ー私が語り伝えたかったこと〜河合隼雄著ー 
   * 「三年寝姫」ばななが過ごした‘さなぎ’の時期
  次の一節に考えさせられた。人生に無駄なし!である。
≪ 先日、テレビの番組で、作家のよしもとばななさんと対談をしました。ずいぶんと面白い話を
 聞かせてもらったのですが、その中で、「三年寝太郎」ならぬ、「三年寝姫」という話がありました。
「高校時代の三年間、私は寝て通しました。教室の中でも、両手の上に頭をのせて寝てばかりでした」と、
よしもとさんが言われるのです。以前から私は、「思春期さなぎ説」を唱えています。毛虫が蝶になる前に
さなぎの時期が必要なように、人間も、子どもから大人になる前には、さなぎのように閉じこもり、
内面的な変化を乗り切っでいくというもの。この変化がさなぎの殻によって守られず外に向かって出ていくと、
思春期の破壊性を持った行動になるが、よしもとさんは、三年間、さなぎの時期を寝て過ごしたわけです。
そのことが、後の作家としての大きな成長に役だったことは言うまでもないでしょう。
 それにしても、この間、よしもとさんが‘寝ることを許していた’高校の先生方も、大したものです。
もしそうでなかったら、よしもとさんはきっと不登校生になっていたでしょう。ちなみに、よしもとさんの
お父さんは哲学者の吉本隆明さんですが、奥様ともども、ばななさんの意思を尊重して、その三年間を黙って
見守っていたそうです。 間違ってもらっては困るのですが、思春期の子どもは放っておけばよいと言いたい
のではありません。それは一番困ることです。その子の成長に関心は持っているけど、ある時期は見守るだけに
しておく、こういうことも大切だと言いたいのです。よしもとさんの御両親にしても、高校の先生方にしても、
その点が大したものだ思ったのです。そもそも、見守るということは、その子に対して何かをするよりも
はるかにエネルギーがいることです。≫
 ▼ ここには多くの示唆がある。私にとって受験のための高校生活は思い出したくもない時代。
 悪いことに鼻炎に悩まされ、机に向かうと頭が重くなるが、山ほど記憶しなければならない教科がある。
何とか卒業は出来たが、更に一年の浪人生活を加えた『空白の4年間』。それもあって記憶から切り捨てていた。
 もし希望校に入っていれば別だったのだろう・・ しかし実は、この期間を「さなぎの時期」として見直すと、
多の側面が思い当たる。 私にとって一番面白く恵まれていた時節は、学生時代を加えた20,30歳代。
その中で特に20代。 その背景には、この4年間があったという見方もできる。読書習慣で培われたベースが
あるわけでなし、何か夢中になったこともなし、ただ、お受験の重圧の中、ただボ〜ッとしていた暗い日々! 
これが実は「思春期さなぎ説」の切り口で捉えると・・ 成るほど! この年齢で気づくことが、あまりに多い。
 振り返ると、「してしまった後悔より、しなかった後悔」の方が、遥かに悔いが残っている。 しかし、
「さなぎ」の時節を改め肯定すると、新鮮な切口になる。そのまま一生ボ〜と過ごす人もいるが、どうだろう? 
それは、蝶か蛾によるのか。フランスでは、蝶と蛾は同じというが・・  以前、ここで取上げた
『ぼんやりの時間』辰濃 和男 (著)に、「ぼんやり」と響き合う5つの「一文字」がある。  
1、「闇」―蛍と星とダークマター   2、「独」―独りでいること   3、「閑」―逆茂木に囲まれて     
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢  5、「懶」―心の余白 
ー彼女は、この世界に浸かっていたのである。
・・・・・・
4628, 閑話小題 ー相棒 〜国民的刑事ものシリーズ
2013年11月17日(日)
   * 相棒 〜国民的刑事ものシリーズ
 一昨年の春以来、見始めたTV番組のが「相棒」で、平日の16時前からの一時間のスケジュールに込んでいる。
10年以上続いた刑事ものドラマの再放送である。 ー概要をウィキペディアでみるとー
{ 優秀なキャリアでありながら、ある事件の影響で出世コースから外れ、警視庁内の窓際部署「特命係」に
 追いやられた警部・杉下右京(水谷豊)を中心にした刑事ドラマ。いわゆるバディものであるが、相棒は3度
変わっている。1話ごとの基本的なプロットは、超人的推理力・洞察力を持つ右京が犯罪者を理詰めで追い詰めて
いくというミステリ的なものだが、その一方、全体的なストーリーとしては『踊る大捜査線』が打ち出した警察
組織内部のいざこざを描く警察ドラマ路線を更に推し進めたものであり、警察組織のみならず、官僚・政治家の
権謀術数を描いている。 2000年6月にテレビ朝日系・土曜日で、単発ドラマとして放送され、2002年10月より
連続ドラマとしてシリーズ放送されている}
▼ 団塊世代以上のリタイアー組を対象としての時間帯の再放送。その対象の一端に私も入ってしまった。
 一年ほどして、家内に「これって、現代版の水戸黄門でないか。トップ直通のルートを持った東大卒の歪んだ
元エリートが、最後は国家権力を振りかざし悪と対峙する勧善懲悪ものじゃないか」というと、
「今まで気づかなかったの?そんなのは、当初から言われていたこと」という。12年も続いているので、
過去分は、まだ2割も見てないが。 馬鹿馬鹿しいと思いつつ、見ているが、内容は凝ったものが多い。
刑事コロンボの逆の、キザの東大卒の刑事が、相棒と様々な事件を解決する。その一つに、研なお子が、
明らかに美川憲一を思わせる役柄のタレントの犯人を演じたのが傑作。再放送直後、家内が知人に、
「あれ見た? 凄く面白かったわよ!」と、いう。オバサマたちの多くが、見ているという。
もう一つ、面白かったのは、岸恵子がフランス帰りの「岸恵子」そのもののキャラを演じた
犯人役のドラマも、なかなかのもの。  

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4263, しまった!  ー11
2012年11月17日(土)                      
 * 人生の財産  ー総括するとー1 〜ー しまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン (著)
人の幸せについて研究してきた学者が同僚とともに、結論に達した。《人生の資産はお金でなく時間である》と。
人生の大きな転機に起こる大きなまちがいに「時間の過ごしかたを変えない」ことがある。やろうと考えていた
新しいことでなく、人は、これまでと同じことをするのに時間を費やしてしまう。人生を精巧に作り変えるには、
決意と自制が求められるが、難しいのである。人の幸せは、どこに住むかでなく、自由になる金があるなしでなく、
時間をどのように過ごすかにある。それを忘れて、思い切った割り切りをしないことが人生の最大の「まちがい」になる。
 この「失敗の心理」から自分の思いあがりや、固定観念の殻に気づき、苦笑の連続であった。人間は、間違いを
犯す動物であり、それを前提にして、いかに間違いを減らすかである。 それぞれに人間はバイアス(体系的偏見)
がかかっている。それを知り、自覚することは可能である。多くの知識の蓄積が教養だが、バイアスの自覚も、
その効用のひとつになる。 それぞれの人間のバイアスは面白いほどケッタイである。気がつかないから、本人に
とって悲劇、他からみたら喜劇にみえる。間違いを少なくするには「小さく考えること」。間違えは意外と身近な
些細なことから生じていることに気づくこと。私たちの重大な決断も、考え抜いた末に、印象で勝手に決めつを
避けているつもりだが、しかし結果は、大きく影響されている。考えることを嫌い、こうなるはず、という直感に
従ってしまう。 私たちは見ていて見えてないのである。知っていても理解してないのである。そのことを、まずは
自覚することから間違いを減らすしかない。それでも、頑強なバイアスが脳の奥底に強固にこびりついて思考、
行動を規制している。節目に、それが現れ出てきて、大きな壁となる。ところで現在の状態に、あまり不満はない。
毎日の生活が自然のままだから。知りたいこと、楽しみが絶えないこともある。失敗も成功も人生の内である。
それも考えてみれば裏表、一過性の現象でしかない。死んで三日もすれば、永遠の彼方に過ぎ去る。
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3888, 第二の人生は、「自由の刑罰?」
2011年11月17日(木)
 サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と述べた。 自由は人間の求めるところだが、突然の倒産や、
会社に不満を持って辞め、いざ自由の身になると何も出来ない自分に直面して戸惑うのが人間の常。私も初めて
会社勤めで、その過酷の仕事に疲れはて、再び大学に入り直したが、もう社会的には傷物。その後、事業を始める
には、まだ能力不足で、再度、金沢にある会社に入り直し鍛え直した時の苦しさは筆舌に出来ないほど。 
 何とか踏みとどまっていたが、逆に、その立場の視線で社会を見ると、多くの事が見えてくるもの。 
結果からみて、それは予定挫折であった。自由は厳しいものである。「なるほどサルトルのいう、自由は不自由!
とは、このことか」と骨の髄まで思い知った。結局は自分の思いは、思いでしかない。その経験を人生の前半に
何度か味わってきたので、今回の事態では、こんなものかと冷静にいることが出来ている。それよりも65歳の
現在、人生を振り返ると、40年近く自分で事業を起こし、独立独歩であったことが、如何に恵まれていたか。
自由を自分のものにして、判断をし、その結果をプラスもマイナスも直接感受出来たことは、最大の人生の収穫。
自由の不自由を克服し、不自由の苦悶の褒美として、自由の使いこなしが出来たことほど、幸せなことはない。
サルトル実存主義者だが、人間の本質は「投企=取捨選択しながら未来に向けて自己を投げ入れ人生を切り開く」
存在であるとし、実存が存在に先立つとしている。しかし老年になると、その未来が少なく感じ、人生を切り開く
前に絶望が先立つから困ったもの。自由と平等と博愛の社会は理想だが、こと個々人になると非常に難しい課題。
「自由の刑罰」の獄死か、獄内で、うち拉がれている人の山? それが世間という世界である。
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3523, 都市型狩猟採集生活
2010年11月17日(水)
   「ゼロから始める都市型狩猟採集生活 」 坂口 恭平 (著)
 先日、「新潮45・9月号」を図書館から借りてきたが、そこに養老孟と設計士兼作家の坂口恭平の対談があった。
「都市型狩猟採集生活ー対談」がテーマで、上記の著書の内容についての対談。彼は巨大建築物を設計することに
違和感を持ち、これ以上、新しい建物を作っても仕方ない、それより現在あるものを転用したり、人が見捨てた
場所を転用したりすればいいと考え、路上生活者の家に興味を持った。都市から溢れ出た「ゴミ」によって作られた
工費0円の家。その写真集「0円ハウス」まで出版。たまたま図書館で、その写真をみたことがあるが合理的だ。 
路上生活者は都市に落ちている余剰物を「自然素材」と捉え、それらから家を建てている。彼らにとって、都市は
鬱屈したコンクリートジャングルでなく、資源ゆたかな世界に見える。
 坂口は、廃棄されるゴミを山や海の幸のように〈都市の幸〉と名づけた。 彼らは“都市の幸”で暮らせば、
政治、経済、労働、あらゆるものから解放され、自分自身にしかできない生活を獲得している。
 ー以下の文章はアマゾンの書評にあったものをコピーしたものだが、なかなか考えさせられるー
*「アルミ缶拾いは他人よりも先に拾わないといけない生業なのに、達人たちの話を聞くと、みんなあまりガツガツ
 していないことに驚かされる。ようするに焦ってはダメなのだ。採集したあとは周囲を掃除する位の心の余裕が
 必要だ。そんな姿を見ている人がいる。 それが次の顧客との出会いにつながるのである。」 (p.68)
*「高い解像度で都市を見ることができるようになったきみは、社会のルールを何一つ変えることなく文句一つ言う
 ことなく、独自の生活をつくり出すことに成功する。・・・  社会システムは、いくら変化させてもまた同じ
 循環を繰り返し、人間を苦しめつづけるだろう。それよりも まず、きみの精神、視点、創造性を変革させるのだ。
 ・・・ <都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ」 (本書P148)
*「路上生活者支援に積極的なのはキリスト教会であり、それに比べて仏教寺院の多くが冷淡なのはどうしてか?」
   ーこの対談の最後に坂口と養老の言葉がよい。
 坂口:意外だったのは、「都市型狩猟採集生活の民」たちが、激増する自殺に危惧の念をもっていたこと。彼らは、
 「自殺する前に、なぜうちのバラックのドアを叩きに来てくれないのか?」という。うちの手伝いに来て、
 アルミ缶を一緒に拾ってくれれば、金なんかなくても生きていけるのが分かるのに、なぜ相談してくれないのか、と。
  人生を失敗し、すべてを失ったと思っても、絶望して死を選ぶ必要がない。「どん底に落ちたら、とりあえず
 周辺を歩け。歩けば何でも見つかる」と、住民の酋長といわれる男が言っていた。
 養老:身体を使うことは大事。私が好きなイタリアの箴言に「どん底に落ちたと思ったらそこを掘れ」って。
▼ 日本にトレーラー・ハウスの住人が少ないのは、公営住宅などが揃っていたり、生活保護などの支給がある
 からか。それにしても、ホームレスの仮設住宅?に合理性を見出すとは、感心させられる。カラスも雪国で
チャンと冬を越せる。何か無駄なものを人間は持たされてしまったのではないか!立って半畳、寝て一畳というが、
老後の心配で節約など・・
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3148,殺人事件の半分は家族内殺人
 2009年11月17日(火)
 先日、図書館で「新潮45・2009・7月号」{殺人事件の半分は家族内殺人}ー橘由歩 のレポートが目に入った。
子供の頃から両親に、「それぞれの家には必ず問題がある。だから、あまり深入りをしないこと」と言われてきた。
しかし、このレポートの題目をみるまで『殺人の半分が身内』とは知らなかった。さらに知人の殺人が9割を占める
というから驚きである。これまでは、家族内殺人はイメージとして1〜2割である。いや、もっと低い。
それだけ家族内では問題が発生していることになる。彼女の著書で取り上げている10人の
家族内殺人者の共通点がDV被害者というのも印象的である。
  ーまずは、一番印象的な部分を書き出してみるー
≪ 本書に登場する10人の殺人者に共通するのが、虐待家庭で育ったということだった。 
 子どもとは本来、親の愛を求め、親からありのままの存在として認められ尊重されたいと希う。
 それをどこかで歪めなければならなかった子どもたちだった。
 自分の心を育てる時間を持てなかったということだ。 その空っぽな心が、他者への依存性を生む。
 前述の母親たちは、子どもによって自らの空虚感を埋めてもらおうと子どもを使った。
 だからこそ、子供に依存し、子どもを自分の為に使ってはいけないということだ。
 子どもが心を育てる場所と時間を、大人は決して奪ってはならないと。≫
  ーー
  多くの若い人を採用し、教育過程でみえてくるのは、両親の子どもに対する影響である。
 特に母親の甘やかしと将来への依存が、子どもに大きなマイナスを与えている。 子どもにとって
 厳父と優しい母のバランスが必要不可欠。 夫にとって、妻が一番危険であり、妻にとっても夫が危険である。 
 親子も同じことがいえる。 家族に殺される確率は1千人に1人というから、ありそうなことである。 
 自分で自分を殺す自殺は、身内とはいえないが他殺の20倍になるという。一番恐ろしいのは自分ということ?
  ーー
 「身内の犯行」 橘由歩著  ーネットよりー  (字数制限のためカット 2010年11月17日)
・・・・・・・
2783, 外は広く、内は深い
 2008年11月17日(月)
日本総研会長の寺島実郎文芸春秋の中で『新編 東洋的見方』(鈴木大拙著)についての文章の一節である。
【・・・大拙の語り続けたことを集約すると、「外は広く、内は深い」という言葉に行き着く。
「独りよがりではいけない」そして「自らを失ってはいけない」ということで、
「眼と心を星空に向け、その眼と心をもって世界を見直すこと」という言葉は心に沁みる。
西洋的な見方は分別的知性であり、「分けて制する」、つまり主客を分別することで知の成立を図る思考であり、
そこから一般化、概念化、抽象化という体系が生まれ工業化産業化が成功裡に展開される土壌になったと大拙はみる。
他方、東洋的な見方は対置概念を退け、主客未分化のまま「無分別の、分別」によって円融自在に全体を捉えようと
する知性である。西洋に真摯に向き合いつつ、論理万能の分断的知性の限界を大拙は見抜いていた。ある時、弟子が
「禅の話などアメリカ人に分りますか」と尋ねたという。大拙は「君たちには分るのかね」と答えた。 
大拙の本質に迫る話だと思う。】
 〜己の人生を振り返りと、「狭い世界の中で、浅い知識」を振り回して生きてきただけの輪郭が見えてくる。
    (字数制限のためカット 11年11月17日)
・・・・・・・・・
2007年11月17日(土)
2418, よく生きる −3          才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
宗教の問題も、それぞれの人間にとって大きな問題である。日本人が平気で外人に「私は無宗教」と言うと、
腰を抜かさんばかりに驚くとか。多神教の風土が無宗教と言わしめるのだろうが。しかし著者の次の内容は、
宗教の必要性を解りやすく説いている。私達は大いなる根源から送り出され、そして根源に帰って行くのだ。
その道筋は、それぞれ違っても行きつくところは同じであろう。その違った宗教観を持った人の集まりが
社会である。宗教観と社会観を理解してないと、よく生きることは出来ない。 
 ー その部分を、「まえがき」の部分から抜粋してみる ー
(3)さて、人は自己を実現して自分の存在を確保し、他者との交わりによって愛の喜びを味わっも、挫折、
病気、老化、それが第三の論点、すなわち宗教の問題です。この問題は一言でいえば、私たちと私たちの存在の根源、
言い換えれば、宇宙のすべての存在者の根源との関わりの問題です。この根源は、人類の中で、存在、神、絶対者、
道、天、空、ヤーヴェ、仏、アラー、ブラフマンなどなど、いろいろな名前で呼ばれてきました。
 要するに、私たち個々の存在者はこの根源から送り出され、死を通しての根源へと帰るのです。このとき、
この根源を善意に満ちた親と考え、優しい親元へと帰るのだと信じることができれば、安らぎが生れるでしょう。
それはすべての存在者を生み出した根源ですから、そこでは自分と他老の区別が意味をなさなくなる。
それが自他不二の世界であり、絶対者の懐に抱かれて万人が肯定される世界です。ところで宗教的人間は、一般に
特定の宗教に献身していますが、人類の歴史を血まみれにした宗教戦争の惨禍を乗り越えるためには、各人が
自己絶対化を捨てなければならないでしょう。多者共存が人類共生の不可避の前提となった現代においては、
それゆえ、すべての偉大な宗教がそれぞれ異なる道を通って共通の根源へと向かっていると考えるべきでしょう。
普遍的な霊性が肝要なのです。
 (4)そして最後に、第四点目として社会の問題があります。人間は本性的に社会の中で生きる存在者ですから、
どのような社会を作るかは人間の幸福にとって死活の問題です。人類は、おしなべて初めは王制から社会を作り始め、
やがて貴族制へと移行し、それらの劣化した形態である独裁制、寡頭制を経て、現在ではデモクラシ喜最良の社会
形態として是認しつつあります。  (字数制限のためカット 11年11月17日)
・・・・・・・
2006年11月17日(金)
2054, あたりまえのことばかりー8
                   b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
 団塊の世代が本格的に60歳を向えようとしている。その中でサラリーマン生活を過ごしてきた人達が、
大量に定年を向えようとしているが、彼等にとっての大問題が第二の人生である。常に集団社会の中で「孤独」
の確立が出来てない人が大部分である。「どうしてよいのか解らない」のが、本当のところだろう。せいぜい、
前の会社のOB会の集まるスナック・居酒屋とか、ゴルフ会とか、町内会の会に出るぐらいしか知恵が出てこない。
この問題を、著者は「孤独」の意味を探りながら論じている。彼らこそ、群から離れて「隠棲」に入ることが、
サラリーマン社会に生きてきた人ほど必要であろう。隠棲といっても、ブログで繋がる便利さもできているから、
それほど深い寂寞感はないだろう。しかし、孤独は生やさしいものでないことも事実である。
 ーーー
ー孤独は苦しいものなのか ー
隠棲するということは、静かで豊かな魂のありようのために、意志的に選ばれる行為だったはずである。
それが、「引きこもり」という言い方によって、何らか心理的に問題のある一種の症候群に目されるように
なったのはなぜだろう。自宅や自室に引きこもって、長時間にわたって社会と全く接触を持たない若者が、
30万人はいるという。家族とさえ打ち解けず、家族でさえその理由は解らない。 本人たちは、非常に
苦しいものらしい。孤独を欲していて、実は孤独を欲してないのだろう。本人は人と関わりたいと思っているが、
うまく関われない、無力感、挫折感、自己嫌悪感の泥沼の長期化、恐らくそういうことなのだろう。
(字数制限のためカット 09年11月17日)