「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * 公共性と「世間」とは、同じでない!
 往復一時間の新幹線通勤を30年続けてきたが、そこは全国レベルの公共の場。時どき、台風などで
 在来線が不通になると、一般客で満席になることがある。そこが、公共性のある新幹線車内の「社会」と、
 通学、通勤の客の「世間」のミスマッチのクロスになる。都会と田舎の違いは、両者がクロスしているか、
 いないかの差でもある。それは、ネット社会でも同じことがいえる。 ーその辺りからー
≪「世間」は私たちを支配しているが、具体的にみえるモノではない。しかも「世間」は、「広い世間」
のウチに「狭い世間」が存在し、その「狭い世間」のウチにもまた「より狭い世間」があるというように、
一種の入れ子のような複雑な構造をもっている。
 問題なのは、「世間」は「共通の時間意識」をもつために、「世間」のウチの人間にたいしては相互に
「配慮」しあい「優しい関係」をつくるが、「世間」のソトの人間は、人間だとは思わないという本質を
もっていることだ。つまり「世間」は「世間」のウチにいる者を「身内」とよび大切にするが、ソトにいる
者を「赤の他人」と排除する。公共性という概念が「世間」に似ているのは、ある種の社会的強制力をもつ
からである。しかし「世間」が公共性と異なるのは、「世間」がつねにウチとソトという区別をおこない、
「世間」の内部の原理がソトまで及ばないこと。さきほどの例でいえば、「世間」のウチとみなされる町の
駅はキレイに保たれるが、「世間」の目のとどかない「世間」のソトとみなされる富士山の頂上では、この
「キレイにする」「ゴミを捨てない」という倫理・道徳は通用しない。日本は「旅の恥はか捨て」という
とんでもない格言があるが、これこそ、自分の「世間」のソトでは、「世間」がみていないので、タガが
はずれて「なにをしてもいい」ということを意味する。 居酒屋で盛り上がっている人間は「世間」を
つくっているから、他の人間は「赤の他人」であり、人間だと思ってない。「世間体」とか「世間の目」
という言葉は、その内部だけで通用するのであって、その外ではまったく機能しないのである。
 花見でも同じで、世間はグループ内だけの話で、他のグループには通用しない。最近若い女性が、
電車の中で他人の目を気にしないで化粧するのも、自分の「世間」を離れたところの行為。≫
 ▼ ワールドカップで、日本人観客席が、帰り際に綺麗にゴミを持ち帰る姿が話題になったが、
  これも「世間」の特質の現れである。その世間が、神様かわりをしているとしたら、三年前の節目から
 突然、私の前に現れ出てきた神様気分の、あの連中をコミック的に思えたのは当然至極。これは、実際に
経験してみないと味わえない経験でもある。世間様世界は、面白い動物で満ちている。とすると私は、珍獣?
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4629, 夫婦格差社会 〜どういう男女が結婚するのか
2013年11月18日(月)
             『夫婦格差社会 - 二極化する結婚のかたち』橘木 俊詔 (著), (その他)
    * 結婚相手に何を望むのか ー
 ∵ 「なぜ一夫一婦制なのか?」に、
 第一に、子供を養育する義務があるのは、男女の関係を結んだ一組を明確にするためである。
大昔は、生まれてくる子供の親が特定できないことが多々あったため、養育に支障をきたした。
一夫一婦制で子育てを義務化することができる。第二に、キリスト教などの倫理観から生まれてきた。
性の乱れを防ぐ目的もある。第三に、弱者保護の目的である。権力、資産、容姿、体格、知能などを
有する以上、弱者と強者が出てくる。強者が多くの異性を抱え込んで、弱者が異性から排除される事態を
防ぐための人類の知恵としての制度という学説がある。
 ∵ 「何故、男女が結婚をするのか?」に、「相補説」と「類似説」がある。
 相補説は、互いに違った点をもち、補完できるような組み合わせの方が結婚生活は、うまくいくと考える説。
類似説は、素質の似た者同士の方がうまくいくという説。補完説でいえば、経済力がない人は、経済力のある
人を、精神的に弱い人は、心の強い人を、背の高い人は、低い人を求める、ということになる。自分のない
部分を相手に求める。一方、類似説では、背の高い人は、背の高い人を、低い人は、低い人を、美男は美女を
求めるなど、同じ素養、素質を共有する方が、相手の欠点を気にしないで済む。
人と好み、育ってきた環境で異なる。人それぞれの優先順位で変わる。
  ∵ 「未婚者は相手に何を望んでいるか?」に、
 第一に、男女とも相手の人柄で、具体的に会話が弾み、結婚生活をスムースに進む相手、
第二に、「家事能力」である。第三は、男女とも大きく異なるのが、職業と、学歴。女性の9割は経済力、
男性は4割でしかない。まだ男女の役割分担の意識が高いが、学歴に関して、男女とも同類婚を望んでいる。
  ∵ 「見合いか、恋愛か、どこで出会うか?」に、
 大まかに分けると、職場と、友人・兄弟姉妹を通じてが、それぞれ30%。学校が10%。サークル、街中、
アルバイト、見合いが、それぞれ5%と9割を越す。見合いが低いが、結婚紹介所の出会いが、それを補完。
▼ 世界のおお方が一夫一婦制のわけや、何故結婚をするのか、何を相手に望んでいるのか、が解りやすい。
 殆どの人は、学歴も、家柄も、容姿のうち、二つが揃っていれば良しとして結婚するしかない。誤解で
結婚をし、理解し合って、離婚するのが、今では3〜4組に一組。世の中、すべからく妄想でなりたっている。
その最たるのが結婚の妄想。青年期を振返ると、女性の方がシビアで、見るところを見ていたようだ。
それで、決まってしまうからだ。
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4264, しまった!  ー12
2012年11月18日(日)
             ー しまった! 「失敗の心理」を科学する ー ジョゼフ・T・ハリナン (著)
   * 人生の財産 ーこの著書を総括するー 
 瞑想は、静かに独り座し、心を沈め、バイアスのかかった自分を見つめ、かえりみて己をしること。
ある人は、「飛行機のビジネスクラスで世界を移動することを仕事の核にしている」という。10時間以上の、
まとまった時間、ただひたすら、黙想する。その時、深い何かに触れるという。前回の旅行でエコノミーの席
だったが、耳栓をし、同じように、ただひたすら黙想をしてみた。「一万メートル上空で、時速千キロ以上の
スピードの空間の半睡のような黙想体験は、言葉で表現し得ない悟りというか、マドロミに包まれた夢のよう。 
 考えるでなし、何かの思いが浮かんでくれば思うまま、半睡状態にいる。それが飽きることなく
(トイレと食事以外)、その状態。宇宙と一体になっているような、何かから解放されているような永遠な
何かと一体になっているような。疲れ果てたとき、決断したいとき、頭を整理したいとき、ただ、あの空間で、
飲食のサービスを気ままに受け、自然体で黙想するには理想的空間である。高速の移動空間は、脳内活動を
活発にすることは新幹線内での読書で経験していた。学生時代の友人の娘が日航のスチュワーデスをしていて、
小泉元首相が外国への飛行での機内専用サービスの担当になった時の経験談を聞いたことがある。
「10数時間、お茶を一口飲んだだけで、ただ眠り続けていた」という。あれは疲れで寝ていたと同時に、
黙想?もあったのだろう。 過去に機内で同じ状態でいた時間はあったが、ひたすら10数時間を黙想状態に
したのは初めての経験だった。 時間とお金に余裕があれば、充分価値のある時間になると、納得。
この経験から、ひとつの習慣が出来た。休日などで、ふと何もすることが無いとき、独り寝室で半睡をする。
大体30分〜一時間。ただ目を瞑り、休む。 この春から始めたヨガで、最後の5分、マントラを聞きながら
大の字で弛緩する。これも機内と同じ状態。好きなことに熱中している時も、これと似ている。この時間こそ、
人生の財産である。私には時間という財産だけは充分にあった。装置産業を選び、それゆえに固定化された
マイナス面があったが、反面、自由になる時間が充分にあった。これこそ財産だった。秘境ツアーに、読書に、
パソコンに・・ 日本人には、何もしないと価値のない時間と思い込む妙な習性がある。定年をむかえ、
それまでの延長に生きている人が、あまりに多い。私も似たようなものだが、改めて、じっくり時間の
過ごし方を考えなければ!
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3889, 積極的逸脱 ー2
2011年11月18日(金)
 積極的逸脱は、その視点で捉えると多くの分野で見て取れる。ベターに妥協せずベストを求めた結果の
現象が逸脱になる。天才と秀才の差は逸脱をしているかである。秀才は決して逸脱はしないで、その世界の
価値観の中で頭角する。野茂がメジャーに行き、その後にイチロウ、松井秀喜が続いた。初めてのチャレンジは
逸脱と捉えられがちになる。彼らは天才、それとも秀才だろうか?日本のレベルを超えているので、日本では
天才、アメリカでは秀才? いやイチロウはアメリカでも天才だろう。そう考えると天才、秀才は比較の問題。
とすると、自分で地元で、積極的逸脱をしていたと思っていたのは、自己詭弁でしかなかったことになる。
単なるアウトサイダー、ハグレモノ。天才は、対象に没頭するあまり誤解のベールに包まれ逸脱者として扱わた。
 ところで、酒や薬でトリップするのを積極的逸脱というのか?というと、それは違う。前回、書いたが、
40・50歳代に多くの問題が重なり、そのストレス解消のため秘境旅行に数多く行ったが、これは日常からの
積極的逸脱であった。その総量のエネルギーと感動は、その他の人生の総量と同じぐらいはあった。
人生の積極的逸脱で見られるのは、40歳半ばから50歳で一線を引退し、早々に自分の趣味の世界に入る
人がいる。江戸や明治時代には多く見られたが、現代では経済的事情があり、そんな優雅がことは難しい。 
いや、それより、早々に産業廃棄物扱いをされてしまう恐怖感が壁になっている。 私も結果からして、
10年前に会社を売却して、第二の人生に入った方が得策だった?と考えたが、それは後講釈。どちらにしても
結局は同じ。 事業に「たら、れば」はない。積極的逸脱もあるなら消極的逸脱もあってよい。
一般にいう落伍者である。落伍による失意の果てに待っているのが自死。これも、あの世への積極的逸脱と
考えられなくもないが、好き好んで自死をする人は皆無に近いから、消極的逸脱の果てになる。
 鎌倉時代中期の僧侶一遍は時宗の開祖。「捨聖(すてひじり)」と尊称された。捨てて捨てて捨て去った人。
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3524, 「人・ひと」と、「人間」の違い
2010年11月18日(木)
 私たちは「人」と「人間」の違いを意識せず何気なく使っている。しかし、そこにはハッキリした
違いがあるようだ。 この違いについて膨大なエネルギーで和辻哲郎が研究している。
【 和辻哲郎は「人・ひと」と、「人間」の違いにこだわり、これがどのように混同されて使われてきたかを、
英語、フランス語、ドイツ語などと比較対照しながら、考察を進めてきた。日本語に「われひとともに」という
言葉があるように、「ひと」「人」はわれの人としての自覚から始めて、他人を意味している。
そのうち「ひと」は「人は言う」や「人聞きが悪い」などのように世人・世間の意味に用いられるようになった。 
では、「人間」という言葉はどうか。これは、人に間の字を添加している。間を加えるとすると、すでに「ひと」
「人」は、自、他、世人を意味しているのだから、そういう人の間を意味し、そういう人の間の関係を示すという
ことになる。人間とは世間であり、世界でもある。和辻は「法華経」や、その原典に関わる古いインドの神話まで
渉猟して、人間とはあくまで人間社会のことであって、天上や自然界に関わるものでないことを実証している。】
 ( 哲学者の言葉100 −稲垣真美著 p‐37 )
 〜「人間は、人の間の関係を示す」とすると納得する。人は人との関わりあいの中で、人間になっていく。
また、それは人だけでなく、我われを産み出してきた根源といわれるものと発展していくが、それは、人間の
意味に、あくまでも含まないとする。根源を含め人間というと、それぞれの自己絶対化が生じてくる。
人は人間関係、社会を通して人間になっていく。書物を通した色いろな人物もである。
「出会い」こそ、人を人間に変えていく。
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3149,つれづれに ー閑話小題
 2009年11月18日(水)
  * 論理的思考とは
毎日、二〜三時間かけてレポート1〜2枚分の文章を書き続けて8年半経つ。自分のメルクマールのため
続けているが、この習慣で得たことは、「インプットした知識もあるが、各種の題材を探し出し、その要点を
まとめ上げる過程で身に付いた本質を見抜く視点と、それを起承転結にシンプルにまとめる論理力がついたこと」
理構成力こそが、自分の核である。その核?はウネウネとトグロを巻いているようで、ブラックホールのような
トンネルの先の別世界に繋がっているようにも思える。大した論理構成力でないが、その蓄積と、その発酵は、
トンネルの先で起こっているようだ。純真の視点ということか。何かのイベントに参加すると、その事象を
スラスラと文章化できるようになったのが一番の収穫である。それは記憶のパッケージ化をしていることになる。
その蓄積は人生経験を豊かにしてくれる。デジカメで日常の写真を撮り、そこに言葉を添えて毎日の日記帳に
すれば、それだけで豊かな気持ちになれる。 その人によるが。
  * ブルーレイ録画機
7年間使ってきた、DVD録画機が故障を始めたのでブルーレイをネットで買った。量販店の7〜8掛けである。
(字数制限のためカット2011年11月18日)
  * オモシロ、オカシク
(字数制限のためカット2011年11月18日)
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2784, こんな経験したことありますか?
 2008年11月18日(火)
 下記に近いことを、私は何度も経験している。人間の五感が受けるのは、普段動いている五感の範囲の
ことでしかない。犬は数万キロの彼方の子供の泣き声を感じ取れるというし、象は遠くの仲間の音波信号を
感じ取れる。以下の内容は不思議でもなんでもない。普段は動かなかった感覚が動いただけのこと。
絵に残った痕跡が著者の心の奥の何かに反応し、墓に感応しただけ。
でも、何ともいえない著者の心の内が顕れている。 
  *うぶだしや*             (うぶだしや=遺品買取屋)
「大正の末か昭和初年でしょうか?職業画家のものにはみえない」それらは令嬢の死をいたむものだった。
ほかにもたくさんの政界の名士が弔辞をよせていた。令嬢は長く病床にあッたという。肺を病んでいた
のだろう、と私は思った。友達が学校に通い、結婚していくなかで、令嬢は、ずっと病床にあって、死病に
向きあっていたにちがいない。思えぱ、日本画に描かれているものは、彼女が送ることのできなかった女の
幸せな日常ばかりであった。彼女は、死にゆくなかで、絵筆をとり、現実には、自分が送る二とのできない
憧れの生活を描きつづけていた。そのせいか彼女の残した日本面はどこか畏様な気配がただよっていた。
日本画は通信添削で習っていたのか、絵の裏に、師匠の画評が書き込まれていた。 彼女の遺品のなかに
「磨かずぱ玉も鏡もなにかせむ学びの道もかくこそありけれ」と書かれた額があった。昭和皇太后の肉歌で
あった。私が、それをながめていると、うぶだし屋が、そっといった。「これ!もう売ったんですか?
一枚だけでいいですから、ぼくに売ってください!」「ようござんす。まだ商売になっちゃいない。
一番、いいのをひとつ選んでおくんなさい」うぶだし屋は、大きくうなずいた。うれしそうであった。
私は、髪をたばねた少女が着物にエプロン姿で立ち、カフェで給仕をしている絵を一枚えらんだ。 
お代は二千円。このうぶだし屋は、ただ同然で品物をゆずるときは二千円ときめていて、だまって指を
二本たてる癖がある。私はその絵を大切にした。箱にいれて、しまっておき、ときどき取り出しては、
うっとりとながめた。画中の女は、美しいというより、どこか寂しげであった。 だが、あるとき、ほかの
骨董屋に、こんなことがあったと、右のいきさつを話したら、その骨董屋の顔色が変わった。
「先生、そういう品はいけません。それ死人の念のこもった御品です。悪いことは申しません。
御縁が遠くなりますから、ご供養のうえご処分なさい」たしかに、それからというもの、私はいくら
結婚したいと思っても、まったく、縁がなかった。(やはり、あの女の絵のせいではなかろうか…と思ったが、
どうにも絵を捨てられない。 捨てられないと、こだわるほど、悪いことが起きそうな予感がした。 
ところが、しばらくして、信じられないことが起きた。ある妙齢の女性から花見の誘いをうけた。 
顔は知っていたが、それほど親しいわけではない。なのに突然、電話がかかってきて、「青山墓地の桜が
縞麗だから二人で見にいきませんか?」という。こういうことはまるでなかったから、素直に、誘いにのって、
いくこことにした。桜は美しかった。墓地に眠る人の命を吸っているから、美しいのだろうと思っった。
私は、はずかしいから地面をみて、女性のうしろを、とぼとぼついて歩いた。私は女性の顔をちらりとみた。
青白い気品のある横顔であった。体が弱いのか、のどくびを覆い隠す洋服を着ている。しばらく墓地を
みてまわったところで、女性がいった。「桜、きれいね」そのと教私は背後になにか気配のようなものを感じた。
目をあげると、そこには、信じられないないものがあった。あの日本画をかいた乃木坂の令嬢の墓石であった。
「享年二十七歳、昭和九年没」と刻まれていた。地の底から女が、じっと、こちらをみているような気がした。 
気味が悪くなって、それっきり、その花見の女性とは会わなくなった。 
二十七歳で死んだ女の絵は、いまも私のもとにある。
 ▼ 私なら、花見の女性と深い因縁があると考え、一歩踏み込む。そして、その墓の若い女性を自分の
  守り本尊にし、毎年、花見に来て、墓に祈るだろう。いや、感謝をする。何で気持ちが悪いのだろうか? 
  まあ、いいか! これも解釈の一つでしかないが。 桜には霊気が満ちているというが!
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2007年11月18日(日)
2419, 『楽天主義
      *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ! 
 『楽天主義』ーヘレン・ケラー著            ー読書日記
 この本を図書館で見つけ、数ページ読んで、その行間から溢れ出てくる光のようなメッセージに驚いた。
三重苦を乗りこえた偉大な人物ということは周知のことだが、実際に彼女の本を手にするのは初めてであった。
それも何と彼女の処女作で、100ページ足らずの読みやすい本である。この一冊を20歳前に読んでいたら人生が
変わっていただろう。 三重苦の中で、言葉の持つ意味を深く理解したのである。もしかしたら、
今年の最高の本といってよい本だろう。この本はもう廃刊になっていて、中古本で二倍の値がついていた。
 ーその概要といえばー
 この本は、ヘレン・ケラーが1903年、大学在学中に初めて書いた処女作である。
ヘレンは三重苦の身でありながら、88歳の生涯を障害者の救済のために力強く生きた。
彼女は生後19ヶ月の時に熱病に罹り、聴力と視力を失い、三重苦の生活を強いられた。サリバンという女先生と
出会い、読み書きを覚え、大学を卒業後、世界各地で講演したり福祉活動を行い「奇跡の人」と呼ばれた女性。
ここで彼女は「楽天主義者とは、善を信じ、輝かしい未来の到来を確信し、明日を今日より美しいものにする
ための努力を重ねる生き方」と述べている。楽天主義者は、信じ、試み、そして目標を成し遂げる。
楽天主義こそいっさいを成功に導く信念である。 希望がなければ何ごとも成就するものではない。
人生の目的は何か、などと堅苦しく考える必要はない。楽しく生きて、この世を去るときに、
「生まれてきてよかった。幸福な人生だった」と振り返ることができたら、その人は人生を楽天主義者として
過ごした成功者である。将来に希望をもって努力することで幸せは得られるものである。逆に、悲観的な考え方の
クセがある人は、幸せになりにくく、不幸になりやすい。幸せになるためには、悲観的な(不幸になる)考え方を
ストップし、意図的に楽観的な考え方をできるだけ心がけたほうがよいのである。
ー彼女は、ここで次にように述べている。
「幸福は心の持ち方の問題で、外見から他人が判断できるものではない。私は、盲・聾・唖の障害者でも、
世間の常識に反して自分は幸福である、という考え方を信条としている。
   (字数制限のためカット2010年11月18日)
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2006年11月18日(土)
2055, あたりまえなことばかり −9     読書日記       (~Q~;) おはよう〜〜            
 自分とは何、これは考えても考えても尽きぬ問である。孤独という実感の先にある
「宇宙の真っ只中に浮いている意識」が真我であるのか? 以前も書いたが、「禅」の字は「単を示す」と、
新井石龍禅師が語っていた。「宇宙に誰もいない、ただ一つの生命」これを実感するのは死期を悟った時。
これが苦しいのか、苦しくないのか経験したことが無いので今のところ解らない。
恐らく、あのバンジージャンプの板の上に立った実感が近いのだろうが・・
しかし、あの落ちていく瞬間の覚醒の意識が最後の見納めとして周囲を見渡す時のそれなのであろうか。 
私の場合の「私」は、このHPそのものである。このHPの先にいる得体の知らない「これ」である。
デカルトのいう「考えている、『!』『?』」である。たしかコギトと表現していたが・・考えている、
思っている、思い出している、想像している、これである ー> ( ̄ω ̄;)!!エッ `
ー孤独とは苦しいものなのか −
 *自分とは何であろうか
たとえば、自分とは自我でなく、この肉体でもないとしたら、同じ理由によって、他者とは誰のことであろうか。
他者もまた、その自我でもその肉体でもないとしたら、孤独の癒しとして求められるような他者とは、自明な
ものだろうか。孤独であることは、苦しいことと感じられるほど確かなものであり得るのだろうか。
自分とは「何であるか」、他人や社会によって知ることができないと知ったとき、人は自我の向こうに
自己をもとめて、船出することになる。