つれづれに

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  今日のYoutube

 天気が良いので、昨日に続いて、大よそ一時間の早朝のポタリング
(ミニ・サイクリング)に出る。まだ、寒いこともあってか、信濃川の両岸の
2キロmの遊歩道には、ほぼ誰の姿がない。もう少し、いても良いはずだが・・

 庭の梅が満開になってきた。 大体、その一週間後に、土手の桜が咲き始める。


・・・・・・
2009年03月31日(火)
2917,日本人の8人に1人が鬱病
 現在日本人の8人に1人が鬱病という。女性と男性の割合は、女性2に対し
男性1、の割合で女性の方が倍になる。イタリヤ人は4人に1人の割合というから、
陽気なイタリア人のイメージとは、かけ離れている。私自身は20歳代半ば
まで少しは欝的だったが、本質的には陽気。 欝は青年期は誰でも通る道。
精神的な落ち込みを独りで乗り越えてきたが、落ち込む余裕さえ無かったのが
実情。 20年ほど前になるが、取引先の営業の人が重い躁鬱になってしまった。
病院の塀の上から内側に落ちるかどうかの際どい場面が何度かあったようだ。
その病気の聞き役になっているうち、何時の間にかコントロール役になって
いた。その人も数年前に亡くなったが、「原因」は、プライバシーに
関わるから書けないが・・。 本人の口から欝の状態をこと細かく聞いたが、
壮絶の一言である。 家中の家財をバットで叩き壊すなど・・ 
自分ではコントロール不能という。 亡くなる数年前から、危なくなると、
自分から医者に行き入院を10日ほど願い出て、落ちつくと退院をしていた。
それが出来ると精神病ではなく、精神症というらしい。病と症の境は、周囲に
迷惑をかけるかどうか。精神も肉体も同じで、病。医者と相談をして、発症を
したときは薬を飲んだり入院をして俗世界から一歩引けばよい。そのことを
本人が相談にくるといい続けていた。欝になる前には必ず異常な躁状態になる。
そうすると周辺から電話、「欝の発生の予告」が来る。そして、何時もの
パターンが始る。 今回の調査の結果の「8人に1人が鬱病」には驚いたが、
周りをみると、そういえば、ありそうな。 3家族に一人になるから深刻。
 生真面目で、常に誰かに頼っていて、周りに気づかいをしすぎ、自然の笑い
の無い人。私は自分の弱さを知っているので、予防の知識を充分に積んだが、
それでも最近の不況は心を暗くする。 毎朝ウォーキングをし、仏壇前で
数分の瞑想的な祈りをし、美味い酒でも飲んで憂さを晴らせば欝になりよう
がないと思いきや、そうでもない。歳をとると何らかのカタチで欝的状態が
ついてまわる。そりゃそうだ。一つずつ病が加算され、身体は老いていき、
友達・親兄弟は亡くなっていけば、欝状態になるのが自然である。 
この世界恐慌は「グローバル欝」を誘発する。それを利用して戦争を起こし、
チャラにしたのが、これまでの方法。

・・・・・・・・・
2008年03月31日(月)
2553, ヒルティの幸福論    ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]

 アランの幸福論の次にヒルティの幸福論を取り上げなければなるまい。
幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージ
がわいてしまう。格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。
しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。幸せな人より、
不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
まあ、それはそれで・・・・ いや、無知が全ての原因ということが、
あまりに哀れで! 自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。所詮、人間は
結末は不幸なのだから。
 カール・ヒルティ1833年生まれの法律家。
アランの「幸福論」はストア哲学的であるのに対して
ヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、お堅い。
アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、
自分を離れた、外的な環境や社会に対しての関心や、献身的行動にこそ
幸福があるとしている。 ヒルティの幸福術のポイントといえば、
�仕事こそ最高の幸福    �良い習慣を身につけることだ第一  
�自分の意志で幸せになれる �人間を知ること  になる。
 それぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
ーーー
�=
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる
 働きびとは最も幸福である。」
�=
「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 第一の主要な規則は、
 すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、むしろ
 常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬということである。」
�=
「喜びはある程度まで努力してつくり出すことができる、しかもごく簡
 単な方法によって。まず第一に、自分の持っている良きものに目を向け、
 その価値を認めて感謝することである。感謝は喜びにきわめて近い感情である。 
 次ぎには、他人に喜びを与えることである。これは誰でも、病人でさえも、
 できることであり、ひとに親切にする機会は、つねに、どこにでも十分にある。」
「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
 われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言でいえば、
 われわれの所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、肉体、財産、
 名誉、官職など、われわれの所為でない一切のものである。
 われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、
 妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、
 隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」
「それゆえ、きみが本来隷属的なものを自由なものと思い、他人のものを自分
 のものと見るならば、きみは障害に会い、悲哀と不安におちいり、神を恨み、
 人をかこつことになるであろうことを忘れるな。これに反して、きみが真に
 自分の所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認める
 ならば、だれもきみを強制したり、妨害したりはしないであろう。きみは
 だれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反して
 なす必要はないであろう。 だれもきみを害せず、きみは一人の敵をも
 持たないだろう。そして、きみの不利となることは一切、起きないだろう。」
「苦しみは人間を強くするか、それともうち砕くかである。その人が自分の
 うちに持っている素質に応じて、どちらかになる。苦しみに出会ったら、まず
 感謝するがよい。それから、その苦しみが何のために役立つかをたずね給え。
 あなたがそれをただ避けようとせず、その苦しみの意味を理解しようと
 真剣に願うならば、やがて必ずそれを発見するだろう。」
「幸福に生活しようとする人は、何よりもまず自分の「気分」から完全に
 解放されることが必要である。」
�=
「人間を知り、人間を正しく判断することが われわれの実生活にとって
 極めて大切だということを、仮りにも本気で疑ってみた者など、まだ一人
 もいないであろう。人間知を得る第一歩は、自分を知ることと、自分を
 善くすることである。
 第二は、人間をば、自分のためでなく、彼らのために知ろうという決心である。
 そして第三に、人間についての完全無欠な知識を期待してはならないことであ
「人間を知ることは、人を観察する者がまず確かな自主性を持ち、またなんらの
 欲望もいだかぬとき、つまり観察する者の側で一切の利己心をできるだけ
 完全に捨て去るときのみに可能である。」
 ~~~~
 アランに比べると、少しお堅いが、じっくりと人生論として読むとよい。
 少しキリスト教倫理っぽいが。
                        ゚+.(ノ*・ω・)ノ* ホンジャ
・・・・・・・
2007年03月31日(土)
2188, 宮城まり子 -3

         (~Q~;)  おはよう~~
 今日で日経新聞の「私の履歴書宮城まり子」が終わった。
深い世界を垣間見た思いである。純粋な動機こそ、一番強いのだろうか?
彼女にとって、この生き方しかできなかったのだろう。
障害者の一生を受けとめることは、生易しいものでない。
人生の全てをかけて受けとめているのだから、これこそ人生の格闘である。
数日前の、この場面が彼女の性格と強さが出ている。
「私がやらなければならない!」という自負が、捨て身でコトに当たれるのだ。

 ーーー
ねむの木学園が始まったばかりで高校に進学する子はまだいませんでした。
「なぜ」「制度がないんだよ」私は躊躇いもなく東京に帰って、首相官邸
行きました。1972年の9月16日。どんどん入っていって、「首相にお会いしたい
んです」と言うと、2~3分もしないうちに、大きなしわがれ声がして田中角栄
さんが出てきました。
「今日は、総理大臣にお知らせしたいことがあって参りました。両親のない子、
貧しい子、よくできるのにお金がない子が日本中の擁護施設にいます。
大學にいくらなら自分で働いたらよいでしょう。けれども働いても定時高校に
いけない子もいます。その子が優秀なら高校にいけるようにしてください。
面倒を見る職員のことも少し考えてください。」「高校へ?」「はい」。
総理はしばらく黙って私を見ておられましたが
「やあ、ありがとう。勉強になりました。すぐ返事ができなくて残念だが、
待っていて下さい」と言われました。翌年1月17日に二階堂進官房長官から
連絡施設が入り、養護入所児童等で高校に進学できる能力を認めたものには
国からの費用を交付する。直接処遇職員については基本給に12~16�を加算
するという制度に変わったことを教えていただきました。

吉行淳之介さん、亡くなって13年たちますが、ねむの木学園で格闘している
うちに、愛する淳之介さんの病気が、慢性の肝硬炎から肝硬変に進み、その
原因がC型肝炎であることをこっそり知らされました。入退院を繰り返す中の
彼の一挙手一投足を素知らぬふりをしながら眺めて「まり子、淳之介と
ねむの木学園の子供達とどっちが大切なの」と思うときがあります。
「淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛しているのは
ねむの木の子ども」
私は、愛ってマシュマロみたいに柔らくて、二つに分けたらふわって大きく
なると思っています。すこし色彩が違うだけ。愛って、二つも三つにも
増えても大丈夫、愛して、愛して、愛しちゃって、もういっぱい愛しちゃったの。
こんな歌を歌ったことがありました。ミュージカル「イルマ・ラ・ドゥース」
の中で。そして私の淳のことをドクターの野郎は「ガンが見つかりました」
と教えてくれました。
豊かな心の持ち主とは、こういう人をいうのだろう! このように
人知れず人生を恵まれない人に捧げている人 が数知れず存在している。
豊かさとは何か考えさせられた一月であった。 ホンジャ~~ヾ(´ω`)バイ
・・・・・・・
2006年03月31日(金) 1823, 日暮里界隈 -3
              才八∋ウ_〆(∀`●) 
 
飲み屋の話になると話は、止まらない!
日暮里の・谷中銀座の商店街が、何ともレトロの味がある。
十軒の商店が両側に並ぶが、空き店舗が一軒も見当たらない。
昼間は観光客で溢れかえっているのだろう。
魚屋、衣料品店、肉屋などパパ・ママストアには商品が満ちていた。
夕方の閉店まぎわの店の雰囲気が何ともいえない情緒がある。
こういう風景に惹かれるのは地方の商店街では、もう失われてしまったからだ。

その通りから一歩はいった処に、情緒ある居酒屋が目に入った。
前までいくと料金が書いてあったが、普通の居酒屋の倍近い。
次男も一緒なので、たまには良いだろうと入った。
25坪ほどの店だが居酒屋にしては高級つくりである。
変わっているのは、店の中央に奥の料理場から人ひとりが商品を出せる
空間のある10席位のカウンターがある。(吉野家のカウンターのような・・)

サラリーマン風の中年男性が4人飲んでいた。
その入れ替わりに60歳代後半の品の良い旦那様風の人が入ってきた。
何かのキッカケで話を始めたが、上野周辺で『三河屋』という老舗の
葬儀関係の商品を扱う旦那という。 ( ・・)つ―{}@{}@{}-  やきとりどーぞー♪
「新潟から来て、東京在住の息子と飲んでいる」というと、
自分の生活圏の文化ー趣味(常磐津・・)とか、町内の話などを
面白おかしく話してくれた。下町文化の話は聞いていても飽きない。
二軒目に入った店なので、あまり注文しなかったためか高くはなかった上に
谷中ならではの雰囲気を充分味わえた。 旦_(。-_-。)いい仕事してますな~

ところでJRの日暮里駅駅周辺の居酒屋は、店構えは良いが殆んど外れ。
下町の為か、朝鮮系の店が多い。宿泊しているホテルに紹介された駅近く
の居酒屋に行ったら、かん酒(前の客が残してアルコールの抜けた酒)を
出されたり、どう計算しても何割か高く後味の悪い思いをしたこともあった。
日暮里界隈というイメージとおりの危ないところもある。
その危なそうなところが面白いのだが!
               バイ ._〆('Д'*⊂⌒`つ
・・・・・・・・・・・・・・  
2005年03月31日(木)
1458, はだしの学者ー西江雅之

以前、図書館から借りた西江雅之旅行記「花のある遠景」を読んで、
常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。

世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究に従事、
50ヵ国の言語を話す。ハダシの学者といわれるように、目線が現地人に
なっている。そのためか、どこの地に行っても誰とでも友人になってしまう。
深い教養があってこそである。

「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、どちらかが失敗
したら死ぬであろうというギリギリの状況で二月、三月と一緒に過ごした
というような経験がたくさんある。別れたらもうその人と生涯会えない。
住所を聞こうにも、手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。
居所もわからない。 そういう経験を何十回も重ねて・・・・・
そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、
ときには言葉を重ねないことの大切さを述べている。無理に言葉に置き
換えるという作業が、驚きを別のものにしてしまいがちになる。

「外国の何とか村を紹介した本があって、読むと面白かったりするでしょう。
だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、書いた人が面白いんです。
その人は何とか村を面白がれる力があるんです。面白がる力があれば、世界中
どこでもおもしろい。実力のない人は、変わったものでないとよく見えないんです。」

以上の言葉から見ても、その言葉の奥行きの深さを充分に知ることができる。
以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
 
ーーーー
「花のある遠景」
 西江雅之著 (旺文社文庫
 副題は「東アフリカの裏町から」である。

アフリカであっても、普段多くの人間は街に住んでいる。
働いてもいるし、食事もするし、酒も飲むが、しかしほぼ働いていない。

この旅行記で出てくる女たちは娼婦である。彼女らは著者にとっては、
性の相手対象ではなく、キクユ語の先生であり友達である
(著者は、言語学者文化人類学の研究をしている)。
彼女らは娼婦だからといって、娼婦的な陰鬱さが全く無い。
さわやかさまで感ぜられるほど、さばさばいている。

この本の内容は日本では考えられないことがほとんどだ。
彼らにとって、それがなんでもない日常でしかないのだ。
旅行をしているというと、じゃあ俺も一緒にいこうという。
荷物持ちでも何でもいいから雇ってくれ、と。西江は中古車を買って、
運転手を雇って旅行しようと思い立つ。雇った運転手に車を修理してもらい、
出発する段になって雇った運転手の男が、じゃあ荷物をとってくるから
待てという。もってきたのは帽子とズボンだけ。しかもそのズボンを、
この部屋で帰るまで預かってくれという。バッグも金もなんにも無い。
面白そうだからただその話に乗ろうというのだ。そういう動機の方が
自然で面白い。本当に着の身着のまま。他に何が必要か。
恐らく真剣には考えていない。考えたところで仕方が無いのだ。

お前が行こうとしているところに俺の婚約者がいる。久しぶりに
会えるというので大変にはしゃいでいる。ところが着いたとたん、
そこで偶然知り合った女と仲良くなってどこか消えてしまう。
彼女と会うのはまた今度でいいや。出発する時には何にも悪びれる様子もない。
ーーー

まあ、こんな感じでアフリカの原住民の生活が、そのまま正直にリアルに
書いてある。そのため読んでいて、引き込まれてしまうのだ。
読んでいると、現地にタイムスリップしたような気分になってしまうから
不思議である。その運転手と、突きつめた自分と何処が違うというのだろう。 
何も違わないのだ。
 ーーーー
ー以前書いた著者の本の感想文である。

2003/11/14 954、「意味」の意味を考える
(以下字数の関係でカット2008年3月31日)
・・・・・・・・
2003年03月31日(月) 726, 結婚式で思う

私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。その中に色いろな人生の圧縮が
みえるからだ。一般には「人生で集まって褒めてくれる」のは、
「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。そのうち結婚式だけが、
祝福されるているのが自覚できる。「人生は結婚式で道半ば」ともいう。
それで人生の大半が決定してしまうからだ。
当たりか外れは神のみぞ知るである。

今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより
「本人同士のお祝い、かつメルクマール」という面が強くなってきている。
以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。

 つぎは葬式である。
本来葬式はお祝いであるべきだ。その人が人生を終えて、無に帰っていく
のを送る儀式である。人生の卒業式である。悲しみであると同時に、
その人にとって大きい意味を持つ。

参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。その人の「魂と社会と世間がそのまま
圧縮されている」といってよい。人が一人亡くなるのは、その人の積み
重ねた人生が無に帰ることである。

ごくわずかな身内の人達の心のこもった葬式が好きである。
それぞれの社会的なものもあろうが、今は生き残った人の体面の場に
なっている。葬式もそれぞれの残されたものの価値観があるから、
とやかくいう問題ではないが。 最近は葬式に出席すると、いつも
遺影を常に自分の顔に当てはめて考えてしまう。その目で会場の人達を
見ると、何ともいえない気持ちになる。「死んでしまえばお終いよ!」と。

・・・・・・・・・・
2002年03月31日(日)
362,ある思い出-慈善

中学の頃の話である。 隣にMという一家がいた。そこに一歳年上の
カッチャンという遊び友達がいた。その家の裏に倉庫があった。
そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。母親が肺病で、
私のある姉にあの家の近くに近寄らないように言われていた。
カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ているという。カッチャンの
父親は数年前亡くなり、母親とカッチャンとその姉と3人の家族。
今考えるとカッチャン一家は、その生活を維持するのに精一杯の筈だ。
その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから大変だったろう。

ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。神も仏もある
ものかである。残されたカッチャンと姉さんは、おじさんと同居する
事になった。その肺病の母親もまた二年後亡くなった。そして
娘は施設に引き取られていった。

その事を今から20年前に、何かの拍子に思い出した。そのMという
人の心に気がついた。どういう気持ちでその苦しい生活の中、その人を
面倒を見ていたのか。そしてその中で死を迎えた時の本人の気持ちは、
いかなるものだったのか?

人間の一番大事なことは何であるのか? それとは関係なく、現実は非情に動く。
「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、反面本当かとも疑問が湧く。
人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。 少なくともカッチャンと
姉さんには、深く残っているのではなかろうか? それとその娘の心に!

・・・・・・・・・・
<お笑い>
[殿の姉の死]☆☆☆

この小話は7~8年前に仕入れたが、一番気に入っている1つである。
  ーー 
殿様と家老が話をしているところに家老の家来が緊急にと、青い顔
して耳打ちをした。「殿(家老)の姉ぎみが亡くなった」と。
家老はてっきり殿様の姉と、勘違いをしてしまった。それを聞いた
殿は、うろたえ城内は大騒ぎ!しかし、その後家老の姉と判明した。
家老に殿は怒り心頭、「無礼千万な!わしの姉を勝手に殺しおって、
打ち首!」と刀を振り上げた! その瞬間ハッとして、刀をしまった。
「わしには姉がいなかった!」