つれづれに

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 昨日は、千葉の新検見川に住む姉の連れ合いの葬儀に出席。
8:48分の新幹線で長岡を出発、13:15分の葬儀に参列。
焼き場の骨拾いにまわった後に、終わったのが、18時過ぎ。
19時36分の新幹線に乗って帰ったのが22時近く。 
 濃厚な一日でもあった。一人の死は、人生の重要な一部でもある。



・・・・・・・
3766, ユング ー9
2011年07月18日(月)
      〈 ユングー地下の大王  コリン・ウィルソンー? 〉
   * 幽体離脱とは          
 事故などで仮死状態の時の幽体離脱の色いろな体験談を聞くが、共通点がある。
 私も何度か幽体離脱と思われる経験をしたことがある。突き詰めれば夢だろう・・
 夢にしては、あまりにリアルである。 ユングが六八歳のとき、散歩中凍った
 道路で滑って、くるぶしを折って、その二、三日、はげしい心臓発作に襲われた
 時に、幽体離脱をし地球の大気圏の境目辺をさ迷った時の体験の手記がある。 
 幽体離脱は、人間の限りないエネルギーが、あるキッカケで、その外に出て
 しまい、外から自分の肉体を眺めているイメージをいう。
【 ユングはこの神秘に対して一つの鍵を与えるように思われる一つのケースを
 挙げている。彼は一人の女性の患者が難産の末に死にそうになり、彼女自身が
 自分の肉体の上方の空中にあって、自分の肉体を見下ろしているような感じに
 なったと述べている。彼女は医者がヒステリックになったのを見ることができた。
 それから、彼女の家族が入って来た。彼女は彼らの反応を見た。彼女は自分の
 後ろに春の花が咲いている公園のような不思議な光景があることを知った。
 それは「別の世界」への入口であることを彼女は知っていた。
 彼女は、もし自分がそれを見たら、自分の体を再度入れたくなるかもしれない
 ことを知っていた。それで彼は目をそむけ続けていた。彼女が目を覚ました
 とき、看護婦に自分が見たことを話すことができた。看護婦は、この患者が
 医者やその他のことについて言ったことを正しいと認めざるを得なかった。】
【 ユングはあからさまに言うことはあきらかに気が進まないが、彼が一般的な
 意向は明白である。一九四四年に彼自身が死に近づいた経験をしたために、
 彼は心は肉体から独立していると確信するようになった。これは、死後の生活
 が実在しているという意味であるように思われる。事実、一九三四年に書いた
「魂と死」という論文で、彼はもうすんでのところでこのことを肯定しそうに
 なり、生命とは「死という究極の目標」の一つの準備だという考えを、世界の
 宗教は受け入れているように思われると注釈している(ここでも彼はことばを
 慎重に選んで話しているので、だれも、死後の生命を信じていると、彼を非難
 することはできない)。このような「体外遊離経験」はー
「意味のある偶然の一致」と一まとめにして考えると、宇宙が混沌とした集合で
 ないことを確実に示している。 ーP183 】
▼ 体の外に出た自分を眺めている夢は、あまりに現実的過ぎる内容である。
 人間の脳は、あまりに奥行きが深い。夢は犬でもみるが、人間は幻覚をみる。
 
その幻覚が思わぬ人知をこえた幽体離脱を生み出すだすのだろうか。

・・・・・・
3401, おテレビ様と日本人 ー5
2010年07月18日(日)

 何か、この本を読んでいて他人事のようでありながら、実は自分自身のことではないか?
自分が、そのまま嘲笑されているのではないか?と感じとり自分の過去を振り返ってみた。
 テレビが家に入ってきた50年前の中学校二年の頃に、熱中して成績が落ちる一方であった。
そして、ある時にハッと気づき急遽、高校受験に熱中したが、タッチの差でギリギリセーフ
であった。高校時代はテレビなど見ている余裕は全くなく、ただ授業についていくのに精一杯。 
ある意味で健全?だった。ところが、東京の学生時代の二年目にテレビを買ってしまったのが
大失敗と、これを読んで気づいていた次第。私も御多分にもれずテレビ大好き人間。相撲に、
プロ野球、ドラマ、映画、etc、と、これまで、バカ製造機の餌食になっていた。それでも毎日、
数時間の読書をしてきたから半分はブタ化を逃れたと、心の中で言い訳をしている始末。
 私と比較ならないほど更に家内がTV好きなので、そのブタ化が合せ鏡のように見て取れる。
反面、学ぶところもある。ほぼ一切のジャンルを問わないで、世界、日本のナンバー・ワンの
ものを見ている。スポーツといえば、ゴルフ、テニス、サッカーなどの騒がれ中継されているもの。
教養?番組では絵画、クラシック、各種演奏会。 映画も名作と騒がれていたものの殆ど。
これほどのものなら、TVの弊害というより、有用だろう。 世界一流の絵画を解説つきで見ると、
成るほど理解度と、対象の輝きが更に増す。 ということは、有害になってブタ化していたのは、
むしろ私のほうではないか? まあ、いいか! そこで私が録画をしたTV番組のタイトルを
改めて見てみたが、著者のいう毒番組が過半数以上? 現在では、代議士まで、いかにTVに出て、
自分をさらすかに苦心をしている。実際のところ、それが次の選挙対策なる。 彼らにとって、
選挙民の投票で現在の地位が保たれているからだ。政治家としての能力より、タレントしての
パフォーマンスが要求される。 だから、あの宮崎県知事なっている何某が、臆面なく御笑い
パフォーマンスで役割を果たしている。世も末だ その意味、愚衆から選ばれた政治家が政治
をした結果が愚衆政治になっているのである。TVの出だしの頃、西部劇などで、白人の主役が
インディアンに襲撃にあい、反撃して殺しているのを喜んでみていたが、あのインディアンは、
我われの姿でもあったのである。白人=善人、インディアン=悪人という洗脳でしかなかった。
ハリウッド映画が全盛を極めているが、その内容には隠された洗脳ものも多く含まれて。

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2009年07月18日(土)
「生の科学、死の科学」 -養老孟司 対談集ー 3
   【生きる哲学との出会い】 ー橋口譲二(写真家)ー
 *清水次郎長殿山泰司の顔がなくなった
養老 いまの日本に「清水次郎長顔がなくなった」と、TVに写真が出たときに‘あっ’と思った。
  ちょうどブータンに行ってかえってきて、向こうにはよくある顔だったんですね。人生やる
  ことは大体やってきて、修羅場も踏み、この辺で落ちついたという『まあ、こんなものだ』
  という顔。 そういう顔が日本人からなくなった。 ブータンの顔は日本人によく似ている。
  モンゴロイドがゴチャゴチャの混ざった顔。 ・・そこで思い出したのが、黒澤明七人の侍」。 
  あの役者の顔が、幾らでもいるのです。
橋口 侍のような顔がなくなったのはのは、何でだと思います?
養老 「都会になったから」です。都会人の顔になった、役人の顔になった。一種つくられた顔。
橋口 何時ごろだと思います。
養老 気がついたのは15~20年前からです。「面構え」「面魂」という言葉が死語になった。
橋口 僕が新宿の街角で少年達の顔を撮りはじめたのが1981年で、その頃からと今とでは
  変わりました。それはバブルの影響が大きい。バブルは人をとにかく豊かにして、しかし努力
  をして得たものでないので、落ちていったと思います。文化の享受の仕方が一面的になった
  というか、何か平たくなった印象です。以前に新宿にいたのは、いわゆる不良で、彼らは、
  自分を取り繕っていないし、自分を隠していない。不器用で、去勢されてない。ブータン
  役人の顔が日本人に似ているのは、ある種、器用で要領のいい日本人の顔が浮かび上がる。
   ーー
 情報化の影響もあるのだろうが、世界が情報で溢れかえって、地区地区の土着の味が無くなり
 つつある。日本の地方の辻浦々まで、情報が行き渡って、その地区の特有の人間性とか祖先から
 受け継いできた 風習が損なわれてきているからである。 意識の全国総都会化で、地方の
 ブロックが希薄になってしまった。また時代のエネルギーが消沈している時は、脂ぎった者
 同士が塀の上で争う場面が少ないということか。
 ・・・・・・・・・
2661, 読書の価値について
 2008年07月18日(金)
 読書について、ある哲学書に、その意味=価値が丁寧に説明してあった。学生時代に、読書の
必要性を感じ取った。そして、卒業まじかになって、その絶対量の少なさに唖然とした。そこで
社会に出てから毎日、最低二時間は読書をすると、自分に誓ったことを憶えている。
高等教育で一般教養を教える目的は、「学校教育が終わった後でも学び続ける人間をつくること」
というから、一応、その成果は少しはあった???ようだ。 考え、問いかけ、答えを自分で得る
方向に努力する素養である。以下は、哲学講義書「考える快楽ーグレイリング先生の哲学講義」
の《読書》についての中の一節である。
 ーP251
《読書》*一冊の本を読むことから、いったい何度、人は新たな人生を歩みはじめたことだろう・・
読者は多少経験をつめば、読書を通じて、歴史、喜劇、悲劇といった多様な人間の経験を、あたかも
飛翔するワシのように俯瞰することができる、偉大な国へと進むようになる。 そして、読書に
意識を集中できるようになれば、差しだされた豊潤な世界から多くを得ることができるのだ。
読書の鍵は、集中という言葉にある。 どんな教育であれ、後世に遺すことができる最善のものは、
熟考と疑問をもつ習慣だ。読書は受け身の行為になりうるし、一時の気晴らしに過ぎない娯楽に
なる場合もある。たしかに多くの本は、読者がそれ以上のものを必要としないくらいにたっぷりと
技巧をこらして書かれているし、べつにそのことが悪いわけではない。しかし、それ以上のものを
求めようとすれば、読書は受け身ではなく、能動的な行動にならねばならない。よい本をよい本
たらしめているものを定義する、とはむずかしい。ひとくちによい本といっても、さまざまな種類が
あるからだが、その大半に共通するのは、読者に考えさせ、感じさせ・元気づけ・当惑させ、
その結果、本を読んだあとは世界がすこしちがって見えるという点だ。端的にいえば、そうした本は
積極的な読書活動へと人を誘う。 数冊の本から得られるのは、読書を通して生まれる自分の
思考以外にはほとんどない。 そして偉大な書物には多くの思考をうながす余地があるものだ」と、
ジョゼフ・ジュベールは言っている。
読書をしたからといって、自動的に前より賢くなったり、よい人間になったりするわけではない。
読書に効果があるとすれば、それは、印刷されたページに反応し、そこから素材を切りだすという
仕事を、読者が自分でやりとげたからだ。しかし、人生の最高の家庭教師である実体験をべつに
すれば、素材を切りだせる鉱床として、読書に比肩できるものはほとんどない。その結果、読書は
自己理解をうながすだけでなく、他人にとっては大きな関心事だが自分にはない欲求や関心、欲望に
たいする洞察力を身につけ、やがて他人の関心を理解し、寛容になり、ときには共感できるようになる。
こうして他人とどう接するかを決定する際に必要となる知識の量を増やしていくことは市民共同体と
人類の兄弟愛の基盤にもなる。
 ーーー
そういえば、読書は旅に似ている。心は全く知らない世界に鳥のように飛び込んでいけるし、
違う時間の流れに置くことも可能である。
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2007年07月18日(水)
 2297, また地震!どうなってる?まったく! ー2    ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…ヨウ!
今月中は、何処に行っても地震の話で持ちきりだろう。前回の災害時から推測すれば大たいこうだ。
「その時、私は〇〇(TVを見ていた)という状態で、ビックリして〇〇をした。まさかね~、も
う絶対無いと思っていたのに、何で、この地域だけ起こるんだろうか。それでTVを見たところ柏崎沖
震源で、原発の火災に驚いてしまった。で、〇〇さんのところに電話をしたが、大丈夫というので、
ともかく家の中に散らばったもの後片付けをして、落ち着いたところで外に出てみた・・・」
これを近所とか、友人に面白おかしくオウム返しに話す。それしかないが・・・
考えてみたら、私のHPにも、ほぼ同じことが書いてある。県外からのお見舞いの何本かの電話には、
この要約を話している。前回の中越地震と全く同じパターンである。TVを見れば能登半島地震
同じ質問と答えが繰り返される。見るほうからすれば、またか!ぐらいだろう。 と言って、やはり
見舞いの電話は嬉しいものである。日本は世界に冠たる地震の国、その中で特に新潟最北から神戸
にかけてのライン上が、更に危ないということが、最近わかったと報じていた。40数年前の新潟地震
に、最近では神戸大地震能登半島地震と、直近では三年前の中越地震がライン上にある。今後とも
地震が起きる可能性大というから、気が抜けない。家内の実家が、死者が集中した本町にあり義弟と、
近くに嫁いだ義妹がいる。義妹は箪笥の下敷きになったとか、家内の実家の会社の倉庫の一部が大きな
木造で、倒壊した。柏崎の本町の民家が多く倒壊したのは、海岸線のため海風で積雪は少ないため、
民家そのものが頑丈に造られてないのと、大火災と空襲にあってないため 築100年以上の古い家
が多かったのが原因だった。前回も、今回も、長岡市内の家が倒潰した話は殆ど聞かない。潰れたのは
郊外の古い農家。前回の地震では、新築をした隣にある旧家を物いれに使用していた所が潰れていた
のを数軒見たが・・・。普通は積雪のため、家の構造がしっかり造ってある。それと第二次大戦で、
市内が殆ど火災で焼けたこともある。今回は、柏崎と、その周辺に被害が限定していたのが、特徴です。      

・・・・・・・・
2005年07月18日(月)
 1567, つれづれに
 ー二ヶ月に一度ぐらい、全く随想日記のネタが無くなる時がある。今がそうだ。面倒になるのと、
馬鹿馬鹿しくなる。随想日記は毎日「独り言」をいっているようなものだ。独り言に起承転結を
つけていることになる。思考には非常に有効なことが解っているし、止めたら張り合いが無くなる
のも解っている。このお陰で目の前の人たちへの、言葉の攻撃が少なくなった。しかし、そうそう
ネタが思いつかない。ネタが無くなった後に、以前より多くのテーマが出てくるから不思議である。
全く違う分野に視点を向けざるを得なくなるからだろう。
 ~~
 ー昨日の「サンデープロジェクト」を見ていて呆れてしまった。ゼネコンから送り込まれた代議士の
「犯罪を犯して何が悪い!」という開き直りの言葉には空いた口が塞がらない。この程度の連中が
日本の中枢にいて、そしてTVに出てきて堂々と、犯罪肯定をしているのだから何をかいわんやである。
談合を止めると多くのゼネコンが倒産するという論法である。談合という犯罪で生き延びている方
がおかしい。泥棒を認めないと餓死者が出るというのと同じ論法だ。奴らは犯罪者なのだ、それも
マフィアなのだ。この国は、犯罪組織が牛耳っている。ゼネコンと、官僚と、政治家が犯罪システムを
組んでいる汚職システムが長年かけてつくられているのだ。それが、情報化で抑えきれなくなった
事態が現状である。
  ~~
 ー昨日、ダイエーに行ってみた。
閉店前の店というのは、もの悲しい何かがある。ここが閉鎖されると、一挙に駅裏は寂れた雰囲気
になる。これに反して、信濃川をはさんだ川西地区には、来年二つの大型SCがオープン予定。
  ~~
 ー梅雨が明けたようだ。
 雪と梅雨は日本の農業にとって大きな恵みとなる。これから2ヶ月熱暑がつづく。
  ~~
 ー今日明日中に、旅行先を決めないと。不景気ためか?気合が入らない。といって、
   そろそろガス抜きも必要だ。
・・・・・・・・・
2004年07月18日(日)
1202, 実存哲学(1) 
   ー哲学について-17
実存の哲学とは[真理」ではなく[実存」を出発点とした哲学である。最初に実存の哲学を語った
のはキエルケゴールである。実存とは[この私がここにいる]であり、キエルケゴールは「真理」
を語る伝統的な哲学者を批判し、ニーチェなどに大きな影響を与えた。哲学上の近代から現代への
大テーマの転換は、認識論から存在論への転換です。「本質」から、「存在」への転換といってもよい。
実存という言葉は、中世スコラ哲学が本質存在と対比させた事実存在という概念に由来する。
「?である」に対応する概念が「本質存在」であり、「いる・ある」に対応するのが「事実存在」。
すなわち実存とは、事実をして存在していることが重要だという考えを含んだ概念であり、サルトル
はそれを「実存は本質にせんこうする」と表現した。キエルケゴールは以前にも書いたが、不安や
孤独や絶望を真正面からとらえた。それは、人間が精神を持ち、自由であることの証であると。 
主体の哲学である。人間が人間であることの特性や意味を哲学の対象としたことで、それまでの
哲学とは違った実存哲学が注目されるようになった。 それまでの古典哲学の代表者である
ヘーゲルと基本的なキーワードで比較すると
  ヘーゲル    ー普遍性ー客観性ー抽象的
  キエルケゴール ー単独社ー主体性ー実存的 となる。
このキエルケゴールに対して、サルトルが彼の絶対者ー神を前提とすることを
根底から否定し「実存が本質に先立つ」と主張を始めた。
 サルトルはー
ーわれわれを取り巻く根本状況は、本質を持った「何ものかである前に、すでに事実存在としてある、
実存している。この根本状況はわたしたちが自ら選択したものではない。それでは流されていてよい
のかというと、そうではない。受動的に決定されているだけの「何ものでない」わたしが、
「何ものか」になるべく自己を投企して、状況に主体的に関わっていくことこそ、真の実存のあり方
である。と主張した。自分の「本質」を自ら生み出すような「決断」を想定し、それを実現するため
に自由に決断する「自己投企」をする能力をもっているといっている。
・・・・・・
2003年07月18日(金)
 835, 丁度よい
  お前はお前で 丁度よい
 顔も 身体も 名前も 姓も   お前にそれは 丁度よい  
 貧も 富みも 親も 子も 息子の嫁も その孫も それは お前に丁度よい  
 幸も 不幸も 喜びも  悲しみさえも 丁度よい  
 歩いたお前の人生は  悪くなければ 良くもない  お前にとって丁度よい  
 地獄へ行こうと  極楽へ行こうと 行ったところが丁度よい      
 うぬぼれる要(よう)もなく 卑下する要もない 上もなければ 下もない 死ぬ月日さえも丁度よい  
 仏さまと二人連れの人生 丁度よくない はずがない    
  南無阿弥陀仏          
                浄土真宗の篤信家ー藤場美津路  
 ある会社の専務に「ありがとうの言葉」について話していたら、
そういえば、似た言葉で印象的な言葉があるとのこと。「丁度よい」という言葉だそうだ。
ある会社の応接間に飾ってあった額縁の中の言葉で、それから彼は何かにつけて
「丁度いよい」をつけて自己納得していたとか。
・うちの母ちゃん丁度よい  ・今の仕事丁度よい
・今の悩み丁度よい     ・今日の夕飯丁度よい  ・リストラされて丁度よい?等々、
なるほどと感心をしてしまった。考えてみたら、その人に神様は丁度よい環境と条件を与えている。
まあ若いうちから、現状肯定ばかりしていたら成長がないが。 早速、インターネットで検索をしたら、
上記の内容が出てきた。この詩は、はじめ良寛の作と思われていたそうだ。「丁度よい」と思うこと
ができれば、悲しみや喜びの感情の起伏が少なくなる。諦観ということだろう。
『ありがとう』にしても、『丁度良い』にしても、何か納得してしまうのは、年齢のせいだろうか。
・・・・・・・・・
2002年07月18日(木)
 460,スリにあう
海外旅行のトラブルでは「盗難と下痢」が一番問題となる。今回の旅行で初めてスリにあった。
といっても家内の話である。ユングフラウヨッホに登山列車でのぼった時にスラレタ。頂上の売店
日本へ出す葉書の切手を買った。その時らしいが、帰りの列車に乗ったとき気づいた。その時はまだ
落としたと思っていた。雨と霧の為ハキングは中止で、降りた駅で2時間ほど時間ができてしまった。
そこで国際電話でカードの中止の手続きをした後、売店に入った。目の鋭い30歳ぐらいの白人女が、
日本人のバッグを見ているのが目に付いた。その時は、店の人が万引きの監視でもしているのだろう
と思った。そして店の外に出ると、グループの女性が2人騒いでいた。店内でバッグの蓋が開けられて
いたという。何かバッグのあたりがモゾモゾするので手で触ると空いていたので慌てて出てきたという。
違うもう一人の女性も、全く同じ状況で飛び出してきたという。家内がその時やっと自分もすられた
事にはじめて気づいた。そういえばユウグフラウの売店で買ったあとトイレに行った時、バッグが空いて
いるのに気づき不思議に思ったという。その時はまだすられた事に気づかなかった。万引きに気をつけてと
添乗員に言われていたが、まさか自分たちとは思ってもいなかった。雑踏をしていて、気圧の関係で少し
頭がボーッとしているその場は万引きの絶好の稼ぎ場である。そして二度と顔を合わせない観光客なら
さらに都合がよい。カードの実損はなかったが3000円ぐらいの金が被害だった。