つれづれに

イメージ 1

 他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=JrGBmjtOKlM

 天候も冬モードに入ったようだ。今朝も曇天の中、ポタリングに出たが、
怪しげな空気に直ぐに戻ってきた。
 大相撲も、昨日から始まった。 当分の間、まだ白鵬の天下が続くのだろう。
若手に花のある力士が見当たらない。『遠藤』が出てきたと思ったら、足首の故障。
何時ものパターンである。八百長問題とか、野球賭博問題から、真剣勝負になったのか?
じっくり見ると面白い。特に、幕下が面白い! 



・・・・・・
2048, あたりまえなことばかり -4
2006年11月11日(土)
                      ー 読書日記
 「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フランクルである。
「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めているか?を問うてみよ」である。
 せっかく地球に生まれたからには、「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」
シンプルに言えば、これに尽きる。
彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・・
さわりの部分にこうある、
「生死に対する、これはという答えなどないが、人は言語を所有するために、
存在するしかない存在についての意味や目的を問うてしまう。言語のせいです。
動物は言語を所有していないので、ただ生まれたから生きている。
言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、十全には生きられない。
問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、問わざるをえない。
『何のために生きるのか』」生を考えるとき、その対極にある『死』を
知らなくてはならない。しかし、死など解るはずがない。
--
「あたりまえなことばかり」
? 生きているとはどういうことか -
 「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういうことか知りたい。
このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や目的を問うべきである。
 生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きていることじゃない!
と答えるしかない。死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。 
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。
自分が死ぬという経験は絶対にありえない。
もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思うんですね。
ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことがわかってくる。
死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。それでは「死とは何か」の一般的な答えは、
「無になる」ことです。 そこで納得するが、ここも大事なところですが、無というものは
無いから無なわけです。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、
「死ぬことは無になること」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い。
すなわち死はない、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って
人は生きていくのか。その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の光景が、
可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。思い込みですね。
世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと、「人生」という言葉の意味するところが
まるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。
なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
 理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。でも、死ぬのは常に他人です。
だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死しか経験できない。それが現実である。
これに気づくと非常に不思議な気になる。生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに
過ぎないらしいと気づく。つまり、動いているものを生と呼び、動かないものを死と
名づけているに過ぎないと。生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。
実体ではない。無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。
一種のカラクリみたいなもの<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。
無は存在しないかぎり、すべては存在しているわけです。存在しか存在できないという
事実に気づくわけです。
 例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは誰なのか。
ふだん自分であると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃないか。
そういう問いが現れてきます。世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。
例えば脳死の問題。あれは議論として不可能なことを議論している。
死がどこからかということを決められると思っている。しかし、無いものをどうして
決められるのですか。
 また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に流れると、漠然と思っているが、
だけど、その死が存在しないとなると、時間はどう流れるのか。
死に向かって生きているわけではないんです。「生きる」という意味も変わってきます。
「死というものがわからない」ということがわかる限り、生というものもわからないわけ。
つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに過ぎないと気づきます。
ーー
 内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。エピクロスは、
「人が生きているかぎり死は存在しないし、死が存在するときには人は存在しない」と看破。 
言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、死という言葉の影に脅えているに
過ぎないということをよくよく納得しないと、生きかたを間違ってしまう。 
でも、言葉でわかったつもりでも、「生きているうち、死んでしまえば、それまでよ!」
と思ってしまうから困ったものだ。しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が
死体をみて、いや抜け殻を見て名づけた言葉である。しかし仏教では「生老病死
というんじゃないか? でも、あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。
 死という字がよい、一の下に夕ヒである。夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!
何ともロマンッチクである。 この辺に答えがあるのじゃないか?
いや、一は生きている方が勝手に思っていること?  
当人は、その線の一は無い!  のか?      
        空即是色、  色(!)即是空( )
       (0) (一)               
              (・)(・)
             オッパイにしか見えないけど!             
              目が点?
              自分のこと?ー( )が自他の境で、点が真我
              それとも生と死?ー点が生で、( )が世界
              その程度のもの?生死とは。
          (人・・)(・・人)い~みな~い~ん!
              元々あるわけ無いんじゃ・・
・・・・・・
2005年11月11日(金)
1683, ザ・マインドマップ-1
               -読書日記
ブザンのマインドマップに関しては、「頭の良くなる本」「自分が天才に思える本」
「人生に奇跡を起こすノート術」―マインド・マップ放射思考などを読んでいた。
特に初めて「人生に奇跡を起こすノート術」を読んだ時は大きな衝撃を受けた。
その前に、「インスピレーション」というソフトを買って使っていたにかかわらず。
これをノートに切り替えるという、着想がわかなかっただけのことだが。
しかし、絵入り、手書きという部分が違っていたが。
学生時代の頭のよい人は何らかの形で、こういうノウハウを身につけていただけ。
知らないのは、私たち凡人の95?だけということか。
今からでも遅くはない是非一読をすることを勧めます。これに近いノウハウとして、
民俗学の川喜多二郎がフィールドから得た資料を元に新しい発想をえる方法論を書いた
「発想法」である。
色いろな資料のキーワードを小さな紙に書き、その似たものをそれぞれの島に
分けていく方法論である。しかし、放射状に発展させていくところは一緒だが、
情報をシールに書き込み、貼り付けるところや、カラーペンや絵をふんだんに
書き入れるところが違う。ブザンは天才のノートをヒントにノートの取り方を根底から
変えてしまった。この書によると現在では、この人のマッピングのシリーズが
1000万冊以上売れ、2億5千万人以上が学んでおり、韓国では、このマッピング
義務教育に取り入れられている。またロンドンの貧しい地区に住む少年の話が良い。
ー彼は教師から無能と評されていた、また彼も自分自身をそう思っていた。
著者のブサンが、彼に「しあわせ」マインドマップの練習をやってもらった。
彼が選んだ10個の言葉のどれでもいいから、さらに思いつく言葉を書いてみるように言った。
少年は、しばらく考えた後、二つの言葉を書いた。そして目を光らせていった。
「これをまだ続けてよいの」「もちろん」と答えた。
少年は、まるで海に入るようにこわごわと言葉を書き足していったが、突然、
言葉と連想のうねりに襲われたようだった。そして、嬉しそうに、熱心にページを埋めながら、
「僕は頭が良いんだ」と叫んでいた。
その通りである、かれに足りなかったのは教育だったのだ。
ーー
私が今まで信じてきたノートの取り方を根底から否定している。
アナログからデジタルへの変更に近い。この本は以前読んだ本より、
さらに読みやすく、かつ詳細の内容である。
「実践するということは、行動マッピングである」ということに気づいた。
中央は目標・志である。                 つづく

・・・・・・
2003年11月11日(火)
951, 衆議院総選挙の結果を考える
 終わってしまえば、こんなものだろうというのが選挙の結果である。
もう少し、投票率がアップするのではと思っていたが、それにしても低すぎる。
 総括として「二大政党のカタチが、でき始めた選挙」であった。
小沢一郎の捨て身の合併劇で、マニフェストー選挙公約を争う機運ができた。
小選挙区制度の良さがここでやっと出てきた。自民党保守派の社会主義者が、
中選挙区制度の復活を言っても誰も相手にしなくなった。
 「もう一歩で民主党が勝てたかもしれない」という期待が少しあったことと、
自民党よ、そう甘い顔はしていられないよ」という忠告が相まっている。
しかし、もう少し民主党に勝って欲しかった。190議席あたりが理想的であった。
 やはり若い人の選挙に対する無関心が、その壁になった。
結局は自分で自分の首を絞めていることになるのが解らないのだ。
無知の彼等の未来から借金をして、生き延びようというのが旧守派だろう。
自民党の恥元派と官僚だろう。その彼等に間接的に手助けをしているのが
解らないのだ。これも若年層の質の低下の現象と見てよいだろう。
 ソ連中共北朝鮮からの資金援助をしてもらっていた社会党の残党の社民党が、
そこから金が入らなくなったら消滅するのは当然である。共産党は今更、
何もいうことがない。この残物整理という点でもこの選挙は意味があった。

・・・・・・
577, 一人旅
2002年11月11日(月)
20代前半に北海道と九州に二回一人旅をした。他には勤めていた会社にいたころ、
近くの半島に旅行をした。紀州半島と能登半島だ。これは一泊二日だったが。
一歩家を出れば、あとは旅行代理店とつくった日程どおりにこなしていけばよい。
結構楽しい旅であった。写真を多く撮っておけばよかったが、そのアルバムも不明だ。
傷心旅行だったり、学生時代の最後の休みの旅行だった。
一人頭の中でブツブツ独り言を言っていた思い出がある。それがよいのだろう。
一種のロマンチズムで、有り余るエネルギーの捌け口だった。
ただ記憶が鮮明に残っているのが不思議といえば不思議である。
今考えてみれば、一人で外国に出てみるのもよかったが、あの当時の社会情勢からも、
自分の性格からいっても無理だった? 一人旅は一歩踏み出せば、なかなか味がある。
深夜特急」という沢木耕太郎のドキュメンタリー風の小説がある。
世界の一人旅を目指している若い人の手引書になっている。7~8年前にTVでも
ドラマ風に仕立てられて数回に渡って放映された。この出来もなかなかよかった事を
憶えている。といって親しい人との旅行と比較すれば、やはり一人旅より良い。TPOSによるが。