つれづれに

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 さて、もう明日はシネマの日。早いものだが、
毎週それなりに、面白いのがある。 

 家内は日帰りで御上り。
葛飾北斎と美術展と歌舞伎ですと!

 



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・・・・・・

5455, 閑話小題 ~あれから、あと少しで5年
2016年02月21日(日)

   * あれから5年ですか!
 倒産といえは、身近の人に詐欺同様の手口で、次々と手形の連帯保証の
請け判を押してもらい、高利貸しから借りまくり、夜逃げか、保険をかけて
自殺のケースが多い。 私のケースのような余力を持って整理に入るケースは
少ない。そのため、資金繰りの経験を一切しないで済んだことに誰もが奇妙に
思って当然。振返ると、止め時は、あの一点のタイミング。駄目押しが偶然
起こった3・11の東北大震災。それで迷いが消えてしまった。
 倒産は、当事者と関係者にとって、大惨事。連鎖倒産とか、詐欺同然の借金
がなかったのは、その恐ろしさを知っていたため。 一年もしないうちに、
ホテル営業を引き継ぐ業者がいなかったら、テナントの入居者を連鎖倒産に
追いこんだかもしれない。倒産の釜の中は熱湯の地獄。だから、社会的にみて
前科に近いレッテルをはられて当然。2割弱を家内名義の給与にし、健康保険と、
厚生年金を40年かけ、それ以外を家内が預金にしていたのも、私と家内の実家
の家系(ハビタス)を含めた商売人の知恵を引継いでいたため。
 一点豪華主義のライフワークの「秘境・異郷ツアー」を除いた普段の生活が
豪奢でなかったことも、わが身を助けている。当時、うつ病にならない対策の
生活習慣を厳し目にたて、現在も淡々と続けている。それが慣れてくると、
快適で、面白く、結構楽しいのである。それでも、落込みが無くはないが、
比較的安定している。
 早朝の読書習慣と、インターネット、散歩(今はチャリ)などを、
一週間単位のスケジュールを淡々とこなす日々も慣れれば底深くなる。
5年といえば、大きな区切りになるが、問題は70歳を超えたこと。
本気で身辺整理に入らないと。とはいえ、最大の会社整理も済んでいる。
  (後記 ~で、以下の内容につづく。)
『 誰に愛され、誰を愛していたか。何を感謝されたか。
  確かに貴方が生きていたことを私は憶えています。 』
この言葉に近い祈りで、毎朝、この文章を書き上げた後、仏前で、
亡き両親と、兄、姉、恩師、恩人、友人の顔をリアルに思い浮かべている。
人は愛し愛され、憎み憎まれ、許し許され、感謝し感謝され、生きて死んで
いく。それで、いいんじゃないかと思う。よい人生だったとしみじみと思う。 
 空即是色である。 お後がよろしいようで! 書残すのは良いことだ。
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5091,閑話小題 ~『悼む人』が良かった!
2015年02月21日(土)
   * シネマ、 『悼む人』が良かった!
事故現場で、地に躓き、右手を頭上に挙げ空中に漂う何かを捕らえるように
自分の胸へ運ぶ。左手を地面すれすれに下ろして大地の息吹をすくうかのように
胸へ運び、右手の上に重ねる。目を閉じて、何かを唱えるように唇を動かす青年…
『 誰に愛され、誰を愛していたか。何を感謝されたか。
  確かに貴方が生きていたことを私は憶えています。 』
悼むことは、愛を憶えておくことだ!どんな人にも、様々な愛のカタチがあると、
作家・天童荒太直木賞受賞作『悼む人』を堤 幸彦が映画化したもの。
 イスラム国とか、奇妙なテロ集団が殺伐とした殺人を公開している現在、
ベストのタイミングの内容である。 ~まず、映画サイトのブログより
≪ 天童が『悼む人』を書くに至った発端は、2001年、9・11同時多発テロ事件、
 およびそれに対する報復攻撃で多くの死者が出たことだった。これらの悲劇
だけではなく、世界は不条理な死に満ちあふれていることに改めて無力感を
おぼえた天童に、天啓のように死者を悼んで旅する人の着想が生まれた。
彼は実際に各地で亡くなった人を悼んで歩き、悼みの日記を三年にわたって記し、
その体験を元に2008年、『悼む人』を刊行した。そして2011年、日本は再び
大震災に見舞われ、我々は改めて不条理な死と向き合う事を余儀なくされた。
 人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。ふいに目の前から消えてしまった者に対して
誰もが抱く行き場のない思いをどうしたらいいのか。病や事故のような逃れよう
のないことであれ、殺人という加害者によることであれ、かけがえのない「生」
を損なわれた時、人は深く傷つき、苦しむ。静人は旅をしながら、「生」を
奪い奪われる人たちと出会っていく。母を見殺しにした父を憎む男。愛という
執着に囚われて夫を殺した女。末期癌療養に病院でなく自宅を選ぶ母親…。
静人自身も、大好きだった者の死を忘れるという行為に自らを責め続けていた。
「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」
死者に対してこの3つを見つめ、記憶することで、逃れることのできない
「死」を、「愛」によって永遠の「生」に変える。これが、人のできる最善
なのではないか。静人の〈悼む〉行為はそう語りかけてくるようだ。
その「愛」の記憶は、見た人の数だけ無数にある。静人が黙々と死者を訪ね、
その愛の記憶をひもとき、呪文のように言葉にし、祈る姿を見ながら、観客は
個々の「愛の記憶」を呼び起こしていく。そして、自分は誰を、どんなふうに
愛し、誰かに、どんなふうに愛されたであろうか。また、これから誰を愛して
いくだろうか。そんな思いにも繋がっていく。≫   ー評価~90点
▼ この映画を観ながら、そして、夜半、誰から愛され、愛し、感謝されたか、
 を考えさせられた。最近、思い出てくる記憶は、純粋な気持ちで、感謝された
シーンと、言葉である。その時は、何とも感じなかったことが、数十年の時を
超えて、フッと蘇ってくる。「ダカメ女の正体」の真逆の愛と感謝の照射!
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4726,シェールガス革命 ー3
2014年02月21日(金)
  * シェールガス革命の拡大で日本経済も大復活?
「石油危機で原油150ドルに!」という見出しを、あまり耳にしなくなったのは、
世界的不況に加えて、次のエネルギー源のシェールガス開発が進んでいるため、
その技術を日本が大きく担っていることは、あまり知られてない。 
  ーまずは、その辺りからー
《 米国では、急速にシェールガス社会へとシフトが進み投資ブームになって
 いるが、それを技術的な面で支ているのが日本。もっと言えば、日本の技術力
がなければ、アメリカのシェールガス社会へシフトは実現できないと言ってもよい。
大阪ガスアメリカのテキサス州で開発権益を取得。現時点で、シェールガス
本格的採掘は米国やカナダに限られているが、今後、急速に世界的規模で拡大
していくことになれば、日本がもつ圧倒的な技術力が世界市場で席巻することに
なるのは確実。さらには、シェールガス革命のメリットは、製造業の世界だけで
なく、日本の社会全体が享受できるようになる。石油よりはるかに安いシェール
ガスが手に入って、シェールガスを燃料とする火力発電が増えれば、電力の
供給価格は下がる。そうなれば、アメリカと同じように、日本の製造業の競争力
が高まるとともに、工場の国内回帰にもつながる。その結果、雇用も増え、
経済成長にも貢献することになるだろう。》
▼ アメリカ経済の復活は、日本にとっても大きなプラス要素だが、アメリ
 への属国化が、更に強くなる。タイミングが良かったのか悪かったのか、
東北大震災で原発安全神話が根こそぎ壊れてしまった。同じ危険なら、まだ
危険度の低い自然化石エネルギーへの選択に流れに変わろうとしている。
ということは、地球温暖化と、自然破壊がますます進むことになる。
人間は、自ら作りあげた文明で、自らを破壊する運命にある。最近、パキスタン
フンザの住民の写真を何枚か見たが、何とも純粋で綺麗な目をしているが、
それに比べ日本も含めた先進国の人たちの人相の悪いこと!
シェールガス革命の拡大で日本と世界経済も大復活」というより、
それが人類の未来にとって、最悪の結果になるのでは?
・・・・・・
4359, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー3
2013年02月21日(木)    「残酷な世界で生き延びる・・」橘玲著    
 * 貨幣空間は、友達のいない世界    
 40年以上も事業の世界にいたため、貨幣世界にドップリと浸かっていた。
何はさておき事業を最優先にしないと、競争社会では生きていけない。
事業の性格上(装置産業)、人間関係の貸借表の資産を増やす必要がなく
楽だった側面がある。
 ー以下は、政治的空間と、貨幣空間の違いを明確に述べるー。
≪ 友人や知人の政治空間の基本は、敵を殺して権力を獲得する冷酷な
 パワーゲームだ。それに対して貨幣空間は、競争しつつ契約を尊重し、
相手を信頼するまったく別のゲームが行われている。人間社会には富を
獲得する手段として、?相手から奪う(権力ゲーム)?交易する(お金ゲーム)
という二つの方法がある。権力ゲームは複雑だが、お金ゲームはシンプルだ。
誰だってシンプルが良い。だから必然的に貨幣空間が政治空間を侵食していく。
また中間共同体では、それが顕著になる。それはPTAや自冶会、会社の
同期会のような「他人以上、友達未満」の人間関係の総称だ。しかし日本や
欧米社会では、貨幣空間の膨張により、共同体が急速に消滅しつつある。
そんな活動は、お金を払ってサービスを受ければよいというわけ。
貨幣空間があれば、それだけで十分という人が増えてきたのである。
それは、「友だちのいない世界」の出現で、愛情空間がダイレクトに貨幣空間
(市場)と向き合う新しい世界に生きるようになってきた。友人のいない世界
は、愛情空間は夫婦や親子、恋人単位に最小化し、人間関係はますます濃密で
複雑になっていく。かっての人間関係は村的な共同体に分散していたが、
いまでは極限られた一人か二人にすべての感情が集中している。・・・ ≫
▼ 現在、団かいの世代が定年になり、子供たちが巣立った家庭内では老夫婦の
 権力闘争で大変だろう。他人事でないが・・ これらからして、教養と、
ちょっとした小金を持って貨幣世界を独り生きるのがベストに思える。特に
歳を重ねると、残忍の愛憎空間は残酷である。とはいえ、弧族も辛いもの。
どちらも辛いなら、あとは選択の問題になる。貨幣空間もリッチかプアーかで、
全く違ってくる。「金に換えないものもある?そりゃ金額によるだけさ!」
という小話がある。「数百億の資産を残して死んでいくのと、それを全てを
面白可笑しく使い果たして死んでいくのと、どちらを選ぶ?」のの問いの答は、
その人による。私は後者を選ぶ。しかし愛憎空間、いや愛情空間に生きてきた
人は前者になる? 現に、一桁下げると自分自身の問題になる。 
で、「この結果!」という、落ちになる。父親は面白楽しく生き、資産を残し、
 それら全てを生前贈与をして死んでいった。お陰で人生を面白可笑しく
生きられた。 一度限りの人生。三度、万歳と感謝!
・・・・・・
3984, つれづれに ー地震
2012年02月21日(火)
  * 大地震後の数年は非常事態である
 地震学者によると「大地震後の数年間は非常事態という歴史的事実がある」
という。それも500年に一度の大地震は特に非常事態。噴火も厳重注意。
週刊誌の見出しが決して過激でないようだ。 歴史的大地震で日本の全体が
大きく歪んでしまい、その連動が起る前提で対策を取るべき事態である。 
特に東海、東南海、南海トラフ地震と関東直下地震が起こる可能性が高く、
今回の東北地震の規模に匹敵するという。その沿岸にある浜岡原発の休止も
やむを得ない。知れば知るほど、この東北大震災が大規模だったことが
分かってくる。それも津波による原子炉の破壊も加わったことも深刻。 
奇しくもリーマンショックで、500年にわたった欧米中心主義の終焉も
重なり恐慌前夜。その上に首都圏周辺で小さな地震が頻発し、5年で5割
前後の確率?で直下型地震が起こる可能性があるというから・・ 首都圏
在住の人は東海・東南海・南海地震か、直下地震が5年で5割の確率を前提
とし対処するのが筋。ということは、福島第一原子炉による放射能の影響を
加えると、幼児のいる家族は移住を考えるべきだが・・ あとは、勘?
   * 今の政治はやるやる詐欺
 日本の二大政党政治というと聞こえが良いが、野党は政権を奪取するため
政権与党のマイナス面をとらえ綺麗事の政策を並べ立て、政権を取った時は、
よりよい政策を実行しますと約束をする。いざ政権を取リ実行段階になると、
それは野党時代の綺麗事。その妄想実現のため予算の散蒔きで凌ごうとし借金
の上乗せをする。その結果、国家収入の二倍の予算をたてざるを得なくなり、
現在は国家破綻一歩手前。 それでいて、その数分の一も実行できない
やるやる詐欺」。 もう限界に来ているが、野党側は、同じスタンスを
とるしか方策はない。しかし一番悪いのは騙される国民。ところで小沢一郎
「消費税の増税をしたら日本が危ない」と反対をしたが、冷えきった景気の
上に、企業もギリギリの経費節減の上の5%アップは実際に危ないコストアップ。
その上に、電気、ガスなどコストアップになれば民主党そのものが危ない
のではなく、日本が危ないのは本当だろう。 とはいえ、上げないと国家予算
が成り立たなくなる。要は、袋小路にドンドン追い込まれてしまった。
そのツケは弱者に集中してくる。
 ・・・・・・・
3619, 忘却の整理学 -4
2011年02月21日(月)
               「 忘却の整理学 」外山滋比著
  * 忘却はゴミ出しに似ている
 忘却は、ゴミ出しに似ている。この情報化の時代に必要としない情報は、
どんどん捨てた方がよい。そのままに放置しておくと神経に良くない。
「忘却不全症」は、大変なことになる。アメリカに過去の記憶を殆ど憶えて
いる女性がいるという。何歳の頃の日付をいうと、殆ど思い出す。
これは本人にとって非常に苦痛である。 自分を考えただけで、ゾッとする。
忘れるから生きていられる。忘却は不純、不要、よけいなことを洗い落として、
昇華、純化させる作用がある。フロイトは「人間には、嫌なことを忘れさせ、
良かったことを憶えている癖がある」といっている。海外旅行中は普段の
数倍の質量の経験をする。良いこと三分の二、嫌なこと三分の一の思いをする。
そこで嫌な思いを意識的に捨てることにしている。 帰路の飛行機や列車で、
連れ合いと良いことだけを少しオーバーに話し、マイナーの話は絶対にしない。
復習すれば記憶に残ることを経験上、知っているから記憶の調整をしてしまう。
その記憶のコントロールは非常に重要になる。人生でも、これが出来るかどうか。
人の悪口・陰口を趣味にしている人を見かける。他者批判は自分の影を言って
いる過ぎないことを知らないのだ。そのゴミが記憶に溜まって悪臭を放って
いる自分のことを。その辺に教養が出てくる。忘却のノウハウも教養になる。 
ところで痴呆症の現象では、明るいヘラヘラした人の方が多い。何割かは、
怒りの比重の大きい人がいる。性格もあるが、脳は最期は苦痛を与えないように
出来ているようだ。ボケたが勝ちか! 天然ボケもいるが。 若かりし頃に、
脳が加熱をしすぎて変になりかけた時、加熱で浮き上がってきた思いを、ノート
に書き出し、乗りこえたことがあった。これもゴミ出しの一つか。
比較的、文章を抵抗なく書けるのも、こういう経験がある。
 書く行為も、ゴミ出し? かいな。 自分では宝のつもりだが・・
 ・・・・・・・
3254, 大恐慌 入門  -2
2010年02月21日(日)
 ここで考えさせられる一文がある。P241)
< 古今東西、99%までの人が最終的に投資では儲かりません。
 1~2年、仮に10年間儲けたにせよ予期せぬ変動やトレンドの変化に対応
できず、全て吐き出すのです。
*1980代には生保をはじめとする金融機関は大量の米国債保有していた
 ものの、急激な円高で損失を出した。
*1990年から始ったバブル崩壊では、大手銀行が持ち合いの株の大幅評価損で
 業績悪化もあいまって、公的資金の導入を余儀なくされた。2003年までの
 株式の暴落で年金基金の存続が危ぶまれ、数多くの年金が解散、やはり国民の
 財産だった株式を売却をした。これらは、外国人投資家が買い捲った。
【投資で儲けることができないのは、投資家が大きなトレンドの変化に対応
 できないということ】です。投資の世界では、トレンドが一方向、特に
 上げの時は比較的簡単なのです。 日本の1945年から1990年までの日本、
 または2003年から2008年までの世界の株式市場などです。 
 基本的に買って持っていればよいのです。

・・・・・・
5433,人生で最も大切な技術 ー⑬ 純粋意識
2016年01月30日(土)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 心の本質、純粋意識の経験
 仏教の教えの真髄を、欧米人向きに説明するための、「純粋意識」が、明快
でよい「色即是空 空即是色」の心境が「純粋意識」であり、修行の一つが、
座禅になる。それにしても、明快な解釈である。 ~その辺りから~
≪ 心の中には、絶え間なく流れ続ける思考の流れがあるという、それまで
 一度も気づかなかったことが見えてくるだろう。好むと好まざるとに関わらず、
感覚、記憶、想像から生まれる無数の思考が人間の心を永久に流れ続けている。
 ところが、人間がどのような種類の考えを抱こうとも、心の中には、一つの
特質が存在している。それは、あらゆる思考の基礎をなす根源的な意識である。
それは心が安らかな稀な瞬間にしか現れず、ほとんど動かないが、心の知力が
そのままそこに残っている状態でもそこに存在している。この単純に解放された
自由な存在は、「純粋意識」と呼ばれるものである。心を構成する内容が不在
でも、それだけは存在しているものだから、純粋意識と呼ばれるのである。
 心が心を観察する作業を一段深めると、この純粋意識とその働きによって
生まれる思考を経験するだろう。純粋意識は必ずそこにある、としか説明の
しようがない。この思考には生まれつき備わった性質があるのか。
特別に存在するのか。 答えは否である。
 では、色や形はあるか。同じく否である。そこに見出すのは、知(無知の反対
の意味での)の本質だけであるが、それ自身には本質的な特徴はない。純粋意識
に突入すると、心に本来備わっている中身が空の状態を経験する。この思考
ゼロの考え方は疑いもなく、西欧心理学には馴染みのないものである。
「思考をゼロにする目的は何か」
「第一、怒りなどの強い感情や考えが生じたら、何が起こるのか」。
 確かに、強い思考には誰でも簡単に屈しそうになる。なぜなら、人間を不安
や無分別にさせ、時には暴力的な発言や行為に走らせ、他者を苦しめ、やがて
後悔する結果を生じる、無数の新しい思考を増殖するのがこの強い思考だから。
このような雪崩現象が起こらないように、怒りのような激しい思考そのものを
つぶさに点検すれば、それが最初から煙や鏡のような存在でしかなかったこと
がわかるだろう。純粋意識から生まれる思考は、純粋意識に再び吸収される。
それは海から生まれた波が再び海に消えていくのと同じである。この原理が
理解できれば、心の平安に向かって大きく前進することができたといえる。
この瞬間以降は、思考が心の障害になる毒素が弱まり始める。この手法を習熟
するには、一つの思考が浮かんだ時、その考えがどこから来て、いつ消えるか、
どこに行ったか、を自問自答することである。取り留めのない散漫な思考に
妨げられない、この短い瞬間に、心の本質を熟視するのが良いだろう。
 過去の考えが沈黙し、未来の考えが未だ起らないこの瞬間こそが、光り輝く
聡明・純粋な意識の存在を気づかせてくれる。その意識は、頭で組み立てた
概念的な構築にへつらうことがない。この純粋意識を実際に体験することで、
仏教がいう心の本質を次第に理解できるようになるのである。≫
▼ 純粋意識で純粋意識を説明しているから、スッと理解できるのか。
 般若心経を忘我の状態で唱えている状態が純粋意識。では、仕事に
没頭の状態は、どうだろう? 少し違うか。 以前、大きな決断をする直前の
眠れない夜の二時半が、純粋意識に近い状態になっていた。その時、さあ、
どうする?と。 それでも、多くの間違いがあったが、自分としては、
考え尽くして決めたことと諦めがつく。思考の果ての、思考ゼロもある。
これも純粋意識とチト違うか。 

ーH0407高野山へ旅してー
 十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。
初日は比叡山延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。
また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も延暦寺ならではのもの。
翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は神秘的で左右の墓石群に
千年の歴史の深さを感じた。何げなくみた墓が上杉謙信明智光秀、浅野内匠、
伊達政宗前田利長豊臣秀吉等の墓であった。
 三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、あげていたのが武田信玄
の墓であった。県内では村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。他にも代々の
天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。
この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、形容しがたい感動的
なものである。その奥にある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげて
おり、奥の院そのものという感じであった。
秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、“柳の間”
(関白秀次が切腹させられた間)がそれとは知らず、突然目の前に歴史を見せ
つけられたようであった。高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前に
よくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。
 
ーH0407霊的体験ー
二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験を
してみた。死後一週間後位か妙な夢。私自身父の気持になり“死にたくない。
もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。
そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。いや私自身
(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。
夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が実感
できたのだと思う。それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!
という不思議な実感。経験した人間ではないとわからないはずだ。
また死後二~三日後の夢も強烈な夢であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。
その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。
と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。
そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが、その時隣に寝ていた母が
スクッと立ちあがりトイレに行った。全身汗びっしょりであった。
まだまだ不思議な事がいっぱいある…。あれ以来最近は少なくなったが
幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。

――――
 ーS6305ー 新井石龍禅師に学んだ事 ー1
学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、
六日町の禅寺“雲頓庵”に読書を兼ね春・夏休みになると滞在させていただいていた。
度々なので自然と禅師と話をさせていただく機会が多々あった。無知と若さの為
平気で生意気な質問をした私にいつも笑顔で答えていただいた事が、今では懐しい
思い出になっています。
 (私) -禅とは一言で言うと何ですか?
 (禅師) -字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。
社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の夏休みでの
雲頓庵の禅師との対話 
(私) -世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかなという事がつくづく
    わかりました。
(禅師) -あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。
    世間も理屈もあるものか!
(厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。

後者の時は頭を真二ツにわられてしまったというのが実感でした。
頭で物事を考えていた私が、“自分が”前に出ていた私が、その時点でたたき
こわされ、社会人の一員にやっと一歩踏み入った瞬間でした。
 ーS6307ー 人生は雷光なり
 二人で二百才になろうという人の対談の中で、過去百年をふりかえり、
実感として“人生は雷光のようなものだ”
               以下字数の関係でカット2008年8月20日