つれづれに

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  今日のYoutube

 今日は、久々にシネマに行く予定。今年に入って二回目になる。
何時もの回転寿司で昼飯を食べてのコースになるが・・・
 


・・・・・・
3594, 教養とは何か?
2011年01月27日(木)

  これまで、何回か教養について書いてきた。一番に納得したのは「18歳までに洗脳された
思い込みから自由になるための知識と経験の蓄積」である。 塩野七生著の「生き方の演習」
の中に次のような一節があった。これも面白い。
  「生き方の演習」 塩野七生著 P-45
≪ 立花隆さんが東大で「東大法学部の学生は教養がない」と言ったら、法学部の学生たちが、
「先生、教養とは何ですか」と問い返したそうで、それに怒って、彼の考える教養とは何かを
文藝春秋』にかいたんです。立花隆さんは私の友人でもあり、たいへんに尊敬しておりますが、
やはり考えが違う時は違う。彼は「教養はまず役に立たないものである」と言っていますが、
これは、私に言わせると十九世紀的な教養の概念だと思うんです。 十九世紀というのは、
ヨーロッパの有産階級ができ上がった時期。その人たちは有産階級ですから、お金があって、
家もあった。働く働かないにかかわらず裕福だったわけです。そういう人たちが、「教養は
役に立たないものである。しかし、教養は大切である」っていうことを言っていたわけです。
けれど、私の関心の的である、それよりも以前のヨーロッパへ行きますと、そうではないんです。
たとえば、ルネサンス時代には、教養というものは役ところが、ルネサンス時代は、専門の
技術だけではだめだったんです。当時、フィレンツェでとくに盛んだったのが工房でした。
ミケランジェロもそこで修業しているし、レオナルド・ダ・ヴィンチも工房の出身です。
だけど、その工房では、ひとつだけを専門にやっていたのではだめなんです。そういう人は
助手の助手の助手ぐらいの地位に甘んじるしかなかった。彫刻家であっても、画家などの仕事
にも通じていることが要求されたんです。というのも、彫刻でも、画家的な視点で人間を見れば、
また別の見方ができると考えたわけ。・・つまり彫刻では、建築家は、彫金家ではどんなふう
にするか、とすべてを押さえると、今度、絵を描く時、それまでと違った絵か描けると、
彼らは思ったわけです。そういうルネッサンス時代の教養が、教養の原点だろうと考えるのです。
 ーー
 一つ穴を深く掘ろうとしたら、穴そのものを大きくするか、それなりの技術と道具が必要になる。
ダ・ヴィンチが、あらゆる分野に精通していたのは有名だが・・ 地球に何をするため生まれて
きたか?の問いに、「世界を知るため、その人しか創れないものを創ること、そして子孫を残すこと」
と答えが出るが、「その人しか残せないものを残したとしても、千年、一万年単位でみれば、
泡でしかない。それを悟ることが教養」が、今日の落ち!
 ―――
3229, つれづれに ー閑話小題
 2010年01月27日(水)
 * 情報化の進展が社会を変えている
ツイッターには驚いた!と何度も取上げてきた。「これで更に情報化が進む」と、先日の朝の
NHK番組「生活ホット」で取上げていた。また、ニュースでも「最近、米や魚や酒が生産現地から
直接ネットでの注文が増えていると報じていた。我が家でも、時々「福島産コシヒカリ」などを
ネットで買っている。(メールの受付で知ったが)なぜ100m先のスーパーで買わないのか? 
値段と味には厳しいはずだから、「何か価値がある」のだろう。ちなみにメールによると、
10キロ3400円-ポイント400円=3000円。もう百貨店の売上げをネット売り上げが超えたが、
百貨店の役割は情報基地としての商品提供。それをネットが替わってしまったということになる。 
書籍、健康食品、化粧品、ファッション品、健康機器と、我が家には週に1~2回は宅配が来る。 
最近では宅配の人に「何時も有難うございます」と、挨拶をされる。
 * 日本航空の破綻
日本航空」が破綻したが、10年前など考えられなかった。それが、簡単に破綻してしまった
のだから、驚きである。政治的思惑で地方の赤字路線でも運航しなければならなかったことや、
日の丸日本的な体質や、職種ごとの組合など、複雑な内部事情もあったようだ。 更に欧米の
ような過酷な競争が少なかったこともある。米国の航空会社が触手を出しているが、日本政府が
主導権を持って立て直すようだが? 航空会社の世界的不振は、情報化により人的移動が劇的に
少なくなったこともある。大小に関わらず、何処も同じか。
* 次世代TVの驚き
 三日前の、NHKスペシャルで、東芝が生き残りをかけた次世代TVの開発のドキュメントをみた。
55インチの「CELLレグザ」である。開発メンバーが、自分でも笑ってしまうほど面白いTV。
 100万近くの値段だが、それだけの録画と、操作性と、サウンドのよさと、画面の鮮明さがある。
・8画面マルチ表示でメイン画面と、周りに7画面が同時表示が可能で、一画面で多くの情報を得る
 ことが可能。(10数年前のシャープのハイビジョンTVでは三チャンネルを同時に見ることが
 可能だったが)
・一日分のテレ地・8チャンネルを同時録画が可能で、画像が鮮明で、音響が自動最適化をする。
 駅中のビックカメラのTV売り場の入り口近くに置いてあった。成るほど、これは今までの
 TVとは違う。 で、それどうした、といえば、それでしかないが。 
・・・・・・・・
2854, 格差世襲  -2
2009年01月27日(火)
リッチ層・貧乏層アンケートの質問と、結果がシビアである。
・特に教育方針に違いが表れている。
「教育費に関しては負担を惜しむつもりはない」と高いレベルの教育を望むリッチ層に対して
 貧乏父さんは、「人に迷惑をかけない子なら成績は二の次でよい」「進路は本人の希望を
 優先したい」という。 自分の5年先も見えないのに、子どもに十年先のため、勉強しろと
 いえないから、こういう答えになる。
・ギャンブルに関する回答も興味深い。事業ではリスクを負うことを辞さないリッチ層が
 ギャンブルには興味を示さない。それに対して貧乏層は一攫千金を夢みて、各種のギャンブル
 の体験を持つ傾向が強い。事業というリスクにさらされている者にとって賭け事に興味が
 なくなるのは当たり前。 日常がギャンブルだから。 事業などのリスクの少ない人は、
 スリルをギャンブルで経験をしたくなるのも人情。
・好きなTV番組では、お笑い番組が好きな非正規ジュニア、スポーツ好きな貧乏父さんの
 姿が炙り出される。
・現在の階層・格差社会に対する見方は、貧乏層は「階層化しつつある」という方で、
 格差逆転の機会の平等も機能してないと答えているが、リッチ層の三分の一が機会平等が
 存在していると見ている。今度の恐慌は、格差も含めて勝ち組とかも淘汰することになる。
 社会主義経済の実験で現れた「総下層社会」である。インドのカースト制度では下流とは
 いわないで、下層という。固定化して、それに対して問題意識も無い社会。ところで堺屋
 太一の寄稿 ー「健全な格差」とは何かーで、日本を覆う三つの格差を取り上げていた。
・1つ目は、親の顔 ー人脈格差
・2つ目は、正規社員と非正規社員、つまり大企業や官公庁の組織に入り込んだ「職縁人」と、
 そうでない「無縁人」職縁情報格差
・3つ目は、東京圏と、その他の地方の間の差別。今や日本は、東京の千代田区と港区に
 集中した「出島」からしか情報が入らなくなった不便な社会になってしまった。地域格差
 である。それだけでない、東京都と地方の情報の断絶だけでなく、世界と東京の断絶もまた
 深刻という。この三つの固定化で、その格差が拡大しているという。まあ、これは堺屋太一
 が知らないだけだろうが、情報化で、その壁は大きく崩れている。いや自分を含め周囲を
 見ると、どうでもないか? そういえば両親が口すっぱく豊かに生きぬくノウハウを話
 していた。突き詰めると‘、原理原則と、時代に合わせて変化すること、そして自分を
 高めること、楽しむことを!’ で、どうなった? どうもなりません! 
 楽しむことに気が行き過ぎました。
・・・・・・・・
2008年01月27日(日)
2489, 無くてはならぬもの          ぉl£ょうヽ【・ω・】ノ
  佐古純一郎著 「無くてはならぬもの」
二十代半ばに挫折感に陥り、魂が放浪していた時に貪るように読んだ本を38年ぶりに
手に取ったみた。そして、その内容が現在でも自分の心の底に焼きついていることに驚いている。
著者はプロテスタントの牧師で、キリスト教の教えが底に流れているが、人生を如何に生きる
べきかを理路整然と書いてある。現在読んでも、そのまま通ずる内容である。それぞれの章
ごとに印象的なところを書き出しながら、昔に舞い戻ってみたい。 まずは当時、傍線を
ひいてある箇所をうつしてみる。
  P-19 近代の思想は、ほとんど独白という姿勢からなされてきた。ようするに
ひとり言である。みんながめいめいに、自分勝手にひとり言をいっている。そこでは、本当の意味で、
交わりの生活を作り出さなければならない。独白は創造しない。対話の中からのみ創造という
ことがはじまるのである。対話とは何か。それは、人格と人格との出会いの姿である。人格と
人格との出会いのないところに、対話の成り立ちようがないのである。自己を主張する前に、
他者の言葉に耳を傾けることである。私たちの生活では、家庭においても、職場においても、
あまりにも、対話の生活がなさすぎるのではないか。
  P-23 サマーセット・モームのような人生をおもしろおかしく生きる道を選ぶか、意味
のない現実をつくりかえて、人生の意味を創造していく道を選ぶか、人生には二つの生き方がある。
あなたはどちらの人生を選ぶのであろうか。私は、意味の創造に自分のまずしい人生を捧げて
いきたいと思う。意味のない人生に意味を創造していくことこそ、私にとって生きることの意味
だとはっきり自分に向かって言いきかせたいと思うのである。
  P-112 私は人格としてつくられている。それが、人間の条件の最も大切な要素。
私の人生は私のほかには誰も代わって生きることは不可能なのである。だからこそ私はひとり
なのである。孤独な存在なのである。
  P-196 世界に何億という人がいようともこの「私」はたったひとりしかいないのであり、
それは絶対に誰かに代わってもらうことはできない、つまり「私」という人間に、代用品はきかない
のだ、ということなのである。私はあなたくらいのとき、思わず厳粛な気持ちになったことがある。
人間の尊厳とか個人の尊さということは、そこから出てくることなのである。・・人生は二度と
繰返すことのできない一度きりの人生なのだ。そのことが、ほんとうにわかっていないと、
人生をどう生きるか、という問題は、真実に考えていくことができないのである。
  P-212 愛の愚かさとは、誰もみていない、誰も知ってくれるわけでないけれど、
静かに、誰かのために自分を捨てていく、そんな態度のことだといえよう。自分が他人からされ
悲しいこと、つらいこと、迷惑なことは、他人に向かってしてはならないのだ、
と聖書も教えてくれる。自分が大切なように、人さまも大切なのである。
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何か、当時の自分に出会っているようで、奇妙な感覚になる。 自分は自分である! 
そして、自分でしかない! ホナ (■*U∀u)ノ
・・・・・・・・
2007年01月27日(土)
 2125, 顔筋マッサージ      (~Q~;) おはよう~~ファ~            
先日の中学校の同期会の二次会の写真を見て驚いてしまった。飲みっぱなしと、久々に同級生に
会って気が緩んでいたのも含めて、弛みきった初老の顔が、そこにあった。ところで、ある雑誌に
代議士の加藤紘一の手記に「顔筋マッサージ」があった。
 -その概要といえばー
文藝春秋10月号の332ページを見よ」というメールが知人から入ったので、そこを捲ると、
「顔面マッサージで男を磨け」という記事に加藤紘一の名前が載っていた。 そこには
「 ・・・他に政治家で気になるのは加藤紘一さん。真摯に生きているが、でも顔がどんどん
横に広がって大きくなっています。マッサージでシャープになれば劇的に変わり、本来の輪郭に
戻れるでしょう。」とあった。・・・・そこで、そのマッサージ師を呼んで受けてみた。
ところが、わずか20分ほどのマッサージを終えると、鏡の中の顔の輪郭が引き締まっていた。
その直後のTVの討論番組の収録で、異口同音に「加藤さん、痩せましたか?」と声をかけられた。
他人の目からみても効果があったのだろう。私の顔でこれだけ変わるのだから、片山虎之助
参院幹事長はいかほどだろうか。是非勧めたい・・・」という内容である。
文藝春秋2,007年1月号より)
そういえば家内に一月ほど前に、TVのモーニングショーで「顔面マッサージの効用」とかいう
番組をみて、実際何回かやってみたが非常に良かったと、その手ほどきをしてもらった。それ以来
全く忘れていたが、一週間前にも頬を下から上に向けてマッサージをする効果をTVの番組の中で
やっていた。
   (字数制限のためカット 2011年1月27日)
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2006年01月27日(金)
 1760, ウエブ上の「貨幣」は「キーワード」     ヾ(o′エ`o)ノ*:.。オハヨウ。.:*
産経新聞の「正論」のコーナーでの論客の公文俊平氏の「ポスト産業社