つれづれに

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  今日のYoutube

 昨日は、ディズニー映画、『リメンバー・ミー』をみてきた。
面白かったが、小・中学生向きで、ミスマッチの感が残った。
しかし、映像だけでも充分に価値を感じられた。





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5480,人生で最も大切な技術 
            ー30 人生を豊かにするために死を心に刻む 
2016年03月17日(木)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ・リカール著
  * 人生を豊かにするために死を心に刻む
 メメントモリ(死を忘れるな)。 心理療法に、臨終のワークがある。
生き方に迷った時に、自分の臨終を想像し、何に価値を置くべきか、もう一度
判断しなおす方法。50歳を過ぎた頃から、知人が次々と亡くなっていった。
しかし心の中では、「ひと(他人)は先、我は後」の気持ちが強かった。
ところが、いつの間にか70歳の現在に至って、他人事でなくなってきた。
そこで数年前、75歳辺りを目安に設定したが、さて? ーその辺りからー
≪ 人生に背を背くことなく、死に直面するにはどうすべきか。
 絶望や恐怖に 駆られることなしに、死を考える方法はあるだろうか。
エティ・ヒレスムの言葉を引用しよう。「人生から死を排除することで、
完全な人生を送ることはできない。反対に、死を歓迎することで、人間は
成長し豊かな人生を送れる」。死をどのように捉えるかが、人生の質を大きく
左右する。ある人は恐れおののく。無視することを選ぶ人もいる。過ぎ行く
どの瞬間にも真価があることを認め、生きる目的をしっかりと認識するため、
死を熟視する人達もいる。死を人生の一部として受容することが、不断の努力
を続けるための気力を養い、無益な気晴らしに時間を時間を浪費することを防ぐ。
 誰もが死に直面する一方、そのための準備の方法は千差万別である。
12世紀のチベ・トの聖者、ガンポーパは次の言葉を残している。
「初めは、罠から必死に脱け出そうとして、もがく雄鹿のように死を恐れる。
中間点に着くと、丹念に畑の手入れをしてきた農夫のように、`何も悔やまなく
なる。最終段階に至ると、偉業を成し遂げた人のように、幸福になる」。
 死を恐れるほうが、死を無視するよりも遥かに学ぶことが多い。死に付きまと
われて生きることはないが、人間の存在の脆さに気づいていることは大切である。
このように死を理解するのは、人生で残された時間を十分に味うのに有益である。
死は、しばしば警告なしに訪れる。たとえ、健康に恵まれ、友人と美味しい
食事を楽しんでいたとしても、最後の瞬間を越えて生き延びることはできない。
友人を、中断された会話を、半分の食べ残しを、未完の計画を、残して去らねば
ならないのである。 その瞬間に何も悔いはないだろうか。とてつもない人間の
可能性を最大限に引き出した人で、悔いを残した人がいるだろうか。
天気が良かろうが悪かろうが、来る日も来る日も汗水流して種を撒き、作物を
刈り取って働続けた農夫は、最善を尽くしたのだから何も後悔することはない。
その瞬間に、自分自身を責めるのは、成すべきことを怠ったからである。
より優れた人間として自分を向上させ、他者の幸福に貢献するため、あらゆる
瞬間を使い切った人にとって、死は平安となる。≫
▼ この20数年、死とは何かを考え続け、多くの本を読みあさってきた。
 一番、心に残ったのが、「死後は生前に戻るだけ」。生とは、その間の
一瞬の間である。その間、宇宙、地球、世界、大自然、社会、人間世界の
光を可能な限り見ることではないか。死んでしまえば、それまでよ。
生きているうち、元気なうち。そのためには、現在なすべきことを、元気な
うちに、なすべきだが・・ 歳のせいにし、漠然とした日常をこなすだけ。
 意外なことは、思ったより、死の恐怖感が少ない反面、押しとどめていた
苦い記憶のフラッシュが多いこと。若い時にみた年寄りの内面が、これほど
複雑で、膨大の過去に覆われているとは思いもしなかった。ことに臨んで、
後悔しないかを自問自答してきたが、「後悔しないことなど無い」と、
何ゆえ、思わなかったか? 「これを後悔したとしても、それは仕方ない」
である。でも、実際は、そう考えていた? 「そのまま結構!」ということ。

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4750,閑話小題 ~マレーシア機不明はテロとすると
2014年03月17日(月)
  * マレーシア機不明で、謎深まる
   ー まずは、断片的ニュースより
《 マレーシア機不明 乗客のうち2人が盗まれた欧州連合EU)加盟国の
 パスポートを悪用して搭乗していた可能性があることが、当局の発表や
 関係者の発言で8日に明らかになった。3月8日 》
《 ナジブ首相は、首都のクアラルンプールを離陸したマレーシア航空機の
 通信手段が離陸からほどなくして、意図的に切られたことを明らかにした。
 機体はその後、マレーシア東海岸の上空で航空管制のレーダーから外れ、
 西に向きを変えたという。そして、マレー半島を横切り北西へ向かった。
 離陸から約1時間25分後には、軍のレーダーからも姿を消した。
 こうした機体の動きについてナジブ首相は「こうした情報は(操縦士でない)
  何者かが航空機を操縦したと考えて矛盾しない」と述べた。
 また通信衛星のデータを解析した結果、軍のレーダーから消えた約6時間後
 の午前8時11分に機体の信号が衛星にとらえられていたという。レーダー
 のスイッチを切った上で当初のコースを外れ、6時間も飛行していたことが
 明らかになったマレーシア航空機。3月15日)》
《 機長は反政府派のアンワル・イブラヒム元副首相の熱烈な支持者であり、
 元副首相は先日3月7日、同性愛罪で禁固5年の実刑判決を受けた。
 消息不明になったのは翌日。なんらかの抗議か? 3月16日 》
▼ 当時、中国の全国人民代表大会全人代=国会)が開催されていたが、
 それに対するメッセージの可能性がある。「3月1日に発生した雲南省
 昆明駅でのテロ事件」や、「北京・天安門毛沢東肖像画汚す」事件も、
 党への不満。その一連とすると、非常に恐ろしい事件になる。
 消息が不明とすると、既に自爆をしたと見るべきか?それとも、何処かの
 国に侵入して撃ち落とされた?か。もし、機長がテロ犯としたら、北京の
 全人大に突っ込むことも可能だったが、その防御体制が出来ていただろうか?
 もし、実行されていたら「ソ連と同じような崩壊過程に入るほどの事件。 
 真相は、まだ分からないが、機長そのものがテロの実行犯としたら、
 「事実は少説より奇なり」になる。 中国の政治・経済バブル崩壊
 チョットしたキッカケで起こる可能性を含んでいる!

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3278, 哲学者は神について、どのように語ったか ー6
2010年03月17日(水)
  * ニーチェの「ルサンチマン
「財力や権力より、魂の美しさに価値があり、他者を愛し、他者のために尽しなさい。貧しき者は幸いである。」
と説くキリスト教。 その道徳も、弱者の自己防衛にすぎないと主張したニーチェ。弱者同士が欲望を否定し、
弱者同士が慰めあう考えに矛盾を感じ「死後の天国」という幻想のため善行を積むことを「奴隷の道徳」と否定、
天国のことを考え、この世の生を否定することを、死への意思と非難した。神、天国が幻想と暴いたニーチェ
「神が死んだ」と宣言をした。宗教そのものが弱者がつくり出した幻想と堂々と当時、言い放ったのである。
キリスト教を教会、権力者、弱者を「貧しきものは幸いである」で、納得させるに都合が良かったのである。
彼は人間の生の原動力を「力への意志」と考えた。誰も自分をパワーアップして生きたいもの。しかし、大部分の
  人は挫折をし恨みや憎悪(ルサンチマン)を抱えて、小さく生きている。要は、この世の生に向き合わず、宗教の
天国や来世を幻想して生きるのである。その幻想をキッパリと捨て去り、今の、この世を生きることを肯定せよと
主張したのである。 神が死んだことで、神によって規定されることなく、無限の可能性を持ったともいえる。
キリスト教で絶対的な神は、人間を創造する存在だったが、神が死んだことで、人間こそが真の創造者になった。
人間は何を創造するのかというと、「超人」である。超人とは、「人間は神なしですませる為に、勇気、頭脳明晰、
自負、独立性と苛酷性を持った人間」である。超人は、そうした強靭と知恵とを持って、その生を生きます。
生の苦痛に耐えて、それを肯定することは、自分の運命に堪えることになる。
悲惨でも、その「運命を愛すること」のみが必要にとされるのである。
人間は、「生まれ、生きて、死んでいく」、この意味のない有為転変が永遠に続くだけだが、
自分に与えられた運命を良く生きることで、この永劫回帰の苦痛を克服できるのである。
各々の運命を愛しながら生きることが大事なのである。一応、彼で近代が終わったといってよい。
 権力者や、それにつながる聖職者にとって大多数の弱者をコントロールするに宗教ほど都合良いものはない。
ヨーロッパ人が、アフリカやアジアに進出する前段階に、キリスト教の普及をしたのは、そのためである。
アーリア人がインドを占領し、ヒンズー教をつくり、カースト制度を植えつけたのも、それである。
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2903, 日本は輸出立国か?
2009年03月17日(火)
 野口悠紀雄は、その著書「世界経済危機」で、「アメリカの金融立国に対応して円安にして資金を供給し、
かつ円安メリットを最大限利用して輸出立国をつくりあげた日本はアメリカと同罪である」と断じている。
ところが果たして日本が輸出立国かという素朴な疑問が生じるのも事実である。
そこで他国のGDPの輸出比率はどうなっているか調べてみたところ、意外な数字であった。
・中国 37パーセント    ・韓国 37パーセント
・ロシア 30パーセント   ・欧州平均 50パーセントの数字であった。
原油輸出国のクエート 56パーセント。他の産油国では90%以上だろう。
これからみると日本は輸出立国と果たしていえるのだろうか。しかし輸入が13~4パーセントになるので、
輸出をしなければ国が成り立たない。特に資源輸入国なので、それを稼ぎ出さないければならない。
石油などのエネルギーを20兆円、食料6兆円の輸入をしているから、少なくともそれだけの輸出を
確保しなければならない。食料自給率が40パーセントを割ったことも、日本にとって不利である。
とはいえ、日本は中国など世界中に工場を移転してるので、一概に輸出立国を否定はできないが・・。
世界はグローバル化している中で、企業も国際化しないと生存できない時代である。
アメリカのサブプライム問題で、日本の産業をリードしてきた輸出産業の崩壊は、国の存亡の危機。
特に今年が最重要の年である。 現在の日本の政治は、それに対応しているのだろうか?と考えると
暗澹とした気持ちになってしまう。 非常事態には、非常体勢が必要なのに、何をしているのだろうか?
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2539, 閑話小題  2008年03月17日(月)
 *三月の風景
三月は何ともいえない雰囲気で好きである。節目の時だからだろう。「誰々が、どこそこの大学に合格した、
入社した」とか、駅には卒業式の羽織袴の姿と、小・中・高校を卒業した少年少女のエネルギーが街に
溢れかえる。近くの散歩コースの土手の雪が融け、小さな犬の散歩の姿が見られるようになる。
春の到来ということだ。 企業は退社する人と、入社する人の交差の不安定の。時期になる。
野球のオープン戦と開幕戦が始まり、サッカーの開幕、大相撲春場所が始まり、春の高校野球
そして卒業式の学生の姿が初々しく微笑ましい。 一年の節のの時節ということだ。
 *サブプライムローンと毒入り餃子
タイミング的に丁度良く、サブプライムローンと毒入り餃子問題が重なった。悪質な不良債権をミックス
した債権を餃子とみると、あまりに似た問題である。それもサブプライムアメリカの格付け機関の保障入り
ときている。世界の金融機関にばら撒かれていて、気づいていないところが多いから始末が悪い。
中国の冷凍餃子も、中国当局がまだまだ、ことの重大さを認識してないので、問題は更に拡大する。
これを切っ掛けにアメリカのドル本位制に近い通貨への不信が拡大し、ドル暴落はさけてとおれない。
それからくる大混乱が生じはじめ、ドル本位制度から資源本位制度がいわれてきている
 *骨美人と水美人
(字数の関係で中略ー2010年3月17日)
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2007年03月17日(土)
2174, 14歳からの哲学ー 2
          オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
今回は池田晶子の真骨頂の部分といってよい「死について」考えてみよう。
以前に「あたりまえことばかり」という著書の中でも、死について述べている。(いや、彼女のあらゆる
著書の中で述べているが・・)最近、「死」について考えると心地良いのはどういうことだろう。
死を考えることは、生を考えること、人生そのものを考えることだからである。いや、歳をとったと
いうことか。「あたりまえのことばかり」の中の、?章 生きているとはどういうことかーの一節から・・
 ー死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。自分が死ぬという経験は絶対にありえない。
もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思う。ここが大事なことですが、死体は死ではない
ことに気づくと色いろなことがわかってくる。死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。
それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。無というものは無いから無なわけです。
無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、
言われている無というものは無い。すなわち死はない、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い
死を在ると思って人は生きていくのか。その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の
光景が、可笑しく見えてくる。
 無いものを在ると思っているのですから。思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、
これは面白い。ですから、死が存在しないと気がつきますと「人生」という言葉の意味するところが
まるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。なぜなら死は無いのだから、
人生の意味はまるっきし変わってくる。
 「あたりまえのことばかり」よりー
しかし、この[14歳からの哲学」の中の死についての説明も、なかなか含蓄が深い。
  まずは、その部分を抜粋してみよう。
ー7、死をどう考えるかー P51
生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。人は、「死」という言い方で「無」ということ
を言いたいんだ。でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」ということは、「ない」ということなんだね。
無は、ないから、無なんだね。それなら、死は、「ある」のだろうか。「ない」が、「ある」のだろうか。
死は、どこに、あるのだろうか。死とはいったい何なのだろうか。君はたぶん、死ぬことを恐ろしいと思って
いるだろう。死んだら何もなくなるんじゃないかって。でも、何もなくなることは「ない」はずだ。
なぜって、「ない」ということは、「ない」からだ。じゃあ、なぜ、「ない」ものが怖いのだろう。
ないものを怖がって生きるなんて何か変じゃないかと思わないか。 逆に、死んでしまいたいという気持ちに
なることもあるだろう。 死んだら何もなくなって、すっきりするだろうなって。
でも、やっぱり、それも「ない」よね。死んだって、「ない」ということは「ない」のだから、それなら、
 死ななくたって同じじゃないか。 あるいは、他人を死なせたい、殺したいという気持ちがよぎることがある。
でも、もしも、殺しても実は人は死なないとしたら、どうする? 生きている人が死のことを知らないのは
当たり前なんだ。なのに、世の中の人はほとんど、この知らないことを知っていると思って生きているんだ。
じゃあ、誰もが知っていると思っているこの「生きている」 ということは、死を知らないとしたら、
何を言っていることになるのだろう。
 ーー
評)「存在と無」の論証ということになるが、これは難しいといえば難しい。死は生前に戻ること!という、
道理が好きだが、生は生前と死後を取り巻いている無に浮かぶ一点という、小さな球状のイメージである。
それは誰にも取って変えることができない自分だけの宇宙の一点である。
そう思うと、自分の人生をもっと大切にしなくてはと、おもうのだが。
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2006年03月17日(金)
1809, ずっとやりたかたことを、やりなさい-2   
           才八∋ウ_〆(∀`●)  ー 読書日記
 ーモーニング・ページー
この三日間、起き掛けに大學ノートに筆の向くまま書いて驚ろいた。思ったままそのまま、大学ノート3p
に何の起承転結など制約せずに書く。 だいたい30分位である。著者は、十年間これを続けているという。
この随想日記に似ているが。
 ーまずは「モーニング・ページとは何か」を、私の主観で集約して書いてみるー
モーニング・ページとは朝起きて書くノート3P分の日記のことをいう。
創造性を開発するためのツールである。寝起きの潜在意識がむき出しの脳で、ノートを3P埋める。
テーマなどなしに思いついたことを「排水」のように、とにかく書き続ける。作文とさえいえない代物でよい。
ただ手を動かして、心に浮かんでくる、愚かなこと、奇妙なこと、何でも、どんなことでもかまわないから、
  そのまま書き続ける。 書き始めの八週間は、それを読み返さないほうが良い。
続けていると、だいたい2P目、3P目には思いもつかなかった新しいアイデアや、自分の中に隠れていた
気持ちやアイデアが次々と現われる。こんなことを考えていたのか。こんなことが好きだったのか。
毎朝、発掘されるのは自分という潜在に隠されていたアイデアと気持である。
続けているとダンダン面白くなる。誰にも邪魔されない静かな時間の中で一人書き続ける。
マイナスの言葉ばかりが飛びかう日常的世界から離れのがよい。早朝座禅を組んでいるのに似ている。
座禅は始めた当初、表面と違って心の中は雑念で騒々しい。このモーニングページは、その雑念を言葉に
して一人書きだす作業であろうか。そのうちに雑念の向こうにある創造的活動が出てくる。
この本では毎週課題が出ていて「あなたが他人がばかげてると言わなければ是非やってみたいことを
10個取りあげなさい」とか「あなたが取りあげた10個の中から一つ始めなさい」等、わかりやすい。 
  自由に日記を書いていたつもりでいたが、自分の左脳の検察官がチェックをしていた事実を、たった
  数日のモーニング・ページで気がついた。
  この本の基本的ツールは
・毎日3P書くノート「モーニング・ページ」と、
・週に最低2時間は「自分一人で自分のココロや魂の喜ぶ行動をとりなさい」という
「アーチスト・デート」の二つである。まだ始めたばかりなので、経験を重ねた後に再び書く。
 始めて数日だが続けたら、何かが根本的に変わってくるだろう。                       
                   ーつづく         バイ ._〆('Д'*⊂⌒`つ               
  ・・・・・・・
2005年03月17日(木)
1444, 孤独について-5
 孤独は心の問題をそのものをズバリ語っている。絶望の果てに突詰められる心の状態は、
   人生で何度もある。孤独は絶望感の果てに到達するケースが多い。
   「孤独であるためのレッスン」ー諸富 祥彦 (著)の本の内容で考えさせられる部分を書き出し、
   更に考えてみる。
・「ひとり」と「孤独」についてムスターカスによると、彼の孤独について考えを語るうちに、様々な反論を
   受けました。孤独というものは、人間関係の失敗であり、挫折の印に他ならない、と言われ続けてきたのです。
 彼によると、孤独の真の意味を理解できない人の多くは、
・ひとりでいる体験と、
・深い孤独との区別ができない ゆえに誤解を生じているのです。両者の区別について、いずれも大切なものだ
   と断りながら、次のように言っている。「孤独とは対照的に、ひとりの時には、私達は意識的なコントロール
   働かせて、意図し、考え、決断している。ひとりでいると、私達は必要な休息を得られる。一方、孤独でいると、
   私達はギリギリの状態に追い込まれる。ひとりの時は、私達の体験に、展開と継続性がもたされる。一方、
   孤独の時は、全体的、革新的な変化を私達にもたらしてくれる。 ひとりの時は人の中に帰っていく。
   孤独な時は自分に帰っていく道を開いてくれる。」
 また、別の箇所では、「ひとりとは、たいてい過去や未来にまたがった中間的な状態であるが、孤独とは、
   常に生命に直接、今、ここでかかわっている状態である。ひとりとは、自分に没入していることである。
 孤独とは、自分とともにありながら、さらにそれを越えて、新しい自己を創造しようと激しく一瞬に生きる
   ことである。」と説明を加えている。ムスガーカスのいう孤独な時とは、「人生の一大転機点の時であり、
   孤独に浸っている時、人は、もっとこの激しさが続けばよいと願ったり、永久に離れたくないと思ったり、
   あるいは、底なしの絶望感に捕らえられたり、信頼が裏切られたり、さんざん打ち砕かれてしまうことがある。
   このような強烈な驚きに震え、深いショックに身を砕かれた時に『私はひとりだ』と言っても、その体験を
   伝えるには不十分である。それでは孤独の肯定的部分も否定的部分も伝えられない。
 一方、『私は孤独だ』と言うと、独特のニュアンスが付け加えられ、引き裂かれた状態が示される。」
   過去と未来を断ち切り、新たな自分に生まれ変わりを余儀なくする、有無を言わせぬ一瞬の体験を意味するのです。
次に、ムスターカスは「孤独に対する不安」と「実存的な不安」を区別します。
「孤独に対する不安」はー生と死の重要な問題に直面するのを避けるために、絶えず他人とかかわりを求めて、
 忙しく立ち働いて、本質的な孤独を打ち消そうと防衛から生まれる。 一方、「実存的な孤独」とは、
  ー人間の本質に目ざめていることの証であり、生の動乱や悲劇、変転に直面していく際に育まれるものである。
   この世に生まれて、激しく生き、ひとり死んでいくことの本質にある孤独が実存的な孤独である」さみしさは、
  しばしば、人と人とのつながりが拒否されたり、離れ離れになることによって体験されているものである。
  一方、孤独とは、自然の静けさの中で無言で木や雲や波に語りかけたり、静かに詩をひとり読んでみたり、
   音楽に聴き入ったり、芸術作品をひもといていたときに去来する。
孤独になる勇気を持つこと。 孤独を楽しむ能力を持つこと。
この二つを備えた人間にしか、これからの時代、ほんとうのしあわせを獲得はできないはず、である。
 ーーー
孤独は誰も何時も直面している問題である。だから教養とての知識の必要性が出てくる。
社会通念としての「孤独はさびしいもの、避けるもの」を、まず疑ってみることだ。
特に、携帯を持った猿にとって! 「自覚のないゴミ」になり下がる前に。 去年の同日の、
  永六輔がいう「虚しさ」を知った孤独こそ永遠への扉の「いま、ここ」を覗いていることになる。
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2004年03月17日(水)
1078, 「最後の言い分」ー読書日記
図書館で借りてきた「最後の言い分」が面白い。
50人の有名人が語る人生のラストメッセージを、それぞれ短編にまとめてある。
 東京新聞編集局 (編集)
ーレビュー
 (字数の関係で中略ー2008年3月17日)
 ーー
この随想日記に「私の遺言」「死について」を書いてきた。ラストメッセージにはチト早い気がしたが、死は
  直視し続けると逆に生がみえてくる。私の場合、父が亡くなった時は喪失感、母が亡くなった時は自立感であった。
ただ、寂しさは無かった。二人とも自分の中でしっかり生きていたからだ。母は今でも月に数回夢にリアルに出る。
二人から学んだことは、死ぬのは生きることと同様、そう簡単なことでないことだ。「最後の言い分」も生きて
  いる内の戯言でしかない。でも、戯言が死んだ後のシミにもなる。 残すか残さないかはその人しだいである。
・・・・・・・・
2003年03月17日(月)
712, 光ファイバー導入半年の実感
 以前も光ファイバーのことを書いたが、導入後半年の感想を書く。強引に営業に入れられてしまったが、
それでもよかったと思えるようになった。月に一万円もするが、この4月から6千円に値下げの予定とか?
電話代が一切かからないから、5~6千円あたりが適正プライスだろう。ADSLでもよかったのではないかと
  疑問が今でも残っている。今までの100倍、ADSLの10倍に近い速度だ。時間が経つほど、その能力の
  凄みを実感している。特にホームページが映像に移行しているしているのがよく解る。古館伊知郎のホームページ
  「トーキングブルース」8本が3ヶ月で5千円とか。この普及はホームページだけでなく、IT電話など根こそぎ
  時代を変えるだろう。実際どうなっていくか誰も解らない。先日も書いたが、本の読み方が変わってしまった。
1度目を通し後に、その本の題名をキーワードにいれて書評を読むのだ。その後読んだ方が効率的になる。
たまたまネットウエーブで知った人の読書日記を読むと、今のベストセラーの概略と書評を読むことができる。
  8割がたは?内容を把握できる。 それができるのも瞬時にホームページが出てくるからだ。
まだブロードバンドの入り口しか立ってないが、想像すらできない時代に入ってしまったようだ。
  ・・・・・・・
ー以前に書いた文章をコピーしておきます。
2002年09月20日(金)  525,-光ファイバー
(字数制限ためカット09年03月17日)