* 高齢者の三割が認知症とは
 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。
その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害が400万人もいると推計される」とあった。
高齢者が人口に占める割合が23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、三割近くが
軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違ってくるから、80歳までに4分の1、それを超えると、
過半数認知症になる。 そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。
 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加している中、本人も周囲も深刻な問題である。
「健康診断などしないで自然死も選択の一つ」も、理解出来る。 胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う
ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びるも地獄。老いて死ぬのも大仕事である。
 これを書いたためか、自分が認知症になって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、
<店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、
何も答えない。ところが後で入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。私が店のシステムの
要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、
店内の座席は、二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っていることに気づいた>ところで、
目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、こんなものと自分自身に知らしめる内容である。
 そうこう考えると、可能な限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命一年、半年と
告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿から知った。傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。
それも、激痛が、死にたくなるほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症を神様が
与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も地獄になる。生きているうち、元気なうちである。
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4446, 屋根裏に誰かいるんですよ
2013年05月19日(日)
       「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著
 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、
困っている」と切り出してきた。それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てにならない話で、
もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。
私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れて
いるのが分かる。ところで、うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックスセンスがあると
聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと
考えるしかありません。そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、その人の共通の知人に
話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」
とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 
  ーアマゾンの内容説明ー
 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。
ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを
盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪の
しわざとしか言いようがない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。
このような症例は、多数報告例があるらしい。患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない
場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学はたちどころに
歯切れが悪くなってしまう」と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。
 ▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、当人は深夜怯えているのだろうが・・
  想像しただけで、背筋が寒くなる。当人にとって感じるのだから! 私も一時期、女性の幽霊?を見たり、
  幽体離脱をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。
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4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話
2012年05月19日(土)
 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい)院代が2時間近く出演し、
「生きる」ということ、「死」について、説いていた。最近、「恐山」出版されたようだ。
東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れてくるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。
院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。
・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 ・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) 
・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。
・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がることが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。
・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。
・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人には心があったのであって、いまさら、この時代だけを
「心の時代」と言うのか?「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品を作っているではないか?
 等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、
 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。
 東北大震災で奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが
 感じられなかったという。哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 あっという間の二時間だった。
 30年前に行った恐山は、強烈な印象である。山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに置かれていた遺品。
 そして、イタコと涙ながらに話している人たち。目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。
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3706, 自己を見つめる −23
2011年05月19日(木)
   ー 他者について ー             「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)   
 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。そして一般的には、「他者」は、自分以外の人や、
生物、そして物を総称して呼ばれる。  二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。
【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえばブーバーなどを中心として、多くの思想家によって、
二人称の「汝」と向き合った、「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて強調されるようになったのも
当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になってゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題として
重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に
設定するほどである。こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まるとも言えるが、
とりわけ現代において強調された重要な問題意識であると見てよい。
 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を
行使しようと隙を窺っている、油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、
永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは幻想であり、むしろ、個別の体人同士の
峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本事実と見なされるわけである。
 ヤスパーも、人間関係において、やはり、争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。
・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、
 すぐに露呈してくるからである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われるかの、生死を賭けた争いの火花が
 噴出してくることは、誰もがつとに覚悟している。 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順や
 業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、憂き世での浮沈が結果としてくる。
・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、
 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも
 気懸かりの種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が
 真に信頼の置ける人物であるか否かを、人は不断に確認しようとする。・・・   】
▼ ソクラテスデカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。
  しっかりした「自分」があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、19世紀初めに
  生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が
  先にいるからであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを意識することによってはじめて、
  「私」は、この世に位置づけられる。 人生の節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。
  特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。
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3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる
2010年05月19日(水)
    「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著
 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それがより多くなったようだ。
それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張るものがある。 プロとアマチュアの差は、
「多くの角度から枚数を撮って、その中からベストのものを選択できる要因の差」という。
 (字数の関係でカット2,012年5月19日) 
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2966,ミューズが降りる
 2009年05月19日(火)
先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸について語っていた。
年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が降りてきて、自分でも信じられない芸になる。
その幾つかの中の一つの「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、度々あるのだろう。 
森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?。 談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」
 ーネットでミューズを調べてみると・・・
ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文・芸術一般などの女神たちの総称。
個々の女神は、Muse ミューズで単数の形になります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに生まれた、
9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 
霊感の鋭い人の感覚は、鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗っているときは、
誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。 頭に浮かんだイメージに自分を通してエネルギーを入れると、
魂が入るということだ。芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。
私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界か、混同することがある」(新聞紙上)
と、同じようなことを言っているのだろう。 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、
誰にもあることでしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、それだけ人間の脳力は
深いということ。 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。)
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602, ごっこ遊び
2008年05月19日(月)     
         ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
  ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー
ごっこ遊び(ごっこあそび)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。
通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、テレビやマンガの
ヒーローやヒロインのまねをして遊ぶ場合がある。こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなものでごっこ遊びにしてしまうので、
「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】とある。 子供の頃に、
多くのごっこ遊びをした記憶がある。最近は、若者の間にアキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。
他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーションゲームから派生したアメリカで考案された遊び。
参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、
架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。
様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物のように活躍できる。考えてみれば、世の中の多くは
ごっこ遊び」のようなもので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。
 (字数の関係でカット2,011年5月19日) 
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2007年05月19日(土)
2237, お金の正体 ー1
      「お金の正体」 ー日下公人著      (((。・-・)从(・-・。)・゜
「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。
特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。しかし、どれを読んでも面白いのは、
金が欲の集約でもあるからである。この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、実際読んでみると、面白い。
「お金の正体」はつきつめると「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。
幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。
私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。
(字数の関係でカット2,010年5月19日)  
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2006年05月19日(金)
1872, グーグル Google -8    ー 読書日記
   (字数の関係でカット2,008年5月19日)             
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2005年05月19日
(木) 1507, 猛女怪女列伝
  ーアナタハンの女王
終戦直後の日本で、このようなドラマがあったと「新潮45」という月刊誌のー猛女怪女列伝ーで初めて知った。
 太平洋戦争での敗戦濃厚になった、昭和19年6月から6年間、敗戦を知らない南海の孤島「アナタハン」で取り残された
 (字数の関係でカット2,009年5月19日 H0903
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2004年05月19日(水)
 1142, 自由について ー2
「自由ほど不自由」ということを感じたことを誰もが経験していると思うが?これは「自由な自己決定」を迫られる
「不自由」ということにある。自由とは主体的であるということだが、その主体ということが怪しいのだ。
(字数の関係でカット2,013年5月19日)
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2003年05月19日(月)
 775、「ドラッカーとの対話」ー読書日記 ー1  著者/訳者名:小林薫/著
【本の内容】 ピーター・F.ドラッカーとの40年にも及ぶ交流に基づき、その思想のエッセンスを読みやすい形で凝縮。
 ー私の感想文ー
ドラッガーといっても、そう難しい難しいことを言っているわけではない。
(字数の関係でカット2,013年5月19日)
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 2002年05月19日(日)
411,自分の人生のつくり方 -いろいろな悩みー3
それでは自分の人生のつくり方とは?どうしたらよいか。ライフワークをきっちりつかまえて、その都度脱皮すればよい。
(字数の関係でカット2,013年5月19日)
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2001年05月19日(土)
 どうも不調
昨日1日このがサイトがひらけなかった。きのう23時に帰ってきて、
文章を書いたが記載出来なかった。これから散歩に行く。