つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=H04TJgWcVvU

 写真は、一昨日、図書館で借りてきた本。 二回、三回の延長も入っている。
特に『音楽を愛でるサル』と、『世界経済危機は終わった』『コトの本質』が、面白い。
 
 

・・・・・・
2343, ポスト・モダン主義とは
2007年09月02日(日)        
              (o゚▽゚)o オハョ~ ゴザマス!
最近は、あまり以前のような大物?が、居なくなった。
これは時代の変遷のためである。 高度成長期の、
田中角栄とか、小佐野賢二とか、堤義明とかいうのは、存在しえなくなったのである。 
存在したところで、「それが何じゃい!」と誰も仰ぎ見たりはしない時代になったのである。
解りやすい事例として、イチローが大リーグで超一流の選手として認められたところで、
「ああ、そういう人がいる、凄いな~」で、それはそれはご立派なことで!と、
頭に過ぎってお終い。それより、それぞれが自分の好きなことを見つけ、
それぞれの楽しみを求める時代になったのである。それは考えてみれば当たり前。
それだけ、社会が成熟したということだ。
第二次大戦後、マッカーサーが日本を占領したとき言ったのが、
「日本人は10歳の子供」である。欧州から見れば、そんなものかも知れない。
といって、西欧が未開の原始人より文化が進んでいるということではない。
モダン=大きな成功とやらを求めた時代は終わったのである。
 これを解りやすく書いたある本があった。
『世界をよくする現代思想入門』高田明典著である。
情報化社会は、ポスト・モダン主義をますます加速させる。
日本は、いや世界は、9・11が現象として大転換期と日となる。
その意味で、あの男ービンラディンは歴史に残る。
アメリカ現大統領は、「アメリカの凡庸・親子大統領の息子」として歴史に留める。
私が生きた戦後のアメリカ大統領では、その意味ではカーターと肩を並べる??の人物。
 その程度ということだ。
 この本の一部を抜粋してみるー  P-158
 ーーーーーーー
20世紀を特徴づける概念として「大きな物語」があります。
私だちの社会は、二十世紀前半(モダン)の社会において、
大きな物語」を信じて突き進んできました。
その大きな物語とは
・「理性・知性によって社会は必ず理想郷へと近づいていく」、
・「科学は、私たちを幸福にしてくれる」というものであり、
・「勉強すれば社会的に成功して幸福になれる」であり、
・「お金持ちになることが、人間の幸せである」などなどの「物語」であった。
 二十世紀前半においては、多くの人たちがそれを「信じて」いたが、
一九七〇年代以降、そのような「大きな物語」を信じられなくなるような出来事が
多く発生し、私たちの心の中に「不信」が発生しました。
科学は私たちの社会を「幸福にする」どころか、むしろ「不幸にする」ものでもある。
知性や理性によっては「理想郷の実現」はできそうもない、ということです。
そのような状態を「ポスト・モダニティ(ポストモダン状況)」と呼ぴます。
そのような「大きな物語への不信」の中で、芸術表現はいったい「何ができるのか」
ということを考えたのが、ポスト・モダニズムのそもそもの端緒でした。
なぜなら、それまでの「表現制作物」の多くは、
「その社会や文化が信じている価値の表現を行う」ということを、
その駆動原理としててきたという側面があるからです。
大きな物語」が崩壊した今、「何を表現すればいいというのでしょう。
もちろん、「次の時代を担うような価値観の提示」さえ、忌避されます。
もはやそのような「大きな価値」「支配的な価値」さえ信じられなくなっているのが、
現代の私たちです。この二十世紀末から二十一世紀にかけての表現分野は、
すでに「ポスト・モダニズム」のような様相を呈しています。
9・11のそもそもの「原因」は、アメリカの物語とアラブの物語の「衝突」に
存在していると考えることもできるでしょう。
「物語の衝突」を回避するための「具体的解決方法」が、ポスト・モダニズムである
ということを考えるならば、建築の建築家であるリベスキンドがコンペに勝ったのは、
むしろ「当然」と言えるのかもしれませんし、ことによると「歴史の皮肉」
なのかも知れません。 それも「大多数が信じていること」とは言えません。
この世界は、「よい」もののか「悪い」のか、もしくは「よい方向に向っているのか」
「破滅へと向っているのか」ということについてさえ、大方の合意が得られない
という状況を「ポストモダニティ(ボストモダン状況ごと呼ぴます。
端的に言うならば、「幸福とは何か」「よいとは何か」についての、
「共通の土台」を想定することができなくなった状態のことです。
そのような状況の中でも、人は、個別に物語を作り、その物語を生きていかなくては
なりません。それは、とてもたいへんな作業であり、多くの人間が、
その作業に困難を感じ、ある者たちは「物語の構築」を諦めてしまったりしています。
ポストモダニズムの表現制作物を、ここでは「ポストモダンX」と呼ぶことにします。
ポストモダン文学とか、ポストモダンアートとか、ポストモダンミュージックとか、
ポストモダン建築が、それに該当します。
それらの「ポストモダンX」が提出される「目的」は、一致しています。
その使用者・鑑賞者・受信者の内部に、「物語」を発生させることです。
もちろんその「物語」は、予定調和的にあらかじめ想定されている筋を持つものではなく、
「個人が、自分で紡ぐ物語」でなくてはなりません。
したがって、「ポストモダンX」は、「物語の強制」をひどく嫌います。
「表面」をくすぐったり、ひっかいたり、ねったりすることによって、
鑑賞者(受信者)に何らかの刺激をあたえ、それをきっかけとして
「鑑賞者が自分の物語を構築するア一と」を期待するというわけです。
ポストモダンXは、大きく二段階の変遷を遂げています。
初期においては「内在する疑問形」でした。それはたとえば、
「人が生きるとは何であるか」とか「美とは何であるか」とか
「人生の価値とは何であるか」とかという疑問を「投げかける」という
形式をとっていました。
ーーー
 面白い時代である。ただし、それぞれが自分で考え、決断しなければ
ならない厳しさを要求されるのである。それぞれが自由を見出し、
そこに価値=意味をつくらなければならない。               
       (○´ω`○)ノ**SeeYou Again! dato  
・・・・・・・・・
2006年09月02日(土)
1978, クルマが売れない!
        Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning      
 ある新聞の経済欄で「クルマが売れない!という記事が出ていた。
景気回復に比例して車が売れ出すという業界常識が崩れてしまった。
車そのものの魅力が低下、車が日用品化してきたからだ。
 これまでの車は30年から40年前までの時計みたいなもの。
ロンジンとか、ローレックスとか、持っているだけで偉そうな錯覚をさせる
イメージを加えて売っていた。ステータスシンボルの要素が大きかった。
ところが現在は、どんなよい車に乗っていても何の価値も感じなくなった。
むしろ頭の軽さが目立つだけだ。この情報化でモノ、コトへの価値が見え始めてきたのだ。
7月の新車販売台数が(軽自動車を除いて)13ヶ月連続で前年実績を下回ったという。
軽自動車を除くと、13ヶ月も前年を下回ったのは1968年以来という。
(軽自動車を含めると4ヶ月連続の下落)
あれだけ騒がれて登場したトヨタセルシオの国内販売が、
当初予定していた計画を遥かに下回ったという。
 この背景には日用品化した以外に、消費の多様化がある。
車に振り向けられた消費者のお金が、デジタル携帯音楽プレーヤーや、
薄型TVなどの家電製品や、携帯電話の通話料に向けられているためだ。
確実に消費者の欲しいものの中の、順位が下がっている。
かって本田宗一郎が「ライバルは同業者だけではない!」
といって言葉が、さらにシビアに聞こえてくる。
車購入の中心だった団塊の世代の、車への興味も確実に下がってきている。
年功序列の賃金制度がホボ崩壊し、「いつかはクラウン」という購入パターンは
過去のものになったこともある上に、その年代が実質定年を迎えつつある。
 「クルマが売れない」というキーワードで検索をかけたら、
日産と三菱自動車の販売不振の内容が出てきた。かなり深刻のようだ。
日産のゴーンの戦略も尽きてきたようだし、
鼻持ちのならない「三菱のブランド」が大衆に嫌悪感を持たれてしまった。
フルラインのトヨタ、若者・スポーツ感のあるホンダと、
軽自動車のメーカーと、それぞれの特化が顕著になってきている。
ところで私自身、もう14年近くトヨタソアラに乗っている。
前の型のソアラに4年半乗った後、新中古のソアラに乗り換えた。
現在もエンジンもしっかりしているし、車自体14年以上乗った車という
古さを全く感じない。 まだ8万キロしか乗ってないが・・・
また十年前より、高速自動車の長いトンネルに入ると、
閉所恐怖症みたいな感覚になってから遠乗りをしなくなった。
そのため、「近くの移動の手段であれば何でもよい!」という気分になってしまった。
おまけに前の型のソアラがあまり出回ってないので、古車を乗っている感じがない。
60歳になったら最後の車を買おうと思ったが、そんな気分にもなれない。
それなら海外旅行に、もっと行ったほうがよい。
その気持ちは、一般の団塊の世代と同じなのだろう。
 売れない理由は、流行語でいうと、
社会の比重が中流社会から下流社会へと変化していることもある。
それが一番の理由だろう。      バイヾ( ̄ー ̄ヾ))))
・・・・・・・・
2005年09月02日(金)
1613, 愛とはなにかー2

愛、それも「無条件の愛」こそ世界が必要としている。
無条件の愛とは、期待も要求も制約を持たないで愛すること。
過去を振り返ってみると、自分が受けた愛情で深く残っているのは
両親の愛情である。これは無条件?の愛情だからこそ深く残るのだろう。

それでは「条件付きの愛情」の、「条件」とはどういうものか?
ある本(*)にキッチリと箇条書きであった。
その共通点は、自分の利益・欲を満たしてくれる前提条件である。
そして、その中に自己認知も含まれているが、人間なら当然のことである。
その「条件」を細かく当たると愛など、自己愛の延長でしかないし、
キリストも「自ら愛するように、汝の隣人を愛しなさい」と、自己愛を認めている。

ーその「条件」を、幾つか抜粋してみる。
『わたしは、あなたが・・ の条件をもし満たすなら、あなたを愛します。』

・あなたが、私をあるがままに受け入れ、尊重するなら。
・私を認め、勇気づけ、理解してくれるなら。
・私を楽しませ、喜ばせ、飽きさせないなら。
・私に対して誠実で、善良で、忠実で、正直であるなら。
・私と共通点を持っていたり、信念や興味が共通なら。
・私を責めたり、批判したり、裁いたりしないなら。
・私のことを大人として、対等に扱ってくれるなら。
・私のことを最優先にしてくれるなら。  等々、いくらでもある。

これを読むかぎり、恋愛など「条件付のエゴの塊」である。
成田離婚は、まさにその条件をお互いに知り、誤解して結婚して、
理解して離婚する集約した姿である。
「バカな女」が男を渡り歩くのは、この条件付愛を真の愛と信じているからだ。
他人事ではないか。
無条件の愛とは、我われの深奥にある神的自己の表れでもある。
汲み続けていないと直に濁るか、水が枯れてしまうが。

*「愛することを選ぶ」 誠選書房 E.キャディ著

・・・・・・・・・
2004年09月02日(木)
1248, ダイエットに100万賭ける-1

二年ぶりに、契約更新で柏崎の保険代理店の社長が来社した。
スリムになってスッキリした様子なので、どうしたのか聞いたところ、
ダイエットに成功したという。彼の知人の保険屋さんから賭けを持ち込まれたそうだ
「お互いのダイエットで、失敗したら百万を払う」
期間は4ヶ月で、体重の12?、本人にとって10?である。
賭けた仲間は7人。まだ全員の結果は判明はしていない。但し、二人は成功をしたという。
彼のとったダイエットの方法は、
三食の食前にグレープフルーツを一個食べつづけて2週間、7?も痩せたそうだ。
それと家族が百万という金額に驚いて、食事に対してコトゴトク口出しを
したというのが、さらに効果を高めた。
そして4ヶ月にかなり余裕を持って達成することができたとか。
金額が1万や10万では、真剣にならなかっただろうが、百万円の金額が、真剣さを
増したのだ。一生に一回あるかないかのこと、必死になりざるをえない。
私のダイエットといえば、朝の散歩と、肉食と揚げ物をなるべくさけること。
それと、甘味もの(缶ジュース・砂糖・お菓子)を口に入れないことである。
それと週に2~3回は体重計に乗って、少しでも増えたら食べ物に注意する。
この十年間はほぼ理想的な範囲であるが、これに酒量を控えれば理想的なのだが。
崖っぷちに自らを追い詰めるこの方法、大きなノウハウである。
 考えてみれば、事業も人生も同じことがいえる。     -つづく
・・・・・・・・
2003年09月02日(火)
881, 讃岐うどんの店

 最近ブームになっている讃岐うどんのチェーン店に行ってきた。
100円からの讃岐うどんを食べられる客単価400円の店だ。
揚げ物などを皿に取り、うどんを注文して勘定をする方式をとっている。
社員食堂のセルフ式をそのまま讃岐うどん屋に取り入れた業態である。
・一回目に食べたのが「肉コロッケと、掻き揚げと、普通の讃岐かけうどん」で約500円であった。
・2回目は、「100円の小のかけうどんにオニギリとハンペンと天ぷら」で400円であった。
 客層は家族ずれからサラリーマン風とOL とばらついていた。
一組あたりの滞店時間が20分位で、非常に短いのが特徴だ。
近くにあったら週に一度はいくだろう。 気軽で300~400円で済むからだ。
 ガソリンスタンドと同じで、セルフ方式そのものが受け入れられている。
セルフ方式を取り入れて、美味しい?ものを安くしているところがミソだ。
家族で美味しいものを食べにいくところではない。お腹を満たす為に行くところだ。
 新潟駅前の自社の事務所の近くに牛丼の「松屋」も開店予定だ。
おそらく週に一度は行くことになる?だろう。
遅かれ早かれ、この業態の讃岐うどんチェーン店も出てくるだろう。
客単価の低いところをねらった店が求められているからだ。今までの単価の半額が目安である。
 これは一時的ブームで済むのか、このデフレの時代の大きな潮流にそったものなのか、
今のところ判断はできない。しかし、セルフ方式の合理的システムは流れに沿っている。
 最近の居酒屋チェーンも闘いの中から、必死にそれぞれの新しい業態の店を創ってくる。
いかに消費者に受け入れられるかの闘いである。その闘いを避けた店は受け入れられなくなる。
その意味で個人経営の居酒屋はますます苦しくなっていくだろう。
 飲食店のウォッチングは身近で判りやすく面白い! 趣味といってよい。

・・・・・・・
2002年09月02日(月)
507,私の世界十大ニュース
 56年間生きてきて、大きい時代の変化に驚きである。
21世紀を垣間見た一つの生命の視点、驚きベスト10を私の主観で書いてみる
1、何といっても、インターネットである。 ただただ驚きだ。
  キーワードを幾つか打てば世界中の情報が一瞬で画面に出てくる。
2、ソ連と東欧の崩壊。
3、日本の勃興と衰退ーこれだけ劇的になるとは。
4、パソコン、TV機器、などのハイテク機器の進歩。
5、世界中を気楽に多く行き見る事ができたこと。
6、宇宙への知識の進歩。
7、人類の月への着陸。
8、中国の文化大革命
9、アメリカの9・11のテロ。
10、キューバ危機とケネデーの暗殺。
 恐らくこの十年はもっと大きい変化がおきるのではないだろうか。

・・・・・・・・・
2001年09月02日(日)
[129] 人間関係
 人間関係、これが私の専攻した学問である。
私を知っている人間はほんと!と驚くはずである。
全く人間関係に,はちゃめちゃであるからだ。
といって人間関係に悩んだことはない。
悩むような場をつくらない、行かないからである。
よかったと思うことは、社会そのものが学問内容になるからだ。
実社会は人間学であるからである。
末っ子ということと、寮生活と、勤めと、事業の中で、あらゆるタイプの人間から
赤裸々な現象として割り切って見れた。
皆それぞれの過去ー血縁を背負って生きていることが解った。
その人間関係にどうしてもエネルギーを使うからだ。
人事管理のゼミの時の総意は、組織は能力は創れないというのが結論であった。
しかし、これは私の勝手な思い込みだった。