジェクトが動きはじめ、今年いよいよ着工の予定です。
 
まず第三シングル・インの増築より開始されます。
66室より135室増築の予定で総事業費は5億5千万です。
当社によって好景気より不景気時の設備投資が効果的であり、
その面でこれからが当社にとって好ましい環境といえます。
それにしてもこの1~2年の変化の激しさに本当に驚かされます。
私の実感として大不況の入口にさしかかっていると思います。
 
特にこの三月より現象面で冷えこみが激しくなりそうです。
その中にあって“より強い業態づくり”こそ当社にとって最優先となります。

ーH0303事業百訓ー
 第一シングル・インの創業以来、丁度十年、自己採点で八十点。
財テクに走ってしまった事と、
 枝葉の学生ショップに力の分散をしてしまった事がマイナス二十点)。
“コンセプト”を明確にし、それを前提とした目標をはっきりさせておけば、
今の客室の150%か200%まで伸ばせたのではないかと欲も出てくる。
それにしても交通体系の変化と、客室のモア・スペシャル、
モア・ディスカウントを結びつけ波に乗れた事も事実であった。

まさか十年間、3,980円を維持できるとは夢にも思っていなかった。
これが我々の社会的価値でもあった。大変な事も多々あったが“
箱づくり”(建物)が好きであった事がすべての汗を心地よいものにしてくれた。
かつ一仕事をやる度に“一人では何にも出来ない事が”身にしみる。
自分はただ旗をふっているだけ。
それと十年かかって大きな息を一呼吸したという実感も残る。
そして空気は我々を助けてくれた取引業者、社員、そしてお客様であった。
私個人として本当に面白い楽しい悔いのない十年間と断言できる。
反独善的な十年間でもあった。さてこれから十年何をするのか?楽しみだ!!

ーH0305事業百訓ー
 376、(危)業 (気)業 (輝)業 (起)業
   (基)業 (旗)業 (企)業 (機)業
  377 、神よ!出切きない事を諦める能力を与えたまえ、
    そして出来る事をやる能力を与えたまえ、
    そして出来ない事と出来る事をみきわめる能力を与えたまえ!
   (ドイツ軍本部に書いてあった言葉)
  378 、私は目がよくみえた時にはよくつまずいたものだ(リア王シェークスピア
  379、 人間という奴は敵を口に流し込んで脳まで盗ませてしまう(オセロ-シェークスピア
  380、 悩んでいる時は動けない!動いている時は悩まない!
  381 、??
  382 、??
  383 、 時流はー
    ディスカウンティング(競争の激化)
    イノベーションターゲット
    複合化   郊外化(本格的車社会)
  384、 人は、これでよいと思った瞬間その人間は利口でなくなる。
    えらいと思った瞬間えらくなくなる。
    自分はこれでよいと思った瞬間、その人はくさったも同然である。

ーH0307事業百訓 ー
 今より20年前、人間には周期(波動)があるのではないかと気がついた。
九年が一周期で前半が陰・後半が陽である。
(マイナス3才~5才) (6才~14才) (15才~23才) (24~32)
(33~41) (42~50才)(51~59)(60~68才)(69~77)……。
そして周期の変わり目が厄年となり 人にとって非常に危険・不安定の年となる。
これは決して人の論理の借物ではなく私自身の周期であるが、
昔より数え年で24・33・42才と厄年と丁度一致する。

中高年の当社の応募の人の履歴書をみていると、
大体厄年をきっかけに何か失敗しているケースをしばしば見うける。
厄年は、丁度肉体的に精神的にも節目の年ではないかと考えられる。
現在の私は今年までが陰で来年が転換の年となり1993年より陽転になっていく。
偶然の一致か事業計画も丁度それにあわせて立ててある。
過去を振り返ってみると全て陰陽はかったように明確になっており、一年の狂いもない。

少し運命論的な書き方になったがそうではなく、
いかにその“節目”をみつけ“運”という波動(勢い)に乗るかである。
“陰”の時は“陽”の為の内的エネルギーの充実をはかる時になる。
これを書いていてマイナス3才(生まれる前の3年)とは、
どういう意味なのか非常に興味がわいてきた。
私の兄が三才年上という年まわりに関係あるのだろうか? それとも……

ーH0309事業百訓ー
 二年前の東欧の大変革、去年のイラクのクェート侵攻、
今年のソ連の八月革命等、世界が予測をはるかに超えた激しい変化にある。
この一連の大変革の根底にあるのは、
七百年間にわたってのロシア帝国の拡大の終えんの現象といえる。
これはフランス革命より歴史的にみて大きな出来事と言える。
そのドラマを我々は連日まのあたりに見ている事になる。
当初は誰もが20世紀における共産主義のそう大な実験と失敗と見ていた。
しかし世界の人々はそれがソ連邦の崩壊の事実も知りはじめると同時に、
これが700年間拡大され続けてきたロシア帝国の崩壊と気づいた。
共産主義はその過渡期の手段として最も有用に働いた。
その思想が故に(史的唯物論反革命分子の抹殺を大義名分として
植民地制作の敵となる者をすべて消し去った。
その犠牲者は少なくみても死者だけで2000万人とみられる。
この数年いや数十年にわたったその実態が次々と公表されていくだろうが、
実際知りたくはない。しかし歴史にたちあったものとして直視していかなくてはならない。
これが始まったばかりだが、次に中国の崩壊に至るプロセスの足音が聞こえつつある。

ーH0311事業百訓ー
 最近私が造った言葉で“夜明けのリゾート・タイム”がある。
江藤淳の“夜明けの紅茶”をもじったものだが)
①早朝(4時半~5時半)起床  ②近くの土手を一時間散歩
③テレビ体操 ④瞑想 ⑤家族全員のお祈り ⑥食事⑦風呂と続く。
特に散歩が非常によい。山の彼方をみながら複式呼吸をして歩く。
季節ごとの草花や鳥をみながら川のせせらぎを聞き、時々に般若心経をとなえる。
この散歩に全てが含まれても過言ではないという“気”にもなる。
 これを実施して4年、
副産物としてアフター・ファイブに出あるく事と、
酒量が激減した事だ。健康食品を口にする事も加えて七kgも体重が減った。
時々不節制が続くと散歩していると身体がだるく重くなるのがはっきり判る。
また朝の風呂も非常によい。当初は疲れが残ったがなれると気分爽快になる。
早朝型のきっかけは松下電器の山下俊彦元社長の講演を聞き感激して、
自ら挑戦してみた事だ。
彼は登山がライフ・ワークであり、その訓練も含め毎朝3時半起床。
1時間半10km歩くという。そして読書とシャワーをあびるとの事。
夜は定時がくるとすぐ帰宅。夜のつきあいは一切断っている。
これが逆に考える時間と、心の余裕をつくったのでないか。
山下跳び(飛躍的出世)の秘密もこれがポイントではないか。

ーーーーーーーー
事業百訓ー1992年(11)
H0401新年を迎えて!!
 字数の関係でカット

ーH0403事業百訓ー
 385 、否定は結論であって、探究を中止する事だ。
  正しい結論は自ら体験をして、あらゆる角度から探究をして、
  疑問を解明してこそ出るものだ。
  根拠のない否定は自らを否定する事になる。(高橋信次
  386、負けた時、すぐ反省することは一番良くない。反省するのは2番目でよい。
   反省というのは、まじめにものを考えすぎてしまうからです。
   そこには笑いがありません。
   趣味や道楽でもそうですが、とにかく無心になる、これが一番です。
   そして心底で笑うことです。
  “商売にうまくいく”“勝負に勝つ”すべてに共通している事は、 
   無心になり笑うことです。
   それが幸せになれる最大の条件です。(米長邦雄
  387 つきつめよ!あいまいにするな!先に伸ばすな!(渥美俊一
  388 “人間の奇妙な特質の一つは他人の欠点はすぐみつけるが、
   失敗の原因となるような己の特質には気付かないという点である。
  ”この問題は人間に限らず企業にもあてはまるもので、
   危機管理における重要な課題を示している。
  389 「人間の真価は、その人が死んだとき、何をなしたかで決まるのではなく、
   彼が生きていた時何をなそうとしたかである。」(ユング

ーH0405事業百訓ー
  390 “阿弥陀仏”“十万億仏土”“極楽浄土”は“空”の別名であり、
   彼等(法然親鸞・一遍)にとっての“空”の解釈であった。
   “空”こそさびしいものでなく、“光明”であり、
   極楽・阿弥陀如来のモチーフを借りた(司馬遼太郎
  391 (一)十一年前に“統一料金×ロープライス×オールシングル
     =(業態の創造”をコンセプトに創業
    (二)(それより三年後)より“規模(量・シェア)の追求
     =300室規模・体制の確立”を次のコンセプトに、
    (三)二年前より次のコンセプトを目指して……
  392 “私は書物を人にはすすめない。
    その人にとって本は買うまでが勝負である。
    本屋でこの本を自分が買うと決めるその一瞬こそ最も大事なのだ。”
   (第一生命・桜井社長・“NHKトップインタヴュー”より)
  393 夫婦というものはおたがいの悪行を果しなく吸いこんでしまう、
    不気味な沼のようでもある。(川端康成“山の音”)
  394 人生は、ただ向こうから与えられるものではない。
   自ら創ってゆくものである。
   自ら創ってゆくには、やはり三つの人生の段階が必要なのだ。
   ラクダの人生とライオンの人生と小児の人生。
   いいかえれば忍耐の人生と勇気の人生、そして創造の人生。
             (梅原猛学問のすすめ”)
ーH0407事業百訓ー
  395 ~402,字数の関係でカット
ーH0407高野山へ旅してー
 十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。
初日は比叡山延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。
また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も
延暦寺ならではのものであった。
翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は
神秘的で左右の墓石群に千年の歴史の深さを感じた。
何げなくみた墓が上杉謙信明智光秀、浅野内匠・伊達政宗
前田利長豊臣秀吉等の墓であった。
三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、
あげていたのが武田信玄の墓であった。
県内では村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。
他にも代々の天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。
この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、
形容しがたい感動的なものである。
その奥にある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげており、
奥の院そのものという感じであった。
秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、
“柳の間”(関白秀次が切腹させられた間)がそれとは知らず、
突然目の前に歴史を見せつけられたようであった。
高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前に
よくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。

ーH0407城下街小唄 ー
 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。
その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。
その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、
“城下街曼陀羅”がきっちりできており漫画的ですらある。

彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。
特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、
彼等の出す“ウワサ”がその社会を大きく左右する。
それが事実であろうがなかろうが“マンダラ”の中心に近い人間が言った事こそ絶対?
(“ウワサ”として)彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”と評価される。
固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベストなのだ。

“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。
先日もいやな“ウワサ”を聞いた、今は下火になったのだが、
新興の各業界の№1の社長が聞くに耐えない“ウワサ”を流された。
“一種の集団いじめ”なのだが、そのストーリーが陰湿でリアリテーにとんでいる。
冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである。
それがおもしろおかしくて集団ヒステリック的につくりあげられており、
自らの名が出るかどうか怯えている。
“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのもの。

ーH0407霊的体験ー
二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。
死後一週間後位か妙な夢をみた。私自身父の気持になり“死にたくない。
もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。
そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。
いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。
夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に
“念”が実感できたのだと思う。
それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!という不思議な実感。
経験した人間ではないとわからないはずだ。

また死後二~三日後の夢も強烈な夢(?)であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。
その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。
と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。
そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが、
その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがりトイレに行った。
全身汗びっしょりであった。まだまだ不思議な事がいっぱいある…。
あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。

ーH0407禁断の秘密 ー
「近年の分子レベルの系統進化学は、神学者や哲学者によって
数千年守られ続けてきた禁断の秘密を一気に暴露してしまった。
DNA(遺伝子)の構造上の相違量を測ると、ヒトと二種のチンパンジー
1.6%であり、一方我々に近縁なもう一つの類人猿ゴリラは、
人とも二種のチンパンジーとも2.3%異なっていた。
この結果はゴリラがチンパンジーと人類が分枝する少し前にわれわれより分枝した。
となるとチンパンジーにとって最も近縁な動物はゴリラではなくヒトであり、
チンパンジーは実は“チンパン人”だった。……せいぜい六万年前まで
「単なる大型ほ乳類の一種あるいは、ちょっと変わったチンパンジーにすぎなかった。」
“7/14読売新聞” 東大、動物行動学 助教授・長谷川寿一

霊長類ヒト科ヒト属ヒト、これが我々の今までの分類上信じられており、
人類だけが高み立って勝手に分類していた事になる。
ヒトも含めた三種のチンパンジーの一種でしかなかった。
本当に刺激的“禁断の秘密”