つれづれに

イメージ 1

 他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 車も22年も乗っていれば、二年に一度の車検時の修理代は大きい。
とはいえ、乗っていて全く問題はないが、買替えは年金暮しには厳しい。
 考えた挙句に、あと二年間は乗ることにした。  
走行距離9万4千キロは、10万キロまで、あと6千。二年間は何とかもつか?
 成るほど、年金暮らしは、こういうことか。  
家内が言うに、「まだ、頭の切替が足りない!」と。
 とはいえ、今さら欲しい車もない。 
でも、新車のセルシオを乗れば、欲しくなるのだろうが・・・ 
中古車センターで、高そうな車を見ても欲しくはないのは年齢もあるのだろう。 
 

・・・・・・
1872, グーグル Google -8
2006年05月19日(金)           
   才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)              
                 読書日記
キーワード広告が最初にアメリカに登場した時、多くの人は
「そんなもの、本当にうまくいくのか?」と、にわかに信じなかった。
オーバーチェアという会社の創業者のビル・グロスという起業家が
「この広告は凄い!」と満を持して作りあげ、1998年に発表した時、
普段は熱心に聞き入る出席者もとまどってしまった。
理解されないのも当然であった。
 検索エンジンの検索結果に広告を入れるというのは、
何だかピンとこない上に、キーワード広告は表示される場所が小さい。
キーワード広告は派手なデザインもなく、
わずか「三行の短い文章」だけで構成されている。
検索結果に広告を混ぜるというのは、まるで新聞社が記事の中に
広告記事を混ぜ込んでしまうようなものと、グロスに批判が殺到した。
ところがグロスがキーワード広告を1998年6月に実際始めてみると、
ネット業界はすぐにその凄さを思い知るようになった。
広告をクリックする利用者が非常に多く、広告効果がきわめて
高かったのである。グロスの会社の顧客企業は翌年中までに
八千社に達し、売り上げは1000万ドルまで達した。

そしてグーグルがこのモデルをまねるかたちで、
2002年に同じようなキーワード広告「アドワーズ」をスタートさせた。
そしてこの二社が市場を分けあうかたちで
キーワード広告は急成長していった。
何故ここまで、キーワード広告が人々に受け入れられるようになったのか?
それは、検索エンジンがインターネットの中で極めて重要になっていたからだ。
具体的言えば、多くのインターネットユーザーにとって、
検索エンジンはインターネットの玄関口のようなものになっていたのだ。
当初の方法は、画面にアドレス欄だった。
ここにわざわざ「http:www・・」とHPのアドレスを直接打ち込んでいた。
さらに一歩進んで、「お気に入り」に登録して、次に見たいときは
そこからたどって開く、というやり方であった。
次に出てきたのは、ヤフーなどの総合ホームページである。
「エンターテイメント」「趣味・スポーツ」「メディアとニュース」
といったカテゴリー分けされて、さまざまなHPへの道を
たどれるようになっている。
 ところが2000年頃から次第に、人々が目的にたどりつく経路が変わってきた。
検索エンジンを使う人が増えてきたのである。
つまり「かぐらざか花店」という店の名前がわかっているのだったら、
検索エンジンの検索キーワードに「かぐらざか花店」と入力して検索する。
NHKやヤフーのHPに行くときでさえも、「NHK」「ヤフー」といった
単語を検索して、検索結果からHPをみつける人が多くなった。
その変化の傾向が日本でも現れてきたのは、2002年頃だった。
「情報収集」でなく、検索エンジンを「ナビゲーション(道案内)」
として使う人が増えてきたのである。
どうしてそんな変化が現れてきたのか?
それは検索エンジンの性能が、それまでとは比べものにならないほど
向上したからである。その向上を実現したのがグーグルという会社であった。
      ー  お茶どうぞ 且_(゚◇゚ )ノ゙                      
グーグルのエンジンは、驚くほど革新的だった。
・ます第一に、「クラスタリング(結合)」
というコンピューター・テクノロジーを採用をした。
それまでの大型コンピューターから、
普通の安価なパソコンを数千台も並べ、それらを一台の仮想のコンピューター
として使えるようにした。
・第二に革新的だったのは、グーグルが「ページランギングテクノロジー」という
新しい技術を作り出したことである。
この基礎になっているのは、
「人気があるHPからリンクが張られているページは良いHP」
という考え方である。
この方法で、ポルノなどの怪しげなHPの選別が出来るようになった。
グロスが最初に考えたことは「性能の良い検索エンジンだったら、
その検索結果に企業は金を出すかもしれない。ということだった。
最近はキーワード広告による経済が大きくなっていることをとらえ、
「サーチエコノミー経済(検索経済)」という呼び名さえも生まれたほどだ。
                つづく        (。・∀・)ノ゙バイ!               
・・・・・・
2005年05月19日
(木) 1507, 猛女怪女列伝
アナタハンの女王
終戦直後の日本で、このようなドラマがあったと、
新潮45」という月刊誌のー猛女怪女列伝ーで初めて知った。
 太平洋戦争での敗戦濃厚になった、昭和19年6月から6年間、
敗戦を知らない南海の孤島「アナタハン」で取り残された
「男31人、女1人の生活」で、一匹の『女王蜂』比嘉和子をめぐる、
壮絶な性と生のもう一つの戦争があった。
その殺戮の中で生き残ったのは20人、残りの12人は、『女王』を争って殺されたり、
原因不明な死を遂げたと生還した兵隊達によって証言されたという。
極限の世界で野獣と化した雄どもの命をかけた雌の奪い合いの地獄絵である。
 その比嘉和子も、昭和47年(1972)年に亡くなった。
アナタハンの女王」といっても、昭和20年代後半の話で、この本を読むまでは
全く知らなかった。
 アナタハン島は、サイパン島の北方約117キロにあり、東西の長さ約9キロ、
幅3.7キロしかない小島で、面積は約32平方キロだから、サイパン島
4分の1弱の大きさである。
この時の『女王蜂』をめぐる殺戮劇が、月刊誌「新潮45」4月号に、
詳細に書かれていた。「事実は小説より奇なり」というが、すざましい内容である。
この六年間に、和子は5人の男と正式でない結婚をした。
ピストルを所持する`権力者’?に、強引に娶られたり、
争いを恐れた男たちが合議した末、次の夫が指名されたりしたのだ。
そのうち大部分が、明らかに殺害されたり、不自然な事故で命を落とした。
女王をめぐっての殺戮が続く中、遂に和子の『処刑裁判』が開かれた。
その時には、32人のうち10人が亡くなっていた。男達は全員出席した。
そして、『敵と戦って死ぬならとにかく、和子をめぐって殺しあうなど
許されない。彼女に死んでもらうことがよい』という結論になった。
その中の一人が彼女に、そのことをこっそりと告げた。
そして、彼女はジャングルに逃げた。
その一ヶ月後に、投降を勧めるアメリカの艦が島に近づくと
和子は必死に着ているものを脱いで降り続けた。助かったのだ。
そして、その一年後に残った全員が助けられた。
昭和26年から29年にかけて、「アナタハン」ブームが、日本を席捲した。
「おしさしぶり」の代わりに「アナタハン」という挨拶が流行り、
「女王蜂」「アナタハン」という名前の飲食店も続々登場。
さらに、ハリウッドの巨匠ジョゼフ・フォン・スタンバーグ
監督をした「アナタハン」もつくられて
「ライフ」や「ニューヨークタイム」にも採りあげられて世界的にも話題になった。
その後も、彼女は数奇な人生をおくったが、最後は結婚をして
穏やかな人生を終えたという。
彼女も戦争の犠牲者の一人であった。

・・・・・・
2004年05月19日(水)
1142, 自由について -2
「自由ほど不自由」ということを感じたことを誰もが経験していると思うが?
これは「自由な自己決定」を迫られる「不自由」ということにある。
自由とは主体的であるということだが、その主体ということが怪しいのだ。
主体的と思いこんでいるだけでしかないことに気がついてないのだ。
その主体も外的要素によって規制されているから矛盾が出てくる。
目の前の「自由」が、ちゃんと何かによって規制されていることを嫌というほど、
思い知らされていることを。
人生実験の中で主体と思ってきたことも、所詮は限定された世界の泳がされてきた
小さな池の魚でしかなかったことを。
主体を「気短」という説がある。なるほど、面白いドキッとする内容である。
主体的ということは、気短で、その結果として目先の判断で動いているだけという。
なるほど、そうかもしれないところが、身に沁みる。
自由から、何で気短に行きつくのが不思議であるが。
現在の社会の様々な問題の根底の部分に、
「自立した自己」や「自由な主体」などの、幻想が潜んでいるのではないだろうか。
ゆとり教育」とかいうものが、幻想でしかないことを国は気がつき始めた。
国民レベルは、それが幻想ということを初めから知っていたが。
自由は戦いとるもの、積極的な自己目的を追求する姿勢の中にこそある。
「不自由論」という本がある。曖昧な自由論を批判している内容である。
風刺漫画を思い出した。
「夫婦が、お互いの首についた紐を握りしめ溜息をついている絵」である。
何とも不自由そうであった。
  ーーーーーー
【-自由について-】

・あまり安価で手に入れたものは軽く扱われる。
自由のように神々しいものが高価でなかったら、実におかしいではないか。
                    -ペイン
・人間の自由を奪ったものは、暴君でも悪法でもなく、社会の習慣である。
                    -J・S・ミル
・痩せた自由は肥えた奴隷にまさる。
                    -イギリスのことわざ
・自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間のうちにあるのであって、
 自由であろうと欲するものが自由なのである。  -エルンスト
・自分自身を支配できないものは自由ではない。 -マッティアス=クラウディス
・自由に気がついていないときこそ、人間は一番自由なのだ。 -ローレンス
・自由は責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる。-バーナード・ショウ

・人間が自由であり得るためには、神があってはならない。  ーシェリング
・自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。 ーサルトル
・真に重大な自由はただ一つです。それは経済的な自由なのです。   -モーム
・我に自由を与えよ。そうでなければ死を与えよ。     -パトリック・ヘンリー
・自由は新たな宗教であり、われらの時代の宗教である。  -ハイネ
・ビロードのクッションの上に大勢で座らされるよりも、
 カボチャの上に座って、カボチャを自分で占領した方がいい。-ヘンリー・ダビット・ソロー
・自由を愛することは他人を愛することだ。力を愛することは自分を愛することだ。
                    ーハズリット
・おお自由よ!汝の名においていかに多くの犯罪がなされたことか。
                    -マダム・ジャンヌ・ローラン
・人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しなければ自由を用いる方法がわからない。
                    ーマコーレイ
・世界史とは、自由の意識の進歩以外のなにものでもない。 -ヘーゲル
・自分の好きなように生きている人間は自由である。    ーエピクティタス
・個人の自由も次の点では制限されなければならない。
 すなわち、他の人達に迷惑をかけてはならない。    -J・S・ミル

・アダムはリンゴが欲しかったから食べたのではない。禁じられていたから食べたのだ。
                    -マーク・トゥエイン
・・・・・・
2003年05月19日(月)
775、「ドラッカーとの対話」ー読書日記 -1

 著者/訳者名  :小林薫/著
 出版社名     :徳間書店
 発行年月     :2001年05月
 販売価格    : 1,700円 (税抜)

【本の内容】
ピーター・F.ドラッカーとの40年にも及ぶ交流に基づき、
その思想のエッセンスを読みやすい形で凝縮。

【目次】
第1部 ドラッカーの魅力と先見力
第2部 ドラッカーに親しく聴く
第3部 21世紀を見透すドラッカーの眼
第4部 ドラッカーのキーワード20
第5部 ドラッカーの日本を見る眼・世界を見る眼
第6部 ドラッカー式英語の面白さ
第7部 ドラッカーの人間像

-感想文ー
ドラッガーといっても、そう難しい難しいことを言っているわけではない。
学生時代にドラッガーの「現代の経営」訳者の野田一男教授の講義を受けて、
当時「経営者の条件」「創造する経営者」「断絶の時代」「現代の経営」など数冊、読んだ。
現在も多くの本をドラッガーは書き続けている。彼の要約書が多くでているので、
私なりに纏めたいと思っていたら、この書にであった。小林薫という名も懐かしい。
  この書の印象的なところを書いてみる。
・現在が200~300年に一度の大転換期にあり、100年スパンの
 期間にわたっているという。そして現在はその40~50年目あたりという。
・彼の名言は「強みの上におのれを築け」である。
 これは個人にしても、組織にしても、国としてもそういえる。
 何ごとも強みがあると同時に弱点もあるが、弱点に対しては目をつぶり
 強みを活かすように努めるべきである。
イノベーションも彼の大きなテーマである。
 変化をチャンスとして捉えて、イノベーションをするのが経営だ。
・彼は常に価値、解りやすさ、性格ー人格、知識、ビジョン、責任、自己管理、社会的責任、
 自己実現、尊厳を述べている。
・知識こそ最大の経営資源であり、中心的資源であるが、彼の変わらざる主張である。
このような急激なIT化による情報化になればなるほど、彼の50年をかけて主張してきたことが
現代に受け入れられる。
話は変わるが、彼の「経営者の条件」がなかなか面白い。
 これは最後にインターネットで調べたー書評と目次ーをコピーしておくが、
焦点を成果にあわせよ、自分の時間管理からまず始めよ、貢献について、自己ー自社の
強みの発見に努めよ、重要事項から始める癖をつけよ、と経営者や上に立つもののあり方が
書いてある。
 この本かどうかは忘れたが、上司たるものダーテーであってはならない、潔癖であるべし
というのが彼の変わらぬ主張である。
・・・・・・・
ー「経営者の条件」の書評ー
「エグゼクティブ」とは、何も経営幹部だけのことではない。
ドラッカーは本書のなかで、
「今日の組織では、自らの知識あるいは地位のゆえに、組織の活動や業績に対し、
実質的な貢献を行うべき知識労働者は、すべてエグゼクティブである」と述べている。
したがって本書で述べられる内容は、おそらくほとんどの知識労働者に当てはまるものと
推測される。本書の主題は、どうすれば成果を上げられるのか、という1点に尽きる。
ドラッカーは、この成果をあげるためにエグゼクティブがなすべきことを、時間の管理、
貢献へのコミットメント、人間関係、自分や部下の強みを生かす方法、仕事の優先順位、
意思決定などの視点から解説している。
GMのトップだったアルフレッド・P・スローンや、鉄鋼王カーネギー南北戦争リンカーン
苦しめたリー将軍らが、いかにして成果をあげたのか、興味深い分析がなされている。
事例が古いのは仕方がないが、その洞察には目を見張るものがある。
目次
第1章 成果をあげる能力は修得できる
第2章 汝の時間を知れ
第3章 どのような貢献ができるか
第4章 強みを生かせ
第5章 最も重要なことから始めよ
第6章 意思決定とは何か
第7章 成果をあげる意思決定とは
終章 成果をあげることを修得せよ
もしこの本を読んでない経営者がいたら、すぐ読むことを勧める。目から鱗のはずだ。

・・・・・・
2002年05月19日(日)
411,自分の人生のつくり方 -いろいろな悩みー3

それでは自分の人生のつくり方とは?どうしたらよいか。
ライフワークをきっちりつかまえて、その都度脱皮すればよい。
「脱皮できない蛇は死ぬ」というが、そういう人間で満ちている。
ライフワークとは、一生涯を通じてやり遂げる趣味と仕事。
そして一生涯を通して脱皮の時期がある。7年説、8年と10年という説がある。
ライフサイクルというが、
・7年ー7歳、14、21,28、35、42、・・と節目がある。
・8年ー16、24、32、40歳・・
・10年ー20,30,40,50年歳と・・
またこういう説がある
1、児童期・青年期  0~22歳
2、成人前期     17~45歳
3、成人中期ー中年期  40~65歳
4、成人後期ー老年期   60歳以降
重なっているところは移行期、これが一番わかりやすい。
これと7年説が私の一番納得できる。
その節目ごと、脱皮していく事をいう。「節目を叩け!」という諺があるが。
自己実現という言葉がある。たしかユングの言葉であった。
自分のなりたいこと、したいことを実現することをいう。
それも一生涯を通してだが。それを自分の人生という事にならないか。
子狐がここにきて、にわかにそれをつくろうとしている。
やらないよりはいいが。やるなら10年~20年スパンで何をすべきか判断して、
それぞれ節目を作り、やり通すのがライフワークである。
それをやり通すことが、結果として自分の人生という。
「濡れ落ち葉」はそれを全くやってこなかった人、そして、これからもそれを
見つけられない、その気力のない人をいうのではないか。
 中年クライシスという中年の危機といわれてのが、これである。
中学の先生もそれだった。今度中年クライシスについて書いてみよう。
周囲はその人たちで満ちている。
一ヶ月前、150m先の58歳のご主人が自殺したという。家を新築したばかりなのに!
それにしてもそういうことに無知すぎる!
・・・・・・
2001年05月19日(土)
どうも不調
 昨日1日このがサイトがひらけなかった。
きのう23時に帰ってきて、文章を書いたが記載出来なかった。
これから散歩に行く。