つれづれに

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  今日のYoutube
 
 御嶽山の噴火、本土では数十年ぶりの爆発。
TVのインタビューや、ユーチューブを見ると、その迫力が伝わってくる。
何気なく石の雨が降るというが、あれは、加速がついているから、
非常に危険である。オーバーにいえば、機関銃と大砲の集中砲撃を
あっていると同じこと。 生延びた人は、その表現を知らないが、
映像が多くを語っている。 死者がどこまで多くなるか?


・・・・・・
2007, 「私」のための現代思想  -5
2006年10月01日(日)
              おはよ~!(*^ワ^*)i
第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか

私たちは<世界>に投げ出され、その<世界>の中で何らかの<物語>を遂行しながら生きて
いく存在である。私たちは<言葉>と<価値>によって<世界>を認識し、<物語>をつくります。
ここでの物語とは、私たち一人一人が持っている、自分が生きていく上での「脚本」のことです。
そして<世界>とは、そのそれぞれの<物語>が上演される「舞台」のことです。
 ーハイデッガーの「世界劇場」-
 私たちは「役割」を演じている
ハイデッガーは「世界劇場」という概念を通して「人間の生」を把握しようと試みた。
彼はまず私たちの「存在そのものー現存在」と「役柄」は異なっている、ということから考える。
「役柄」は、人間は「この世界で何らかの役柄を演じている存在である」ということを表す概念。
学校においては学生を、家では息子を演じ、また友人や恋人を演じたりしている。
これらを心理学では「ペルソナ」と呼ぶこともある。 これら仮面は、あらかじめこの世界に
用意してあったもの。少なくとも、その役割の性格から大きく離れたりすることはない。
つまり、私たちはこの世界に突然投げ出され、自らの意志によって、
その世界に予め用意されていた仮面のうちから幾つかを選び出して、それを演じています。
 このように「この世界に投げ出されること」をハイデッガーは「企投」と呼んだ。
またその「役割」に没入している状態を「耽落」と呼んだ。
私たちは、この「仮面を被った自分」を「本来の自分」と勘違いしている。
仮面を被った状態の自己を「対象化された自己」という。
被ってない状態の自己を「現存在」と呼んだ。
学生である男と、先生である自分がであったとする。そのお互いの立場ー役割を一瞬で把握して
「相互関係的な役割演技」をすることを、「原初的な出会い」という。
その前段階としての「存在の認識」がある。それは果して存在しえるのだろうか?
という問題がある。しかし、「役割のみが存在している」のであれば、私たちは、
いきなり役割を認識できるわけです。しかしそうではありません。
少なくとも短時間で「役割を持たない誰か」が認識され、
その上でその人の役割が想起されるという段階を通っているはずだ。
 ハイデッガーは、
我われが人生という劇場で役割をこなすためには、
「役割を演じている役者である自己を自覚すること」であるという解決を薦める。
それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
ということです。そうすると大根役者と言われても、それは、「役割上のことでしかないのだ」
と考えることができます。「芝居が下手だ」とか、「華がない」と言われようが、
そんなことは気にならなくなる。うまく演じることにどんな意味があるのだろうかと考えれば、
うまく演じられないことにマイナスの意味を見出すことには、それこそ意味のない。
なぜなら「どうせ芝居でしかない」からです。
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評)もっと辛辣にいえば、人生などお笑い劇場でしかない。
 真面目に演じれば演じるほど喜劇の道化になっていく。
それに早く気がつけばよいのだが・・・
人を笑わせることは難しいが、こと人生にかけて簡単だ。
演じていることを自覚しなければよい。それがお笑いになる。 
 没頭することは最も大事である。
反面、どこかで没頭している自分をみている自身の時間が必要である。
アウトサイダーと、インサイダーの両者の眼が。
 ・自分の人生という物語のシナリオと、
 ・そのシナリオに従って演じている自分と、
 ・その背景となる世界(劇場)を観ている観客と、
 ・観客を意識しながら見守っている監督、を意識して生きる!ということだ。  
 そのためには、自分の人生の役を愛することだ。
そして、その背景となる世界と、観客と監督を愛することだ。  
そう考えると、やはり宗教と倫理は必要ということ??   
この第二章 のー「私」はどこで、どのように生きているのかー
の答えー総括ーは、
「私」は「世界劇場」で、私の「役割り」を果たして生きている。
ハイデッガーは、我われが人生という劇場で役割をこなすためには、
「役割を演じている役者である自己を自覚すること」であるという解決を薦める。
それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
ということです。そうすると大根役者と言われても、それは、
「役割上のことでしかないのだ」と考えることができます。
-である。
 それぞれの人生劇場は二度とない!
だから一瞬たりとも無駄にはできないのが人生である。
自分の役を愛し演じとおすしかない!
「私」と、私の「世界」は日々刻々腐っていく。
生ものだから。
汚れていくなんて甘いものではない!腐っていくのだ。
腐っていくのは仕方がないことだ。
腐っていくことを自覚するしかないのである。
そして、それを自分で笑えればよい!
いや笑うしかないのだ。
他人のことは解るのだが、自分のことは解らない。
 だから生きていけるのである。
せめて心が腐らないようにしたいが・・・
そのためには、学び続けなければならないというが、
今さら何じゃい!という、腐った声が聞こえてくる。         
 ー 以上である。               つづく
               \(^▽^*)バイ!
            
・・・・・・
・・・・・・

2005年10月01日(土)
1642.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・1

1, 人生を見せてもらいました!  
 宗親
居酒屋を二十数年も経営をしていると、社会の裏表が見える。
人生を人の数十倍、いや数百倍も見たように思える。
・数年前まで羽振りの良かった人が、今は乞食をしているとか。
・あのお客が会社の金を使い込んでいたとか。
・がんで亡くなったとか。
・かけ落ちをしたとか。
・実の娘に手を出し、子供ができたとか。
・遠くの親戚から、思わず数億の遺産が転がり込んだとか。
ここで書けないような犯罪の話の内容を聞いた。
それらを中心にボチボチ書いていくつもりだ。
まあ人間は酒が入ると、人間性が丸出しになるし、
幼稚になるからね!
BR>
・・・・・・・
2004年10月01日(金)
1277, [人生の目的]ー五木寛之著ー読書録

 数年前に話題になった本だが、当時あまり興味を示さなかった。
先日、たまたま図書館にあったので借りてきて読んでみた。
幼児期のころから、かなり厳しい生活体験をしている為、
書いてあることは暗いが、しかし重い。
彼のーあとがきにかえてーの一文が、全てこの本を伝えている。
ーー「人生に決められた目的はない、と私は思う。
しかし、目的のない人生はさびしい。寂しいだけでなくて、むなしい。
むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。
 人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。
自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を
見出すことである。変な言いかたになるが、
「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってよい。
そのためには、生きなくてはならない。生きつづけてこそ、目的も明らかに
なるのである。「我あり、ゆえにわれ求む」というのがわたしの立場だ。
 その目的はナカナカ見つからないものである。
確実に見つかるのは目的でなく目標である。
目標は達成されれば終わる。残るのは達成感だけである。それも直に薄れていく。
 人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
それがいやなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。
自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。
自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
しかし、これはナカナカむずかしいことである。
<悟り>という物語、
<来世>という物語、
<浄土>という物語、
<来世>という物語、
<輪廻>という物語、
それぞれが、偉大な物語だ。
人が全身で信じた物語は、真実となる。
ーー
以上だが、深い人生を生きてきたからこそ、このような文章が書けるのだ。
最近、両親の生きざまが、いやに思い出される。私にとって両親を尊敬できるのが、
本当に嬉しいとつくづく思う。あと5年もしたら、どうしても過去を振り返りながら、
ソフト・ランディング態勢に入らなくてはならない時期になる。
その時人生を振り返っテ「自分の人生の目的」とは何だったのだろうか、
と総括をしなくてはならない。
苦しいが、しかし冷徹に自己評価をしなくてはなるまい。
この本に、前回借りた人が書いた、メモが挟んであった。
達筆な年配の人のような字だ。それを書き写してみる。
「他力の信は義なきを義とす。
 生きている限り生老病死の影は、私たちにさしつづける。
 このことは、わがはからいにあらず
 災難に会うときは会うがよろし
 死ぬる時は死ぬがよろし
 人生は暗夜の山中行である
 人は彼方の灯火に勇気づけられる
 それを他力本願という」
 
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

2003年10月01日(水)
910, 人生の縮図

 先日、ある世界を垣間見た。
といって書くには、あまりにシビアな世界であった。
しかし、それを書くのが随想日記の真骨頂である。

 ある売り物の物件を見にいった時の人生模様である。
生々しい状態であった。
「あるリゾートホテルをどう転用したらよいか見てほしい」と頼まれた。
半年前に経営委託を受けた人が、支払いができないで逃げた直後。
オーナーが嫌気をさして混乱しているという。

 現場に行くと数日前まで営業をしていたのが、ありあり。
給料2か月分をまだ貰えない行き場のないマネジャーや従業員が3人いた。
彼等はそこで働き出して半年、派遣会社の身分で、保障は全くないという。
現在の日本の姿が、そのまま現れている状況であった。

 これ以上の景観がない位の場所にあり、オーナーが半分趣味で建てた
素晴らしいリゾートホテルである。
夫婦して80歳を過ぎた高齢の為、維持が出来なくなってしまったのだ。

 実家の衣料ディスカウントハウスを五年近くみていたときは、そういう現場
は日常茶飯事であった。
夜逃げ直前の現場から買い付けをする場面など、何回も経験してきた。
問屋を数十軒も回っていると、何処かで危ないという噂を聞く。
知らない顔をして平気で乗り込むのだ。
安く良い商品のことしか頭がなかったからできたのだろう。

 しかし今の事業を始めて二十数年は全く無かった。
ー違う形の人生模様は多くあったが、倒産という修羅場は無かった。
その当時はドライに割り切っていたし、深く対象を見る余裕など全くなかった。
しかし、この歳になるとその背後がよく見えるのだ。

 どんな時でも、弱者の立場に立ってはならないのが現実社会である。
自分が経験したこと以外は、何を理屈を言ってもイメージの世界でしかない。
可能な限り経験を積むしかない。
中村天風でないが「積極一貫」で経験を積むしかない。
自分が経験した範囲で対象が見えてくるのを今回つくづく知った。

 ここまで変化が激しい中で、変化に対応するためには、自分が変化の先端に
立つしかない。  変化の拒否は自殺行為である。

・・・・・・・
・・・・・・・

デフレと対策
      2002/10/01

現在上手くいっている店を見ていると、やはりデスカウントの業態の店である。
それも思い切って、20年前か25年前のプライスを打ち出しながら、
現在の嗜好を取り入れた店や会社だ。

衣料品は20年前の半値以下の商品が多くなってきた。
自転車も、半値か四分の一だ。
電気商品もしかりだ。

落ちないのが公共料金だけである。
ホテルの値段もその様相になった。
ラーメンの値段も落ちてない。
過去の三次産業の異端は価格破壊である。
そうすると落ちてないのが狙い目である。

先日TVで180円のラーメンチェーンを紹介していた。
マクドナルドのように、徹底した機械化を厨房で図っていた。
吉野家松屋の牛丼も400円を280円に下げた。
そうすると他の甘いラーメン屋とか何でもや食堂のお客が流れてくる。

先日に法事で帰ってきた姉が、面白い温泉旅館にいってきたと教えてくれた。
関東圏の温泉旅館で、4名以上で一泊二食で4500円という。
予約をすると東京周辺のJR駅の近くの三箇所の指定した場所、
にマイクロバスで迎えにきてくれるという。
更に食事のときは従業員が即興の演劇をしてくれたり、
とにかく飽きさせないようにしてあるとか。
社長はつなぎを着て陣頭指揮にあたっているという。
先ずは安く、そして価値があればお客は殺到する。
「もうそういう時代だよ!」とつくづく言っていた。

何かどこかで聞いたことがある話だと思ったら、
そうアメリカの航空業界の異端児で大不況の中、飛躍的に伸ばしている
サウスウエスト航空を温泉旅館版に換えただけの話である。
斜陽産業の温泉旅館が良くぞ考えたものと驚いてしまった!!
(こういうのをベスト・プラクテスという)

客の立場にたてば,全く違った設定ができるのである。
淘汰されている所は、ただ不況と仲間内で傷を舐めあっているだけだ。
発狂してベスト・プラクテスをするか、廃業するかどちらかだ。
今更発狂はできないか??!!
(発狂とは、出来ない人の目から見たベスト・プラクテスのプロセスを
踏んでる姿)

・・・・・
[167] 読書について
                2001/10/01
 読書ー書物はすべての人の学校である、いや大学といっていい。
どこの学校に入ったとしても学べる事はしれている。
学校を出てから学び続けるしかない。本を読み続けるしかない。
 大学を出ているかは関係ない、生涯本という大学・専門学校に
通い続けなくてはならない。
もちろんセミナーや新聞やTVや、実際の仕事の上で学ぶべることが多い。
しかし読書という分母の上でそれらをやると効率が違う。
 初対面の人でも書物の大学にどの程度通い詰めたかどうか直ぐわかる。
私も反対に見られているのだろう。
本は安い500円から2000円であれだけの情報・知識を買えるのだから。
もし高いというなら、古本屋かブックオフで買えばよい。
それでも高いというなら、図書館がある。
 主知主義ではないが人間として生まれてきたからには、知る事が最も優先され
べき権利であり義務でもある。知れば知るほど知らない事が増えてくる。
知っただけその周囲の未知の部分が増えるからだ。