つれづれに

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今朝の、朝日新聞の川柳が良い。
――
☆賭けるなら試合に命賭けなさい(千葉県 村上健)
 名誉教授の不名誉借金(長崎県 張本雅文

それにしても、この三人の投手、これから、どうして生きていくのだろう。
世の中には、暴力団に、重大な秘密を握られ、搾り取られている人が
限りなくいるのだろう・・・ 


・・・・・・
2777, 仮説思考 -4
2008年11月11日(火)
 棋士の読みの一手は、仮説思考そのものである。 次の文章で、そのことを
上手く表現している。制限時間のかなで、判断しなくてはならないから、一瞬の
仮説思考が必要になる。羽生は、ここで「直感の七割は正しい」といっている。
面白い確率だが、彼の天才的な能力だから七割なのだろう。 
共同体の中で、共同幻想を持って、そのことすら気づいてない我われは、
仮説の世界で生きているようなもの。 棋士の目で経営アドバイスをすれば、
良い助言が出来るだろうに。
   ---
 *天才棋士は一瞬で打ち手を絞り込む
  P-32
 プロ棋士羽生善治は稀代の天才棋士であることはいうにおよばないが、
仮にビジネスの世界に進んでいたとしても、かなりの確率で成功を収めたに違いない。
なぜ、そんなことをいうかといえば、それは羽生が仮説思考の達人だからである。
 羽生の棋風はオールラウンドで幅広い戦法を使いこなし、終盤に繰りだす妙手は
「羽生マジック」と呼ばれる。「マジック」の使い手ということになるが、
こちらも妙手の秘密について著書「決断カ」で言及している。  
 羽生は将棋で大事なのは決断力だという。すなわち意思決定だ。
決断にはリスクを伴うが、それでも「あとはなるようになれ」という気持ちで
指すのだという。そのときの意思決定を支えているのが仮説思考である。  
 将棋には、ひとつの局面に八○通りくらいの指し手の可能性があるが、その八○を
ひとつひとつ、つぶさに検証するのではなく、まず大部分を捨ててしまう。
八○のうちの七七、七八については、これまでの経験から、考える必要がないと
瞬時に判断し、そして、「これがよさそうだ」思える二、三手に候補手を絞る。
 これはまさに仮説思考だ。八〇のうちから、よさそな三つの答えを出す。
そして、その三つについて頭の中に描いた将棋盤の中で駒を動かして、検証する。
大胆な仮説を立てて、「これでよいのではないか」と指しているのだ。
 羽生は「直感の七割は正しい」ともいっている。直感は、それまでの対局の
経験の積み重ねから、「こうういうケースの場合はこう対応したほうがいい」
という無意識の流れに沿って浮かび上がってくるものだと思う、ど羽生はいう。 
こんなこともいっている。「判断のための情報が増えるほど正しい決断が
できるようになるかというと、必ずしもそうはいかない。
私はそこに将棋のおもしろさのひとつがあると思っているが、経験によって
考える材料が増えると、逆に、迷ったり、心配したり、怖いという気持ちが働き、
思考の迷路にはまってしまう。将棋にかぎらず、考える力というのはそういう
ものだろう」将棋の対局の軽験をビジネスの経験に置き換えても同じことがいえる。
ビジネスにおいても、問題の原因と解決策について、あらゆる可能性を考える
よりも最初に焦点を絞って飯説を立てることが大事というのは、これまで
述べてきたとおりであり、それは、経験に裏打ちされた直感力、勘によるものだ。
 ---
 羽生棋士の話より、多くの仮説から瞬時に一つを選ぶ‘決断’の重要性を教えられる。
孫子の兵法で「巧遅より拙速」というが、そのためには高度の経験の蓄積を必要とする。 
何事も同じである。 

・・・・・・・・
2007年11月11日(日)
2413, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて -1
                           (ォ'`ョゥ)
  この本を読んで俗にいう娑婆のことを多く学ぶことができた。
バブル当時まで、元の住友銀行が大阪検察の幹部との定期的な会を開いていた
ことは周知の事実である。 これは検察が定年退職をして弁護士になる時に、
銀行の取引先を紹介してもらう見返りに、その銀行に対して逮捕者は出さない
取り決めだという。かなり強引な手法も検察がついているから好き放題できたと、
この本にもあった。やはり本当だったようだ。 地検も法務省の一機関で
しかないということだ。それにしても、恐ろしいことだ。 
人間がいるところ仕方がないのか?ーその部分を抜粋してみる。

 「反転」 田中森一
ー地検特捜の恐ろしさー
 ーP、178~179ー
平和相銀事件の本質は、岸組による恐喝事件だったはずだ。 
それが銀行側の特別背任にすりかわった。本来、被害者が加害者になった
ようなものだ。その事件が、住銀の首都圏侵攻に大きく貢献したのは間違いない。
結果的に、われわれ検事は、都心の店舗をタダ同然で住銀に買い取らせるために
捜査をしたようにも見えた。伊坂はすでに亡くなっているが、古巣の検察に
こんな騙し討ちのようなことをやられて、死ぬに死に切れなかったのでは
ないだろうか。 この平和相銀事件を体験し、私は東京地検特捜部の恐ろしさを知った。
事件がどのようにしてつくられるか。いかに検察の思いどおりになるものか、と。
《字数の関係でカット2008年11月11日11日)
                    ○´・ω・]ノヂャァネッ
・・・・・・・・・
2006年11月11日(土)
2048, あたりまえなことばかり -4
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
                      ー 読書日記
「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フ
ランクルである。「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めて
いるか?を問うてみよ」である。せっかく地球に生まれたからには
「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」シンプルに言えば、これに尽きる。
 彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・
 さわりの部分にこうある、「生死に対する、これはという答えなどないが、
人は言語を所有するために、存在するしかない存在についての意味や目的を
問うてしまう。言語のせいです。動物は言語を所有していないので、ただ
生まれたから生きている。言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、
十全には生きられない。問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、
問わざるをえない。『何のために生きるのか』」 生を考えるとき、その対極に
ある『死』を知らなくてはならない。 しかし、死など解るはずがない。
 --
 
「あたりまえなことばかり」
? 生きているとはどういうことか -?

「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういう
ことか知りたい。このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や
目的を問うべきである。

 生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きている
ことじゃない!と答えるしかない。死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。自分が死ぬという
経験は絶対にありえない。もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと
思うんですね。ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと
色いろなことがわかってくる。死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。
それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。そこで納得
するが、ここも大事なところですが、無というものは無いから無なわけです。
無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬことは無になること」
という言い方によって、そこで言われている無というものは無い。
すなわち死はない、ということになります。

 にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。 
その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の光景が、
可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと、「人生」という言葉の意味する
ところがまるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。
なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。 でも、死ぬのは常に他人です。だれも
自分が死んだことは無い。死は他人の死しか経験できない。それが現実である。
これに気づくと非常に不思議な気になる。

 生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。 
つまり、動いているものを生と呼び、動かないものを死と名づけているに
過ぎないと。生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。実体ではない。
無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。 一種のカラクリみたい
なもの<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。 無は存在しないかぎり、
すべては存在しているわけです。存在しか存在できないという事実に気づくわけ。
例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは
誰なのか。ふだん自分であると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃ
ないか。そういう問いが現れてきます。

世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。 例えば脳死の問題。
あれは議論として不可能なことを議論している。死がどこからかということを
決められると思っている。しかし、無いものをどうして決められるのですか。
また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に流れると、漠然と思って
いるが、だけど、その死が存在しないとなると、時間はどう流れるのか。
死に向かって生きているわけではないんです。「生きる」という意味も変わって
きます。「死というものがわからない」ということがわかる限り、生というもの
もわからないわけです。つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに
過ぎないと気づきます。
ーー
内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。
エピクロスは、「人が生きているかぎり死は存在しないし、死が存在するときには
人は存在しない」と看破した。言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、
死という言葉の影に脅えているに過ぎないということをよくよく納得しないと、
生きかたを間違ってしまう。でも、言葉でわかったつもりでも、「生きているうち、
死んでしまえば、それまでよ!」と思ってしまうから困ったものだ。
しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が死体をみて、いや抜け殻を見て
名づけた言葉である。しかし仏教では「生老病死」というんじゃないか?でも、
あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。死という字がよい、
一の下に夕ヒである。夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!
何ともロマンッチクである。この辺に答えがあるのじゃないか? いや、一は
生きている方が勝手に思っていること?当人は、その線の一は無い!のか?        
 空即是色、  色(!)即是空( )
       (0)   (一)                  
        (・)(・)
   オッパイにしか見えないけど!              
   目が点?
   自分のこと?ー( )が自他の境で、点が真我
   それとも生と死?ー点が生で、( )が世界
   その程度のもの?生死とは。
            (人・・)(・・人)い~みな~い~ん!
              元々あるわけ無いんじゃ・・
    まあまあ ( ̄▽ ̄)■]~~~  珈琲TIME♪

・・・・・・・・・
2005年11月11日(金)
1683, ザ・マインドマップ-1
               -読書日記
ブザンのマインドマップに関しては、「頭の良くなる本」
「自分が天才に思える本」「人生に奇跡を起こすノート術」などを読んでいた。
特に初めて「人生に奇跡を起こすノート術」を読んだ時は大きな衝撃を受けた。
その前に、「インスピレーション」というソフトを買って使っていたにかかわらず。
これをノートに切り替えるという、着想がわかなかっただけのことだが。
しかし、絵入り、手書きという部分が違っていたが。

学生時代の頭のよい人は何らかの形で、こういうノウハウを身につけていただけ。
知らないのは、私たち凡人の95?だけということか。今からでも遅くはない
是非一読をすることを勧めます。これに近いノウハウとして、民俗学の川喜多二郎
がフィールドから得た資料を元に新しい発想をえる方法論を書いた
「発想法」である。色いろな資料のキーワードを小さな紙に書き、その似たものを
それぞれの島に分けていく方法論である。しかし、放射状に発展させていくところは
一緒だが、情報をシールに書き込み、貼り付けるところや、カラーペンや絵を
ふんだんに書き入れるところが違う。
ブザンは天才のノートをヒントにノートの取り方を根底から変えてしまった。
この書によると現在では、この人のマッピングのシリーズが1000万冊以上売れ、
2億5千万人以上が学んでおり、韓国ではマッピングが義務教育に取り入れられている。

またロンドンの貧しい地区に住む少年の話が良い。ー彼は教師から無能と評されて
いた、また彼も自分自身をそう思っていた。著者のブサンが、彼に「しあわせ」
マインドマップの練習をやってもらった。彼が選んだ10個の言葉のどれでも
いいから、さらに思いつく言葉を書いてみるように言った。
少年は、しばらく考えた後、二つの言葉を書いた。 そして目を光らせていった。
「これをまだ続けてよいの」「もちろん」と答えた。少年は、まるで海に入るように
こわごわと言葉を書き足していったが、突然、言葉と連想のうねりに襲われた
ようだった。そして、嬉しそうに熱心にページを埋めながら「僕は頭が良いんだ」
と叫んでいた。その通りである、かれに足りなかったのは教育だったのだ。
ーー
私が今まで信じてきたノートの取り方を根底から否定している。 アナログから
デジタルへの変更に近い。この本は以前読んだ本より、さらに読みやすく、かつ
詳細の内容である。「実践するということは、行動マッピングである」
ということに気づいた。    中央は目標・志である。
                   ーつづく
・・・・・・・
2004年11月11日(木)
1318, ベスト・エッセイ集ー2

 橋本元首相が、数年前に大手術をしたことは、ニュースで知っていた。
この本の中に、その時の生々しい心情や、具体的な日々が書いてあった。
何かキザな鼻持ちのならない男と見ていた存在が、急に身近な一人の人間に
思えてくるから不思議である。またTV「お宝鑑定団」に出ている中島誠之助
のエッセイもあった。普段あまり知ることのできない骨董品の世界を覗き
見ることが出来た。骨董の世界は本物、偽者が混合している世界。
本物の中でも、価値が大きくわかれている深い世界である。
 ー中島のエッセイの印象に残ったところを抜粋してみる。「骨董の世界では、
初めから人をだますために作られたものを、偽者にもおよばない最下級におき、
『嫌物(いやぶつ)』と呼んで下げすんでいる。
嫌物は、それをこしらえた人化身であるために、そのもの自体に罪がある。
それに対して偽者は、その人が作りあげたもので、品物自体に罪はないといえる」
著名の作家の書く文章は、何気ない日常の描写が鋭く、しかし、それを思わせない
タッチがプロの凄みである。一流の人は何気ないことでも、その文のタッチで
改めて対象を見つめさせてくれる。それが一流の一流たる所以である。
一流の役者が端役を演じると、その役そのものが端役でなくなってしまうから
不思議である。何事も魂を込めるからである。このエッセイ集に選ばれることが、
著名なもの書きや、政治家や、エッセイストの大きな名誉となっているという。
 この数年分の「ベスト・エッセイ集」をジックリ読んで勉強してみようか。
  
・・・・・・・
2003年11月11日(火)
951, 衆議院総選挙の結果を考える

 終わってしまえば、こんなものだろうというのが選挙の結果である。
もう少し、投票率がアップするのではと思っていたが、それにしても低すぎる。
総括として「二大政党のカタチが、でき始めた選挙」であった。
小沢一郎の捨て身の合併劇で、マニフェストー選挙公約を争う機運ができた。
小選挙区制度の良さがここでやっと出てきた。自民党保守派の社会主義者が、
中選挙区制度の復活を言っても誰も相手にしなくなった。「もう一歩で民主党
勝てたかもしれない」という期待が少しあったことと、「自民党よ、そう甘い
顔はしていられないよ」という忠告が相まっている。しかし、もう少し民主党
勝って欲しかった。 190議席あたりが理想的であった。 やはり若い人の選挙
に対する無関心が、その壁になった。結局は自分で自分の首を絞めていることに
なるのが解らないのだ。無知の彼等の未来から借金をして、生き延びようという
のが旧守派だろう。自民党の恥元派と官僚だろう。その彼等に間接的に手助けを
しているのが解らないのだ。これも若年層の質の低下の現象と見てよいだろう。 
ソ連中共北朝鮮からの資金援助をしてもらっていた社会党の残党の社民党が、
そこから金が入らなくなったら消滅するのは当然である。共産党は今更、
何もいうことがない。この残物整理という点でもこの選挙は意味があった。
毎日新聞の記事をweb毎日からコピーした。
          2003年11月8日
 以下字数の関係でカット(2007年11月10日)

・・・・・・
577, 一人旅
- 2002年11月11日(月)

20代前半に北海道と九州に二回一人旅をした。他には勤めていた会社に
いたころ、近くの半島に旅行をした。紀州半島と能登半島だ。これは一泊二日
だったが。 一歩家を出れば、あとは旅行代理店とつくった日程どおりに
こなしていけばよい。結構楽しい旅であった。 写真を多く撮っておけば
よかったが、そのアルバムも不明だ。傷心旅行だったり、学生時代の最後の
休みの旅行だった。一人頭の中でブツブツ独り言を言っていた思い出がある。
それがよいのだろう。一種のロマンチズムで、有り余るエネルギーの捌け口だった。
ただ記憶が鮮明に残っているのが不思議といえば不思議である。
今考えてみれば、一人で外国に出てみるのもよかったが、あの当時の社会情勢
からも、自分の性格からいっても無理だった?? 一人旅は一歩踏み出せば、
なかなか味がある。「深夜特急」という沢木耕太郎のドキュメンタリー風
の小説がある。世界の一人旅を目指している若い人の手引書になっている。
7~8年前にTVでもドラマ風に仕立てられて数回に渡って放映された。
この出来もなかなかよかった事を憶えている。 といって親しい人との旅行
と比較すれば、やはり一人旅より良い。 TPOSによるが。