つれづれに

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 今日のYoutube

 67歳の女が、再婚相手を次々に青酸カリで殺し、資産の乗っ取り容疑で逮捕されたが・・ 
わかっているだけで6人というから、まだまだ出てくる可能性がある。こういう大量殺人が、
最近、いやに目立つ! それにしても警察は、今まで何をしていたか? だが。
 見た目は、不通のオバちゃんだが・・ 事実は小説より奇なりを、地でいった事件。
40歳代後半に初婚のようだが、どんな人生をおくってきたのか?

 今朝は、数日ぶりに、早朝のポタリングをしたが、やはり寒い! 
一応、今週いっぱいで昼だけのポタリングになるが・・ それも今月いっぱいか!



・・・・・・
2421, 閑話小題
2007年11月20日(火)
         ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
*携帯電話・パソコンが変えたこと

最近、携帯電話などの情報機器が身近の景色を変えてしまった。
まずは駅の見送りである。 数年ほど前から、ほぼ見かけなくなった。
見送った直後の車内でも携帯電話で連絡とれるから、別れの情緒がなくなってしまった。 
解りやすい例をとして、会いたいが会えないという寂しさと性欲を起因とするイメージのダンスの恋愛は、
H系のサイトを見ればそんなイメージも情緒も起きにくくなる。
いや、更に肥大するか???! 
情報化は情報の希少が与えるイメージの誤解のプラス面を減少してしまった。 
エジプト女王のクレオパトラは男を狂わすのに、そのイメージの演出が絶大で、
実際は大した美人ではなかったという説がある。
「誤解で結婚して、理解して離婚する」のが世間一般の成り立ちである。
それも、結婚して初めて気づくこと。
そして一生をお互いに忍耐をして過ごすか離婚。
「愛することは耐えること」とはよくいったものだ!
 --
 
*写真集が良くなっている

前のテーマと関連した話になるが、最近の「写真集」が良くなっている。
書店の写真コーナーでは、時間を忘れてしまうほどである。
旅行に行った先の写真が、あまりにも綺麗に撮れていてドッキとする。
それが次から次へと出てくるから驚きである。
それも最近は、どうぞ座って見てください!と椅子まで置いてある。
現場に行っているから感激が倍増するのだろうが、
天候や見る角度などで違って見えてくる。
カメラが人間の視覚より機能が上ということもある。
これも情報化の一つである。
 ーー
 
*閑散の会場の大相撲本場所

大相撲の九州場所をTVで見ると、初日三~四割、平日には二割しか入っていない。
相撲関係者の宿泊や、夜の世界人たちや、タニマチだけでも年一回の本墓所
もっと入ってよいはずだが。 相撲などは会場などの熱気を差し引いても、
家で大型TVで観るのも同じレベル?か、それ以上になってしまったことも
ある。 それと格闘技のアナザー・ワンになったこともある。
こんどのリンチ殺人事件と、朝青龍の問題も大きな要因だろう。
それよりも来年の初場所、皇室が観戦に来るかどうかの方が興味がある。
               ホナナァ☆ |∀・`@)ノ|Ю

・・・・・・・・
2006年11月20日(月)
2057, あたりまえなことばかり -11
  オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン! -読書日記

「死と生」は、考えるほど不思議で尽きない。
この無限の宇宙の中で、何で此処に自分が存在しているのだろう。

60年生きてきたが、「自分にとって死はない」というし、
永遠は「いま、ここ」にしかないというし、
人間しか持ち得ない「観念」によって、動物のように十全に生きられないというし、
人間しか持ち得ない精神の思考によって、生物体としての死の恐怖を看破し得るという。
先入観ー馬鹿の壁ーがビッシリと脳にこびり付いていた自分の人生に、
ここで気づいている愚かさ! そして、周囲を見て、まあいいか、と思っている愚かさ!

自分にとっての時間は生まれ死ぬまでの時間ではない。
永遠は、「いま、ここ」に、垂直に、立ち上がる! なるほど、その通りである。
我を忘れるほどの感動の、あの瞬間! 縦に立ち上がっていた! 永遠に今も続いている。

 薬物でもできそうだが・・・
それは、末期の時の一服の楽しみとして、とっておこう!
        **** Ψ( `▽´ )Ψ ケケケケ♪
  ーー
 *死ぬことは不幸なことか  -?

   人間のみが自殺する生物であるのは、人間においてのみ、死が観念として
   対象化されているという事実を端的に示している。
   観念でない現実の死。とは、どういうことなのか。 
   多くの人が、人間は死に向かう存在なのだと長く教えられてきた我われが、
   そのまま長く思い込んできた、未だ気づかない間違いが、ここにある。
   考えてみれば、観念でない現実の死を考えるとする正にそのことによって、
   死は常に観念となるという事実。
   観念でない現実の死など、観念としてしか存在しない。

しかし人は死ぬではないか、と人はいう。確かに現実に人は死ぬ。
しかし、死ぬのは常に他人であるという事実について考えてみる。
他人の死は自分の死ではない、そこにも自分の死は、存在してない。
人は、他人が死ぬのを見て、死を観念として対象化し、それを自分に類推して、
自分の死が現実に存在すると、思い込んでいるに過ぎない。ここでもあくまで観念でしかない。
笑うべきことだが、自分の死を考えようとして与えられている思考の真空、
自分がいないとということを、考えている当の自分に、
どうして考えることができるのだろうか!かくして、哲学が誕生することになる。

    精神は思考することによって、生物体としての死の恐怖、その錯覚を看破し得る、
    だから、考えることこそが、善く生きるということなのだ。
    おそらく、生物に存在するのは生存本能であって、死の恐怖ではない。
    生きようとするために死を避けるのであって、死を避けるために生きている
    わけではない。人間という生物においてのみそこが転倒しているのは、
    自ら課した観念による錯覚のためで、人間は動物のように、
    十全には生きてはいない。それ自体で転倒している死への恐怖を逆手に取り、
    再び大きく転倒させるものが宗教である。
    あるいは、宗教は、考えられないものとしての自分の死、思考の真空地帯の
    そこに、「死後」の絵を画く。あたかもそれが、生の続きのように。

しかし、「生の続き」としての「死後」とは、どのようなことでありえようか。
自分の死が観念としかあり得ないのだから、その「死後」というのも、
文字通り観念としかあり得ないのは自明なことだ。
死が観念なら死後も観念である。ふと気づけば当たり前のことである。
人が死と対になった「死後」という観念から離れられないのは、
真空への恐怖だけでなく、時間の一直線に前方に流れるものという、
時間認識の錯誤にもよるのではなかろうか。
時間は一直線に前方に流れるという人々の表象の原型となっているのは、
人は誕生から死へと向かう存在であるという人生の表象である。
人は、物理的肉体として生まれ、育ち、次第に老いて、次に死ぬ。
時間は、そのような物理的現在、物理的瞬間の重なりとして表象されているのである。

   しかし、この時間表象によっては、決して表象されないときがある。
   それが、それらを表象している正にこの現在、時間は一直線に前方に流れるものだと
   表象しているこの瞬間である。「瞬間」など、どこにもない。捉えられるものではない。
   なぜなら物質ではないからだ。すると、時間を物質によって表象し、
   肉体の生死に等しく一直線に前方へ流れる
   ものとのみ思うのは、誤りであることになる。
   これは、自分の死はあり得ないという例の事実を裏から支持する。
   物理的時間のうちに存在しない自分とは、物理的肉体ではない。
   すなわち、自分は生きて死ぬこの肉体ではないということに他ならないからである。

死なない存在に死後はない。宗教が「死後」に言及することによって多く誤るのは、
あたかもそれが時間的前後であるように聞こえてしまうことによる。
「死後、永遠の生命を得る」。しかし、「永遠」とは「死なない」ということ以外の
いかなる意味であり得ようか。 永遠が死後にあるとは、既に破綻している。
我われの言語の構造が、物理的時間とは異なる時間のありように言及することを拒んでいる。
宗教が誤るのは、一直線に前方に流れ、死へ崩落していくと思われているこの人生に、
「意味」を語ろうとしているところにあるだろう。
 --
  自分は生きて死ぬこの肉体ではない、というが・・・
  まあ、わからないでよいが、しかし考え続ける必要はある。
  それしかないのだろう。   (*^ワ^*)i バイバイ

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2005年11月20日(日)
1692, 二つのトッテ

「ものごとにはすべて、二つのトッテがある」という諺がよい。
                        (人`∀´)ィヒッ♪
 何ごとも両面がある(今さらだが、例えとして判りやすい)
 プラス面の取っ手を掴む癖をつけるかどうかで人生変わってくる。
 私のみるところ、意識をしてプラスを掴むようにしている人は1割も満たない。
 平気でマイナスの取っ手を掴んでいる人をみると、その異様さに唖然とする。
 家内にいわせると、おばさん系の地味な服装の人に多いという。 
 話題に暗い話をするのが恒例になっていて、マイナスの話に快感を覚えているという。  
                ン・・ ヘロヘロ α~(´`d)ぱぁぁんちぃ   
「この人!マイナスのトッテを意識的に掴んでいるのではないか?」と
 確信してしまう人が多い。他人事ではないか? 弱者ほど、その傾向が強い。
 必ず対象のマイナスに気持ちがいっている
 反面、「このプラスに隠れているマイナス面は何だろうか」を何度か自問しないと、
 とんでもない落とし穴にはまる危険があることも確かだが。
                    
         (゚o゚(○==⊂(゚(工)゚ )⊃o  クマストレートォ
「良い言葉は、良い人生に導く」結局、上手くいってない人生の人は、
 内語に知らないうちにマイナストッテー言葉をつかっている。
    baka!( ^ω^)ノビュゥゥゥゥ  ξξ ((((o+ω+)o ヒィ
 運命は我われに条件を与えているが、それをどう使うかで幸・不幸が分かれてくる。
             トルネード!( ^ω^)ノ シタネ~   
 
 ・・・・・・・ 
 2004年11月20日(土)
 1327, まさか、地元で大地震が!ー14

今回の損害は、おおよそ3兆円と発表された。
・インフラー高速道路、山間部の斜面などで、一兆二千億
・民間家屋、7000億
・商工関係、3000億
・他    8000億 という。
阪神大震災兵庫県だけで9兆9000億というから、その三分の一の損害規模になる。
阪神大震災が都市型であるのに対して、中越地震は山間型地震の典型だ。

損壊した家屋が4万8千戸。そのうち全壊とほぼ全壊で2300戸という。
現時点で、解雇が50社で420人。この地震での事業への影響は、目先プラスであるが、
当面の復興の為の応援が収まったときのことを考えると背筋が寒くなる。
長期的にみたら、この大震災は新潟県にとって大きなマイナスである。
目先の資金の確保は非常に楽になるが、消費マインドが冷え込む。

ことの深刻さは、日が経つにつれて深くなってくる。
本当の問題が出てくるのは、これからである。
ただ年内に新幹線が全面開通の見通しが経ったのが救いである。

・・・・・・・
2003年11月20日(木)
960, バードウオッチングの面々-3
字数の関係でカット(2007年11月19日)

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586, 不気味
- 2002年11月20日(水)

株が連日底割れをしている。
日経平均8千円割れも目前になってきた。
さらに悪いのは銀行株の連日の下げである。
UFJみずほ銀行が50円額面で100円を割ってしまった。
UFJが年内、みずほが来年そうそう国家管理になるという噂も、
現実味をおびてきた。

昨日一日早く週刊朝日が手に入り、木村毅の銀行トップ批判の
記事を読んだ。
日本経済の実情は一般のマスコミが言っている以上に悲惨だ。

団塊年代の世代交代期と情報化による時代の変化が重なっている。
これが今の日本の悲劇的のところだ。
先日もその世代の宿泊客の自殺未遂が自社ホテルであった。

しかし不良会社の清算はしなくてはならない。
イラク戦争のドサクサでやってしまうのが政府の狙いだろう。
次の朝鮮戦争?が控えているから、やはり先倒しで?整理は
しておいた方が良い。イヤやるべきだ!

装置産業の当事者として他人事ではない。
悲壮な話しだが暴風は覚悟はしなくてはならない。
今までが良い時代だったと割り切った方が良い。
実際のところ来年は想像するのも恐ろしい。事業も社会情勢も。

ーーーーーーー
「233]」イチロウ
- 2001年11月20日(火)

「今の天才と言われる新人類は,皆コンピューター付きマシーンを使っている」
とメケメケの美輪?が言っていた。
バッテングマシーンに,何か工夫をしているのではないかとは思っていた。

それが昨日のBSNHKのイチロウ特集で、その秘密の一部を知る事が出来た。
それは何か! 「テニスボールを投げ込むマシーン」であった。
それで230?のテニスボールを投げ込み、スピードに対し目を作ることと、
反射の訓練をしていたのだ。これが彼の秘密のかなり本質の部分と直感した。

スピードに目を慣らすのだ。実際に球がきた時に、緩く見えるまで訓練するのである。
そこに赤と黒で数字が書いてあった。 それが見えるまで訓練するのだろう。
バッテングと守備の捕球に対して、球の見極めができるよう訓練をしていた。
子供の時から、そのマシーンを使っていたのではなかろうか。

脳と身体のサイボーグ化をしていたのだ。脳作業もしっかりしていた。
もちろんそれだけでは、あれだけのプレーはできない!その上に
努力を人一倍重ねたのだろう。努力は誰もできる、ようはその方法を如何見つけるかだ。

イチロウは自分の練習を人に見られるのを極端に嫌っていた。他にも
彼なりの科学的方法を積み重ねていたのだろう。
3年前に森監督の講演を聞いた時、「イチロウは王・長島とは格違いの
レベル」と言っていた。そのとうりになってきた。

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ある時間の断片
ー1968年11月20日(水曜日)

11時過ぎ起床。 14時に市川さんがくる、休みのようだ。
彼は早稲田を卒業をして、この春より医薬品メーカーに勤めている。
MEという職種で、お医者さん病院まわりが仕事だという。
この8ヶ月でまるで人が変わってしまった。お医者さんのオモリだそうだ。
勤めると彼のようになると思うと複雑な気持である。
すごく自分と性格が合うが、理工系で生真面目な人である。

その後、風呂に行き、Tvを見て食事をしたりしてすごす。
22時から夜半の2時まで卒論のまとめをする。
もう市川さんのように社会に出なくてはならないのだ。
最後の学生生活をもっと有意義に過ごさなくてはならない。
いい加減な生活だ。あと4ヶ月でジャスコオカダヤに就職だ。
三重の四日市に行く事になるだろう。