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 昨日のシネマは、『フィフス・ウェーブ』をみてきた。評価は80点。
若い女性が主人公のため、女子供の目線がシリアスさを欠いていた。
それでも、物語は面白い。 当たりもあれば、外れもある。
邦画では、80点は当たりのうち。洋画では、外れ? 
 TV映画を入れれば、『映画のある人生』そのもの。
それにしても、デジタル社会は素晴らしい。


・・・・・・・
2954、ハゲタカ
2009年05月07日(木)
 連休の5月4,5,6日の3日にわたり、NHKで朝9時から二本ずつ
「ハゲタカ」というドラマを6本放送していた。日本のバブルの崩壊後に
アメリカのハゲタカファンドに荒らされが、去年の9月15日のリーマンの
倒産で、そのファンドそのものが崩壊してしまった。しかし、それまでは
世界を荒らしまくった彼らの実態の一部をドラマを通し垣間見るようであった。
 まずは、ー番組紹介ーから
ニューヨークの投資ファンド運営会社社長・鷲津政彦は、バブル崩壊後、不景気
に苦しむ日本に戻り、瀕死状態の企業を次々と買収する。敵対するファンドに
よる妨害や、買収先の社員からの反発を受けながらも、鷲津は斬新な再プラン
を披露し、業績を上げていく。企業買収、再生の真実を克明に描いた問題作。
▼ 三日間、このドラマと、その後のNHKスペシャルの「マネーはなぜ
 暴走したのか?」のセットに釘付けになり見たが、多くの示唆が含まれていた。
資本の論理からみてハゲタカが処理した企業が結果として、贅肉を削ぎ落として
再生した方がむしろ良かった?という視点もある。小泉、竹中の金融改革の功罪
をドラマ化をして考えさせられたということ。外資投資ファンドがハゲタカ
なら、日本の大手の勝ち残った大手銀行は互いの死肉を食い合うハイエナと
例えることもできよう。(字数制限のためカット 2010年5月7日)

・・・・・・
2590, イスラエルの話
2008年05月07日(水)
 長男が、イスラエルから帰ってきたので、その感想を書いてみる。
ー今回のツアーからの概略(私のインタビューからの情報)
・ツアーの会社は、新日本トラベル(現在は合併でエヌイーオーに改名)
・総員23名。半分が一人参加。本人を除くと全員が40歳以上。
 70歳代の夫婦が三組。男女の割合が半々。平均年齢50歳位。
・4月23日~5月02日までの10日間コース。
・添乗員は40代のベテラン女性。 現地ガイドは日本系のイスラエル人。
・旅行の最中に日本人には一人も会ってないが、韓国人らしきグループが一組。
・現時点で、年間のイスラエルの訪問客は8000人。
・危機感を持つ場面は、ゼロ。しかし、ウズベスタン航空のサービスは最低。
 帰りのテルアビブからウズベスタンへの飛行中に、かなり厳しい乱気流に
 あって死ぬ思いの経験。
・一人参加のアップの加算を含めて、38万円。総額43万円。
・満足度は100点。
・テルアビブの飛行場と、エルサレムの街の緊迫感は、
 私から聞いていたほどではなかった。
 ーー
 以上だが、9年前の私の実感とほぼ同じである。9年前の場合は、
これにアブラハム十戒をつくったエジプトのシナイ山があった。
これは強烈な印象が残っている。 イスラエルインパクトがあまりに強い。
わずか四国の大きさの国土で、700万人の国が、存在としては大きく位置を
占めている。日本の大よそ二十分の一の国がである。 契約の概念はユダヤ
から出ている。神様との契約が、いつの間にか人間同士の契約にすり替わった
のである。ユダヤ人とイスラエル人は同一ではない。
一般的には、イスラエル人=イスラエル国籍を持っている人。
ユダヤ人=ユダヤ民族。と思われているが、ユダヤ人は
ユダヤ教を信じていて、両親のうち両方が何じゃらとか難しい決まりがある。
ユダヤ人は選民である」という教えが、他の民族から忌み嫌われるのである。
多くの決まりがあり、ユダヤ教徒は、それを厳格に守るのである。
旧約、新約聖書のような物語と、その舞台が、そのまま一致しているのは
イスラエルしかないというが、異教徒?の目から見ると、尚のこと、
その特異性が、何とも新鮮で驚きをもってみることが出来るところである。
 ー以下は私の旅行記である。
 ーー
ーH1105イスラエル聖なる旅 
この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。
四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどのドラマがあった。現地の
日本人ガイドのシャワ?のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続。
その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の
成果となった。関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。
  (字数制限のためカット 2015年5月7日)

・・・・・・
1860, ローマから日本が見える-11
2006年05月07日(日)
                 おはよ~!(*^ワ^*)i    
           -読書日記ー
       
《その戦法を知りながら、
   騎兵力を増強できなかったのか?》

ローマ軍には騎兵を増やそうにも増やせなかった事情がある。
この時代には、鐙が発明してなかったので、自分の両足で馬の胴体を
締め付けて乗るしかなかった。

    この技法は子供の時から馬に乗りなれてないと到底乗りこなせない。
    ちなみにハンニバルは、カルタゴの同盟国の北アフリカヌミディア人と、
    ガリア人という、騎馬に長けた民族が参加していた。

またローマ軍の主体が重装備歩兵であったため、騎兵中心に変身しにくい要素があった。
重装歩兵がローマ軍組織としてあまりに中心過ぎて、これを変えるとローマ軍の
組織そのものが弱体化してしまう恐れがあった。

ハンニバルの誤算》

    ハンニバルが限られた手勢でアルプスを越えて、単身イタリア半島
    乗り込んできたのには、もちろん彼なりの計算があった。
    戦いに勝ち続けていれば、ローマ連合も盟主ローマから離反し、
    寝返ってくる都市が続出すると踏んでいた。

ところが、ハンニバルの予測に反して連合軍の連帯は強固であった。
ローマが長年かけて造り上げた「政治的建設」は、ハンニバルの心理作戦でも
揺らぐことは無かった。

                       茶でも!~~旦_(-ω-`。)
スキピオ登場》

ローマの総力を結集したファビウスでの持久戦略に持ち込んだBC210年になっても、
ハンニバルを追い込むことが出来なかった。
20個師団を超えるローマ軍はハンニバルを包囲するが、
彼の行動の自由を制約できても決定打を与えることはできなかった。

    しかし、ここでスキピオという若き軍団司令官を得ることになった。
    当時の彼は、25歳である。
    カンネの戦いのとき、19歳の少年だった彼はハンニバルの戦いぶりを観察し、
    何故勝てないのか考え続けてきた。

 そして彼は
ハンニバルに勝つには、ハンニバルのように闘わなければならない』
という結論に達する。
アレクサンダーの弟子を自認していたハンニバルも、まさか自分の弟子が
敵のローマ人から出るとは思っていなかったでしょう。
しかし、その「まさか」が起こったのです。

    スキピオ・アフリカヌスの登場によって、第二次ポエニ戦役はがらりと
    様相を変えることになる。
    それまでの『天才対組織』の戦いが
    今度は『ハンニバルスキピオ』の戦いになり、
    イタリア半島からカルタゴのある北アフリカの移る。
    そして、紀元前202年で行われたザマの会戦で、
    ハンニバルは弟子スキピオに敗れることになる。
    この一連の戦いはダイジェストではとうてい述べることは不可能です。

ハンニバルの登場は、ローマに大いなる課題を突きつけました。
そもそも年功序列のローマの共和制では「才能による」抜粋などありえなかった。
ところが、その緊急避難的に選ばれたはずのスキピオが、ことにあろうかハンニバル
勝利してしまうのだから、こんな皮肉はない。

    彼の活躍で小アジアからジブラルタル海峡まで一気に拡大する。
    その反面、ローマの元老院体制に大きな亀裂をもたらした。
    スキピオ支持派と反対派である。
    その反対派はスキピオを『スキピオ裁判』に持ち込んでしまった。
    保守派は『ローマの政治を私物化している』と弾劾したのです。
    彼は、引退という道を選んで、ひっそりと死んでしまいます。
    
 ーー
 
 いずこの世も新旧の戦いはあるものだ。
 スキピオは今でいう『ベンチマーキング』『ベスト・プラクティス』をしたことになる。
 ベストを真似てアレンジするのが一番合理的であるのは、いつの世も同じである。
 勝つには勝つなりの理由がある。
 それにTPOSが加わらなければならないが。
 歴史モノは面白い行蔵の宝庫である。

                   ヾ(^ω^*) バイ
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2005年05月07日(土)
1495, いま・現在についてー3

「どうせ死んでしまう」-2
 -読書日記


「どうせ死んでしまう」
 ーいまの生成ー
というコーナーに、「いま」について深く掘り下げてあった。
「一つの連続的自然現象を多様な関心に従って多様に区切る仕方」
という言葉が解りやすい。

ー面白そうなところを抜粋してみるー

P-39
ー「いま」の生成
すべての科学(大脳生理学・心理学・物理学等々)は
現在と過去との差異性を塗りつぶすことによってかろうじて成立している。
・・・・・・・「いま」は△T1というような一定の時間を指す概念ではない。
「いま」は一つ前の「いま」という相関ではじめて意味を獲得する。
この「いま」をえぐり出すことは、とりもなおさずその外に一つ前の
「いま」をえぐり出すことである。

今日を「いま」としてとらえることは、昨日を一つ前の「いま」として
とらえることである。
今年を「いま」としてとらえることは、昨年を一つ前の「いま」として
とらえることである。

「いま」とは、自然現象ではなく、
一つの連続的自然現象を多様な関心に従って多様に区切る仕方なのです。
「いま」の出現は、互いに否定的な二つ(いまに対応した未来と過去)の
「いま」の出現にほかならず、そこにはお互い否定的なものを繋ぐ作用が必要である。
それが想起であり、その想起の主体こそが「私」なのだ。
つまり、「私」は知覚においては登場してこず
(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。

正確な知覚能力を具えているが(エピソード記憶に対応する)想起能力の
完全に欠如した生物を考えてみよう。
彼は次々と知覚しその内容を記録する。
しかし、次々と忘れていく。
彼は自分が記録した内容を過去の事象として理解することができない。
そこに日付があったとしても、それが過去の日付であることを理解できない。
つまり、彼は連続的な自然現象を正確にとらえることができても、
そこに「いま」と「いま」の楔を打つことができないのである。
そういう彼は「私」という意識をもたない。
 -------
 
以上が、「いま」を哲学的に書いてあるところである。
「いま」は、過去の上によって初めて成り立つ、と解りやすく説明している。
そして、「いま」は想起能力がなければ存在し得ない。
「いま」を大事にするということは、過去を大事にすることになる。

過去を想起し得てこそ、「いま」が存在をする。
それからみると、日記は「いま」にとって大きな要素になる。
文章として書き残すことは、
「想起のための楔としての記録」になる。

「いま」の意味を、もう少し納得するために記憶喪失を例に考えてみる。
先日レンタルDVDで観た[記憶のない男]の姿の中に[いま]の希薄をみた。
彼の「いま」は全く過去を持たないため、虚空を彷徨っているようであった。
その「いま」は小さな点ーエネルギーでしかないように見えた。
過去の「いま」の積み重ねをバックに持ってこそ、私の「いま」がある。
それは、未来に対しても同じことである。

深い過去をもってこそ、深い「いま」が存在をしてくる。
「いま」だけが全てではないのである。

           ーつづく
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2004年05月07日(金)
1130, 「ライフレッスン」-11

 ー 許しのレッスン

誰も人生には、八つ裂きにしても許せない人間は何人かいる。
そして、自分も、他の人間にとって、そのうちの一人になっている。
相手を許すということは、けっきょくは自分を許すことである。

許すということは、自分の内面の魂の問題のかかわってくる問題である。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」であり、それは自分を如何に納得させるかの
折り合いの問題でもある。

許すというのは、ある意味で奇麗事なのかもしれない。
しかし、その奇麗事は最も大事ではなかろうか。
許しは、主体的なことである。
許そうと努力していれば、そのうちに忘却の彼方に消えていくものである。
残ったとしても、自分の記憶には「許し」という言葉が包んである。

ー以下は抜粋である

・人生まっとうにしようとするなら許すことを学ばなければならない。
許しは苦痛や傷を癒す方法であると同時に、ふたたび他者と自己を結びつける方法である。
わたしたち全員が、他人を傷つけたことがあったはずだ。

問題は傷つけたり傷ついたりすることよりむしろ、その経験を忘れられないこと、
それを忘れようとしないことである。傷の痛さはそこにあるのだ。
わたし達は傷をためこみながら生きているが、その傷を手放す方法はだれからも
教わっていない。許しを必要とされる理由はそこにある。

許す人生を選ぶか許さない人生を選ぶかは、その人が決める問題である。
許しは自愛的な行為といえる。
許さないということは、むかしの傷や怒りにしがみついているということである。
恨みの感情に栄養をほきゅうして、過去の不幸な部分を生かし続けることである。
許すことができなくては、自分自身の奴隷になるしかない。

・もうひとつ許しの障害になっているのは、報復してやりたいという欲望である。
報復という低次元な行為をした自分にたいして、あとで罪悪感をもつことになる。
自分を傷つけた人に対する攻撃的な行為が,けっきょくは自分を傷つけるのだ。

・相手の過ちだけをみているあいだは、自分の内面をみる必要はない。
相手を許したときに、はじめて人生に力がよみがえり、傷を乗りこえて花開くことが
できるようになる。

・皮肉なことに、だれよりも許す必要がある相手は自分自身である。
自分がやったことに対して、やらなかったことに対して自分を許さなくてはならない。
過ちを犯したと思ったら、そのつど自分を許してやることだ。
まだ許しのレッスンがついてなかったと思ったら、身についてない自分自身を
許してやることだ。

・許しは一生に一度の大仕事ではなく、毎日つづけていく精神のトレーニングである。
それは精神的・霊的生活のメンテナンスのようなものである。
許すことによって平和が得られ、愛が維持できる。
だたひとつの課題は、ふたたびこころをひらくことである。

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2003年05月07日(水)
763, 地方差別

 東京では、地方出身者は田舎者と露骨に差別される。
学生時代に東京に住んでみて、驚いたのが地方差別であった。
解らないでもないが、都会生活での初めてのカルチャーショックであった。
今でも海外旅行のパックの同行者の意識で驚く事がある。
それも強い負け犬の立場の人?に露骨に顕れている。

 一番面白かったのが「ケニアのヌーの河渡り」であった。
都会のハイミス・ゴールドミス(グランド・オールドミス)がすざましい
ひと達だった。具体的には書きたくないが、その傷口の血は濃厚だ!
もう二度と、その血を浴びたくはない!洗っても数年は落ちないほどだた!
自分のプライドを守る為に弱者を探すと地方差別が一番手っ取り早いのだろう。

 何処かのヨーロッパの空港の待合で、江戸っ子の職人風の父子がいた。
話しかけたら「貴方は地方?それとも東京出身?」と聞いてきた。
新潟と答えたら、一切話をしないで露骨な可愛い差別を始めた。
こんなものである。

学生時代に外国旅行に行った時、ある同行の女性が思わず本音が出た。
「最近帝国ホテルも、地方のお上りが多くって質が落ちていますわ!」
その一言で最後まで嫌われて、総スカンをくらってしまった。
「父親は同行の女性の会社の子会社の下っ端の役員でしかないないのに!」
とすぐに陰口が入ってきた。
結局はすべては「コンプレックスの隠しの芸の追求」が人間の本質なのだろう。

「お上り」という言葉が、典型的な軽蔑言葉だ。
地方差別を書くこと自体がタブーでもある。
公平という意味でー平等でなくー差別をされても仕方がないのも解るが!?
毎日二つの街を通っていて、長岡と新潟でさえもあまりに違いすぎるのは事実である。

都落ち」という言葉もあるとおり、特に都会で生まれ育った人間は
地方に住むということはアジアの何処かというくらいの響きがあるようだ。
アメリカのニューヨークなどは、もっと複雑に絡んでくるという。
民族や人種や宗教や収入や肩書きなどで露骨の差別があるという。

まあどうでもよい田舎者の話だが。

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2002年05月07日(火)
399, 末っ子はつらいよ

8人兄弟の末っ子である立場を書いてみる。
少年期まで、末っ子は上からの虐めがきつい。
特にすぐ上の2人のそれがきつい。
常に気を張っていなくてはならないのがその宿命だ。

食事も気を抜くと自分の食べ分がなくなる為、
早食いが癖になってしまう。
常に周囲の情勢を把握していなくてはならない。

誰かに聞いたが、多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。
他人の気持ちを常に読んでいなくてはならない事が、それに向くのだろう。

それと結婚の相手は長女がいいと最近聞いた。
たまたま家内がそうだった。
そういえば知人のW氏も長姉もその組み合わせだ。
上手くいっているようだ。

そういえば過去に惹かれた女性は長女で、A 型で、160cm、
おっとりしたタイプが多かったー今もそうだ。
末っ子は口が堅くなくてはならない。
それぞれの兄姉の秘密を知ってしまうからだ。

万一告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。
家族はまず出会う初めての社会だ。

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2001年05月07日(月)
ユニクロが面白い

半年前に自宅の一^二分のところできたユニクロがますます面白い。
とにかく体形にフィットするー着心地がよい。それと安い。
土日曜は開店から閉店まで客のとぎれることはない。’服は服装のパーツ
である’という考えのもとの品揃えがはっきりしているのだ。
あそこまで客に支持されるのは、普段着と重ね着のサブに徹している
為もある。今まで腰まわりだけのサイズのズボンしかなっかた。
今は股下のサイズもヨウイしてある。ウエスト79のサイズの股下80と
70とでは当然形が当然形が違ってくる。
今まではそれだけ種類が増え在庫が増えてしまうという
川上の論法ででつくられなっかったが、売れ筋を 絞り込む事と在庫管理の徹底で
用意すれば安いコストでそれぞれの人が着やすい品を提供できる事が彼らに解ったのだ。
本当の意味での顧客サイドの商品つくりがおこなわれていなっかたのだ。
その意味で当分ユニクロの一人勝ちは当分つつくだろう。

-以前書いた私の文をコピーしておきます。
H1211事業百訓-ユニクロ現象について-
自宅の一〇〇m先にショッピングセンターがオープン。
予想通り便利という面で生活が一変した!その中にユニクロが出店。
二ヶ月以上たった今でも土・日は人が入りきれないほど繁盛している。

そこで私の好きな店舗・商品分析の為、毎週通っている。
まず?中心価格帯が一〇〇〇~二〇〇〇円、?無地物、?カジュアル、
?重ね着のサブのみねらう、?中国製が九〇%、?デザインは外国の一流デザイナーに
日本人の体形にあわせてデザイン、?使用目的は顧客にえらばせる、?縫製は国内産以上、
等々。もちろん見るだけでなく、ズエット・スーツ一九〇〇円とフリースを一二〇〇円で
室内用に買い、無地のコーディロイのボタン、ダウンシャツ九八〇円を重ね着用に二枚買って
みた。 何といつのまにスエットスーツが室内着、兼パジャマに、フリースがガウンがわりに
なっていた。

朝・夕のちょっとした外出時はスエットスーツに外出着を羽織るようになっていた。
恐らく、若い人は以前より、このような使い方をしていたのだろうが...。
デザインも、コーディネートも一応さまになっており、フィットしている。そういえば、
四~五年前、スエットスーツを買って少し着たが体形に合わず、タンスに入っているのを
ひっぱりだしてみた。ユニクロのそれと全く違うのだ。
着やすさ、デザイン、色、肌合い等々。
それも二倍以上も高いのだ。

ユニクロは日本人向けに、一流デザイナーにデザインをさせ、
中国で(縫製は厳格に)大量生産させ、カラーは顧客のニーズに合わせ、
毎週のように追加・変更しているという。九八〇円のコーディロイのシャツも今回の
海外旅行に外着のあわせに持っていったが、体形にフィットしており、着やすく、
何の問題もなかった。 ユニクロは"衣料のマクドナルド"を目指しているというが、
一人の消費者としてすばらしいと断言できる。

今回、ツアーで西欧人のツアー団体をみて我々の団体を見ると冷や汗が出る思いだった。
彼等は無地の白と黒の上下の
カジュアルのみ(それ以外は無地のベージュの人が二~三人いたくらい)。
但しデザインはセンスがよくさわやかなのである。
我々日本人団体はカラフルだがバラバラ、デザインも個々をみると、まともに見えるが、
集団でみると色気違い!

先日十年分のスーツをハンガーにならべてみたが
(そしてほとんどズボンを残して捨てたが)私にとって思いきって
高く買った濃紺のスーツ以外は、よくぞこんなスーツを!と赤面してしまった。
無地の濃紺のスーツ一着も着こなせないのに、グリーン、グレー、茶系と
よく着ていたものだ。

カジュアルウェアーの着こなしの基本は紺のブレザーの着こなしだそうだ。
少し考えれば当たり前だ。
ブレザーのデザイン、素材、さらにズボンの種類、ポロ、セーターのあわせだけで
何十いや何百も変わってくる。
西洋人は何百年の洋服の歴史でとっくに常識になっているのだろう。
その事をユニクロも気付いていると思われる。
一番気付いていないのは、ブランドを追いかけている
無知な中年のオバサンではなかろうか。