つれづれに

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 さて大相撲が今日から始まる。一日、平均1~2時間は見ている。
特に初日と、千秋楽は2~3時間は見る。

 今場所はNO1,NO2の白鵬鶴竜が休場のため、かなり盛り上がりに
欠くのだろうが、それでも面白くなるだろう。

 










・・・・・・
4622, 君は1万円札を破れるか? ー7
2013年11月11日(月)
   * 空観、仮観、止観、そして中観に至る
 空観、仮観、止観、そして中観に至って真の自由の獲得する道筋が
わかりやすく、良い。一つ間違えばアウトローだが。としても、どっぷり
浸かってしまった小さな世界から、一歩も二歩も、外に出ないと「シラミ」
になってしまう。同じシラミなら、外の世界を持っているかどうか、
である。 ライフワークは、そのために持っていなければならない絶対条件。
 ーその辺りをまとめたー{般若心教の具体的解説とみると理解しやすい!}
《 無限に広がる巨大な「網」を想像してください。無数の網目が集まって
 網を成していますが、その区切られた一つの「網目」だけを取り出しても、
それは存在しているといえるでしょうか? いえ、「網目」という実体は
ありません。このように、すべての存在現象は他に依存して「仮」に現れて
いるだけ。本来は消滅増減もなければ色形の区別もない、つまり「空」。
このように宇宙を観るのが、「空観」です。 自分が作り出した欲求が「苦」
を生むのですから、煩悩を捨てていき、すべてが幻想であると理解したら、
心安らかに生きていける、ということ。しかし、人が煩悩を完全に捨て去ると、
人類が滅亡してしまいます。そこで、もう一度、認識されることによって
現れる世界の「仮」の姿を見るのです。これを「仮観」といいます。
 たとえばコップを見て、「水を飲むもの」と認識したら、それはコップに
そういさう「仮の役割」を持たせたということ。同じコップを「水を注いで
花を挿すもの」と認識することもあるでしょう。このように、世の中のすべて
を、役割を持たされた仮の存在と見るのが「仮観」です。
 釈迦がすごいのは、「空観」と「仮観」のどちらも欠いてはいけないと
わかっていたことです。すべてを「空」だと知ったうえで、同時にすべての
ものに「仮」の役割を見いだしていくのです。すると、結局のところ、
世の中に何一つ、役割のないものは存在しないということがわかります。
この考え方を「中観」といいます。中観こそ、私たちが最終的に目指す
べき境地だといっていい。
◎「一億円持っているから幸せ」とか「1億円の負債があるから不幸」
 と感じるのは、本当はいずれも幻想に過ぎないことを知るのが、空観方式。
ただし、どうせ同じ幻想なら、自分の望むようにゴールを設定し、徹底的に
目指すほうが途中の過程を楽しめます。
◎「じゃあ、実際にどんなものか、1億円を稼いでみましょう」と、
 仮のゴールとして設定するのが仮観方式です。注意すべきは、その達成で
得られる「幸せ」は、あくまで「仮観」。幸せの仮の姿と知っておくことです。
知っていれば、実際にお金持ちになっても、「もっとお金がないとイヤだ!」と
思うような不幸は起こりません。要は、煩悩に振り回されないよう、ということ。
◎そこで大事なのが、「止観」という考え方です。煩悩をいったん
「止めて、観る」のです。といっても、難しいことではありません。
煩悩が暴走してしまうのは、その衝動を意識できていないからです。
意識さえしていれば、コントロ!ル下に置いて、暴走を防ぐことができます。
意識するには、自分の煩悩を少し脇に置いて、客観的に眺めてみればいいのです。
「止観」によって、自らの欲求を認識することは、抽象度の上がった世界から
眺めることにほかありません。そこから眺めれば、欲求は自然とコントロール
できます。それを続けることにより、中観の境地に至っていく。》
▼「中観に至ると、ありとあらゆる価値観の束縛を超えながら、この世で真に
 自由に、自らの望む役割を果たすことができ、他のあらゆる存在も、それぞれ
の役割を果たしているだけであり、そこに一切の上下関係などないことが
わかってくる」 私たちの本来、持っていた自由と、親とか学校教育で教え
られた自由と違うことが、中観に至るとわかってくる。
ところで、武澤ゼミで教わった真髄は、この中観の目線だったのでは! 
一つ間違えば、私のようになるが?

・・・・・・・・
3517, 不況景色とは、こんなもの? -1
2010年11月11日(木)
  * 繊維業界の不況景色とは?
 昨日の朝のNHKニュースのレポートで岐阜を中心とした繊維不況の実態を
映し出していた。デフレに対する人件費の削減のため、中国人を研修目的の
名目で入国させて何とか凌いでいたが、研修目的という題目の低賃金が法律で
禁止されることになり、先行き真っ暗という。ついに、来るところまで来て
しまったという深刻なもの。30年前に5年近く実家の衣料量販店をたずさわり、
岐阜や広島などの生産現地に仕入れに行っていたこともあり、その深刻度が
直に伝わってくる。現在は業種は変わってもほぼ同じような問題で地域経済は
喘いでいる。住宅も、車も、電気製品も、エコポイント制度による前倒し
需要で何とか今年は凌いできたが、問題は来年はどうなるか?である。
前倒し需要の反動がモロに日本を覆うことになり、来年は更に冷え込みが
大きくなる。考えただけで恐ろしい。また消費税の増税も待ったなし、
ときているし、さらにTPP(環太平洋湾自由貿易)で、農業も例外なく
自由化されれば、日本の農業は大打撃を被ることになる。もし参加しないなら、
日本経済そのものが壊滅的打撃になる。 
 一昨日の同じニュースのレポートは、目と耳を疑う内容。
「風俗嬢の派遣会社に一般主婦の応募が急増している」という。
顔を隠しているが、サラ金の借入れが厳しくなって、手っ取り早い風俗に
昼間に行っているという。週に4~5日、6時間で月40万になるという。 
朝のNHKが放送する内容ではないが、時代は、そこまで深刻ということ。
もう自明になったが、民主党に政権を取らせたことが間違い。今年の暮れか
来年早々、政変で自民党民主党の小沢派が大同連合をつくり、この難局を
乗り越えないと、国家破綻が現実的になってくる。 
アメリカのCIAは、あらゆる手を使って阻止してくるが、それしかない。 
まったく、どうなってしまった日本よ!



3142, 最近、いやに時間が短く感じるが
2009年11月11日(水)

 齢を重ねるごとに、あれだけ長く感じていた1年があアッという間に過ぎ去る。
還暦を過ぎてから、それがますます激しくなっている。 日常生活に大きな変化がないためだろうが。
年齢を重ねるほどに、時が経つのが早くなるのは万国共通のこと。 これは実験でも検証されており、
「数十秒から数時間という経過時間を被験者に評価させると、加齢に従い短い時間を報告する」という。
また、苦しい時間はユッタリ流れ、楽しい時間は短く感じるのはどうしてか?などを突きつめると面白いはず。
 
 「大人の時間はなぜ短いのか」一川誠著に、時間に影響を及ぼす主な要因としては
  次の4つが挙げられていた。
・身体の代謝= 代謝が高まると時間をゆっくりに感じる。1日の内でも代謝の関係で午前がゆっくりで午後
 が速く感じられるようだ。 代謝は加齢に伴い低下する。年を取るほど時間経過を速く感じる一因となる

・心的活性度=緊張や興奮によって時間経過は速く感じられる。実験では逆にクモ恐怖症の人をクモと
 一緒の空間に閉じこめると時間が長く感じられたという。
・時間経過への注意= 時間を気にすると長く感じられる。時間経過への注意が時間を分節化してしまい、
 分節化された時間帯の数を多く感じることで、長いと感じるという仮説。時計を度々見ると長く感じる!
・他の知覚様相の状態= 広い空間では時間はゆっくり。刺激が多い時間は速い。
 受け取る情報に脈絡やまとまりを感じていると速く感じる。
 目や耳で感じる印象と物理的実在のずれは案外に大きいことがわかる。時間感覚のずれも錯覚の一種
 としてとらえている。今後、研究が進んでいけば、錯視パターンのように、人間の時間経過を操作する
 技術が発見できるのかもしれない。人間には心地よいと思える「精神テンポ」が備わっているとか。
 ーー
 なるほど、どれもこれも、納得できるものばかり。 分子の一年を、生きてきた分母で割ると、
 その分母が大きくなる分、導き出された答えは小さくなる、すなわち短く感じると、単純に考えていたが、
 他にも多くの要素があるようだ。肉体の新陳代謝のテンポや、齢をとるごとに刺激の感受性が少なくなる
 のも理由。要は老化現象で時間が短く感じるということか。 長い時間をかけて、人間は自然とユッタリ
 身構えるようになる。

・・・・・
2777, 仮説思考 -4
2008年11月11日(火)

 棋士の読みの一手は、仮説思考そのものである。 次の文章で、そのことを上手く表現している。
制限時間のかなで、判断しなくてはならないから、一瞬の仮説思考が必要になる。羽生は、ここで
「直感の七割は正しい」といっている。面白い確率だが、彼の天才的な能力だから七割なのだろう。 
共同体の中で、共同幻想を持って、そのことすら気づいてない我われは、仮説の世界で生きている
ようなもの。 棋士の目で経営アドバイスをすれば、良い助言が出来るだろうに。
   ---
 *天才棋士は一瞬で打ち手を絞り込む
                   P-32
プロ棋士羽生善治は稀代の天才棋士であることはいうにおよばないが、仮にビジネスの世界に進んでいた
としても、かなりの確率で成功を収めたに違いない。なぜ、そんなことをいうかといえば、それは羽生が
仮説思考の達人だからである。羽生の棋風はオールラウンドで幅広い戦法を使いこなし、終盤に繰りだす
妙手は「羽生マジック」と呼ばれる。「マジック」の使い手ということになるが、こちらも妙手の秘密に
ついて著書「決断カ」で言及している。羽生は将棋で大事なのは決断力だという。すなわち意思決定だ。
決断にはリスクを伴うが、それでも「あとは
なるようになれ」
という気持ちで指すのだという。そのときの意思決定を支えているのが仮説思考である。  
 将棋には、ひとつの局面に八○通りくらいの指し手の可能性があるが、その八○をひとつひとつ、
つぶさに検証するのではなく、まず大部分を捨ててしまう。八○のうちの七七、七八については、
これまでの経験から、考える必要がないと瞬時に判断し、そして、「これがよさそうだ」思える二、
三手に候補手を絞る。 これはまさに仮説思考だ。八〇のうちから、よさそな三つの答えを出す。
そして、その三つについて頭の中に描いた将棋盤の中で駒を動かして、検証する。大胆な仮説を立てて、
「これでよいのではないか」と指しているのだ。 羽生は「直感の七割は正しい」ともいっている。
直感は、それまでの対局の経験の積み重ねから、「こうういうケースの場合はこう対応したほうがいい」
という無意識の流れに沿って浮かび上がってくるものだと思うと羽生はいう。 こんなこともいっている。
 「判断のための情報が増えるほど正しい決断ができるようになるかというと、必ずしもそうはいかない。
私はそこに将棋のおもしろさのひとつがあると思っているが、経験によって考える材料が増えると、
逆に、迷ったり、心配したり、怖いという気持ちが働き、思考の迷路にはまってしまう。将棋にかぎらず、
考える力というのはそういうものだろう」 将棋の対局の軽験をビジネスの経験に置き換えても同じ
ことがいえる。ビジネスにおいても、問題の原因と解決策について、あらゆる可能性を考えるよりも
最初に焦点を絞って飯説を立てることが大事というのは、これまで述べてきたとおりであり、
それは、経験に裏打ちされた直感力、勘によるものだ。
 ---
 羽生棋士の話より、多くの仮説から瞬時に一つを選ぶ‘決断’の重要性を教えられる。
孫子の兵法で「巧遅より拙速」というが、そのためには高度の経験の蓄積を必要とする。 
何事も同じである
。 
・・・・・・・・
2007年11月11日(日)
2413, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて -1
                           (ォ'`ョゥ)
この本を読んで俗にいう娑婆のことを多く学ぶことができた。
バブル当時まで、元の住友銀行が大阪検察の幹部との定期的な会を開いていたことは
周知の事実である。 これは検察が定年退職をして弁護士になる時に、銀行の取引先を
紹介してもらう見返りに、その銀行に対して逮捕者は出さない取り決めだという。
かなり強引な手法も検察がついているから好き放題できたと、この本にもあった。
やはり本当だったようだ。 地検も法務省の一機関でしかないということだ。
それにしても、恐ろしいことだ。 人間がいるところ仕方がないのか?ーその部分を抜粋してみる。
 「反転」 田中森一
ー地検特捜の恐ろしさー
 ーP、178~179ー
平和相銀事件の本質は、岸組による恐喝事件だったはずだ。それが銀行側の特別背任にすりかわった。
本来、被害者が加害者になったようなものだ。その事件が、住銀の首都圏侵攻に大きく貢献したのは間違い
ない。結果的に、われわれ検事は、都心の店舗をタダ同然で住銀に買い取らせるために捜査をしたようにも
見えた。伊坂はすでに亡くなっているが、古巣の検察にこんな騙し討ちのようなことをやられて、死ぬに
死に切れなかったのではないだろうか。 この平和相銀事件を体験し、私は東京地検特捜部の恐ろしさを知る。
事件がどのようにしてつくられるか。いかに検察の思いどおりになるものか、と。
《字数の関係でカット2008年11月11日11日)
                    ○´・ω・]ノヂャァネッ
・・・・・・・・・
2006年11月11日(土)
2048, あたりまえなことばかり -4
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
                      ー 読書日記
「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フランクルである。
「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めているか?を問うてみよ」である。
せっかく地球に生まれたからには「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」シンプルに言えば、
これに尽きる。 彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・
さわりの部分にこうある、「生死に対する、これはという答えなどないが、人は言語を所有するために、
存在するしかない存在についての意味や目的を問うてしまう。言語のせいです。動物は言語を所有して
いないので、ただ生まれたから生きている。言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、十全
には生きられない。問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、問わざるをえない。
『何のために生きるのか』」 生を考えるとき、その対極にある『死』を知らなくてはならない。 
しかし、死など解るはずがない。
 --
「あたりまえなことばかり」
ー 生きているとはどういうことか ー

「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういうことか知りたい。
このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や目的を問うべきである。
生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きていることじゃない!と答えるしかない。
死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬ
という前提で人生を送っている。他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。自分が
死ぬという経験は絶対にありえない。もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思うんですね。
ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことがわかってくる。
死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」
ことです。そこで納得するが、ここも大事なところですが、無というものは無いから無なわけです。
無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、
そこで言われている無というものは無い。すなわち死はない、ということになります。
にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。 その視点を手に入れると、死がある
と思って生きているこの世の光景が、可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。ですから、死が存在しない
と気がつきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきし変わってくる。
やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わって
くる。理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。 でも、死ぬのは常に他人です。 だれも自分が死んだことは無い。
死は他人の死しか経験できない。 それが現実である。これに気づくと非常に不思議な気になる。

生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。つまり動いているものを生と呼び、
動かないものを死と名づけているに過ぎないと。 生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。
実体ではない。無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。 一種のカラクリみたいなもの
<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。無は存在しないかぎり、すべては存在しているわけです。 
存在しか存在できないという事実に気づくわけです

例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは誰なのか。ふだん自分で
あると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃないか。そういう問いが現れてきます。
世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。 例えば脳死の問題。
あれは議論として不可能なことを議論している。死がどこからかということを決められると思っている。
しかし、無いものをどうして決められるのですか。また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に
流れると、漠然と思っているが、だけど、その死が存在しないとなると、時間はどう流れるのか。 
死に向かって生きているわけではないんです。 「生きる」という意味も変わってきます。
「死というものがわからない」ということがわかる限り、生というものもわからないわけです。
つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに過ぎないと気づきます。
 ーーー
 内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。
エピクロスは、「人が生きているかぎり死は存在しないし、死が存在するときには人は存在しない」と
看破した。言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、死という言葉の影に脅えているに過ぎない
ということをよくよく納得しないと、生きかたを間違ってしまう。でも、言葉でわかったつもりでも、
「生きているうち、死んでしまえば、それまでよ!」と思ってしまうから困ったものだ。
しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が死体をみて、いや抜け殻を見て名づけた言葉である。しかし
仏教では「生老病死」というんじゃないか?でも、あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。
死という字がよい、一の下に夕ヒである。夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!何ともロマンッチク
である。この辺に答えがあるのじゃないか?いや、一は生きている方が勝手に思っていること?当人は、
その線の一は無い!のか?        

・・・・・・・・・
2005年11月11日(金)
1683, ザ・マインドマップ-1
                        -読書日記
ブザンのマインドマップに関しては、「頭の良くなる本」「自分が天才に思える本」
「人生に奇跡を起こすノート術」などを読んでいた。特に初めて「人生に奇跡を起こすノート術」を
読んだ時は大きな衝撃を受けた。その前に、「インスピレーション」というソフトを買って使っていたに
かかわらず。これをノートに切り替えるという、着想がわかなかっただけのことだが。しかし、絵入り、
手書きという部分が違っていたが。
 《字数の関係でカット2009年11月11日11日)
・・・・・・・
2004年11月11日(木)
1318, ベスト・エッセイ集ー2

 橋本元首相が、数年前に大手術をしたことは、ニュースで知っていた。この本の中に、その時の
生々しい心情や、具体的な日々が書いてあった。何かキザな鼻持ちのならない男と見ていた存在が、
急に身近な一人の人間に思えてくるから不思議である。またTV「お宝鑑定団」に出ている中島誠之助
のエッセイもあった。普段知ることのできない骨董品の世界を覗き見ることが出来た。骨董の世界は本物、
偽者が混合している世界。本物の中でも、価値が大きくわかれている深い世界である。 
ー中島のエッセイの印象に残ったところを抜粋してみる。
「骨董の世界では、初めから人をだますために作られたものを、偽者にもおよばない最下級におき、
『嫌物(いやぶつ)』と呼んで下げすんでいる。嫌物は、それをこしらえた人化身であるために、
そのもの自体に罪がある。それに対して偽者は、その人が作りあげたもので、品物自体に罪はないといえる」 
著名の作家の書く文章は、何気ない日常の描写が鋭く、それを思わせないタッチがプロの凄み。一流の人は
何気ないことでも、その文のタッチで改めて対象を見つめさせてくれる。それが一流の一流たる所以である。
一流の役者が端役を演じると、その役そのものが端役でなくなってしまうから不思議である。何事も魂を
込めるからである。このエッセイ集に選ばれることが、著名なもの書きや、政治家や、エッセイストの
大きな名誉となっているという。この数年分の「ベスト・エッセイ集」をジックリ読んで勉強してみようか。
  
・・・・・・・
2003年11月11日(火)
951, 衆議院総選挙の結果を考える

 終わってしまえば、こんなものだろうというのが選挙の結果である。もう少し、投票率がアップする
のではと思っていたが、それにしても低すぎる。総括として「二大政党のカタチが、でき始めた選挙」。
小沢一郎の捨て身の合併劇で、マニフェストー選挙公約を争う機運ができた。小選挙区制度の良さがここで
やっと出てきた。自民党保守派の社会主義者が、中選挙区制度の復活を言っても誰も相手にしなくなった。
「もう一歩で民主党が勝てたかもしれない」という期待が少しあったことと、「自民党よ、そう甘い顔は
していられないよ」という忠告が相まっている。しかし、もう少し民主党に勝って欲しかった。 
190議席あたりが理想的であった。 やはり若い人の選挙に対する無関心が、その壁になった。結局は自分で
自分の首を絞めていることになるのが解らない。無知の彼等の未来から借金をして、生き延びようというのが
旧守派だろう。自民党の恥元派と官僚だろう。その彼等に間接的に手助けをしているのが解らないのだ。
これも若年層の質の低下の現象と見てよいだろう。 ソ連中共北朝鮮からの資金援助をしてもらって
いた社会党の残党の社民党が、そこから金が入らなくなったら消滅するのは当然である。
共産党は今更、何もいうことがない。この残物整理という点でもこの選挙は意味があった。
毎日新聞の記事をweb毎日からコピーした。
          2003年11月8日
 以下字数の関係でカット(2007年11月10日)

・・・・・・
577, 一人旅
- 2002年11月11日(月)

20代前半に北海道と九州に二回一人旅をした。他には勤めていた会社にいたころ、近くの半島に旅行をした。
紀州半島と能登半島だ。これは一泊二日だったが。一歩家を出れば、あとは旅行代理店とつくった日程どおりに
こなしていけばよい。結構楽しい旅であった。 写真を多く撮っておけばよかったが、そのアルバムも不明だ。
傷心旅行だったり、学生時代の最後の休みの旅行だった。一人頭の中でブツブツ独り言を言っていた思い出が
ある。それがよいのだろう。一種のロマンチズムで、有り余るエネルギーの捌け口だった。ただ記憶が鮮明に
残っているのが不思議といえば不思議である。今考えてみれば、一人で外国に出てみるのもよかったが、あの
当時の社会情勢からも、自分の性格からいっても無理だった? 一人旅は一歩踏み出せば、なかなか味がある。
深夜特急」の沢木耕太郎のドキュメンタリー風の小説がある。世界の一人旅を目指している若い人の手引書
になっている。7~8年前にTVでもドラマ風に仕立てられて数回に渡って放映された。この出来もなかなか
よかった事を憶えている。 といって親しい人との旅行と比較すれば、やはり一人旅より良い。TPOSによるが。