つれづれに

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 あと数ヶ月で、ご隠居生活に入って5年になる。
それまでの生活と大した日常の変化はなく、新潟に通うのが、
近くのスポーツジムに変化したことと、少し肩身が狭くなったことぐらい。
それと、毎週、シネマに通うことになったのもある。
 それまで、何かしらないプレッシャーが、無くなり、フワフワ浮いた
感覚も慣れてしまえば、これが当たり前になる。あのなんとも言えない
緊張感も、プラスマイナス、ゼロということか。


・・・・・・
4633, 閑話小題 ーシンクロニシティ
2013年11月22日(金)
   * また、偶然の一致  ー二人の故人への追悼文ー
 昨日の朝、倉庫の一角の書棚に、ある本の探し物に行ったところ、
日本ペンクラブ編の「年齢(よわい)は財産」というエッセイ集が目に付き
書斎に持ってきた。そこで、一つのエッセイをテーマに書き始めて気づいた。
何と4年前の11月21日に、このテーマについて書いていたのである。
まさか!である。 
「言葉遊び」ーラ行受身形ーである。 
 このテーマに惹かれたのは、現在、長岡という城下町の中、強がりを言っている
が、一つバランスを崩せば鬱になる状況。それが、このラ行の受身形である。以前、
この内容を取り上げていたことを全く忘れていたが、万一と思い、HP内の検索に
「ラ行の受身形」と入れて驚いた。何と4年前の今日、このテーマについて
書いていたのである。 何かが、倉庫に引き寄せ、この文章を改めて熟読しろ!
という「意味ある偶然の一致」だろうか。 頭の中に、何か底知れない、磁石が
あるのだろうか? いや、それより、一昨日、長年の付き合いのあった東芝
エレベーターの馬場の奥さんからの「年賀欠礼」で、この8月に亡くなっていた
ことを知り、故人をテーマに予定した下書で、故人を偲んでいた影響か? 
彼が、この本に導いたと考えると、筋が通る。 悟ったようなことを書いているが、
一昨年の倒産劇から、「ラ行の受身形」の否定の視線と、内語の格闘である。
当然といえば、当然。その対処は、気持ちを背けないで、それらの中心に無心で
たち向かうしかない。「正中心一点無」である。ただひたすら、それを続けるしか、
手立てはない。
 あれから二年半、少し落ち着いて、これらから徐々に解放されつつある現在、
馬場さんの訃報を聞き、追悼の文章の下書を書いた後、故人が私を導いてくれた
と考えると「シンクロニシティ=意味のある偶然の一致」ということになる。
 それと一年前に、自死をした高校の同級生の故人を偲ぶ会が、今夜、開かれる。
この春の同級会の幹事だったが、幹事特権で、次回の幹事の指名権を持つシステム。
そこで、某君に偲ぶ会の幹事を一方的に選んだ。どういうものか迷ったが、深夜、
彼のイメージを持って故人に問いかけた。「どうしようか?」 答えは、
「何を言ってるや、開いてくれ! いつも同級生の葬式で二次会で偲ぶ会を
しているのに、何で俺にしないんだ」と・・ 参加者が10名と踏んでいたのが、
18名の出席予定になった。これだけで故人も喜んでくれるだろうが、私に
「ラ行の受身形」を意識して早く立ち直れということ? このシンクロ二シティ、
「受け入れたくない、この事態で襲ってくる言葉を、感謝へと転換しろ!」
という二人の故人のメッセージとして、以下の文を感謝をしながら読み返している。
この春の同級会で、老舗の会社を潰したA君が、「この事態に感謝している」
と、話しかけてきた。 苦しみ、もがかなければ、こんな言葉は出てこない。
悟ったということか。 それぞれに、似合った悟りが与えられるもの。
・・・・・・
3152, ラ行の受身形
 2009年11月21日(土)
「年齢(よわい)は財産」~日本ペンクラブ編 
の随想集の中にあった土居伸光氏の 【言葉遊び】ーラ行の受身形ーがよい。
 ーその概要を短く纏めてみるとー
10数年前に末期癌で亡くなった奥さんの、死に至る過程を見つめ、彼女が
否定的で受け入れたくない出来事に対して使われる言葉が、感謝へと転換して
いく姿を愛情を込めて書いている。
 ラ行の受身形とは・・・
・叱られた   ・文句を言われた  ・虐められた  
・騙された   ・裏切られた    ・嫌われた   
これらは私達が日常でよく使う受身形。 
 どちらかというと、否定的で受け入れたくない出来事に使われることが多い。
そこで、「叱られた→叱っていただいた」「嫌われた→嫌っていただいた」
など、ラ行の受身形を転換をすればよい。その結果として、感謝の心を増幅させる
だけでなく、人を大らかにし、強くさせる力になる。奥さんは、絶えることなく
襲ってくる激痛に逃げ出すことはしなかった。 直観力が強くなったのだろう、
激痛を事前に察知して、仏壇の前に正座をし、ローソクと線香を灯し、祈り
ながらそれがやってくるのを待った。その後姿に、著者は揺るぎない彼女の
覚悟が読み取れた。そして、ある日「問題は、すべて私の中にある。
ガンを早期に発見できなかったのは病院ではない。ガンそのものが、問題ではない。 
ガンは自らがつくり出したもの。ガンは自分自身。誰も悪くない」と耳の疑う
ような言葉が彼女の口から飛び出した。その言葉を境に、奥さんは大きく
変わっていった。 ・・激痛を乗り越える過程で受身だった彼女は感謝の心に
変わっていったのだ。 そして余命半年といわれていた奥さんは結局三年生きた。 
 我われは老いの進行と共に、頭や身体は思い通りには動いてくれなくなる。 
三者から「ラ行の受身形」の言葉=《叱責、文句、虐め、騙し、裏切り、嫌悪》
が、未来の自分に投げかけられる可能性がある。 その都度、心が大きく
揺れるようでは、人生の平安はほど遠くなる。ラ行の受身形を転換し続けることで、
すこし謙虚になったように思うという。文句を言われるのは、文句を言われる
ようなことがあったからと気づく。そう考えると、自分の至らなさが見えて
きたりする。そうすると、文句を言った人に、怒りではなく感謝の気持ちが
わいてきて、嫌な人物がそうでなくなってくる。今の私には嫌な人物は一人も
いないという。 単なる言葉遊びと思われるかもしれないが、やってみる価値は
十分ある遊びである。この遊びの素晴らしいところは、使っても目減りをしない。
使えば使うほど心は確実に成長し、その結果は微笑みという形をとって顔に
現われてくると、無邪気に信じてくるようになる。
 ー
 味わ深い内容である。 この続きも良いので次回に書く。 
これは先日書いた「要は、受止めかた次第」の具体例と考えるとよい。 
その意味で、この文章に偶然出会ったのが不思議である。書いていて思い
出したのが「もとは、こちら、そのままけっこう」である。実際に現在
抱えている幾つかの問題に対して言葉遊びをしてみたら、直ぐに
「そんな問題じゃないだろう」と、心(言葉)が噴出してきた。しかし、
「遊び、遊び!」と自分に言い聞かせ、何度か言葉遊びを繰り返すと、
あれだけ腹立っていたことが収まってくるから不思議である。
色いろな悟り方があるもの。
・・・・・・
3153, ラ行の受身形 ー2
2009年11月22日(日)
 ー まずは前回の続きの部分より ー
妻の葬式の時、私は不思議な体験をした。 いよいよ出棺というそのとき。
私の鳩尾(みぞうち)から喉に向かって稲妻のように熱いものが走ったかと
思うと、それは胸全体へと広がっていった。 その瞬間、私は言葉では
譬えようのない至福感の中にいた。 あの体験は、「死は悲しみではありません。 
私は満ち足りた気持ちであの世へ向かっています」という妻からのメッセージ
ではなかったかと、今になってそう思うのである。もし、あの世の妻と
コンタクト可能なら、私はこんな問い掛けを妻にしてみたい。
「がんに殺されたと思う?」、「いえ、がんに殺していただいたんです。
お蔭でたくさんのことを学ばしていただきました。ありがとうございます」 
「ラ行の受身形」の透けとおった心で、そう応えるかもしれない。
そして最後に「あなたも感謝の心を持って、狼狽えることなく生きてくださいね」
と妻は、微笑みながらそう付け加えるのを忘れないであろう。
▼ こういうのは、本人しかできない不思議な体験である。「鳩尾から喉に
向かって稲妻のような熱いものが走った」というのが、チャクラが反応した
のである。 似たような経験を、幾つかの記述を何度か読んだことがある。
身近な故人とは、色いろの魂の邂逅があるようだ。 私も父が亡くなった
初七日に不思議な邂逅があった。夢で父の気持ちになってしまい、死の恐怖心
から〔死にたくない〕と思った瞬間、我に返った時、あれっ、私は生きている!
という不思議な安堵感と父の魂との邂逅、と似ている。 思いは、言葉で作られ、
そして残るもの。 思いも、それを形成する言葉は、後々残るから大事に
しなければならない。気楽に、言葉遊びとして、ラ行の受身形を前向きな言葉
に替えるように努めたいものである。〔こん畜生め!〕は、やめとこう。
言ってもいいが、その後に「何かのサインを出してくれて、ありがとう」
を加えれば、気が楽になる。老人の、あの暗い顔だけはなりたくない。