つれづれに

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 今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=VY2T7TxLIco

 昨夜半は、大風が吹き荒れた。
今週は、大荒れのようだが・・ 
週末は、東京で大学の同級会がある。
上野の東京国立博物館で、
「日本国宝展があるので、見てくるつもりだが、
最終日の前日、果たして見れるのだろうか。
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=3890


・・・・・・
2433, お茶ひき
2007年12月02日(日)
           (●っー3。○)・・・ハッ!(●`・v・´)オハヨサン♪
最近、長岡・殿町の小さな居酒屋とかスナックに行くと、不景気な話ばかりである。
先週は二度も「お茶をひいた」という話など決して珍しくない。
歳のせいもあるが、最近はスナックで飲んでも前ほど面白くなくなってきた。
酒のツマミでも買って、家でTVを見ていた方がよほど刺激的である。
夜の飲食街の人たちは今さら他に仕事の当てもなく耐えるしかない。
そのせいか平均年齢がドンドン高くなっている。もともと若い人は仲間内で遊ぶ!
タクシーと、飲食の世界の人たちは、ますます寒風に曝されるしかない。
水商売とは、よく言ったものである。
そこで、検索で「お茶をひく」で調べたら、次のような内容が出てきた。
  --
花柳界では芸妓に客がつかないことを「お茶をひく」と言う。
現在でも風俗業界に残っている言葉で風俗嬢が「今日も茶っぴきだよ」などと使う。
お客の来ない時に、暇にまかせてお茶を挽いていた由来がある。
さらに関西では「お茶」というのは女のアソコの事で、淡路島では女性器および
性行為の事をズバリ「ちゃこ」と言う。
またフランク永井の『夜霧に消えたチャコ』や、サザンの『チャコの海岸物語
が流行った時など淡路島では大変な騒ぎだった。
それはボボ・ブラジル力道山と戦った時の九州の状況と似ていたらしい。
さらに「茶立女」と言えば、お茶をたてる女ではなくズバリ遊女の事で、
そこから縁談の席でお茶を出すのは失礼という意識になったと考えられる。
だから関東では縁談の席では塩漬けにした桜の花に湯を注いだ桜湯、関西では
よろこぶに転じる昆布茶を出す。
 --  
以上だが、現在は、飲食店の中で、スナックなどで口にする言葉である。
最近の地方の飲食店では、よく耳にするようになった。
いつ夜逃げをしても不思議でない店が数軒に一軒あるともいう。
不景気に対しては今更、何を言わんかだ。
何でもも弱いところからマイナスの影響が始まるものだ。
そういえば、三年前の中越地震の時に、発生から一週間後の古町へ行ったが、
一週間、一人も客が来なかったと、マスターがこぼしていた。
                     ヾ(??????)ノ ホンジャマタ!
・・・・・・・・・・
2006年12月02日(土)
2069, 書画骨董の話 -1
      才八∋ウ_〆(∀`●) 
  戦後になって転業するまで、実家が何代か続いた骨董屋であった。
  そのため転業後も父は書画骨董を趣味にしていて、常に居間には書画骨董があった。
  私が父の40歳を過ぎてからの子供のため、暇をみつけては散歩代わりに、
  骨董店に何度も連れられていった記憶がある。
  門前の小僧の何とかで、真贋を見分ける眼がついたようだ。

さらに、海外旅行で有名な美術館に行く度に世界の名画を数知れず見てきた。
そのためだろう、書画骨董の真贋の鑑識眼がついてしまったようだ。
贋物に騙され、それを糧に眼を肥したプロには足元に及ばないが・・
    TVの「お宝鑑定にでてくる真贋は、ある程度はわかる。(誰も解るか?)

  書画骨董を自分で買ってまで欲しいと思わないのは、どういう理由か?
  逆に人は何で自分の手元においておかなくてはならないのか不思議でさえある。
  そんなもの、自分の倉庫や居間に置いておく必要はない、
  美術館に置いて公開すべきである。
  死にかけて初めて、そのことに気づく耄碌が大部分だが。
  それが趣味なら、他者の言うことではないが。

名の残っている人の書画は、波動というか何ともいえない雰囲気が漂っている。
それと品格というか気品である。絶妙のバランスである。
これは自然の中に多くみられるから自然の中にこそバランスが存在している。
そのバランスを表現するには、それなりの技法があるはず。
それを知りたいと思っていたら、ある本で偶然見つけた。中国の山水画の六技法である。
波動を出している本体の構造をつくりあげる技法とは・・・
    ーーー
    ー以下はインターネットで調べた「画の六法」である。

    1、気韻生動 ‐ 初期においては気と韻律、動勢と生命感ある絵画か。
      物質が保有する詳細から来る気韻を正確に掴み取って、
      その特色を描けるに到るか。実在物との正誤を欠かずに。
      かつ、自身の気韻もそこに同調するかどうかも重要になる。
      自身の気韻と、描画対象の気韻。
    2、骨法用筆 ‐ 物の正確な形(骨法)は正確に取れている、技巧ある筆運びか。
      己が骨子が如くして大事に扱い、己が骨知る生活が如く、筆を良く知る。
      己が筆が如く用いる事で、筆や自身を大切に生活出来る。
    3、応物象形 ‐ 媒質の形状個性を、いかんなく象徴化し、応用できるか。
      媒質に応じた象徴を塑写す。物質の詳細にまでいかんなく応え描にて象を描き成す。
      媒材詳細に正確に適応し、かつ緻密で正確な状態に更に実在性を
      加えた状態での象徴たらしめる。
    4、髄類賦彩‐ 精髄究めるべくした具体性とかね合わせる。
    5、経営位置 ‐ 構図は正確で、意味のある位置取りか。
      描くにおいては描画対象に対して意義を成し、自らの位置掴み取るにおいては
      描画に最も適した媒材や自身の位置取りであるか。
    6、伝模移写 ‐ 模写力はある
     以上は南斎の「謝赫」が、その著作『古画品録』の序において説いたもの。
     その第1、の「気韻生動 きいんせいどう」を「謝赫」が絵画の最高理想とした。
   --
 ーまあ、そのままでは難しいから解りやすくいうと、
 1、「気韻生動」とは、直感的に感じとらせる、名伏しがたい迫ってくる躍動である。
   自分の気合いと韻律を、エネルギーを込めて対象物への投入すること。
 2、その絵には、しっかりした基礎となるデザインがある、それが「骨法用筆」。
 3、その対象を的確に描写しなくてはならない、それが「応用象形」。
 4、それに色づけをするのが、「髄類賦彩」である。
 5、さらに構図をきちんとまとめる「経営位置」。
 6、こうした技術を身につけるため、古人の名画に数多く接して、
   その作品に忠実に模写する修行をするのが「伝摸移写」である。
 骨法用筆以下の5法は,努力して会得することができるが,
「気韻生動」は天与の才能と人格をそなえた人物のみが実現できるとして、
 その後の文人画の根本的思想となったという。
 ---
こういうのが、解るようになってきたのはやはり熟年になったからか~
        つづく
            (+>∀<+)ノ バイバイ!
・・・・・・・・
2005年12月02日(金)
1704, 家訓づくりのすすめ -1                
              ∥┓  ((  
             (_)   匚P 
              ━┻     
「今さら家訓でもないだろう」と思いつつ、
 図書館から借りてきて読んでみたら、これが面白い。
  個人の心得としても、そのまま通じる。。
   近年、世間を騒がせているモラルの低下や犯罪の増加、
    ニートやフリーターの大量出現も、家族のあり方と無縁でない。     
     目の前で説教をしても、今どきの子供は聞かないが、
      家訓として書いて貼っておけば必ずみるものだ?
                (;`・ω・)ノ ---===≡≡≡【えぇ?!マジ?】
     著者は、この時代の家庭の危機を救う方策として「家訓づくり」を提唱している。
     350の家訓サンプル付で、家訓を作る時の注意事項も具体的でよい。

   家訓とは、その家の中心人物が、
  一族や家臣のために自分の体験に基づいた教訓である。
 しかし、その言葉の多くは、現在の個人に対しての戒めにもなる。
                  へ(~Д~*へ))))... ...((((
 第二章「家訓の歴史」と
  「名家の家訓」がよい。
  有名なものとして、
   徳川家康伊達政宗・岩崎家の家訓・遺訓は何度か目にした事があるが、
     記録として今後目を通したいので写してみた。
                       φ(。。*)
 -徳川家康の家訓ー

 一、人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、必ず急ぐべからず。
  一、不自由を常と思えば不足なし
   一、心望み起こらば、困窮したる時を思ひ出すべし
    一、堪忍は無事長久の基
     一、怒りは敵と思え
    一、物好きは末に歎くことありと知れ
   一、勝つことばかり知りて負くることを知らねば、害その身に至る
  一、唯だ己を責めて人を責むるな
 一、何事も及ばざるは過ぎたるに勝れり               
                  〆(´m`) ムフッ
ーーー
何度かわが家の家訓を書いたことがある。
 家訓というより、常々両親が言っていたことをまとめたものだ。

   ・保証人になるな
    ・金の貸し借りは絶対にするな
      ・お金を決して粗末に扱わないこと
       お金を前にすると、人間は変身をす ¬_¬)ちらっ   
       ・借金は極力しないこと (`´ゞ
       ・親しき仲にも礼儀あり、誰とも同じ距離を保つべし
       ・私生活は、奇麗にしておくべし
       特に男女間に関しては、家庭内に持ち込まないこと
      ・生活は質素倹約を基本とすべし。
     ・政治には最小限の接点にすること
  
   まあ、明治時代の人は大体こんな考え方が8~9割であっただろう。
  これを土台に『わが家の家訓』を制作中だ。
 これをやりだしたら、面白くて面白くて!     
    φ(._. )カキカキ 3(-ω-。)クシャクシャ (。-ω-)ノ⌒゚□ ポイ 〆(。。)
  夫婦で共同作業をしておけば離婚の確率は低くなるだろうに?
       (ノ-_-)ノ ~┻━┻ こんな飯食えるか
           */□\*)うわぁ~ん m(_ _)m  離婚!
                (^_^)/~~
・・・・・・・・・
2004年12月02日(木)
1339, 「酒乱になる人、ならない人」
              -読書日記 -1

男なら一生のうちに何度か酒で失敗したことがあるはずだ。
 私も酒大好き人間として、何度失敗したことか。
  大失敗をしても、数年もしないうちにまた酒の失敗を繰り返す。
   一番の敵を、平気で口から脳に送りこむのであるから人間は馬鹿の生きものだ。
     酒で家庭を壊し、職場を追われ、最愛の人にも愛想をつかれる。
     過去に多くの酒乱の人や、アルコール依存症の人を見てきた。
    そして、私も一過性の酒乱になったこともある。
   それでも、間違って朝起きたら女性と?ということは一度も無かったし、
  暴力沙汰で留置場ということも無かった。しかし、危ないことは数知れずである。
 アルコール依存症の手記を月刊誌で何度か読んだことがある。
 TVに本人が出てきて、生々しいアルコール依存症の話を淡々としていた。
  三連休、4連休の休みに、大量の酒を買い込んで
   三日間続けて、意識を失っている以外のみ続けるという。
    信じられないような精神状態になるようだ。
     身も心もボロボロになる。
  私も色いろ試した結果、酒の自制のルールをつくった。

・一人酒を飲まない(一人で外にのみに行かない)
 ・外での2日続けての酒はさける
  ・週2日以上はさける
   ・23時以降には帰る
   ・一軒目では、酢の物、野菜サラダか漬物を初めのつまみにする
   ・飲んだ後の、食事ーラーメンなどーはさける
   ・不愉快な酒は絶対に飲まない
    自棄酒や、嫌な飲み会や、気の合わない人の屯する店には行かない
  ・飲み会の場合は必ず酔い止めのドリンクを飲む
 ・家では 日本酒は飲まない(在庫をおかない)
  ノンアルコールビール(350ml)を一本と、
  紹興酒(300ml)を一日の基準にする
  ・女性とは一々にならない
これを実行していても、年に一回は危ないことがある。

ーブラックアウトー

飲んでいて、あるところから記憶が全く無くなることを「ブラックアウト」という。
  この言葉は、お医者さんの専門用語であるが、ブラックアウトの経験を
   するようになったら、チョッと気をつけなくてはならないとか。

    私も十数年ほど前から、ブラックアウトの経験が何度かあるようになった。
    重症になると、数日間のブラックアウトが生じて本人はまるで、その期間の
   ことは憶えていないという。 どこかの街でフット我にかえるが、
  飲んで正体を失ってしまってからの記憶が全くないという。
 留置場のお世話になってはいないが、これが、酒乱かどうかの大きな目安である。
  二十数年前に、花見で飲みすぎて池の端で転がっていて、朝になって救急車で
  病院に運ばれたことがあったが。それでも、その夜の泥酔のことは、ほぼ憶えていた。

   アルコール依存症と、酒乱は本来違う。
   私の場合は、酒乱のケがあるというレベルだが。
  致命的な失敗はないが、それでも大きな失敗を多く繰り返してきた。
 この本のアルコール依存度テストでは、全く問題はなかった。
 歳も考えてか、気をつけていることもあるが。

同級会で、酒の失敗の話を聞くと飲んで暴れて留置場に泊まってきたなど話はきりがない。
特に日本では、「酔っ払い」といって甘く見る傾向があるが。               
                             -つづく
 ・・・・・・・・
 2003年12月02日(火)
972, ナレッジマネジメントー3
ー「ベンチマーキング」と「ベストプラクティス」
 
ナレッジマネジメントといえば、その手法として
「ベンチマーキング」と「ベストプラクティス」が頭に浮かぶ。
 ・ベストプラクティスとはー自社に比べて、優れた業務方法のことをいう。
    他業種のよりすぐれた業務手法に多くのヒントがある。
    ・ベンチマーキングとは,ーベストプラクティスに学ぶ経営変革手法のことをいう。
     ‘解りやすく’いえば、
      「他業種のベストのモデルを見つけて、徹底的に真似ることである。」
      ‘難しく’いえば「系統的且つ継続的な測定プロセス。
      ある組織が業績を改善する為に役立つ情報を得るために、
     組織のビジネスプロセスを継続的に測定し、世界のビジネスリーダー
    と比較するプロセス」
   業界の内外を問わずベストなものとの比較を行うことによってギャップを埋め、
  現状を改善する有効な方法である。前向きなプラス志向の経営手法といってよい。
    ー以下は字数の関係でカット(2007年12月02日)

 ・・・・・・・・・
 598,八ちゃんの時代ー2
 2002年12月02日(月)

少年期までは今考えても、かなり刺激的な環境で育った。
 生後3ヵ月後に、長岡の東神田から大手通に帰ってきた記憶がある。
  もしかしたら父親の話の刷り込みかもしれないが。
   子宮の中の記憶のある人もいるとか。

    お手伝いの背中におぶさっていたのも這い這いも憶えている。
     歩かされた時に面倒くさいと思った事も。
     商売の真っ只中で育ったせいか、今も人ごみが好きである。
    スーパーや飲食店に行くのが異常に好きなのは、三つ子の魂百までだ。
   競合店がオープンすると偵察に行った、5歳の頃である。
  家族全員が毎日の売り上げに一喜一憂をしていた。もう50年以上も昔のことだ。

 今考えると当時は金色に輝いていたように思える。
  生きるのに必至の両親の姿がそのまま伝わってきていた。
   素晴らしい時を両親と共有できたのだ。
    兄二人の死とその5~10年後の母の心筋梗塞の死線があった。
     これで母は死ぬんだと思った、しかし生き延びた!
    2歳の頃に実家で更に新しい事業を始めた。その記憶が生々しい。
   ビル建設の完成まで住んでいた木造の家の下に丸太を入れ、
  近くの公会堂の前の広場まで移動した。
 完成するまでそこで店を開いていた。

 建物の完成した引越しの日々が生々しい。
 コンクリトーと生壁の匂いと混乱の凄みを。
  あの時代は皆が必死であった。
  1階は店,
  2階が倉庫兼事務所、
  3階が自宅兼店の食堂と風呂、
  4階が従業員の宿舎兼後方であった。
 毎日が戦争のような日々であった。

 ・・・・・・・
 [254] 愛の貧乏大作戦
 2001/12/02 13:44

土曜日の13時放映。「商売の上手くいってない料理店」を建て直す番組である。
その対極にある繁盛店に、その主人が修行に行ってその精神を叩きなおし、
繁盛のコツと技術を教え込む番組である。

ー上手くいってない理由の共通点がある。
1、全てでないが まずは夫婦仲が悪いか、あるいは片方が死んでいるか、
  離婚をしている、生活が壊れているのだ。
2、甘い、甘いから上手くいってない。プロの自覚がない。
  店を張って生きていく事の厳しさの自覚がない。
3、上手くいかない理由が解かってないから、横に商品の間口を広げていく。
  (アイテムの数を増やしていく)
  その為一品一品の力(商品力)が落ちていく。
4、仕事を楽しんでない。

商売にかかわらず、なんごとでもいえることだが上手くいくコツは
選択と集中」である。その正反対をどんどんやってしまう。
それを一週間の修行で叩きなおせる訳がない。
それをやってしまうから無理あるが、そこが面白い。

大体が商売は上手くいかないのが当たり前。
上手くいくほうがオカシイ位に考えておいたほうがいい。
とりあえず一品をとりあえず教え込むのが理に合っている。
それとまずはギリギリのところに追い込む。

甘い自分に直面させ、そしてそれを叩き壊す。
それと面白いのは、最高の職人と最低の職人の初めの掛け合いである。

・・・・・・・・・
ある時間の断片
  12月2日  1968年 
 夕方、米林が部屋に来る。
南波さんと、蒲生のことは自分がつくったデマだという。
こんなものだろう。嘘をつくということに対して何とも思わない人種が多い。
この手合いの男だ。 早稲田大にはこういう手合いが多いのは確かだ。
嘘をつくのはよいが、自分でそれによって混乱をするのがわからない。
べつに無視をすればよいが、色いろな人間がいるものである。
これが今の寮の流れなのだろう、人の気持ちは流れゆくものだ。