<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
    * ‘誰からも好かれる人’の興盛
 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、ブログとパソコンに明け暮れる日々。ますます内向的人間になっている。 
私の年齢と、時代が、そうさせているという実感がある。 一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、
内向的か、外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれるタイプは、時代によって大きく変わってくる。
 特に、情報化の現在、何が外交的か、内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー
《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年のベストセラ「組織のなかの人間」で、親や教師がどのようにして内気な
 子供を矯正しようとしたかについて述べている。「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、
勉強のほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。友達はひとりか二人だけで、どちらかといえば
ひとりでいるのが好きだそうです」 ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎するとホワイトは書いた。
「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」
親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでもなかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う
準備をさせようとしただけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に立ちまわらなければならない。
大学の入試担当官が求めているのは、特別な学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学
ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。
1950年には、エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想のエール大生は「しかめ面の専門家ではなく、
円満な人間だ」とした。さらに、ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んでいると、大学が何を
望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。
『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に
熱心な学生である。』『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。
 この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン的な性格を持った外交型であることを適確に
把握していたわけだ。・・・ 要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでもあり、相手に
調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。》
 ▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の驚きは、はかり知れないものだった。
 暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレを言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。
 ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。
  私の場合、まずカーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。
1、相手に誠実な関心を寄せる。2、笑顔を忘れず前向きに。3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。
4、聞き手に回り、聞き上手になる。5、自分ではなく相手の関心を話題にする。6、その人を心から大切に思う気持を伝える。
これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるようになった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ
止めてしまった。何故、自分を偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。
人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。
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2013年05月20日(月)
4447, 早朝座禅 −
              「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄
   *「死生観」から「生老病死観」へ
 信長の時代から終戦までは人生50年の時代であった。それから僅か50,60年もしないうちに人生80年の時代になってしまったが、
それまでの死生観では、30年も多く生きる時代に対処できなくなってきた。それが異常な自殺者の増加というカタチで出ている。
そこで問題になるのは老いと病に対する対処の仕方である。ここで著者は「死生観」から「生老病死観」への対応が必要という。
ガンになれば、以前なら老人病で助からない自然死に近い扱いであったが、治療で乗り越えるケースが多くなる。しかし、治療で
生き延びた方が幸せかと老と病に対する問題が出てくる。 そして、それが自殺の増加につながってくる。
  ー まずは、その辺りから、抜粋してみるー 
≪ 人類は「人生五〇年」の時代を長く続けてきた。日本の場合、一九四七年の平均寿命は男性が五〇歳、女性が五四歳だったが、
その二〇年前や三〇年前はおだのぶながおけはざま「人生四〇年」だったかというと、そんなことはない。
あの織田信長が、桶狭間の戦げてんゆめまぼろしごといの前夜に「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」という
冒頭の一節で知られる幸若舞「敦盛」を舞ったのは、一五六〇年のことである。その時代からほんの数十年前まで、四世紀から
五世紀もの長きにわたって、人間の寿命は五〇年だったわけだ。
 現代人は、平均寿命が徐々に延びるのが当たり前だと思っている。だが、それはごく最近になって生まれた「常識」にすぎない。
何百年にもわたって、「人間の寿命はおよそ五〇年」というのが世の中のスタンダードだったのである。
 したがって「人生八○年」というのは、人間社会にとって「常識破り」の大変化だといっていいだろう。人の一生がいきなり
従来の一・五倍以上に膨張したのだから、その急激な変化が人間の心理に影響を与えないはずがない。当然、何らかの不適応が
起きるだろう。現代人のうつは、その不適応のひとつなのではないだろうか。
 というのも、「人生五〇年」と「八○年」では、人間のライフサイクルがまるで違う。人生五〇年の時代は、働きづめに働いて、
気がついたときには死が目前まで迫っていた。だから「人生観」のことを「死生観」とも呼んでいたわけだ。
 だが、人生八○年になるとそういうわけにはいかない。さんざん働いて定年を迎えても、死を迎えるまで二〇年、三〇年もの
時間が残されている。ゆっくりと老い、衰えや病気とつき合いながら、徐々に死に近づいていくわけだ。
 そのライフサイクルは、「生か死か」というシンプルなものではない。「生」と「死」のあいだにある「老」や「病」を
受け入れざるを得ないのが「人生80年」の時代である。その場合、人生観は「死生観」だけでは足りない。
生老病死観」とでも呼べるような、新たな人生観、もしくは人間観のようなものが求められるわけだ。 ≫
 ▼ 両親の最期の頃、二人を看取ったこともあり、生老病死を近くで見てきたが、いざ自分が、その時期に近づくと、
  一人称と二人称の、あまりの開きに驚いている。身体はあちこち痛んでくるし、心は暗くなる。世の中は、決して老人に
  優しくはない。それと身近が次々と亡くなっていく中、死の不安の問題が出てくる。所詮は、全てが死んでしまうのが
  分かっていてもである。考えようによって、以前は僅かだったが、現在は殆どが、長生長者。生老病死をじっくり
  味わうことができる。どう味わうかは「生老病死観」になってくる。その中で、やはり自分一人の世界を持ち、味わうことが
  求められる。現在は情報化の時代、その気になれば幾らでも味わう対象が手に入る。そうなると、それまでの準備があるか?
  群れから自分から離れ、「ひとり」になれるかどうか。手っ取り早いのが、早朝の座禅、瞑想になる。長生きは辛く面白い!
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4073, 哲学で自分をつくる ー2
2012年05月20日(日)
      「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著)  
 以下の人たちの哲学を一通り理解し、ダイジェスト的に説明出来れば一応、哲学の歴史の一端を理解出来たことになる。
 対象が哲学の初心者に向けられているので、門前の小僧にとってシンプルで分かりやすい。
  ーはじめにーより
≪  本書に登場する哲学者と、哲学史上の位置づけは、以下のとおりである。
  �哲学は、ソクラテスからはじまる。
  �近代西洋社会を支えたのは、デカルト、カント、へーゲルの哲学である。
  �根本的な近代批判を展開したのは、マルクスフロイト、二ーチェである。
  �二〇世紀の哲学を構築し直したのは、フッサールベルクソンウィトゲンシュタインである。
  �二〇世紀の哲学を反転させたのは、スピノザハイデガーメルローーポンティである。
   ※スピノザは一七世紀の人間であるが、影響という意味でここに配置されている。
  �二〇世紀哲学は、実存主義構造主義の対立、つまりサルトルと、ソシュール、レヴィストロースの対立に代表される。
  �二一世紀の哲学は、フーコーデリダドゥルーズからはじまる。
  一般的な哲学入門書と似たような構成をとっているが、確固たる哲学の教義体系に必ずしも沿ってはおらず、「近代」以前の哲学や
 西洋以外の哲学についてもあまり言及していない。また、哲学の知識や技術を伝授するような目的で書かれたものでもない。
 ここで言う「哲学」とは、今生きている私たちの「常識」的な考えの「見直し」。「常識」を「否定」「非難」しているわけではない。
 あくまでも「見直し」は、哲学で言うところの「批判」である。その結果、あなたがこれまでの「常識」と違った考え方を
 持てるようになったならば、本書の目的は達成されたことになる。もちろん、「常識」も大事である。
 鵜呑みにするのがよくないだけである。いろいろと考えた末に、「常識」的な考えに立ち戻ってもかまわない。 
 「常識」以外にも別の視座を持ち、力強く二一世紀を生き抜けるよう、願ってやまない。  ≫
 ▼ この近代哲学の区分けも分かりやすい。著者は、常識的考えの「見直し」という点を強調しているが、哲学は本来そういうこと。
   共通するのは、あくまで入門書のため。現在ギリシャが経済を含め破綻しているが、欧米の行き詰まりの象徴である
   ギリシャ哲学の行き着いた果て。人間の心の奥には不安、悩みが常に沸きあがっている。目先の安易の解決を図ろうとせず、
   一度、世間的常識から手を切ることだ。勝手なエゴイズムにならないようにしながら、考え抜いて肯定的に生きるべきである。
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3707, ジャズについて −5
2011年05月20日(金)
       ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 ジャズといえば、日本人の私にとって、「アルカポネがいた20世紀初めの大都会の下町の酒場で、マフィアとか、
チンピラの屯している中で、数人の演奏者が奏でている曲」というイメージがある。 実際に、ジャズの歴史に残る巨人たちは、
そこから名をなすことになる。以下の三人も、ジャズに興味が薄い私でも知っている名前である。
  * "不良の巣窟"に生まれたホーキンス、レスター・ヤングカウント・ベイシー
【 p・189ー アメリカ中西部のミズーリ州カンザス・シティ、まさに‘不良の巣窟’だった街に目を移してみよう。
アメリカでは二〇年から三三年までは禁酒法の時代だった。禁酒法はかえってアル・カポネに代表されるギャングを生む土壌をつくった。
カンザス・シティは、こうしたギャングたちが経営する密造酒場やダンスホールが栄えた街で、ジャズもまたそうした場所を
賑わせることになる。カンザス.シティのジャズを代表するのが、コールマン・ホーキンス(一九〇四〜一九六九)とレスター・ヤング
(一九〇九〜一九五九)という、スタイルがまったく対照的だったテナーサックス奏者の二大元祖だろう。ホーキゾスは、アップテンポの
曲では豪快に荒々しく、バラードでは甘く柔らかく、低音域から高音域まで緩急自在なトーン・コントロールで、サックスを単なる
伴奏楽器からソロをとれる楽器へと押し上げた。 三〇〜四〇年代のニューヨークでは、たいていのテナー奏者がホーキンスを手本とした。
 一方、レスター・ヤングは、同時代人としてホーキンスの色に染まらなかったところに、その独自性がある。
彼はニューオリンズ、メンフィス、ミネアポリスと渡り歩いて・カンザス.シティのカウント.ベイシー楽団で頭角を現わす。
そのテナーサックスは、ホーキンスのリズミカルな力強さよりも、まろやかでメロディアスなフレージングを特徴とした。
二人ともスウィング・ジャズ時代に全盛期を迎えたが、のちのビバップ時代のアーティストとも共演している。
ホーキンスのテナーは、スウィングの衰退後しばらく鳴りをひそめていたものの、五〇年代後半、ジャズの復古ブームとともに蘇り、
力強い豪快なトーンの健在ぶりを示してビバップ派を驚かせた。しかし晩年は深酒に溺れ、栄養失調による餓死同然の状態で最期を迎える。
 レスター・ヤングはシンガーのビリー・ホリデイ(一九一五〜一九五九)との共演でも知られ・ビバップ時代以降は、スタン・ゲッツ
はじめとするクール派の白人アーティストの間に熱狂的な信奉者を生んだ。彼は軍隊生活で人種差別にあったことなどから
その神経を病み、やはり酒とドラッグの助けを借りることが多くなって、晩年のセッションはしばしば深い憂馨をたたえたものになる。、
 カンザス・シティのジャズといえば、なんといっても、カウント.ベイシー(一九〇四〜一九八四年)と彼の楽団を抜きにして語れない。
カンザス・シティ。そのカンザス・シティを拠点に活躍していたカウント.ベイシーも、のちに楽団を率いてこユーヨークに進出する。
エリントンとベイシー。期せずしてビッグ・バンドの両雄がニューヨークで相対し、人気を二分する。いや、三十年代に入って
禁酒法が廃止されると、カンザス。シティの歓楽街の灯も消え、そこを拠点にしていた他の腕こきジャズメンも相次いで、この街をさり、
ニューヨークへと向かうことになる。以後、ジャズの中心地はニューヨークになっていく。 】
▼当時の黒人はスポーツかジャズマン位しか名をなす機会がない世界。そこで名をなすのは至難の技の筈。その曲に魂が入っていて当然。
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3342, 医師と看護婦の危ない関係
 2010年05月20日(木)
 いまさらの話だが、医師と看護婦の危ない関係が表面化してしまった。下世話の話だが、何処かの同級会で
「あの何某、医師になって順調に出世しているが、彼の話だと看護婦は、○○放題?だと!」。
酒席で酔っ払っているので、言っている方も、聞いている方も、ほぼデマ?として本当とは思ってないが、「そういうこともあるんだ?」
と、半信半疑で聞いたことがある。看護婦の立場からみれば、医師にみそめられるのが理想系だが、医師の立場からすれば、同じ医師か、
その世界の娘と結婚をするか、医師のネームバリュー?で自分より格上の家の娘を対象にする。
(字数制限のためカット 2012年5月20日)
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2967,困難は分割して解決しろ!とはいうが・・
2009年05月20日(水)
(字数の関係でカット2,011年5月20日
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2603, 最近みる夢
2008年05月20日(火)             (p≧w≦q)オッ☆ ハ!
 最近みる夢は、ますます深遠の奥にある中心に入り込んだような内容が多い。
  一昨夜の内容といえば、
 飛行機からパラシュートで落下するが半分しか開かない。先に飛び降りた人達のパラシュートは開いているのに・・・
 そして海に落下する。そして気づくと海底の牢獄のようなところでもがいている。 ところが檻があって海面に
 出ることができない。生死の境目を漂っているようなストーリーである。 最近、図書館から借りて目を通した
「死のまぎわに見る夢」の影響だろうか。哲学書の生死の問題について読んだばかりのためだろうか。
 映画でみたダイビングのシーンの影響か。その全てだろう。夢とはその人に深く埋もれている創造性が出るというが。
 現時点の、死に対する潜在的なイメージだろう。何度も書いたが、父親が死んだあとに父のベッドで見た夢は、
 心の奥深く刻まれている。 亡くなる前の数ヶ月、父は「死にたくない」という死の恐怖と闘っていた。 
 一緒に住んでいたので、その気持ちが私には痛いほど感じていた。亡くなった数日後の深夜に、父のベッドで、
 その気持ちに乗り移ってしまい「死にたくない、死にたくない」という父の気持になったのである。 
 その夢から覚めたときに、「何だ生きているじゃないか!」という、父の感覚が乗り移って現に生きているという不思議な感覚。 
 魂が入り込んだとイメージである。 魂は不死という不思議な感覚を、その時に初めて実体験をしたのである。
 27歳時だったが、それ以来20年近く、霊能力みたいな五感以外の感覚が私の中に入りこんでしまった。
 最近は、殆ど無くなってしまったが、何時また出てくるかもしれない。夢の内容を意識的に思い出し考えると、
 不思議な世界を覗き込むようである。深い得体の知れない自己の深遠の世界をみるのである。その奥は、想像を遥かに超えた
 自分の経験の積み重ねだけでなく、何億年の生命の経験の積み重ねの記憶まで広がっているようにさえ思える。
 考えてみれば、宇宙の一点で独り彷徨っているのである。 それを真に気がつくのが死の間際だけとは・・・
 身近な不幸な死を垣間見たとき、つくづく感じるのである。群れているしか身の処し方を知らない人こそ、そうだ。・ω・)ノホナ
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2007年05月20日(日)
2238, お金の正体 ?2
  (*゜ロ゜)ノミ☆【おは?♪】         ー読書日記
ーまずは面白そうなところを幾つか抜粋して考えみよう。
P32ー  ここで不動産のイロハを言うと、
・土地、建物の値上がり率は経済成長率より低い。ロンドンでもニューヨークでも、50年~100年間の統計がそうなっている。
 その理由は固定資産税をとられるからで、経済成長率より低い分はちょうど税金額に見合っている。不動産に対する税金は逃げようがない。
・ロンドンやニューヨークで不動産で財産をつくった成功者がいるが、その人たちは大抵ユダヤ人である。
 ユダヤ人相手に売買して負けになら そうぞおやりください。
   (字数の関係でカット2,009年5月20日
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2006年05月20日(土)
1873, 「ノート術」本当の極意 ?1
    \(^▽^*)おはようございます!*^▽^)/                    
本屋の中を徘徊?をしていたら、ー日経ビジネス・アソシエー という雑誌に「ノート術」ー本当の極意 があった。 
朝刊の広告にあったものだ。7~8年前に、「天才のノート術」を分析してあるトニー・ブザンのマインドマップ方式の
ノート術を知り、これを中学校時代に知っていたら・・と、目から鱗が落ちる思いであった。
ノート術そのものが、脳の力を強化する思考技術だったのだ。このテーマ日記も一種のノートである。
最近になって、モーニング・ペイジという習慣を身に付け、これも目から鱗であった。
これらを人生の最後の直線コーナーに入って気が付いているのだから・・
いや何度か気がついていたが習慣化までいってなかった。しかし気が付かないよりは良いだろう。
随想日記の五年間書き続けたことも、自分にとって最大の収穫である。   φ(ー` )メモメモ ・・・ボキッ!!☆_/o(□`;)!!
話を元に戻すが、この本の内容は奥行きが深い。この特集では、15人のノート術を紹介しているが、
その何人かを纏めてみよう。面白いのが紙面で、そうは書いてないが、内容の濃い順に書いてある。ノート代わりに写してみる。      
  ??φ(.. ) メモメモ あっ間違えた_ロ(.. )m ケシケシ  やーめたφ( ゜゜)ノ ポイ でもなぁ ( ..)_ ヒロットコ
 最初のユニ・チャームの高原慶一郎氏の「ノートがあなたを成長させる」の要点をまとめてみよう。
・45年間に書いたノートは650冊以上。
・テーマごとに分けてノートをとっている。海外出張、コンサルティングセミナー、人生シナリオなど。
 ?大きなくくりとしては、「世界を知る」「経営の定石を体得する」「自己と組織開発」
・世間にありふれた情報や知識をノートにまとめることで、自分として根づく。
 その際に、漫然としてとるのではなく「1P6W2H」でまとめます。
 -priority ー優先順位 
 -6W=5W+whom
 -2H=how to, how much.  こうした視点で、自分の思考を瞬時にまとめる。
・ノートはコクヨのA4サイズの「キャンパスノート」に100円のボールペンで書いている。
・あらかじめ最初の数ページは目次と要点をまとめるページに割いておく。
 それぞれのページの欄外には気づきやヒラメキを書く。キーワードにはマーカーをひく。
・書いたノートは執務室の書庫に保管して、いつでもオープンにしています。
 ナレッジは共有・継続するものなので、体系的に整理して「ユニ・チャーム語録」
 としてまとめました。 それを社員手帳に収録し、全社員に配ってます。      
  (字数制限のためカット 2010年5月20日)
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2005年05月20日(金)
1508, 猛女怪女列伝ー2
藤田小女姫
美人霊能者として一世を風靡し、時の政財界の大物まで占った女性占い師である。ところが1994年、ハワイで子息と同時に
別々の場所で殺され、その真相は現在も充分明らかになってはいない。彼女は結婚後3年で離婚(1964年)、1968年には
経営していた有楽町のサウナ風呂の店が焼け従業員3名が焼死。その責任として、執行猶予つきだが有罪になっている。 
(字数制限のためカット 2012年5月20日)
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2004年05月20日(木)
 1143, 宇宙とは自分の脳みたいなもの!
この言葉に出あった時に、真言密教の奥義を知ったような深遠な感覚を持った。
宇宙といえば、太陽系があり、銀河があり、その銀河が数百億あり、その銀河系の中にブラックホールがあって、もしかしたら、
そのホールが他の宇宙のトンネルになっている可能性がある。地球物理学者の松井孝典氏の本の一節で、「この宇宙が『自分の脳』
みたいなもの」と言ってのけるのだから驚きである。 
 (字数の関係でカット2,008年5月20日
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2003年05月20日(火)
776、「ドラッガーとの対話」  ?読書日記ー2
『未来を読みきる力』
 この人の日本における経営者への影響は絶大なものがある。
ドラッガーの経営書と司馬遼太郎歴史小説と、山岡荘八の『徳川家康』は戦後の経営者のバイブルであった。
(字数制限のためカット 2013年5月20日)
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2002年05月20日(月)
 412, 次の旅行の予定
ー次の旅行の予定である、だだ変わる可能性があるが。
(字数制限のためカット 2013年5月20日
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2001年05月20日(日)
 随想日記?テーマ日記
8年前より随想日記?テーマ日記に切り換えた。其のためこのような風変わりな日記となっている。
(字数制限のためカット 2013年5月20日)