つれづれに

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 昨日は、横殴りのような雪だったが、今朝がたの庭をみると、
 さほどの積雪はなかった。ただ、寒いこと、この上ない。





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4699,末期がん、その日のための予習を ー2
2014年01月25日(土)
       ー「末期がん、その不安と怖れがなくなる日」樋野 興夫 (著)
 余命の期間を宣言された瞬間から奈落の底に突き落とされ、独り悶えること      
になる。そこで医師による患者に対する「心の処方箋」が、この第一章にある。
人は言葉によって救われる存在。その目次の小テーマそのものが、要約された
救いの言葉。知っているかどうかが大違い・・ 三冊の愛読書と、iPodと、
好きなDVDの用意か?  シリアス過ぎる? 
   第一章 がんとの賢い暮らし方 の目次より
・日本人の2人に1人がかかる国民病 
 ー「よりによって自分だけが!」でなく、丁反の確率と割り切るしかない!
・がんになっても天寿はまっとうできる ー「ガンで死なない時代」。
  遅らせ、天寿を全うすると割り切るべし!
・がんの不安とともに暮らす時間が増えていく 
 ー長生きの負の部分と割り切るしかない!
・人間関係の悩みは病人も健康な人も同じ 
 ー病気の悩み、家庭内・職場での偏見は、健康体でも同じと割り切るべし!
・10の悩みを0ではなく7に減らす ー所詮ゼロにするのは無理なら、
  少しでも減らす算段を!その差は大きい
・不安解消には「がんを忘れる」こと、「がん」の優先順位を下げる 
 ー好きな音楽を聴く、iPodなど準備をしておく
・柔軟性は強さ、頑固は脆さ ー泣いても笑っても同じ空と、心を柔軟に
・「目下の急務」がわかれば不安はなくなる ー言残すこと、書き上げるなど・・
・未来でも過去でもなく「いま」を生きる ー分からない未来より、
  目の前にある「いま」を大事に生きる
・いい思い出は、いまの活力 ー原点に帰ることで、今を整理する
・「今日が人生最後の日」と思えばいい ー健康人も、毎日を最後と
  生きれば、怖れは減る
・死ぬのは確実、いつ死ぬかは確率 あいまいなことは、あいまいに 
  罰が当たったと思う必要はない 
・罰は荷物として背負っていけばいい ー意外な落とし穴が、過去の後悔と自責
・発症するとはかぎらない「遺伝性のがん」 ー40歳前半で家系が全て死んで
  しまう人の話、ところが当人は!60過ぎ
・「がんの家系」にまつわる誤解ー食事など環境要因のガンが7割、その他3割
・がんも「個性」のひとつ ー 一律に考えないこと 自分自身の内と割り切る    
・不安や怒りは他人との比較から生まれるー自分一人の問題(人 *) 南無阿弥陀仏
・「看板かじり」は精神的に脆い 
  ー勤め先の肩書きだけに生きないこと。別のライフワークを持つべし
・衣食住が足りればそれで良しー勤めていたら閑職に甘んじるべし割切るべし
・顔を変えれば世界が変わる ー悲観した顔は他人に見せない。
               感謝の気持ちで第三者に接すれば顔は変わる
・「大好き」の気持ちは強い武器 ー医者や患者に、まず大好きという
  気持ちを持つこと、その前に現状の肯定を
・人間関係は鏡のようなもの ゴールまでが見通せないこともある
・ふまじめも、きまじめも「ほどほど」がいい ぁゎ(ω`;))((ノ;´・ω)ノぁゎ
・ネガティブな状態からいつ抜け出すか ー良かった思い出の領域にいるよう
  意図的にコントロールする
・人生いばらの道、にもかかわらず宴会 八方塞がりでも天は開いている 
  ー地球見学に来て、そろそろ元に帰還するだけ!
▼ いずれ誰にも訪れる死神、上記を心がけて、独り静かにプッツンと逝く。
 そして、生ゴミ。 さほど遠くない近未来にこれを真剣に読み返す時期が
来ると思うと凍りつくが、とはいえ、最優先すべき知識である。゚;Д;゚;カタカ?

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5428,人生で最も大切な技術 ー⑨ 幸福は可能か
2016年01月25日(月)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福は可能か
 インド独立の父 マハトマ・ガソディの以下の言葉が良い。
< 手に入れられる外的自由の大きさは、ある瞬間の成長段階で獲得済の
 内的自由の大きさに比例している。それが自由についての正しい考え方なら、
 自己の内側を変革することにエネルギーのすべてを集中すべきである。>
外的自由から、逆に内的自由を得ることも、しばしばあったが、やはり、
内的自由から入るのが順当だろう。節目を打つというのは、挫折や、成功から、
これまでのステージから次の段階への変化にエネルギーを集中すること、
外的自由から、内的自由を得るための行為と思索をいう。読書で、著者の
世界にトリップするのは内的世界の自由を得る身近な手段。また、瞑想も
しかりである。今ではTVも、インターネットもある。 ~その辺りから~
≪ 精神的な修行は、驚くほど多くの結果をもたらす。日々わずかの時間を
 瞑想に割くだけで、精神を鍛えることができる。想像以上に多くの人たちが
通常の家庭生活を営み、仕事に励みながらこうした訓練を続けている。
このような生活態度のプラス面は、煩わしい時間のやりくりといったマイナス
面をはるかに超えている。こうした訓練を続けることで、現実的な日常生活の
中で心の変革の旅に乗りだすことができるのである。パストゥール研究所で
研究に取り組みながら、パリの生活にどっぷり漬かっていた頃、数分しか実行
しなかったにもかかわらず、毎日の瞑想は非常に有益だった。
 日々の活動の中に、芳香が漂い、これまでにない価値を見出すことになった。
ここで言う瞑想とは、単なるリラクゼーションではなく、内面に目を転じる
ことである。思考がどのようにして生まれるのかを静観し、憂うつなものも
陽気なものも、すべての思考の裏に常に潜んでいる平安、静寂、純粋な心の
様相をじっくりと見つめる作業である。それは思ったほどに複雑で難しいこと
ではない。ほんのわずかな時間を割くだけで、瞑想がもたらす効果を実感し、
結果を認識するようになる。自分の中で起こっていることを内観する、その
経験を少しずつ身につけることで、思考経路をよりよく理解するようになる。
その結果、心の毒を洗い流すコツがつかめるようになる。
 心の平和を少しでも感じられるようになれば、生気溢れる感覚の維持と煩雑
な職業を両立することが難なくこなせるようになる。同様に、心身が不安定で
不安感の強い状態(過度の自己中心としばしば関連する)から自分を開放する
ことができたとき、恐怖心は弱まり、人に対して自然に心を開き、「人智
超えた存在の気まぐれ」と呼ばれる運命に翻弄されずに、それに直面できる
ようになる。国だろうが教会だろうが、あるいは専制君主でさえも、
人々に人間性向上を義務づける権力を持たない。これは本人の意思で選択する
しかない。統計遺伝学者のルカ・キャヴァリ・スフォルツァとその息子
フランチェスコが雄弁に述べている。
【心の自由は、自分が制限するか、制限することを許した他者が制限する場合
を除けば、限界がない。その自由は偉大な力をもっている。個人を変革させ、
その能力を最大限に伸ばし、人生のあらゆる瞬間に、完全な満足感をもたらす。
個人が意識を成熟させれば、世界も変わる。なぜなら世界は個人の集合体だから。】
▼ 私にとっての午前中の読書や、ネットや、寝室や居間でみるTVドラマと
 映画も、内的世界を自由に飛びまわっていることになる。それに比例して、
外的世界が広がっていることも確かだが、瞑想で、心の内から、広大な宇宙と
つながることは、外的自由より遥かに解放されることも確かである。
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4332, 自己とつきあうということ -2
2013年01月25日(金)
        「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著)
 定年退職や失業などの節目で、戦略的引きこもり、良くいえば自己に沈潜
することが重要になる。現在の私が、そうである。枝葉を切って根を養う時。
特に老木は必要としない枝葉を思い切って落とさなければならない。
戦略的退却と判断したら、果敢に決断、実行すべきなのが人生である。
そして、人生を振り返り、己に沈潜すべきで、それから逃げては人生を狂わせる。
  * 自己への引きこもり ー人生の戦術的退却と沈潜ー
≪ スペインの哲学者オルテガ(1883~1955)は、自己へと向かう姿勢を重視。
「自分自身への戦術的退却や慎重な思索なしに、人間的生は不可能である」。
彼は、人間は、しばしば自分から疎外されて、自分が信じているもの、
忌み嫌っているもの、大切なものがなにかを見失ってしまう危険にさらされて
いることを指摘した。 われわれひとりひとりは、唯一にして他に譲り渡す
ことのできないところの自分自身でなくなるという危険に常にさらされている。
オルテガは、そうした自己喪失から人間を救うのは戦略的に自己へと撤退
すことだと見なし、それを「注意力の転換」「内部への注目」「自己の内部に
引きこもること」といった言い方で示した。 しかし、彼が、「自己疎外」
との対比でくりかえし言及したのが「自己沈潜」である。
 それは「自己に沈潜する能力、われわれの朽ちることなき深みに静かに
ひきこもる能力」を意味する。とはいえ、自己の内部への沈潜、撤退によって、
他人や外界とのつながりを断ち切ってひきこもってしまうという姿勢が
強調されているわけではない。ひきこもるのは、「周囲についてのわれわれの
考えを検討し、そして戦術を練るために一時行動を中止」するためである。
われを忘れ、自己を疎外された人間のふるまいは、しばしば「ばかげた態度」
や「愚行」を招きやすく、「理にあわない別の態度」へと波及するがゆえに、
その連鎖を断ち切るためにこそ、沈潜が必要とされるのである。 
・・オルテガの言う、「自分自身の孤独の深みにひんぱんにひきこもらなければ
ならないという義務」はほとんどはたされていないであろう。戦略として内部に
向かう態度、自己に沈潜する態度を保持する人より、自分以外のものに拘束
され、外部へと結びつけられた態度の内で生きる人が圧倒的に多い現実のなかで、
両者の見解は時代錯誤的なものに見えないではない。しかし、生のさなかで、
生を感受し、生を考えて生きることの楽しさを味わうことを求めるとすれば、
この考え方から学ぶべきことは多いであろう。 ≫
▼ オルテガが「自己疎外」と「自己沈潜」と対比しているところが分かりやすい。
 自己疎外は自分と折り合いがつかない状態で、自己沈潜は自己疎外による愚行を
避けるために、戦略的に一時期に自分を閉じてしまうことである。そういえば、
 私の午前中の時間の使い方がそうだ。明らかに独りになり自分の世界に
沈潜している。午後からは、シネマやTVで映画をみたり、スポーツジムに
行ったり、SCで買い物をしたり、図書館で本を読んだりして、外界に触れる
ようにしている。砂時間沈潜でしかないが・・ 社会という森林の中の、
一本の木(事業)から離れ、自分自身に撤退し、自己沈潜をすることは、
人生の義務である、とすると、身に沁みて理解できる。成るほど、独り部屋で、
音楽を聴いたり、ネットサーフィンをしたり、随想日記の下書きをしている
時間が至福に思えるのは、その義務を楽しんでいるため。
社会から自分独りの世界への撤収、そして沈潜だが、浅い。