つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=Wbt_M7nK0-o

 昨日は、映画『X-MEN:フューチャー&パスト』を見てきた。評価ー85点というところか。
   http://www.youtube.com/watch?v=sIfKHuhhfbo
 次から次への活劇に、疲れて途中から半睡眠状態で、見ていた。
 現在、値段の割に価値を実感するのが、シネマの値段と、スポーツジムの値段。

 
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1891, 村上ファンド崩壊の衝撃-2
2006年06月07日(水)
             おはよ~!(*^ワ^*)i
昨日の「朝日新聞の社会面トップの記事」が面白い。
幾つかの新聞記事の中で、この記事がシンプルで解りやすい。
しかし現在の法律では有罪でも、懲役三年の執行猶予付き。
罰金も儲けた数百億からみれば微々たるものという。
 元エリート通産官僚が、法の不備や隙間をついて、
ファンドで勝ち抜ける手法は、やはり社会倫理にかける。
それもアメリカや中国、オリックスなどの高利貸しの資金を背景に
暴力団もどき恫喝をして株を高く買い取らせる手法は目に余った。 
 目立たないでやっているうちは、仕方ないで済まされたが、
阪神株を買占め、阪神球団の存続まで問題になるようでは、
国家として処分をしなければないのも当然である。
それにしても、一昨日の逮捕前のインタビューと、この記事の乖離は
あまりにも大きい。「たまたま聞いてしまった情報が悪かっただけだ!」
という言葉も白々しく聞こえてくる。
当面は執行猶予の身、シンガポールには行けないだろう・・・
ライブドアの堀江より数倍も悪質」と検察の担当がいっているという。
 堀江を手玉に取った村上も、時代に飲み込まれてしまった。

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2005年06月07日(火)
1526, ディープ・フロート判明
あのウォーターゲート事件(72年)の情報源がFBIの元副長官、
マーク・フェルト氏とは驚きだ。情報源については、諸説紛々であったが、
その一人とも目されていたFBI副長官であったとは。
外部からのFBI長官の招聘に対して、第一候補であった副長官の恨みが、
当のニクソンを失脚をさせたことになる。後任の長官に自分が指名されることを
期待していたが、実際に任命されたのはニクソン大統領側近のグレー司法次官補だった。
このような因果関係から、フェルト氏が情報提供に協力する背景にあったのだ。
彼はFBI退職から6年後の1979年に著書「FBIピラミッドの内部」を発表し、
その中では「ディープスロート」ではないと否定していた。
たった一人の怨念が世界を揺るがす大事件になったのだ。
非常に興味が持たれた真相も、この程度のことであった。
ミステリーのままの方が良かったのだろう。彼の名前も挙がっていたが、
キッシンジャーブッシュ大統領の父親の名前も挙がっていた。
それにしても、フェルト氏も命がけであったと同時に、ニクソンが窮地に
立たされていくのをみていて快感であっただろう。
ー以下は、あるHPからコピーしたニュースの内容であるー
ウォーターゲート事件ディープ・スロートが 全米に反響をよんでいる。
「ワシントンで最も厳しく守られてきた秘密が、ついに暴露された」
ニューヨーク・タイムズ紙)。
ニクソン元大統領を失脚させたウォーターゲート事件(72年)で、
連邦捜査局FBI)の元副長官、マーク・フェルト氏(91)が、
ワシントン・ポスト紙の「ディープ・スロート」と呼ばれた極秘情報源だと
5月31日判明した。
米政界、メディアの間で30年以上も「最大の謎」だった。
全米のメディアは特集記事や番組で大きく報道した。
 ウォーターゲート事件と、ポスト紙の独壇場となった調査報道は、
米社会やメディアのあり方に大きな影響を与えた。
「大統領の犯罪」を追及するポスト紙を、政権内部の情報源が継続的に
支援していたことは当時から明らかだった。
「所属組織に弓を引く裏切り者」ととらえる向きが強かった
「ウィッスル・ブロウワー(警笛を吹く者の意味で内部告発者を指す)」が、
肯定的に評価される契機にもなった。
 ニクソン政権による政敵の盗聴やFBIやCIAなどの操作・情報機関の
“私物化”が白日の下にさらされるきっかけを、ポスト紙の粘り強い報道が
つくったことで、調査報道の重要性が広く認識されるようになった。
 同紙によると、社内でもディープ・スロートの正体の守秘体制は徹底していた。
知っていたのは、直接の担当だったボブ・ウッドワード(現編集局次長)、
カール・バーンスタイン(現在フリーランス)の両記者と、
当時の編集主幹のベン・ブラッドリー氏、ウッドワード氏の妻の4人だけだった。
同紙の故キャサリン・グラハム社主も取材源を質問することすらせず、
ブラッドリー氏も「聞かれても答えなかっただろう」と語った。
 ウッドワード氏がフェルト氏と連絡したい場合、電話の盗聴を警戒して
自宅アパートのベランダに目印の植木鉢を置くなどして連絡した。
フェルト氏からは、ウッドワード氏の自宅に配達されるニューヨーク・タイムズ
の20ページ目に時計の針を書き込むという形で接触の合図を送った。
ワシントン市内の地下駐車場での面会時は、複数のタクシーを乗り継ぎ、
わざと間違った場所で下車するなどして、尾行に注意したという。
「自分がディープ・スロートだ」とするフェルト氏の発言を総合月刊誌
バニティ・フェアが公表したのは31日。AP通信やロイター通信は
緊急電で同誌の記事を転電。CNNテレビなども緊急特番を組んだ。
ウォーターゲート事件は、
72年6月にワシントン市内の同名のビル内の民主党本部に、
共和党ニクソン陣営関係者が侵入、盗聴器を仕掛けようとして逮捕されたことが
発端だった。ホワイト・ハウスは関与を否定したが、両記者は調査報道で追及。
ニクソン氏がFBIによる捜査を妨害するようCIAに指示したことが、後に
ホワイトハウスの録音テープで暴露され、ニクソン氏は74年8月辞任に追い込まれた。
両記者は重要情報源を、当時人気のあったポルノ映画の題名から
ディープ・スロート」名づけた。

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2004年06月07日(月)
1161, 衛星授業
アメリカのデンバーのあるコロラド州は校内で銃乱射があったところで、
学校に通わせたくない親が極端に増えているという。
そこでインターネット・ハイスクールが注目されてきており、生徒数が
アメリカ全体で、もう10数パーセントになっているという。ところが、その方が
教育効果が遥かに高いということがわかりはじめ、まてよということになっているとか。
実際インターネット・ハイスクール出身の学力は普通の高校よりはるかに高くなっている
という。そこでは非常にユニークな教えかたをする。
重要なキーワード出てくると手元にあるパソコンに、「それを調べてみてみてください」
という指示がくるそうだ。生徒は指示されたと同時に検索で調べる。
そこで、さらに専門的なキーワードを調べるようにという指示がくる。
そしてドンドン深く問題を掘り下げていくという。
十年もしないうちに過半数を超えるのではなかろうか。
そして日本も似たような状態になることは間違いはないだろう。
予備校や専門学校もインターネット授業が本格的になったきた。
代々木ゼミとか東進ゼミが取り入れている。英会話もそうだ。講義中心なら、
それで充分である。いやむしろ一流の先生の授業を聴いたほうが効率がよいはずだ。
考えてみたら、高校受験は受験雑誌や参考書を中心に勉強をしていたし、
大学受験は、それに加えてラジオ講座が中心に変わった。
それが、パソコンや衛星TVによる映像に変わっただけだ。
面白い時代になってきたものだ。

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2003年06月07日(土)
794, 夢とイメージ
 学生時代に3番目の姉が結婚をして、家を建てた時の話である。
その姉は節目ごとに私にノウハウを教えてくれていた。
(小学校5年時の勉強のコツ、中学2年時に具体的な目標のたて方と
挑戦の仕方を教えてくれた)
「実を言うとね、この家と庭と旦那とのこの生活、ずっと願って心に
イメージをしていたの。それがね、このままいま現実にあるんだよね。
夢を持って、イメージまで高めなさい。そうすると叶うんだから。
本当に驚いているんだから」と教えてくれた。
 今ではポール・マイヤーとか、ナポレオン・ヒルとかの本に詳細に
そのノウハウが本に書いてあるが、当時は新鮮な情報であった。
「なるほど夢を持ち、それを目標に変えて、具体的にイメージ化をして
実行していけば夢が夢でなくなる」と解釈した。
建物なら平面図を描き、次にビルのイメージ画を先に書いてしまうのだ。
 女性なら好きな女性のイメージを頭に描くのだ。
しかし世の中には自分の想像を超えた理想の女性がいることを現実に
知った、高嶺の花でしかなかったが。
好きなタイプをイメージ化した為、早めの判断をしないで済んだ。
(ダブルデートで、もう一組が何人も結婚していった)
当時、簡単に一生の伴侶を決めてしまうのが不思議であった。
いま考えると、自分の未来を考えてない人が大部分であった為だ。
私の勝手の見方だったのかもしれないが。
 夢のイメージの類の本を小ばかにして拒否している人がいたら、
とんでもないことだ。
夢の実現の方法論として、高度のシステムとして体系化してあるからだ。
特に若い時に、この知識を持っていると人生を効率よく生きることができる。
全く知らないのと知っているとでは天地の差が出る事は間違いない。
偉人などの自伝を読み、その中で自分を投影して夢を創っていくのが
一般的であるが。もっと割り切った時の方法論である。
末っ子は、つらい反面けっこうノウハウを貰っていたことになる。

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2002年06月07日(金)
430,自分の居場所
誰もが自分の居場所を持っている。逆に居場所がすくないということは、
非常に厳しい状態の時である。自宅の自分の場所、会社の自分の場所、
通勤の自分の場所、日祭日の自分の居場所、すべて時間と同時に変わっていく。
20代のある時、ある姉にいわれた。「あなたはすぐ自分の居場所を作り始める。
まず部屋の中に本と椅子と机に本棚に手帳を配置する。
そうすると、そこにあなたの居場所ができあがる。
座ると何気なく自分の物を机の上などに配置する。
いつの間にあなたの場所ができている。」
その時代だけでなく何時もそうだった。私だけでなく人間すべてがその筈だ。
居場所とは、
・自分が一人でいても寂しくないところ
・何かをしていて、自分が生き生きしてるところ
・すわり心地の良いところ
 そうすると趣味など、そういえるかもしれない。
それをしている時、それが心の居場所だ。
毎朝あげるお経もそうかもしれない。
引っ越したら、別に住まいだけでなく、まずは居酒屋,
そして昼飯を食べる店と自分の座る席。
猫でもそれを本能的にあるはずだ、テリトリーとして。

・・・・・
2001年06月07日(木)
[45] 創業の話

27歳、千葉の千城台で千城ビル建設と養老の滝1122号店の立上げをやった。
準備1年4カ月かかった。その間に一緒に計画に携わった父も亡くなった。
今も忘れられない1973年5月30日であった。
11月07日、店の立上げとビルの完成でパニックの頂点をむかえた。
地獄!・・・ その頃写真を撮っているいる余裕などない、
写真日記のそれは千城台を引き揚げたあと、懐かしく行った時に撮った写真である。
全く知らない千葉で我ながらよくやったと思う。
この地獄の中で創業のノウハウしっかり身につけることができたと思う。
自らを空にして、おきて来た問題を一つずつ解決していくしかない。
その時本能的に相手に両手で拝んでいた。
どういうわけか拝まれると人間引き受けてくれるものだと感じた事を憶えている。
軽い気持ちで拝むポーズを時々みると,張りたおしたくなるのそのせいだ。
当時のことを記した文章があるのでコピーをしておく。
また写真も写真日記にコピーしておきます。
ーーーーーーー
H0907
養老の瀧1122号店、店長の日々

 両親の創業を幼児の時みていて、その厳しさを知っていたつもりであったが、
いざ自分がその立場に立って、その認識の甘さをつくづく思い知らされた。
千葉の新興住宅地(五万人)の十字路に“貸ビルの建築”と“養老の瀧オ-プン”と
“結婚”という、人生の初体験を同時に始めた。
丁度石油ショックにより高度成長期が弾け、ビルの前の数千世帯のマンション計画が
中止となり、最悪の出発となってしまたった。そしてオ-プン...!
完全にパニック状態!オ-プン人気も含めお客の列!
しかし、こちらは全くの素人である。ビル建築等、他に諸々が重なり、
地獄のような日になってしまった。辛くて、恐ろしくて、一日一日が精一杯、
今考えても、よく持ちこたえたと思う。当初の、2~3ヶ月は朝8時より
夜半の1時までの激務であった。指導員と私とアシスタントの3人の激しい日々であった。
“勤め人”と自営業の立場の大転換がその時おこった。
それまでは8時間プラス2~3時間、という立場が、“24時間(休んでいても仕事のう
ちという)仕事”という立場になった。
サラリ-マンが事業をおこして大部分失敗するのは前者より脱皮できない為である。
大手ス-パ-の創業期に入社、異常に近い厳しい世界に3年近くいたが...。
その厳しさが全く違うのだ。はじめの数ヶ月は、今日辞めるか明日辞めるかという
位、厳しいものであった。
あの空ビルをテナントで埋めなければ、私の立場が無くなる!という前提があった為
乗り越えられたと思うが。でも不思議なもので、真っ正面より立ち向かっていると、
いつの間にか辛さが辛さでなくなってくる、適応能力が自然についてくるのだ。
ヤクザ、土方、得体の知れない人間に“気違い水=酒”を飲ませているのだ。
それと兎にも角にも全くの無警察状態に近いのだ。
そこで自分1人で店を衛らなくてはならない。
酒を飲んだ人間の本当の恐ろしさをそれまで、ほとんど知らなかったためだろう、
命が幾つあっても足らない位の事件が月に一度はおきた。
恐怖の中で1人トイレの中で(他の人にはわからないように)震えた事があった。
そこで、大きく唸った。そしてお客に対処したところ腹が据わったのだろう、
お客が逆に竦んでしまった。“これだ!”と直感した。
また店の従業員に前もって、うちあわせをしておき、お客に怒鳴る変わりに
従業員を怒鳴りつけ竦ませたり、土壇場に立つと知恵がついてくる。
ただフランチャイズのシステムは今でも素晴らしいものであったと思う。
標準化、単純化、マニュアル化がきっちりできあがっていた。
創業時の勉強という点で、このシステムは自らに非常に有効に働いたと
振り返って思えるようになった。
             創業は辛い! 1973.11.07~