読書日記 ~すべての悩みは対人関係 ~3
『アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』小倉広・著
* 魂を浄化するには、そのままの自分を認めよ
人間と、他の霊長類の違いは、イメージを持てるか否か。そのイメージは、
言葉と文字化の能力がなせる技。だから読書習慣の必要性がある。
それを育てるには、遊び(ゲーム化)が必要となる。格安の「秘・異郷ツアー」
で‘地球の何でも見てやろう’を地球を碁盤目に見たて、当初は外側(僻地?)
から埋めることをゲーム感覚にしてきた。
・旅先で情報を仕入れて行先を決めると、
・家内が予測通り、猛然と反対する。そりゃケニアのサファリといえば当然。
しかし、何故か必ず『家にいるより良い』と、付いてくる。危ないところほど、
素晴らしい物語が待っている。誰に頼まれて、アフリカに行くのか。ツアー仲間
は、私のような変人?ばかり。しかし、その先は、マイナス(トラブルなど…)
1に対し、プラス3の夢のような至高体験が必ず待っている。それは、アドラー
の言葉そのもので、この上ない体験がある。旅先のベストの楽園と魂が融合する。
劣等感、優越感は「対比」の結果。 しかし旅先にあるのは絶対の世界。
現生の世界からループを通って楽園?にスリップするゲーム。 それは向うから
はやってこない。自ら飛込んでいく!からこそ、出会える経験。 旅のプロから
すれば貧弱だが、私にとっては宝物。
まず、現在の自分を乗越えなくては…
《 ・あなたが劣っているから劣等感があるのではない。どんなに優秀にみえる
人にも劣等感が存在する。目標がある限り、劣等感があるのは当然なのだ。
・劣等感を抱くこと自体は不健全でない。劣等感をどう扱うかが問われているのだ。
・強がりはコンプレックスの裏返し。「強く見せる」努力をやめて、「強くなる」
努力をすることだ。
・人は注目されないと、悪さをしてでも注目を集めようとする。
それに失敗すると、今度は自分の無能さを見せつけるようになる。
・「みんなが私を嫌っている」「今回ダメだったから次もダメだ」という思い
こみは冷静に立証を試みれば消えていく。 》
―
▼ これらから学べることは、魂の中心部分の浄化の質の問題。それは高めるに、
アリキタリになるが、感動、感激、感謝などから魂の浄化の蓄積が必要になる。
映画でも、旅行でも、芸術との触媒でも、可能な限り自ら求めて… これは、
老いがすすむにつれて表だってくる… 人生の夕暮れ時が60歳の還暦とすると、
75歳からは、日没時?
…そういえば‘なかにし礼‘がテレビ朝日で、4年前に食道がんが再発し、
「1日単位で大事に生きてください」と医者から告げられるほど酷い状況だった。
しかし、抗がん剤治療で何とか… 。 そこで印象的だったのが、
<80歳の風景は70歳と全く違う。あちら側って感じ>という言葉が残った。
その前に前期高齢者と後期高齢者の区切りの75歳がある。これも厳しいらしい。
それまで魂の浄化を、自ら課してきたか否か。 人生は濃度だけではない。
その質の純度による? 今さら慌てても致し方がないが。
☆ これまた、過去の文章が、脈絡にピッタリとあっている。
としても、我ながら真面目に書いていたもの…
ありのまま、過去は嘘をつかない? で、何で、このザマなの!
だから、このザマなのさ! 「ご覧のとおり、そのまま結構」ってなわけ。
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6188,閑話小題 ~「自分は運がいいほうだと思う?」 -1
2018年02月21日(水)
* 自分は運がいいほうだと思うか?
先週末の朝日新聞で「自分は運がいいほうだと思う?」をテーマにしていた。
~要旨といえば~
< 有名な話では、松下幸之助さんが社員の採用面接のとき、よく
「あなたは運が良い方だと思いますか?」と聞かれたといいます。自身でも、
「自分は運がいい」と一日に何度も言うという。 その理由の一つは、
そう自分に言い聞かせ思い込むと、自信が持てるようになり自分から積極的に
行動できるようになるということ、もう一つは「自分は運がいい」と思う人は、
今を肯定的に捉えて、悪いことが起こっても他人のせいにしないと…
そして「自分は運がいいほうだと思う?」に、7割が運が良いと、3割が悪い
と答えるという。
運が良かったと答えた一番の理由が、良い人間関係に恵まれていること、
良い環境と、良い両親のもとに生まれたため、そして成功が失敗を上回って
いるためという。
運が悪かった人では、「思い通りの人生ではない」ことと、努力が報われない、
努力が報われない、人間関係が恵まれてなかった、などをあげている。>
―
☆ ~運について幾つかネット検索からひろってみると、
・人生の岐路で迷った時に、困難な方を選んだ方が運はついてくる。
・楽観主義の方が運がよく成功しやすい。
・夢や目標がかなった状態をいつも頭のどこかで思い描いていると、幸運が
目の前に現れたときにキャッチできる。ーなどがありました
―
☆ 「運がいいと思っている人ほど運が良い」ということです。確かに成功して
いると見られる人ほど「自分は運がいい」という。
正反対の「自分は運が悪い」と言い続けている人がいます。会社の愚痴、仕事
の愚痴が多いですが、思い通りの仕事はなかなか担当させてもらえず…
―
▼ 運については、30数年前の経営セミナーで、『運の作り方』という
テーマで聞いたことがあった。創造工学研究所所長の中山正和氏で、川喜田
二郎のKJ法に対し自身の方法をNM法と名づけた。 ~その要旨といえば、
<何かをする前に、判断をするが、結果が良ければ運が良かったという。逆に
悪ければ運が悪いという。それには、心が澄んでいるほど正しい判断が出来る。
そこでまず、般若心経を暗記し、唱え続けることで、心を空にして、現象を
捉えて判断し、ことに当るに、般若心経は、プラスに働く。> …と。
そこで3週間かけ暗記することに相成った。暗記してしまえばしめたもの。
何時どこでも、夜半、眠れない時とか、通勤の車内とか、チョッとした合間に
唱えることで、悟りに近い状態になれる。私の因縁のある有識者?の多くが、
例えば二人の息子や、兄夫婦、直ぐ上の、姉、会社の正社員などの人たちが、
暗記することに相成っていた。100人は下らないない?。
…で、この有様? 茹でガエルになってしまったからじゃないですか。
~つづく
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H0605
般若心経のすすめ
十年前に創造工学の中山正和氏の“運のつくり方”という講演で、
般若心経のすばらしさを聞いて一ケ月がかりで丸暗記をした。
今まで何万回唱えただろうか。
当社では入社教育で丸暗記が必須となっている。
二人の子供ま毎朝の仏壇での私のお経の為か丸暗記をしてしまった。
十年間の経験より(私の実体験より)
直観した事を列記すると
①自分サイズの時空を超えた一つの視点をえた
②心臓音に波長があっている(リズム)
③α波がくみこまれている
④“念”がこの中に入っている
⑤お寺・神社等で唱えるとTPOとして、
その場のイメージが鮮明に残る
⑥情報雑念等を切断、整理をする働きがあり、
結果として“運=無意識の判断”を左右する
⑦これをくり返しているとベースとして“空”がつみ重ねられてゆき、
自己の中にその中空がつくられる
⑧夢の中で“空”を直感するイメージを得られた、
等々限りない。
立花隆と宇宙飛行士との対話の中で
「彼等は地球をはなれた体験の中の一瞬に、
キリストや仏等の教祖が苦難の上で直感した“絶対無”を観た」
のではないかと言っている。
それは般若心経をくりかえしの中で、
少しでも近づける様な気がする。
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2016/09/25
閑話小題 ~幸運の人と、不運な人
* 人は、すべからく幸運である
以前、書いたことばかりだが、思いのまま、「幸不幸」について書いてみる。
・人間は、「いま、ここに、私」として存在するだけで、幸運である。
「神様の御導きびき」といえば、それまでだが、幸運な偶然の一致の重層で、
存在している。他者と比較が、この幸運を見えなくしている。
・自らを幸運なタイプと自認する人と、不幸と自認する人との、一生の間の
運命の差は膨大になる。不運な人は、チェンスがあっても、自分が駄目と
思っているため、目前にあっても気づかない。どうせ、駄目だからが無意識
のうちに働き、そのチャンスに気づかない。
・幸運な人は、チャンス到来に、そら来た!と敏感である。何せ、幸運だから。
幸運であるには、何があっても上位に自らを置かなくては。まずは20%に、
そして、6%、3%、1%にと。
・幸運な人は、幸運のある同類を呼ぶ、というより集合する。幸せ本には、
まず、「幸運の人に近づけ」と。彼らには、幸運を自ら引き寄せる力がある。
・以前、<幸運を呼寄せる力を得るためには、『般若心教』を暗記をして、
ことあるごとに唱えなさい>と、創造工学の先生の講義を聞いて、早速、
二週間かけて暗記をした。「色即是空 空即是色」と、心を澄ませておけば、
情報選択と決断も間違わない。運とは、判断し、その行為が、正しい場合を、
「幸運」といい、間違った場合を不運という。だから、情報に対する純粋な
視線が必要となる。特に、情報過多の現在こそ、重要である。
・生活習慣は、第二の天性である。 二ランク上の生活習慣を立て実践すれば、
二ランク上の人になれる。その差は、時間とともに莫大になる。
・「恒産あって、恒心あり」、長年かけた蓄えが必要となる。なぜ?といえば、
人の心を自由にも不自由にする力が、金銭の有無に厳然としてある。お金の
心配からの解放が純粋な心を生み、それが幸運を呼ぶ。(真逆もあるが)
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5044,生と死をめぐる断想 ー1
2015年01月05日(月)
『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
* 死をそばに感じて生きる ~団十郎の辞世
ー 色は空 空は色との 時なき世へ ー
以下は、序文の冒頭の内容。日本人の2人に1人の割合でガンになり、
3人に1人の割合で亡くなるという。高齢化で、ガンになるまで、死ななく
なった結果、死を意識する時間が長くなったこともある。今では死に関する
知識を、一般の人が、ネットなどから死生観を収集したり、表現できる機会が
増えている。 ー まずは序文の冒頭からー
≪ 2013年2月に亡くなった歌舞伎俳優の市川團十郎の辞世の句だ。
葬儀の場で長男の團十郎のパソコンに残されていたという。
詠まれたのは前年の十二月、亡くなる数ヶ月前である。
色は空(そら)、空は色(いろ)との 時なき世へ、と海老蔵は読んでいた。
この句に接し、『般若心経』の中のあの一節を思い浮かべる方は多いだろう。
色即是空 空即是色。それに寄せて読むならば、冒頭の句は、
色は色(しき)空 空(くう)色(しき) との時なき世へ、となる。
色はかたちあるものと、ひらたくは言われる。空は空っぽ、何もない、という
ことか。空しい、ということか。かたちあるものは実は何もない、空しい、と
教えているのか。そうではない。(略)・・ このことは追々深めたい。
時なき世とは。時間のない世。時間を超えた世。超時間性は永遠と言換えられる。
それは、この世に対するあの世なのか。この「時なき世」が團十郎の句では
「色は空空は色」と「との」でつながる。「との」は、と言われる、とか、と
聞いている、の意だ。色即是空、空即是色とかねてより聞いている時なき世。
「へ」は方向を示す助詞である。色即是空、空即是色とかねてより聞いている
ところの 時なき世へ、自分はこれから行くのである。團十郎の死生観を
表す句と言える。(略)・・ 團十郎が、死を前に遺した五七五が、芸についての
教えでなく死生観の表出だったのは、私には少し意外、けれどもすぐに理解できた。
團汁郎は長く血液のがんを患っている。治療の副作用による絶え間ないめまいと
吐き気を無間地獄と、あるインタビューでは曝えていた。何度も再発入院し、
骨髄移植をしていた。・・・≫
▼ 色を「しき」と「いろ」、空を「くう」と「そら」と、息子が間違えて
言ってしまった可能性もあるが、真偽はわからない。栄華を極めたあと、
とたんの苦しみの死際の言葉であればこそ、心に響く。 即興の辞世!
《 色即是空 死んでしまえば それまでよ 空即是色 》
・自分の世界をつくって、門を開放し、取捨選択をして浄化、続けること。
▽ 過去を振り返ると、冷汗が出るほど、多くの危険が多かった。が、何故か、
間一髪、すり抜けていた。親から引継いだ倫理観とか、学んできた知識、
情報からくる判断が、運の悪さを最小にしていた。特に、自問自答の「自答」
が大事ということ。良い本を選択、読み続けろ、そして楽しめ、ということ。
・・・・・・
5433,人生で最も大切な技術 ー⑬ 純粋意識
2016年01月30日(土)
『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
* 心の本質、純粋意識の経験
仏教の教えの真髄を、欧米人向きに説明するための、「純粋意識」が、明快
でよい「色即是空 空即是色」の心境が「純粋意識」であり、修行の一つが、
座禅になる。それにしても、明快な解釈である。 ~その辺りから~
≪ 心の中には、絶え間なく流れ続ける思考の流れがあるという、それまで
一度も気づかなかったことが見えてくるだろう。好むと好まざるとに関わらず、
感覚、記憶、想像から生まれる無数の思考が人間の心を永久に流れ続けている。
ところが、人間がどのような種類の考えを抱こうとも、心の中には、一つの
特質が存在している。それは、あらゆる思考の基礎をなす根源的な意識である。
それは心が安らかな稀な瞬間にしか現れず、ほとんど動かないが、心の知力が
そのままそこに残っている状態でもそこに存在している。この単純に解放された
自由な存在は、「純粋意識」と呼ばれるものである。心を構成する内容が不在
でも、それだけは存在しているものだから、純粋意識と呼ばれるのである。
心が心を観察する作業を一段深めると、この純粋意識とその働きによって
生まれる思考を経験するだろう。純粋意識は必ずそこにある、としか説明の
しようがない。この思考には生まれつき備わった性質があるのか。
特別に存在するのか。 答えは否である。
では、色や形はあるか。同じく否である。そこに見出すのは、知(無知の反対
の意味での)の本質だけであるが、それ自身には本質的な特徴はない。純粋意識
に突入すると、心に本来備わっている中身が空の状態を経験する。この思考
ゼロの考え方は疑いもなく、西欧心理学には馴染みのないものである。
「思考をゼロにする目的は何か」
「第一、怒りなどの強い感情や考えが生じたら、何が起こるのか」。
確かに、強い思考には誰でも簡単に屈しそうになる。なぜなら、人間を不安
や無分別にさせ、時には暴力的な発言や行為に走らせ、他者を苦しめ、やがて
後悔する結果を生じる、無数の新しい思考を増殖するのがこの強い思考だから。
このような雪崩現象が起こらないように、怒りのような激しい思考そのものを
つぶさに点検すれば、それが最初から煙や鏡のような存在でしかなかったこと
がわかるだろう。純粋意識から生まれる思考は、純粋意識に再び吸収される。
それは海から生まれた波が再び海に消えていくのと同じである。この原理が
理解できれば、心の平安に向かって大きく前進することができたといえる。
この瞬間以降は、思考が心の障害になる毒素が弱まり始める。この手法を習熟
するには、一つの思考が浮かんだ時、その考えがどこから来て、いつ消えるか、
どこに行ったか、を自問自答することである。取り留めのない散漫な思考に
妨げられない、この短い瞬間に、心の本質を熟視するのが良いだろう。
過去の考えが沈黙し、未来の考えが未だ起らないこの瞬間こそが、光り輝く
聡明・純粋な意識の存在を気づかせてくれる。その意識は、頭で組み立てた
概念的な構築にへつらうことがない。この純粋意識を実際に体験することで、
仏教がいう心の本質を次第に理解できるようになるのである。≫
▼ 純粋意識で純粋意識を説明しているから、スッと理解できるのか。
般若心経を忘我の状態で唱えている状態が純粋意識。では、仕事に
没頭の状態は、どうだろう? 少し違うか。 以前、大きな決断をする直前の
眠れない夜の二時半が、純粋意識に近い状態になっていた。その時、さあ、
どうする?と。 それでも、多くの間違いがあったが、自分としては、
考え尽くして決めたことと諦めがつく。思考の果ての、思考ゼロもある。
これも純粋意識とチト違うか。
ーH0407高野山へ旅してー
十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。
初日は比叡山の延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。
また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も延暦寺ならではのもの。
翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は神秘的で左右の墓石群に
千年の歴史の深さを感じた。何げなくみた墓が上杉謙信、明智光秀、浅野内匠、
伊達政宗、前田利長、豊臣秀吉等の墓であった。
三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、あげていたのが武田信玄
の墓であった。県内では村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。他にも代々の
天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。
この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、形容しがたい感動的
なものである。その奥にある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげて
おり、奥の院そのものという感じであった。
秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、“柳の間”
(関白秀次が切腹させられた間)がそれとは知らず、突然目の前に歴史を見せ
つけられたようであった。高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前に
よくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。
ーH0407霊的体験ー
二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験を
してみた。死後一週間後位か妙な夢。私自身父の気持になり“死にたくない。
もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。
そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。いや私自身
(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。
夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が実感
できたのだと思う。それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!
という不思議な実感。経験した人間ではないとわからないはずだ。
また死後二~三日後の夢も強烈な夢であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。
その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。
と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。
そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが、その時隣に寝ていた母が
スクッと立ちあがりトイレに行った。全身汗びっしょりであった。
まだまだ不思議な事がいっぱいある…。あれ以来最近は少なくなったが
幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。
――――
ーS6305ー 新井石龍禅師に学んだ事 ー1
学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、
六日町の禅寺“雲頓庵”に読書を兼ね春・夏休みになると滞在させていただいていた。
度々なので自然と禅師と話をさせていただく機会が多々あった。無知と若さの為
平気で生意気な質問をした私にいつも笑顔で答えていただいた事が、今では懐しい
思い出になっています。
(私) -禅とは一言で言うと何ですか?
(禅師) -字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。
社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の夏休みでの
雲頓庵の禅師との対話
(私) -世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかなという事がつくづく
わかりました。
(禅師) -あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。
世間も理屈もあるものか!
(厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。
後者の時は頭を真二ツにわられてしまったというのが実感でした。
頭で物事を考えていた私が、“自分が”前に出ていた私が、その時点でたたき
こわされ、社会人の一員にやっと一歩踏み入った瞬間でした。
ーS6307ー 人生は雷光なり
二人で二百才になろうという人の対談の中で、過去百年をふりかえり、
実感として“人生は雷光のようなものだ”
以下字数の関係でカット2008年8月20日)