つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=BKxrYQbnm04

 今朝の雨上がり、数日振りに信濃川土手のポタリング
日の出が晩秋の山脈と雲があいまって絶妙な景色を彩っていた。
こういう日に限って、デジカメを持っていかなかったが・・
 寒さもあって、ほとんど人が歩いていなかった。

 大相撲も後半に入ってきたが、数年前までの連続の不祥事から
八百長相撲が少なくなったのか、ここで内容が良くなってきた。
そして、やっと次のウェーブが見えてきた。 
 若手の大型力士(肉体的に)の本領が見え始めてきたようだ。
碧山、照乃富士、逸の城、輝,高安(フィリピンハーフ)など、共通点は
外国力士で、190センチ以上で、200キロ近く、下半身がしっかりした、
ハングリーの力士。 来年は、その入れ替えの年になる。
 
  
・・・・・・
2054, あたりまえのことばかりー8
2006年11月17日(金)
        b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
 団塊の世代が本格的に60歳を向えようとしている。
その中でサラリーマン生活を過ごしてきた人達が、
大量に定年を向えようとしているが、
彼等にとっての大問題が第二の人生である。
常に集団社会の中で、「孤独」の確立が出来てない人が大部分である。
「どうしてよいのか解らない」のが、本当のところだろう。
せいぜい、前の会社のOB会の集まるスナック・居酒屋とか、
ゴルフ会とか、町内会の会に出るぐらいしか知恵が出てこない。
この問題を、著者は「孤独」の意味を探りながら論じている。

 彼らこそ、群から離れて「隠棲」に入ること
サラリーマン社会に生きてきた人ほど必要であろう。
隠棲といっても、ブログで繋がる便利さもできているから、
それほど深い寂寞感はないだろう。
しかし、孤独は生やさしいものでないことも事実である。

 ーーー
ー孤独は苦しいものなのか ー?

隠棲するということは、静かで豊かな魂のありようのために、
意志的に選ばれる行為だったはずである。
それが、「引きこもり」という言い方によって、何らか心理的に問題のある
一種の症候群に目されるようになったのはなぜだろう。

 自宅や自室に引きこもって、長時間にわたって社会と全く接触を持たない
若者が、30万人はいるという。
家族とさえ打ち解けず、家族でさえその理由は解らない。
本人たちは、非常に苦しいものらしい。
孤独を欲していて、実は孤独を欲してないのだろう。
本人は人と関わりたいと思っているが、うまく関われない、無力感、
挫折感、自己嫌悪感の泥沼の長期化、恐らくそういうことなのだろう。

一方で、携帯電話やメールなどで常に「つながって」いなければ気がすまない
若者たち、彼等もやはり孤独であることを恐れている。
彼らは何ゆえに孤独を恐れているのだろうか?
孤独であるということは、文字通りには、独りであること、
独りで自分であることである。これは、これ以上疑いのない現事実である。
それが耐えられないということが事実なら、自分であるということの、
何でそれほど耐え切れないことなのであろうか。

 自分が自分であることを自分で証明することは不可能であるか、無意味である。
そこで彼らは、その証明のため他人や社会といった外的契機を求めることになる。
しかし、社会や他人によって証明されたと思われるような自分は、
まさにその理由によって、他人や社会と代替えのきくものということになる。
あるいは、他人や社会によってしか、自分であることが出来ない。
自分の何たることか自分によって証明できないという事実に変わりはない。
孤独は空虚なままである。

おそらく、孤独を恐れているのは、この「空虚である」ということ。
そのような他人や社会によっての空虚は、実は当たり前のことであって、
対社会的な、文字通りの「形式」にすぎないからである。
誰の某という「姓名」、どこそこの社員という「肩書」、それ以上でないのは、
当たり前のことである。
「私は誰の某である」と発語する時の「私」、その「私」は何であるか、
これが、自我の向こうの自己への問いである。

 人が、自分を自我と同一とするとき、空虚であるか、絶えられないと
感じるのは、自我というものがその本性上、世界と自分とを対立するか、
別のものと捉えるための形式である。
世界、すなわち、さまざまな人格としての他者たち、変転してやまない諸現象、
あるいは雄大なる天地と自然、そういった世界の内実としてのすべてを、
「自分ではないもの」「自分とは別もの」とすることによって、
自分であるような自我は、したがって、「孤独である」。自分以外「何もない」。

その本性が否定的であるところの自我としてのみ居ることは、
苦しいことに違いはない。内実のない自我は、内実を得ようと世界に関わるが、
しかしその関わるということが、やはり世界を否定するという仕方でしか
あり得ないのである。関わりたいが関われないという、若者たちの矛盾した
ありようは、自我という矛盾した存在のありようを、そのまま示している。

 自我と世界とを対立するものと捉えるのは、近代の特有の世界観である。
この世界観で、自然科学は進歩を遂げたが、もともと目には見えない捉えがたい
自己、こちらの側を探索する作業は怠られたようである。
自分を自我として、自我をこの肉体とすることで、人は納得しようとしたが、
納得できない綻びが、彼方此方に生じてきている。

                          バイー♪                       (^_^)/~~
・・・・・・・
・・・・・・・

2005年11月17日(木) 1689, 今日という日は誰もが素人だ!



「今日という日は誰もが素人だ!」
  三浦綾子の本にあった言葉だ。
   つくづく良い言葉と思う。  
                 ~~■P_o(δ-δo)
                 COFFEE
    誰も今日という日は初めてで、
   何に出会うかもしれない日である。
  その気持ちを忘れてしまうから、
 素人の持っている新鮮さを失ってしまう。

茶道に『一期一会』という言葉がある。
 その言葉の真髄に        ヽ(δ◇δ)ノ エーーー!
 「今日(今)という日(瞬間)は二度とない、
   誰も初めての経験であり、最後の経験になる」
    がある。

それを意識をすれば、
 全ての出来事に「驚き」が出てくるはずである。  
  生きるということは驚きであり、感動であり、感激である。
   その気持ちは、素人だからこそ生まれてくる。 
                      Σ(δOδ*)ハッ
今日という日は、昨日までの自分の積み重ねが
 あったからこそ存在することも事実である。
  今日という日に素人になるには、
   昨日の玄人であるほど良いのも事実である。
   
            (*δ-δ)ノ彡☆゜・。・゜☆
                バイバイ

  ・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・

2004年11月17日(水)
1324, ライオンの柵内に男が侵入

10日ほど前のTvのワイド・ショーの衝撃映像が面白い。
台湾の動物園のライオンの柵内に、男が入り込んでいる映像が流れた。
思わず息を止めて見入ってしまった。
寝ていたペアの雄ライオンが立ち上がリ、その男に突進していった。
そして、男の腕にかぶりついたが、あくまでも威嚇をしているようだった。

その男は恐れる風でもなく、振りほどくと後ずさりをして岩の上に上がった。
次に、ライオンは前足で男の体に数回爪を立ててパンチのような攻撃をした。
それを三回ほどした後に、攻撃を止めてしまった。
相手に敵意がないと思ったのか、
これ以上攻撃をするとマズイと本能的に思ったのか。
ライオンのみぞ知るである。
元にいた場所に戻って、全く無視をして寝てしまった。

その後の映像では、かぶりつかれた腕や、体全体に咬み傷や引っ掻き傷が
アチコチ映し出されていた。しかし命に別状はなかった。
みている方も、思わず悲鳴を上げそうな緊迫をした内容であった。

Tvでは、餌を食べた直後であったのが幸いをしたといっていた。

私の解釈を加えると、
・この男が後ろ向きにならなかったことと、
・恐怖心がなかったこと、
・動物園の野生を失っている飼育ライオンであり、
 人間の中で育ったため、自分のテリトリーの中に入っても、それほどの
 怒りではなかったのだろう。

その男は、キリスト教の狂信的な信者で、その愛を確かめる為に自分の身をかけて、
実験をしたという。
動物的な、躊躇する何かが体全体から出ていたのだろう。

キリストの愛は、ライオンにも通じたということか。

そういえば、中村天風の話しを思い出した。
「サーカスのライオンの檻に入ったが、気合いでライオンが襲ってこなかった」
という。
これも考えてみたら、飼育と訓練が入っていて攻撃しないように躾けられていた
ライオンにすぎなかっただけだ。

・・・・・・・
・・・・・・・

2003年11月17日(月)
957, ナレッジマネジメント -1

「図解、解る!ナレッジマネジメント」の本から、
ナレッジマネジメントの意味と本質を考えてみる。

 数年前に、「ナレッジマネジメント」という言葉がしきりにいわれた。
ナレッジは言葉の通り「知識」である。
この場合はむしろ「知恵」に近い意味と考えてよい。

「人、物、金、情報」の経営資源に対して、変化の激しい情報化社会では、
「情報」が最も重要になる。
この情報をコントロールした変化対応が、生き残りがポイントになる。
それを活用する「知識」活用がナレッジマネジメントである。
「第5の重要な経営資源が、ナレッジー知識(知恵)である」

 まずは現場社員が持つ「知的資産」の活用が求められている。
知とは「組織経営、企業活動に価値ある全ての情報」である。

ナレッジ経営の第一目標は顧客満足にあり、顧客志向が鮮明でない企業は
生き残れない。その為の「組織知」の拡大と、「個人知」の共有が必要である。
ナレッジマネジメントの目的は、顧客サービスの向上である。

 ある事業の立ち上げをしようとすると
・「情報」収集がまず第一歩になる。
・次にその情報の蓄積が「知識」になってくる。
・その集積と熟成が「知恵」に変わってくる。
 その「知恵」で、「情報と金とモノと人の組み合わせ」を再編成をして、
 企業目的を遂行していく。
 情報化の時代に、知恵をまず第一の資源としてエネルギーの集中が必要と
 される。

 事業を創めるとき、「目的を持って人を集めるのでなく、優秀な人を集めて
事業の目的を決める」という今までの逆の発想も重要になってきている。
「まずは知恵のある人間を集めて、目的・目標をさがす」。
目標を決めて、その手段として人材を集めるのは、あくまで道具を集めるにすぎない。
道具は道具の知恵を遣って「馬鹿の壁」をつくっていまう。
道具は道具以上の力を出すことが無い。

 今までリ・エンジニアリングからベンチマーキング、そしてナレッジマネジメント
色いろな技法が開発されてきた。。
事業のベストプラクティスから、小さな業務上のコツまで、さまざまに収集、蓄積できれば、
間違いなく会社の有力な財産となるはずである。
ナレッジは知識というよりは知恵に近いものである。
                               ーつづく
・・・・・
・・・・・

583, 風邪のひき方-こころにのこった詩
- 2002年11月17日(日)

なかなか良い詩があったのでの載せておきます。

明日は「かぜをひいたら」という人生で初めてつくった
詩を載せます。 
散歩で即興でつくってみたので今日一日で何回か修正して
みたいと思っている。


                辻征夫
  かぜのひきかた

こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて
びふうになびいていて
みだれて
きえて
しまいそうになっている

こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる

それはかぜではないのだが
とにかくかぜでないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
こころにあがらう
げんきもなく
かぜです

つぶやいてしまう

すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつを
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである

・・・・・・
・・・・・・

[230] 抽象概念と具体概念
 2001/11/17

抽象概念と具体概念を、ある本に書いてあったのをまとめてみた。 
 -少し硬い表現だがー
・それ(抽象・具体概念)以前は「非言語的原始概念」-原始記憶の集合や
 組み合わせを、頭の中でこねくりまわしている状態を言い、あと一歩で
 言葉になる状態をいう。
 頭の中のヴィジュアルな素朴な原始記憶を「非言語的原始概念」という。
 言葉にまとめておかないと、この原始記憶のジャングルのままになってしまう。
 
 ー毎日このような文章かをしていると、なにか毒だしをしているようだ。
 宿便を毎日吐き出しているいるようでもある。
 ほとんどが以前文章化したことがある。
 一日7~9万回考えていた一部でしかない。
 それを概念として、まとめる事が最大の収穫でもある。

 文章化とは原始記憶の集合や組み合わせを、頭中でこねくり回した状態を
 概念化していることになる。
‘経験を素朴な言語化をして置いておいた原始記憶’の蓄積があるから
 毎日かけるのだ。

 抽象的言語と具体言語とそのミックスしたものを概念化として吐き出す。
 これが慣れてくると面白い、こうなればしめたものだ。
 毎日飽きずに書いているのは、実際のところ面白い。
 
 何かわけのわからないことを書いている!
 抽象概念も具体概念も、所詮はーーーー
 
 わけが解らなくなってきた。
 あまり理解していないためだ。
 しかし、キーワードの抽象・具体概念とその以前の「非言語的原始概念」
 について少しは理解したか。