つれづれに

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アメリカ大統領選挙は、クリントンが優勢のようだが、
これだけは水物。他山の石なら、泡沫が勝つのも一興!

 グローバル化で、アメリカも収拾できないほど、混乱の
極みにある。オバマが、理想論を掲げ過ぎたツケを払うなら
泡沫が大統領になった方がよいが。

 6年前の同月同日の文章のコピーが下にある。
これが東京オリンピック後の数年後の惨状?
誰が、苦しむのか、といえば、若者たちである。




・・・・・・
3479, 15年前の韓国・国家破綻のすざましさ! -2
2010年10月04日(月)
 昨日の「韓国・国家破綻のすざましさ」の実態のレポートの続きである。
日本も「失われた20年」と言われているが、その間に韓国では「国家財政破綻
の中で 国家リストラが断行されていた。日本も小泉・竹中コンビが金融再編成
で大鉈を振るい、また自民党を破壊。しかし政権与党の民主党には政策理念が
見えてこない。  ―まずは、昨日の続きの要点であるー
IMFの改革を通してそれまでの古い柵が消え、経済が自由化されアメリ
ナイズされたことで、韓国は大きく変わった。それまであった終身雇用が崩壊し、
年齢よりも能力が重視されるようになリ、社長でも経営がうまくいかないと
株主にクビにされる。現在、韓国では四十五歳定年が定着しているが、これも
経済破綻が起点となっている。ベンチャーも盛んになり、三十代、四十代の社長
が数多く出てきている。 国全体が破壊から再生に立ち上がろうとしている。
・国が経済破綻すると、庶民の資産はどうなるのだろうか。 破綻と同時に
起きたのが、金利の急上昇。破綻前は13%だった住宅ローン金利が、いきなり
二倍以上の27パーセントまで上がった。このため、マイホーム購入の契約が
次々と破棄され、新築社宅の売れ行きが急激に落ち、同時に価格も下がった。
すでにローンを組んでマイホームを購入していた人は、支払い額が急激に増えた。
当時、韓国ではほとんどの人が住宅ローンを変動金利で借りていたので、
金利が二倍になった途端に払えなくなり、延滞者も急増。この延滞利息が、
なんと六〇%。とても払えず家を手放し、親元などに身を寄せる人が激増した。
・株価は四分の一。預金金利が暴騰し31パーセントになった。
ちなみに物価は経済破綻をしても、それほど上がらなかった。
▼ 以上だが、日本の失われた20年も異常だったが、国家破綻の韓国の惨状
 には驚きである。現在はアメリカナイズされた国に変身しているが、その間、
日本は長期不況でただ、立ちすくんでいるだけ。 今後10年、韓国に近い惨状
は覚悟すべきである。日本の地方は既に恐慌の様相を示している。
残る関東と東海地区も、リーマンショックで、それぞれ原爆が落とされた状態。
 今のところエコ・ポイント制度などのカンフル剤で持たせているが、これも
今年の暮あたりで終了。既に暗雲が漂い始めてきた。 金利が暴騰したら
日本経済は即死になる。とはいえ、ハイパーインフレとは、そういうもの。

 ・・・・・・・・
3104, 返済猶予法案の成立から見えてくること! -3
2009年10月04日(日)
 昨日の朝のモーニングショーに亀井静香が出演、TV側の評論家と
「返済猶予法案」の是非について議論をしていた。亀井節で、この評論家を
根こそぎ否定していたが、コメンテーターの無知が露出した漫画的な内容。
都会のマスコミの世界の中から一歩も出たことのない連中の浅はかさが、
あまりに酷い。亀井節でバカ・チョンと罵倒されていたが、されて当然。
 何を言っても議論にならないレベル。最後は、「この程度のしか
コメンテーターはいないのか、この局は」と適切な御言葉で切り捨てていた。
まあまあ?の肩書きを持っていながら、論理形成ができないとは。 
生の現実に接してないからである。参考のために、そのコメンテーターは、
岩井奉信(日本大学法学部教授) 奥野史子(スポーツコメンテーター)
高橋進日本総合研究所 副理事長) 森本敏(海外事情研究所所長)。
 (字数制限のためカット10年10月4日)
 ・・・・・・・・
2739, 何故、こんなに多くのバブルを経験するのか?
2008年10月04日(土)
「資本主義は嫌いですか ―それでもマネーは世界を動かす 」-1  
                     竹森 俊平 (著)
この本は私の知人からメールで「面白い本がある」と紹介され早速買って
読んだが、成るほど面白い!世界恐慌の様相を示してきている米国発の
金融システム崩壊の原因は住宅バブルの崩壊によるもの。 
そのバブルが何故起きるかを解りやすく書いてあった。
  ーまずは、その部分からー
なぜ、われわれは、こんなに数多くのバブルを経験するのだろうか。
その結論を要約すれば、「バブルの頻発」は世界経済全体の高い成長率を
維持するために、経済システムの「自動制御装置」が働いた結果であった。
高成長の維持が難しくなる局面に来ると、民間(とくに金融機関)や政府が、
さまざまな手段を動員して高成長の維持を図る。 そのことが繰り返され、
結果としてバブルが生まれた。あまりにも単純なルールに従って動く「
自動制御装置」は、システムの安定をもたらさないこともある。特定の要因
だけを重視して制御する結果、制御されない他の要因によって、かえって
システムの安定が乱される可能性があるからだ。今回のサブプライム危機も、
「自動制御装置」が「高い経済成長率」という一つの要因にあまりに重点を
置いてきた結果といえるかもしれない。 「サブブライム危機」を契機に、
今後は「自動制御装置」も根本的に調整し直されるだろう。バブルの発生
に歯止めをかけるということに重点を置いた調整がなされるのである。
その結果、バブルの頻発もさすがにストップする。その代わり、世界経済
の成長率は低下する。これが結論。
 ----
解)これが現在の金融恐慌の原因のバブル発生のあら筋である。 
バブルの収縮を繰り返しをしながら、経済は動いていく。
 (字数制限のためカット09年10月4日)

・・・・・・
2375, コシヒカリが売れない!
2007年10月04日(木)

             (* ̄0 ̄)ノ[才八∃一]
先日のニュースで{最近になって「コシヒカリ」が売れない}と、ミニ特集をしていた。
去年だけでも、県内で3万トンの余剰米が出たという。事態はかなり深刻のようである。
先週の土曜日、東京の息子に魚沼産コシヒカリを送ったばかりだったので、注目をしてみた。
ところが、その時買った自宅の米といえば、聞いたことのないブランドの安い米。
金には困ってないのに、これは家内の貧乏性?から、これには他に理由はない!
しかし、ここは新潟、不味い米はまずはない前提がある。
私自身、米の味に対して、よほど不味い外国産でない限り、美味しい米に対する
こだわりはない。それでも以前は秋口の新米は一度は買っていたが、
最近はそれすら食べなくなってしまった。 酒はすぐに判るので少し拘るが・・・
ただし、県外で御飯を食べると、あまりの不味さに辟易とすることがある。
地元での外食では一度も、そういう経験はない。

ニュースで採り上げていた売れない理由とは
コシヒカリのベタベタしすぎた口触りが嫌がられた。
・他のブランドより割高感が強い。
・他に多くのブランド米ができ、それらの美味しさを知った。
・品種改良などで、米の味そのものに、あまり差がなくなった。
・不景気で、ブランドより、とにかく値段の安いものを選ぶ傾向になっている。
等々あげていたが、風評による影響とは言ってなかった。

中越沖地震のとき、ある全国区の銀行の担当者が、
「他の県の原発事故のときに、その地区の酒、米、魚、野菜まで数年間は
大きく影響した」と言っていた。それもあるのだろうが、不安心理を煽るので
理由の一つにあげなかったのかもしれない。
ところで、南魚沼郡コシヒカリが生産量の90倍も販売されているという話は、
今でもよく聞くことである。真実かどうかは別として、そういう風評も
コシヒカリのブランドに対して不信になっていることもある。
それより手取り収入の減少と、中産階級の減少と、不景気が最大の原因である。
                    
                    サラバ(o´c_`o)―☆              
ーーーーーーー
2006年10月04日(水)
2010, 「私」のための現代思想 -7
     おはよ~!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ・・さむ

ここのー「私」とは何かーという文は非常に難解であるが、一番の触りでもある。
独我論」-唯我独尊の独りよがりの論法ーで生きている人は何処の世界にもいる。
究極的には全ての人にいえるだろうが(<特に私は強い!>・・と、思ったほうがよい)
しかし、それ(独我論)では、長い時間の中で自然と淘汰されていく。
言葉は「言語という制度」に従わなければならないが、その「言語という制度」に従って
使用することが思考である。 そして思考する主体が「私」である。

    言葉の意味とは、その使用であり、「言語制度に従って言葉を使用すること」が
    「言葉に命を与えている原因」であるならば、思考の「主体」は「言語制度」
    ということになる。つまり私たちは「自我」「私個人」で思考しているのではなく、
    言語制度に従って言葉を使用している状態を「私の思考」と呼んでいるだけ、
    ということになってしまいます。しかし、それだけでないと誰でも考えます。
    それでは・・・それが以下に述べられている。
    
話すにしても、文章を書くにしても、まず「私」がある。
その私とは何かが明確になっていない。ここで、その私の正体が解剖されている。
随想日記を2,000書いてきたが、それは独我論の「私」に気づくプロセスだった。

   《私》という「私」の芯は、歪んだ過去の残物でしかなかったということ??・・
   過去の感動・感激・感謝の倉庫? 夢で溢れた夢倉庫? その総体ということ??

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第三章 「私」とは何か -①
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」-

私たちの脳裏に発生している思考は、言語によって表現されます。
言語以外の方法で表現された自分の思考を、認識することはできません。
原稿を書いている私は、キーボードの打ちすぎで右手が少ししびれてきたが、
それもしびれてきた」と言葉にしてみるまでは気づかなかったことです。
「眠いかも知れない」と感じたことも、言葉にするまで気づかなかったことです。
脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」であり、それまでは「思っても見なかった」
ことだと言えます。

    そういう私は、本当に主体者なのだろうか?
    「私」の営みは、純粋な意味ですべて「私」に帰属しているといえるだろうか。
    この問題を詳細に検討したのが、ウィトゲンシュタインである。
    彼は、「もし主体者が私であるならば、私だけの世界というものを考える
    ことができなければならない」と考えました。
    極端に言えば、それは、「私の意識の内部の世界のみが<世界>そのものであり、
    それ以外<私の意識の外側>は考える必要は無い」ということであり、
    それを「独我論」と呼びます。

そしてさらに、もしも「私の意識の外部を考える必要がない」のであれば、
「私だけが理解できる言語」というものが存在するはずだと考えを進め、
それを「私的言語」とした。言葉の持っている基本な機能に「命名」があります。
私的言語が可能であれば、当然「私的命名」が可能である。
しかし、「私的命名」とは結局は「自分だけに通じる何らかの名前を想定する」ことです。

    彼によると、「独我論の証明」は、ここで暗礁に乗り上げます。
    身しらずの子供を見て、勝手に(心の中で)
    「今日からこの子は、私にとってタロウ」と考えたとして、それに何の意味も無い。
    命名とは、制度であり、「命名の権利を有した人間」のみが行うことが
    できる行為である。「制度」とは、「独我論」的な世界には存在し得ない。
    何故なら「制度」とは、「他者」の存在があって初めて存立する概念だからです。
   「私的言語」が存在しないことは「独我論」が成立しないと言う事と同義です。

人は「言語という制度」に従って行動するウィトゲンシュタインは、
「言語の意味は使用である」と考えた。
それは、「言葉に、もしも意味と呼べるような要素があるとすれば、
それは言語制度に従って言葉を使用するということの中にしかない」ということです。
私たちが「理解した」と感じるのは、「その説明を適正に使用できる」と感じたことが
誰にもあるはず。「言葉の意味とは使用である」というのは、
「言語制度に従って言葉を使用すること」こそが、
言葉に命<=意味>を与えている原因であるということです。

    私たちは言葉によって思考し、その思考こそが「自我」、もしくは「私」であると
    感じています。そして、言葉の意味とは使用であり、「言語制度に従って言葉を
    使用すること」が「言葉に命を与えている原因」であるならば、
    思考の「主体」は「言語制度」ということになる。
    つまり私たちは、「自我」「私個人」で思考しているのではなく、
    言語制度に従って言葉を使用している状態を、
    「私の思考」と呼んでいるだけということになってしまいます。

さらに「独我論」はすでに廃棄されてます。
それでも私たちは、「私が考えている」と感じます。
この「実感」が何によって発生しているかを、「超越確実性言明」
という概念を通して、ウィトゲンシュタインはさらに検討を加えます。
たとえば「あなたが今、この本を読んでいる」ということは、
「あなたにとって」まぎれのない事実であるはず。
このように「無根拠」にあなたが信じ、主張することしかできない
言明を「超越確実性言明」とよびます。「超越確実言明」を否定されたり、
疑われたりした場合は、<私>はそれに反論することになるでしょう。

    そのとき私たちは「<私>という言語ゲーム」を行っているのだと言えます。
    なぜ、「超越確実性言明」を否定された<私>は反論するのでしょうか。
    それは、「超越確実言明」の束を引き受ける「受け皿」、もしくは「基盤」が
    <私>だからであり、その基盤のうえに、私たち<言語>や<物語>が構築されて
    いくからです。逆にいえば、この「基盤」があやふやであるとき、
    その上に構築される<言葉>や<物語>は砂上の楼閣のようにもろいものとなってしまう。

この基盤は<闘う>という意志によって支えられます。
たとえば、「私は、その約束を守る。なぜなら私が約束したからだ」
という場合、その根拠は「単にそれを守る」という<私>の意志にのみ存在します。
<私>は「超越確実言明」という基盤に発生する「機能・現象」ですが、
それが発生した段階で、今度は逆に、「<私>=自己」がその「超越確実言明」
という「基盤」を支えることになります。
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「個人の良質なミッションをつくっておくべし!」
                \(^▽^*)バイ!
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2005年10月04日(火)
1645.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・4
 4、超一流の人   宗親

どうしてもこういう商売をしているとね、人間の悪い面だけが見えてしまってね。
でもいいことも多いよ。絶対にこういう仕事でないと会えない人と直接話ができる事だね。
芸術家で日本国宝の人とか、超一流の奴。やはり普通じゃないよ。
一流になる人は違うね。そう信念ね、持っているね。
「酒をの飲むなら男とのみゃれ、10年かけたる読書に勝る」 あれだね。
一生を一つの事にかけている奴は違うよ。ひと言ひと言が、にじみ出てくるんだよな。
教わる事は、「真剣に」ということさ。
その人の周囲はピーンと張り詰め空気が漂ってるんだよな。

あの空気というか雰囲気は、実際会ってみなくては解らないよ。
自分の仕事と何も違うところはないよ。
ただ真剣、純粋そして高貴というか後光が漂っているね。
人間こういう人は、1000人に一人いるんだよ。
まず50人に1人、別格のがいるんだ。
その50人のなかから20分の一選ばるんだよな~。
そのへんの人は、自分で考える能力があるんだ。
物真似を超えて自分の何かを作り上げたやつさ。

50人に1人は物真似レベル。
そのなかで20人に1人自分のものを作れるやつが出てくるんだ。
これ私の客商売で人を見た中で感じたことさ。

・・・・・・・
2004年10月04日(月)
1280, 「乾杯!」を考えてみる

 乾杯といえば、忘年会などの酒席や、祝いの席には欠かせない。
家内や知人と飲む時も、グラスをぶつけあって乾杯をしている。
「乾杯」は、そもそもは日本古来のものではなく、
その起源は古代ギリシャ、ローマ時代に遡る。

『世界大百科事典』(平凡社)には、「古代に神または死者のために神酒を飲んだ
宗教的儀式が起源とみられ、ギリシャ、ローマでは食事中に神酒を神にささげ、
公の宴会では列席者ならびに死者のために乾杯した。…それがいつのまにか生きた
人間の健康を祝福する乾杯となった」とある。
 
 古代ギリシャ人の間では、「酒を飲むと、一緒に魔物が入ってくる」と考えられ、
飲む前にグラスをぶつけ合うことで悪魔を払ったといわれている。
悪魔は大きな音や騒がしい音が嫌い!特にグラスの鳴る音を嫌がったらしい。  
 
その一方ではもう少し生々しい説もある。
「紀元前6世紀、ギリシャ人の間には主人が友人の健康を祝って乾杯をする習慣があった。
当時、敵を殺害するため、ワインに毒を入れることがよくあったため、まず、
主人がワインを飲み、客はそれを見て安全を確認してから自分のグラスのワインを飲んだ」
というのだ。互いにグラスを勢いよくぶつけたり(酒が混じる)、一斉に飲みほす……
というのも、毒殺対策がいわれというわけである。

飲みほすことについては、杯に底が平らでない貝殻や獣角が使われており、
飲みほさないと傾いてしまう(こぼれてしまう)ためともいわれる。  
記録によると、毒殺の盛んだった中世ヨーロッパでも、グラスをぶつけ合い、
互いの酒を入れ合うことで、毒が入っているかどうかを確かめていたという。
時の王様は自身の権力をライバル達に知らしめるために、大勢のお客を呼んで夜ごと、
豪華な晩餐パーティを開いていたが、しかしライバル達を暗殺する絶好の場だった。
そこで乾杯をして、毒など入っていない事を証明し合う行為だった。

乾杯は世界中、どこにでもある習慣だ。スペイン南部の結婚式で行われる風習とは、
乾杯で新郎新婦が乾杯酒を飲み干し、そのグラスを地面にたたきつけて割るというもの。
「これには独身時代には色々な事があったけど、全てきれいさっぱり捨てて、
今ここから新たなるスタートとしよう!」という意味が込められている。

大学の卒業式の後、学食で学部の全員が集まり、パーテーがあった後、
乾杯してグラスを割った記憶が生々しい。
これで学生時代とお別れという節目としての粋な計らいであった。

・・・・・・・・・
2003年10月04日(土)
ある時間の断片ー33
11月6日 ー1968年

・10時起床。
風邪で頭が痛かったが、少し良くなってきた。
12時、佐藤君のところでお茶を飲む。その後本を読む。
夕方、飯を炊き、刺身を二人前買ってきて食事をする。
風邪を回復するための滋養だ。食べ過ぎのせいか逆に気分が悪くなる。
21時にレポート用紙を買いに出ると、市川氏と高橋君に会う。
近くの行きつけの「サンキスト」へ飲みにいく。
となりの30過ぎの女性と話す。一人で楽しんでいるみたい。
私を田舎の坊ちゃんとか、結婚する典型的タイプとか、気取っているとか、
貶されているのか、褒められているのか解らない。これが自分の姿なのだろう。
市川さんのおごりだ!その後3時間、勉強をして寝ようとすると、佐藤のところで
駒村、ブーちゃんと3人で飲んでいる。私も加わり、どうでもよいような議論が始まる。
どうも攻撃的で、間中のブーちゃんを責める。他人事でないのに、何を言っているのか
後悔する。酔っ払いでしかない。もう少し勉強に集中しなくては、ダメだ。
卒業まで時間がないのに。周囲に動かされすぎだ。
いまの勉強は、自分を納得させるためにしているに過ぎない。

・・・・・・
539,至高体験-2
- 2002年10月04日(金)

「この経験をしただけでも、この世に生まれてきた価値が充分にある。
この瞬間を経験する為に生まれてきたとといって良い」という感覚である。
精神病は精神のマイナスの偏りの病だが、プラスの人(何をしてもうまくいく人)
は、至高体験を異常に多く重ねているという。
私の至高体験具体的に書いてみる(恋愛・下ネタはないのが少し残念だが?)
 ー旅行先でのそれが多い

・初めて海外旅行ーヨーロッパに行った時、生まれて初めて腹の底から笑った、何回も!
確かイギリスのパブで、それとオーストリアのワイン居酒屋で、それとミュンヘン
ビアホールで。感動と歓喜の毎日であった。
その旅行で私の固い頭を(固定観念を)叩き壊されたのが最大の
収穫であった。中学高校時代は腹の底から笑う事は本当に少なかった。
またそれだけ刺激の強い事は、それまで全く無った。

・あとは20数年前、実家の会社にいた時30人近くを引き連れてハワイに行った。
その時も、至高といっていい位ぐらいハワイの総てに感激した。
世界に名だたる観光地、ショーにしても、洗練された内容が次々出てきた。

・カナダのロッキーも感動感動の連続であった。「一回しかチャンスが無いが、
何処に行ったらよいか?」といわれたら、カナダのロッキーだ。
多くの旅行経験者はそう言う!地球でなくどこかの星に行ったような錯覚に陥る。
「ロッキーでの旅行の感激は、「自分の家を売ってでも経験する価値がある」
であった。この日を境にして、この経験をする前と後という感じだった。

・9年前に震えながらいったケニアもそうだ。
アフリカの大地の広大のサバンナを見たときの驚きと感動!
遙か彼方にシマウマとヌーが数十頭走っている姿を始めてみた時の
感動も強烈な思い出だ。

・事業でもそうだ。初めて千葉で千城ビルを立ち上げ仕事も軌道にのり、
ふとそのビルを見上げた時の何ともいえない絶頂感も良かった。
誰もがその瞬間を持っているはずだ。

・会社の忘年会や竣工式の後の宴会でも、それに近い気持ちになる。
成功経験を重ねる人は、至高体験を重ね続けることの出来る人だ。
巨人の長島は至高体験を普通の人の数百倍、いや数千倍経験している。
それがますます至高体験を呼び寄せる。
自分を良くしようとしたら、至高体験を重ねる事だ。

・・・・・・・・
2001年10月04日(木)
「随想日記について」

新たに考えた事より、殆どが過去に日記帳などに書いた内容が多い。
それをむしろ再度まとめ直しているといってよい。
具体的文章と、抽象的文章と、その中間の文章を意識して分けて書いた。
かなり刺激的な文章もあるが、これも迷ったが思い切って載せた。
この随想日記と事業百訓などの20年の文章は私の潜在意識かもしれない。

潜在意識の顕在化のプロセスを、毎日実施していることになる。
よくテーマが出てくると感心する。一週に一回ぐらいの割りに全く何を書いて、
いいか解らなくなることがあるが、しかしいつの間にかテーマが出てくる。
‘しかかり文章’を先に2~3作っておくことがポイントである。
そうしておかないと、常に不安感が付きまとう。。
仕掛かりとしての文章は余裕を持って気楽に書ける。
土日曜日に、3~4つ仕掛かりの文を書き溜めておく。

どろどろした経験でたまった原始言語の概念化か。