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今日のYoutube
現在、随想日記のテーマにしている『暴走する世間』佐藤直樹著で、
ー世間という言葉は、空間的だが、それを時間にすると、御先祖様になるー
というのに驚いた。 これこそ、時間的継続した代々続いてきた、それぞれの
ルーツであるが、少し考えれば解かることだが、共同幻想でもある。
しかし、その繋がりで、現在の自分があることも確かである。
自分も、そう長くないうちに、娑婆から消え去るし、長く広い宇宙から
みれば、雑念といえば雑念の共同幻想でしかないが、家族、家庭での
鎮守様でもある。 時間的縦の繋がりのご先祖様、そして、横の繋がりの
現にある繋がりのクロスが自分とみると、のっけから、世間を否定するのも
マイナスになる。 まあ、色いろ考えさせられる。
・・・・・・
2413, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて -1
2007年11月11日(日)
(ォ'`ョゥ)
この本を読んで俗にいう娑婆のことを多く学ぶことができた。
バブル当時まで、元の住友銀行が大阪検察の幹部との定期的な会を開いていたことは
周知の事実である。 これは検察が定年退職をして弁護士になる時に、銀行の取引先を
紹介してもらう見返りに、その銀行に対して逮捕者は出さない取り決めだという。
かなり強引な手法も検察がついているから好き放題できたと、この本にもあった。
やはり本当だったようだ。 地検も法務省の一機関でしかないということだ。
それにしても、恐ろしいことだ。 人間がいるところ仕方がないのか?
ーその部分を抜粋してみる。
「反転」 田中森一著
ー地検特捜の恐ろしさー
ーP、178~179ー
平和相銀事件の本質は、岸組による恐喝事件だったはずだ。
それが銀行側の特別背任にすりかわった。本来、被害者が加害者になったようなものだ。
その事件が、住銀の首都圏侵攻に大きく貢献したのは間違いない。
結果的に、われわれ検事は、都心の店舗をタダ同然で住銀に買い取らせるために捜査を
したようにも見えた。伊坂はすでに亡くなっているが、古巣の検察にこんな騙し討ち
のようなことをやられて、死ぬに死に切れなかったのではないだろうか。
この平和相銀事件を体験し、私は東京地検特捜部の恐ろしさを知った。
事件がどのようにしてつくられるか。いかに検察の思いどおりになるものか、と。
捜査に主観はつきものだが、それが最も顕著に表れるのが、東京地検特捜部である。
特捜部では、まず捜査に着手する前に、主要な被疑者や関係者を任意で何回か調べ、部長、
副部長、主任が事件の筋書きをつくる。そして、その筋書きを本省である法務省に送る。
東京の特捜事件は、そのほとんどが国会の質問事項になるため、
本省は事前にその中身を把握しておく必要があるからだ。
特捜部と法務省の間でこのやりとりを経て、初めてその筋書きに基づいて捜査をはじめる。
むろんいくら事前に調べても、事件の真相は実際に捜査してみなければわからない。
実際に捜査をはじめてみると思いもしない事実が出てくるものだ。
だが、特捜部では、それを許さない。筋書きと実際の捜査とてくると、
部長、副部長、主任の評価が地に堕ちるからだ。
だから、筋書きどおりの捜査をやって事件を組み立てていくのである。
暑からタガをはめて・現実の捜査段階でタガと違う事実が出てきても、
それを伏せ、タガどおりの事件にしてしまう、平和相銀事件がまさにそれだった。
岸組の恐喝という予期せぬ事実が出ても、それを無視し、筋書きどおりの
平和相銀幹部の特別背任で押しとおした。
こうして筋書きどおりに事件を組み立てていくためには、かなりの無理も生じる。
調書ひとつとるにも、個々の検事が自由に事情聴取できない。
筋書きと大幅に異なったり、筋書きを否定するような供述は調書に取れない。
調書には、作成段階で副部長や主任の手が入り、実際の供述とは違ったもの
になることも多い。だから・上司の意図に沿わない調書をつくっても、必ずボツにされる。
なにより、まずは筋書きありき。検事たちは尋問する際も、筋書きどおりの供述になるよう、
テクニックを弄して誘導していく。こんなことは大阪の特捜部では経験したことがなかった。
私も手練手管を弄して、自分の描いた筋書きに被疑者を強引に追い込んでいたが、
それはあくまで現場の捜査検事の見立てである。それが違うとなれば、
いくらでも軌道修正してきた。東京のように、尋問もしてない上役の検事が、
事実関係について手を入れるなどありえない。こうなると、もはや捜査ではない。
よく検事調書は作文だといわれるが、こんなことをやっていたら、
そう批判されても仕方ないだろう。冤罪をでっち上げることにもなりかねない。
だから、私は東京地検特捜部にいても、このシステムには従わなかった。
-----
検察組織は、必要悪の国家権力で国民を裁くところである。
そこでの彼らの筋書き捜査の恐ろしさが生々しい。
○´・ω・]ノヂャァネッ
・・・・・・・・・
2006年11月11日(土)
2048, あたりまえなことばかり -4
b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
ー 読書日記
「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フランクルである。
「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めているか?を問うてみよ」である。
せっかく地球に生まれたからには、「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」
シンプルに言えば、これに尽きる。
彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・
さわりの部分にこうある、「生死に対する、これはという答えなどないが、
人は言語を所有するために、存在するしかない存在についての意味や目的を
問うてしまう。言語のせいです。動物は言語を所有していないので、
ただ生まれたから生きている。言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、
十全には生きられない。問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、
問わざるをえない。『何のために生きるのか』」
生を考えるとき、その対極にある『死』を知らなくてはならない。
しかし、死など解るはずがない。
--
「あたりまえなことばかり」
? 生きているとはどういうことか -?
「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういうことか知りたい。
このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や目的を問うべきである。
生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きていることじゃない!
と答えるしかない。死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。
自分が死ぬという経験は絶対にありえない。
もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思うんですね。
ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことがわかってくる。
死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。
それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。
そこで納得するが、ここも大事なところですが、無というものは無いから無なわけです。
無は存在しない。存在しか存在しない。
したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、
そこで言われている無というものは無い。
すなわち死はない、ということになります。
にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。
その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の光景が、
可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと、「人生」という言葉の意味するところが
まるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。
なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。でも、死ぬのは常に他人です。
だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死しか経験できない。
それが現実である。これに気づくと非常に不思議な気になる。
生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。
つまり、動いているものを生と呼び、動かないものを死と名づけているに過ぎないと。
生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。
実体ではない。無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。
一種のカラクリみたいなもの<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。
無は存在しないかぎり、すべては存在しているわけです。
存在しか存在できないという事実に気づくわけです。
例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは誰なのか。
ふだん自分であると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃないか。
そういう問いが現れてきます。
世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。
例えば脳死の問題。あれは議論として不可能なことを議論している。
死がどこからかということを決められると思っている。
しかし、無いものをどうして決められるのですか。
また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に流れると、
漠然と思っているが、だけど、その死が存在しないとなると、
時間はどう流れるのか。 死に向かって生きているわけではないんです。
「生きる」という意味も変わってきます。
「死というものがわからない」ということがわかる限り、
生というものもわからないわけです。
つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに過ぎないと気づきます。
ーーー
内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。
エピクロスは、「人が生きているかぎり死は存在しないし、
死が存在するときには人は存在しない」と看破した。
言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、
死という言葉の影に脅えているに過ぎないということを
よくよく納得しないと、生きかたを間違ってしまう。
でも、言葉でわかったつもりでも、「生きているうち、死んでしまえば、それまでよ!」
と思ってしまうから困ったものだ。
しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が死体をみて、
いや抜け殻を見て名づけた言葉である。
しかし仏教では「生老病死」というんじゃないか?
でも、あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。
死という字がよい、一の下に夕ヒである。
夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!何ともロマンッチクである。
この辺に答えがあるのじゃないか?いや、一は生きている方が勝手に思っていること?
当人は、その線の一は無い! のか?
空即是色、 色(!)即是空( )
(0) (一)
(・)(・)
オッパイにしか見えないけど!
目が点?
自分のこと?ー( )が自他の境で、点が真我
それとも生と死?ー点が生で、( )が世界
その程度のもの?生死とは。
(人・・)(・・人)い~みな~い~ん!
元々あるわけ無いんじゃ・・
まあまあ ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
・・・・・・・・・
2005年11月11日(金)
1683, ザ・マインドマップ-1
-読書日記
ブザンのマインドマップに関しては、「頭の良くなる本」「自分が天才に思える本」
「人生に奇跡を起こすノート術」―マインド・マップ放射思考などを読んでいた。
特に初めて「人生に奇跡を起こすノート術」を読んだ時は大きな衝撃を受けた。
その前に、「インスピレーション」というソフトを買って使っていたにかかわらず。
これをノートに切り替えるという、着想がわかなかっただけのことだが。
しかし、絵入り、手書きという部分が違っていたが。
学生時代の頭のよい人は何らかの形で、こういうノウハウを身につけていただけ。
知らないのは、私たち凡人の95?だけということか。
今からでも遅くはない是非一読をすることを勧めます。これに近いノウハウとして、
民俗学の川喜多二郎がフィールドから得た資料を元に新しい発想をえる方法論を書いた
「発想法」である。色いろな資料のキーワードを小さな紙に書き、
その似たものをそれぞれの島に分けていく方法論である。
しかし、放射状に発展させていくところは一緒だが、情報をシールに書き込み、
貼り付けるところや、カラーペンや絵をふんだんに書き入れるところが違う。
ブザンは天才のノートをヒントにノートの取り方を根底から変えてしまった。
この書によると現在では、この人のマッピングのシリーズが1000万冊以上売れ、
2億5千万人以上が学んでおり、韓国ではマッピングが義務教育に取り入れられている。
またロンドンの貧しい地区に住む少年の話が良い。
ー彼は教師から無能と評されていた、また彼も自分自身をそう思っていた。
著者のブサンが、彼に「しあわせ」マインドマップの練習をやってもらった。
彼が選んだ10個の言葉のどれでもいいから、
さらに思いつく言葉を書いてみるように言った。
少年は、しばらく考えた後、二つの言葉を書いた。
そして目を光らせていった。「これをまだ続けてよいの」「もちろん」と答えた。
少年は、まるで海に入るようにこわごわと言葉を書き足していったが、突然、
言葉と連想のうねりに襲われたようだった。
そして、嬉しそうに、熱心にページを埋めながら、「僕は頭が良いんだ」と叫んでいた。
その通りである、かれに足りなかったのは教育だったのだ。
ーー
私が今まで信じてきたノートの取り方を根底から否定している。
アナログからデジタルへの変更に近い。
この本は以前読んだ本より、さらに読みやすく、かつ詳細の内容である。
「実践するということは、行動マッピングである」ということに気づいた。
中央は目標・志である。
ーつづく
・・・・・・・
2004年11月11日(木)
1318, ベスト・エッセイ集ー2
橋本元首相が、数年前に大手術をしたことは、ニュースで知っていた。
この本の中に、その時の生々しい心情や、具体的な日々が書いてあった。
何かキザな鼻持ちのならない男と見ていた存在が、
急に身近な一人の人間に思えてくるから不思議である。
またTV「お宝鑑定団」に出ている中島誠之助のエッセイもあった。
普段あまり知ることのできない骨董品の世界を覗き見ることが出来た。
骨董の世界は本物、偽者が混合している世界。
本物の中でも、価値が大きくわかれている深い世界である。
ー中島のエッセイの印象に残ったところを抜粋してみる。
「骨董の世界では、初めから人をだますために作られたものを、
偽者にもおよばない最下級におき、『嫌物(いやぶつ)』と呼んで下げすんでいる。
嫌物は、それをこしらえた人化身であるために、そのもの自体に罪がある。
それに対して偽者は、その人が作りあげたもので、品物自体に罪はないといえる」
著名の作家の書く文章は、何気ない日常の描写が鋭く、しかし、
それを思わせないタッチがプロの凄みである。
一流の人は何気ないことでも、その文のタッチで改めて対象を
見つめさせてくれる。それが一流の一流たる所以である。
一流の役者が端役を演じると、その役そのものが端役でなくなってしまう
から不思議である。何ごとも魂を込めるからであろう。
このエッセイ集に選ばれることが、著名なもの書きや、政治家や、
エッセイストの大きな名誉となっているという。
この数年分の「ベスト・エッセイ集」をジックリ読んで勉強してみようか。
・・・・・・・
2003年11月11日(火)
951, 衆議院総選挙の結果を考える
終わってしまえば、こんなものだろうというのが選挙の結果である。
もう少し、投票率がアップするのではと思っていたが、それにしても低すぎる。
総括として「二大政党のカタチが、でき始めた選挙」であった。
小沢一郎の捨て身の合併劇で、マニフェストー選挙公約を争う機運ができた。
小選挙区制度の良さがここでやっと出てきた。
自民党保守派の社会主義者が、中選挙区制度の復活を言っても誰も相手にしなくなった。
「もう一歩で民主党が勝てたかもしれない」という期待が少しあったことと、
「自民党よ、そう甘い顔はしていられないよ」という忠告が相まっている。
しかし、もう少し民主党に勝って欲しかった。 190議席あたりが理想的であった。
やはり若い人の選挙に対する無関心が、その壁になった。
結局は自分で自分の首を絞めていることになるのが解らないのだ。
無知の彼等の未来から借金をして、生き延びようというのが旧守派だろう。
自民党の恥元派と官僚だろう。その彼等に間接的に手助けをしているのが
解らないのだ。これも若年層の質の低下の現象と見てよいだろう。
ソ連と中共と北朝鮮からの資金援助をしてもらっていた社会党の残党の
社民党が、そこから金が入らなくなったら消滅するのは当然である。
共産党は今更、何もいうことがない。この残物整理という点でもこの選挙は意味があった。
ー毎日新聞の記事をweb毎日からコピーした。
2003年11月8日
以下字数の関係でカット(2007年11月10日)
・・・・・・・
577, 一人旅
- 2002年11月11日(月)
20代前半に北海道と九州に二回一人旅をした。
他には勤めていた会社にいたころ、近くの半島に旅行をした。
紀州半島と能登半島だ。これは一泊二日だったが。
一歩家を出れば、あとは旅行代理店とつくった日程どおり
にこなしていけばよい。結構楽しい旅であった。
写真を多く撮っておけばよかったが、そのアルバムも不明だ。
傷心旅行だったり、学生時代の最後の休みの旅行だった。
一人頭の中でブツブツ独り言を言っていた思い出がある。
それがよいのだろう。
一種のロマンチズムで、有り余るエネルギーの捌け口だった。
ただ記憶が鮮明に残っているのが不思議といえば不思議である。
今考えてみれば、一人で外国に出てみるのもよかったが、
あの当時の社会情勢からも、自分の性格からいっても無理だった??
一人旅は一歩踏み出せば、なかなか味がある。
「深夜特急」という沢木耕太郎のドキュメンタリー風の小説がある。
世界の一人旅を目指している若い人の手引書になっている。
7~8年前にTVでもドラマ風に仕立てられて数回に渡って
放映された。この出来もなかなかよかった事を憶えている。
といって親しい人との旅行と比較すれば、やはり一人旅より良い。
TPOSによるが。
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今日のYoutube
現在、随想日記のテーマにしている『暴走する世間』佐藤直樹著で、
ー世間という言葉は、空間的だが、それを時間にすると、御先祖様になるー
というのに驚いた。 これこそ、時間的継続した代々続いてきた、それぞれの
ルーツであるが、少し考えれば解かることだが、共同幻想でもある。
しかし、その繋がりで、現在の自分があることも確かである。
自分も、そう長くないうちに、娑婆から消え去るし、長く広い宇宙から
みれば、雑念といえば雑念の共同幻想でしかないが、家族、家庭での
鎮守様でもある。 時間的縦の繋がりのご先祖様、そして、横の繋がりの
現にある繋がりのクロスが自分とみると、のっけから、世間を否定するのも
マイナスになる。 まあ、色いろ考えさせられる。
・・・・・・
2413, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて -1
2007年11月11日(日)
(ォ'`ョゥ)
この本を読んで俗にいう娑婆のことを多く学ぶことができた。
バブル当時まで、元の住友銀行が大阪検察の幹部との定期的な会を開いていたことは
周知の事実である。 これは検察が定年退職をして弁護士になる時に、銀行の取引先を
紹介してもらう見返りに、その銀行に対して逮捕者は出さない取り決めだという。
かなり強引な手法も検察がついているから好き放題できたと、この本にもあった。
やはり本当だったようだ。 地検も法務省の一機関でしかないということだ。
それにしても、恐ろしいことだ。 人間がいるところ仕方がないのか?
ーその部分を抜粋してみる。
「反転」 田中森一著
ー地検特捜の恐ろしさー
ーP、178~179ー
平和相銀事件の本質は、岸組による恐喝事件だったはずだ。
それが銀行側の特別背任にすりかわった。本来、被害者が加害者になったようなものだ。
その事件が、住銀の首都圏侵攻に大きく貢献したのは間違いない。
結果的に、われわれ検事は、都心の店舗をタダ同然で住銀に買い取らせるために捜査を
したようにも見えた。伊坂はすでに亡くなっているが、古巣の検察にこんな騙し討ち
のようなことをやられて、死ぬに死に切れなかったのではないだろうか。
この平和相銀事件を体験し、私は東京地検特捜部の恐ろしさを知った。
事件がどのようにしてつくられるか。いかに検察の思いどおりになるものか、と。
捜査に主観はつきものだが、それが最も顕著に表れるのが、東京地検特捜部である。
特捜部では、まず捜査に着手する前に、主要な被疑者や関係者を任意で何回か調べ、部長、
副部長、主任が事件の筋書きをつくる。そして、その筋書きを本省である法務省に送る。
東京の特捜事件は、そのほとんどが国会の質問事項になるため、
本省は事前にその中身を把握しておく必要があるからだ。
特捜部と法務省の間でこのやりとりを経て、初めてその筋書きに基づいて捜査をはじめる。
むろんいくら事前に調べても、事件の真相は実際に捜査してみなければわからない。
実際に捜査をはじめてみると思いもしない事実が出てくるものだ。
だが、特捜部では、それを許さない。筋書きと実際の捜査とてくると、
部長、副部長、主任の評価が地に堕ちるからだ。
だから、筋書きどおりの捜査をやって事件を組み立てていくのである。
暑からタガをはめて・現実の捜査段階でタガと違う事実が出てきても、
それを伏せ、タガどおりの事件にしてしまう、平和相銀事件がまさにそれだった。
岸組の恐喝という予期せぬ事実が出ても、それを無視し、筋書きどおりの
平和相銀幹部の特別背任で押しとおした。
こうして筋書きどおりに事件を組み立てていくためには、かなりの無理も生じる。
調書ひとつとるにも、個々の検事が自由に事情聴取できない。
筋書きと大幅に異なったり、筋書きを否定するような供述は調書に取れない。
調書には、作成段階で副部長や主任の手が入り、実際の供述とは違ったもの
になることも多い。だから・上司の意図に沿わない調書をつくっても、必ずボツにされる。
なにより、まずは筋書きありき。検事たちは尋問する際も、筋書きどおりの供述になるよう、
テクニックを弄して誘導していく。こんなことは大阪の特捜部では経験したことがなかった。
私も手練手管を弄して、自分の描いた筋書きに被疑者を強引に追い込んでいたが、
それはあくまで現場の捜査検事の見立てである。それが違うとなれば、
いくらでも軌道修正してきた。東京のように、尋問もしてない上役の検事が、
事実関係について手を入れるなどありえない。こうなると、もはや捜査ではない。
よく検事調書は作文だといわれるが、こんなことをやっていたら、
そう批判されても仕方ないだろう。冤罪をでっち上げることにもなりかねない。
だから、私は東京地検特捜部にいても、このシステムには従わなかった。
-----
検察組織は、必要悪の国家権力で国民を裁くところである。
そこでの彼らの筋書き捜査の恐ろしさが生々しい。
○´・ω・]ノヂャァネッ
・・・・・・・・・
2006年11月11日(土)
2048, あたりまえなことばかり -4
b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
ー 読書日記
「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フランクルである。
「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めているか?を問うてみよ」である。
せっかく地球に生まれたからには、「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」
シンプルに言えば、これに尽きる。
彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・
さわりの部分にこうある、「生死に対する、これはという答えなどないが、
人は言語を所有するために、存在するしかない存在についての意味や目的を
問うてしまう。言語のせいです。動物は言語を所有していないので、
ただ生まれたから生きている。言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、
十全には生きられない。問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、
問わざるをえない。『何のために生きるのか』」
生を考えるとき、その対極にある『死』を知らなくてはならない。
しかし、死など解るはずがない。
--
「あたりまえなことばかり」
? 生きているとはどういうことか -?
「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういうことか知りたい。
このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や目的を問うべきである。
生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きていることじゃない!
と答えるしかない。死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。
自分が死ぬという経験は絶対にありえない。
もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思うんですね。
ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことがわかってくる。
死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。
それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。
そこで納得するが、ここも大事なところですが、無というものは無いから無なわけです。
無は存在しない。存在しか存在しない。
したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、
そこで言われている無というものは無い。
すなわち死はない、ということになります。
にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。
その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の光景が、
可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと、「人生」という言葉の意味するところが
まるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。
なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。でも、死ぬのは常に他人です。
だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死しか経験できない。
それが現実である。これに気づくと非常に不思議な気になる。
生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。
つまり、動いているものを生と呼び、動かないものを死と名づけているに過ぎないと。
生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。
実体ではない。無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。
一種のカラクリみたいなもの<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。
無は存在しないかぎり、すべては存在しているわけです。
存在しか存在できないという事実に気づくわけです。
例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは誰なのか。
ふだん自分であると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃないか。
そういう問いが現れてきます。
世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。
例えば脳死の問題。あれは議論として不可能なことを議論している。
死がどこからかということを決められると思っている。
しかし、無いものをどうして決められるのですか。
また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に流れると、
漠然と思っているが、だけど、その死が存在しないとなると、
時間はどう流れるのか。 死に向かって生きているわけではないんです。
「生きる」という意味も変わってきます。
「死というものがわからない」ということがわかる限り、
生というものもわからないわけです。
つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに過ぎないと気づきます。
ーーー
内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。
エピクロスは、「人が生きているかぎり死は存在しないし、
死が存在するときには人は存在しない」と看破した。
言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、
死という言葉の影に脅えているに過ぎないということを
よくよく納得しないと、生きかたを間違ってしまう。
でも、言葉でわかったつもりでも、「生きているうち、死んでしまえば、それまでよ!」
と思ってしまうから困ったものだ。
しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が死体をみて、
いや抜け殻を見て名づけた言葉である。
しかし仏教では「生老病死」というんじゃないか?
でも、あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。
死という字がよい、一の下に夕ヒである。
夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!何ともロマンッチクである。
この辺に答えがあるのじゃないか?いや、一は生きている方が勝手に思っていること?
当人は、その線の一は無い! のか?
空即是色、 色(!)即是空( )
(0) (一)
(・)(・)
オッパイにしか見えないけど!
目が点?
自分のこと?ー( )が自他の境で、点が真我
それとも生と死?ー点が生で、( )が世界
その程度のもの?生死とは。
(人・・)(・・人)い~みな~い~ん!
元々あるわけ無いんじゃ・・
まあまあ ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
・・・・・・・・・
2005年11月11日(金)
1683, ザ・マインドマップ-1
-読書日記
ブザンのマインドマップに関しては、「頭の良くなる本」「自分が天才に思える本」
「人生に奇跡を起こすノート術」―マインド・マップ放射思考などを読んでいた。
特に初めて「人生に奇跡を起こすノート術」を読んだ時は大きな衝撃を受けた。
その前に、「インスピレーション」というソフトを買って使っていたにかかわらず。
これをノートに切り替えるという、着想がわかなかっただけのことだが。
しかし、絵入り、手書きという部分が違っていたが。
学生時代の頭のよい人は何らかの形で、こういうノウハウを身につけていただけ。
知らないのは、私たち凡人の95?だけということか。
今からでも遅くはない是非一読をすることを勧めます。これに近いノウハウとして、
民俗学の川喜多二郎がフィールドから得た資料を元に新しい発想をえる方法論を書いた
「発想法」である。色いろな資料のキーワードを小さな紙に書き、
その似たものをそれぞれの島に分けていく方法論である。
しかし、放射状に発展させていくところは一緒だが、情報をシールに書き込み、
貼り付けるところや、カラーペンや絵をふんだんに書き入れるところが違う。
ブザンは天才のノートをヒントにノートの取り方を根底から変えてしまった。
この書によると現在では、この人のマッピングのシリーズが1000万冊以上売れ、
2億5千万人以上が学んでおり、韓国ではマッピングが義務教育に取り入れられている。
またロンドンの貧しい地区に住む少年の話が良い。
ー彼は教師から無能と評されていた、また彼も自分自身をそう思っていた。
著者のブサンが、彼に「しあわせ」マインドマップの練習をやってもらった。
彼が選んだ10個の言葉のどれでもいいから、
さらに思いつく言葉を書いてみるように言った。
少年は、しばらく考えた後、二つの言葉を書いた。
そして目を光らせていった。「これをまだ続けてよいの」「もちろん」と答えた。
少年は、まるで海に入るようにこわごわと言葉を書き足していったが、突然、
言葉と連想のうねりに襲われたようだった。
そして、嬉しそうに、熱心にページを埋めながら、「僕は頭が良いんだ」と叫んでいた。
その通りである、かれに足りなかったのは教育だったのだ。
ーー
私が今まで信じてきたノートの取り方を根底から否定している。
アナログからデジタルへの変更に近い。
この本は以前読んだ本より、さらに読みやすく、かつ詳細の内容である。
「実践するということは、行動マッピングである」ということに気づいた。
中央は目標・志である。
ーつづく
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2004年11月11日(木)
1318, ベスト・エッセイ集ー2
橋本元首相が、数年前に大手術をしたことは、ニュースで知っていた。
この本の中に、その時の生々しい心情や、具体的な日々が書いてあった。
何かキザな鼻持ちのならない男と見ていた存在が、
急に身近な一人の人間に思えてくるから不思議である。
またTV「お宝鑑定団」に出ている中島誠之助のエッセイもあった。
普段あまり知ることのできない骨董品の世界を覗き見ることが出来た。
骨董の世界は本物、偽者が混合している世界。
本物の中でも、価値が大きくわかれている深い世界である。
ー中島のエッセイの印象に残ったところを抜粋してみる。
「骨董の世界では、初めから人をだますために作られたものを、
偽者にもおよばない最下級におき、『嫌物(いやぶつ)』と呼んで下げすんでいる。
嫌物は、それをこしらえた人化身であるために、そのもの自体に罪がある。
それに対して偽者は、その人が作りあげたもので、品物自体に罪はないといえる」
著名の作家の書く文章は、何気ない日常の描写が鋭く、しかし、
それを思わせないタッチがプロの凄みである。
一流の人は何気ないことでも、その文のタッチで改めて対象を
見つめさせてくれる。それが一流の一流たる所以である。
一流の役者が端役を演じると、その役そのものが端役でなくなってしまう
から不思議である。何ごとも魂を込めるからであろう。
このエッセイ集に選ばれることが、著名なもの書きや、政治家や、
エッセイストの大きな名誉となっているという。
この数年分の「ベスト・エッセイ集」をジックリ読んで勉強してみようか。
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2003年11月11日(火)
951, 衆議院総選挙の結果を考える
終わってしまえば、こんなものだろうというのが選挙の結果である。
もう少し、投票率がアップするのではと思っていたが、それにしても低すぎる。
総括として「二大政党のカタチが、でき始めた選挙」であった。
小沢一郎の捨て身の合併劇で、マニフェストー選挙公約を争う機運ができた。
小選挙区制度の良さがここでやっと出てきた。
自民党保守派の社会主義者が、中選挙区制度の復活を言っても誰も相手にしなくなった。
「もう一歩で民主党が勝てたかもしれない」という期待が少しあったことと、
「自民党よ、そう甘い顔はしていられないよ」という忠告が相まっている。
しかし、もう少し民主党に勝って欲しかった。 190議席あたりが理想的であった。
やはり若い人の選挙に対する無関心が、その壁になった。
結局は自分で自分の首を絞めていることになるのが解らないのだ。
無知の彼等の未来から借金をして、生き延びようというのが旧守派だろう。
自民党の恥元派と官僚だろう。その彼等に間接的に手助けをしているのが
解らないのだ。これも若年層の質の低下の現象と見てよいだろう。
ソ連と中共と北朝鮮からの資金援助をしてもらっていた社会党の残党の
社民党が、そこから金が入らなくなったら消滅するのは当然である。
共産党は今更、何もいうことがない。この残物整理という点でもこの選挙は意味があった。
ー毎日新聞の記事をweb毎日からコピーした。
2003年11月8日
以下字数の関係でカット(2007年11月10日)
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577, 一人旅
- 2002年11月11日(月)
20代前半に北海道と九州に二回一人旅をした。
他には勤めていた会社にいたころ、近くの半島に旅行をした。
紀州半島と能登半島だ。これは一泊二日だったが。
一歩家を出れば、あとは旅行代理店とつくった日程どおり
にこなしていけばよい。結構楽しい旅であった。
写真を多く撮っておけばよかったが、そのアルバムも不明だ。
傷心旅行だったり、学生時代の最後の休みの旅行だった。
一人頭の中でブツブツ独り言を言っていた思い出がある。
それがよいのだろう。
一種のロマンチズムで、有り余るエネルギーの捌け口だった。
ただ記憶が鮮明に残っているのが不思議といえば不思議である。
今考えてみれば、一人で外国に出てみるのもよかったが、
あの当時の社会情勢からも、自分の性格からいっても無理だった??
一人旅は一歩踏み出せば、なかなか味がある。
「深夜特急」という沢木耕太郎のドキュメンタリー風の小説がある。
世界の一人旅を目指している若い人の手引書になっている。
7~8年前にTVでもドラマ風に仕立てられて数回に渡って
放映された。この出来もなかなかよかった事を憶えている。
といって親しい人との旅行と比較すれば、やはり一人旅より良い。
TPOSによるが。