つれづれに

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1403, 人口減少経済の新しい公式
2005年02月04日(金)
                ー 読書日記
ー縮む世界の発想とシステムー

この本を読むと日本の将来に対し非常に悲観的になる。
解っていたことだが、ここまで理路整然と日本の悲観的な現状を
人口減少という面で指摘されると・・・

本屋で並んでいる日本の将来の悲観論より、
何げなく人口問題で指摘されると、やはりショックである。
考えてみれば、経済の本質は人口問題である。
その減少ということは、それも労働人口が激減するというから、
これに対する手段は考えにくく、悲観的になる。

ーまえがきーの一行目からして刺激的である。
「今日は、2015年の大晦日。今年も企業の売上高は前年を下回った。
そうした状況はもう何年も続いている。新聞でも経済成長率をいう言葉は消えて、
「経済縮小率」という用語が一般的になった。
しかし経営が悪化する企業は殆んどなく、景気の現状を不況というひともいない。」
ーー
以上だが、
地方経済、特に新潟や札幌などのデフレなど、不況を直撃している地区にとって
現状そのものである。

これからの変化は一挙に迫る極大値後"(2008~9年)の世界に突入する。
速すぎる日本の人口減少高齢化により自然と経済成長率が最も低くなる。
極大値に達した後の日本経済の破裂がこれから起きようとしているのだ。

経営環境の激変の原因は、2030年に3分の2になる労働力の減少問題であり、
そのために縮む経済規模にある。
(この時期の人口は14,2㌫減だが,労働時間と労働者人口の関係で
33,4㌫の労働力減になる)
労働人口の減少は、生産設備の総量を減らすことになる。
遵ってスリム化が企業経営の基本になる。

今までは、都会ー特に首都圏が豊かであったが、今後は地方が豊かになる。
老齢化により都市圏における生産性が極端に落ちていく。
元々老齢化が進んでいた地方が逆に豊かになり生活水準格差が
縮小していく。

先ずは公共サービスの見直しが迫られる。
現行の年金制度も維持できなくなる。
公共事業も半減せざるを得なくなるのも自明のことだ。

社会は全体より個人が優先されるようになり、
働かない自由も、世間一般的に承認される。
またライフスタイルの多様化がますます進むことになる。

「人口減少経済」の中にあって、日本の経済システムの再構築が
おこなわれなくてはならない。
地域経済システムの再構築が当然の事として、おこなわれる。

人口減少下の生活設計も根本的に変えざるを得ない。
ソ連の解体と同じ結果が待っているのだ。
解っていても、どうにもならない事態である
勝ち組は一部に限られ、大部分は負け組みという形で収入は激減する。

いずれにしても、これからの若い人にとって、
「断絶の時代」が待っている。


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ーある書評
日本経済新聞 朝刊
(2004年6月20日掲載)
 
「人口減少経済」の新しい公式、
方策の問題点突き、通念崩す
――松谷明彦著

 一国の経済の運営は長期を考える「参謀本部」を要する。
日本ではその役目を霞ケ関が担ってきた。
この本の著者はまさに霞ケ関出身であり、その使命にふさわしく、
長期を熟慮した大いなる問題提起の本を書いた。
人口減少という、避けてとおれない重要事をつきつめて考察し、
しばしば提起されるふたつの逃げ道のあやしさを衝(つ)く。

 ひとつは出生率の上昇である。
働く女性がふえてもスウェーデンのように子育てと両立する雇用慣行、
ファミリフレンドリイな施策をとれば、高齢化は防げる、という方策である。
他は、昨今の経団連の提言のように外国人労働者をいれて問題を緩和しよう、
という方策である。

 このふたつの提案を人口の分析というきわめて確度のたかい根拠から否定する。
出生率の回復をまつ前にもう高齢化がきてしまう。
そして外国人労働者で人口高齢化をふせぐには、二十五年後までに
二千四百万もいれねばならず、しかも問題の先送りにすぎない。

 この本が人口を軸として将来を予測した結果は、通念とはまるで違う。
地方の繁栄と大都市圏の衰退である。
いま比較的若者が多い大都市圏はこれから高齢化の影響をまともにうけ、
就業機会も所得もおとろえる。他方、地方こそ一人あたりの所得は増加する。

 企業経営も大きく変容せざるをえない。
売上げ拡大よりも収益率重視となる。そのもとには投資から消費に力点をおく
経済がある。そして高齢化のもたらす諸問題、年金、金融システムなどに
たいし、明確な対策を提案する。鋭い分析の書である。

 ただし将来の姿を描くとき労働面では通念につよく依存するのがもったいない。
これまで会社への忠誠心が高く長時間とにかく正確に作業しそれが効率のもと、
とみる。それゆえ高齢化の影響がはなはだしい。
だが、わたくしが職場で観察したかぎりでは、相当に高度で知的な、
それゆえ高齢化によって損なわれない技能がある。
それを拡大できれば、やや別の姿が描けるかもしれない。
それが将来を描く要点、対外競争力に迫ることにもなろう。
日本経済新聞社・一、九〇〇円)

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2004年02月04日(水)
1036, 一人遊び -2

以前「一人遊び」を書いたことがあるが、再び書いてみる。

一人遊びができれば人生の問題の大部分を解決できるだろう。
自己完結をしたことになるからだ。
一人で散歩をして、読書をし、一人食事をして、一人で考え、一人街を歩き、
一人買い物をして、一人で旅に出て、一人仕事をする。
一人遊びは人生を通して、特に晩年に要求される。
これは訓練と練習で身につけることが可能である。
しかし長い年月の積み重ねが必要である。
その積み上げた一人の楽しみを知ってこそ、人との楽しみも数倍に膨らむ
ものだ。

いま35年前の日記を書き写しているが、一人でよく遊んでいたことに驚く。
若かったことと、遊ばなくては神経のバランスが保たれなかったのだろう。
それが結婚を機にして、一人遊びのカタチが変ってしまった。
本屋まわりや、散歩や、読書や、ホームページの書き込みや、
図書館通い、などなどの一人遊びをしている。
大人数の末っ子ということもあって、あまり人に気をつかうのが嫌なのだ。
といって、多くの人の周りにいたいのだ。

ノイローゼとか、精神症は他者に依存をしようとする姿勢から生じる。
群れの中で自分を見失っていくのだろう。

連れ添いに先立たれて、友人も次々に亡くなった時に真の一人遊びに
なるのだろう。

以前書いた「一人遊び」の内容をコピーしておきます。
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2002/01/05
一人遊び

孤独に強い人かどうかは、一人遊びができるかどうかにある。
一人で楽しみを見つけ遊ぶ・・・、
書いていて気がついた、それって「お宅」でないか。
似ているがやはり違う。

それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのでは?
結局中途半端のそれをいうのではなかろか?
字のとおり「お宅」は部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。

山登りや釣りなどは、一人遊びの典型である。
別にそれをお宅とはいわない。
読書好きの人もお宅といわない。

ところで私の強みは孤独に強いことだ?
人に何かを求めないこと、求めてもそこに何もないことを、経験上知っている。
結局人間最後は一人だ。
自分をボールに見立て、一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくる。

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)を示すことだ
「示単」。これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。
そこで自分の好きのことを見つけ、
それを楽しむことから始めなくてはならない。その積み重ねが個性を作る。

ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。
「人は人、我は我、されど仲良く」が、一人遊びの本筋である。

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 2003年02月04日(火)
671, アルカイダ

「お前は言葉のアルカイダーだ!」
土田氏の葬式に出たときの「しのぶ会」で,ある同級生にいわれた言葉である。
同級生『ヘンな奴に何をいわれても「あの馬鹿!」で済むが、お前の奴は
ズバリ核心を言うからな~。・・・・お前は言葉のアルカイダーだ』
私『じゃ~お前は下半身のアルカイダー!』
同級生『・・・・・・』
これは私の瞬時の答えである。
同級生同士が酒を飲んで他愛もないことを言い合っていただけだが。

「何々のアルカイダー」は何でも使えそうだ。
銀行のアルカイダー化が今の日本を駄目にしているとか。

私の学生時代の専攻が「社会学の人間関係学科」だったから、
どうしても人間の本質を話すので、聞く人はグサリとくるのは解る。
別の男が『それよりもっと凄い言葉がないか?』と言ったが出て来なかった。

それではアルカイダーが正当化されるか?
自殺を正当化して、それを武器にするテロは正当化されるものではない。

城下町のような固定化社会では、なるべく波風を立てないで真実より目を逸らす
方がよい。でも言いすぎであるのも事実である。

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  2002年02月04日(月)
 321、宗教的真実について-1

・「もし、私の聖書の読み方が正しいとすれば、神があるがままの
人間を愛される、あるべき人間の姿を期待して愛されるのではないのです」
(ジョセフラブ・神父)

この言葉でハッとした。あるべきという視点で人を見ていなかったか? 
マイナスをマイナスとして愛すということ?
だから、こうあるべきとかいう自分の価値観で、人を見るべきでないという
理屈は納得する。

宗教は真実を気ずかしてくれる。

・「聖書は事実でないかもしれないが、真実である」
これもいい言葉である。
聖書の創世記では「アダムとイブの時代」は7000年前という。
150億年前のビッグバンとはあまりに差がありすぎだ。

私が神に対する知識といえば
「人間を自然をここまでならしめている天地創造の存在」
「人間の創り出した手前勝手な絶対的存在」
「人間が持っている共通意識の絶対存在」
「言葉が造り出した理想的バーチャルの世界の絶対者」
「人間が創りだした自然現象に対する畏れの神格化」

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2月4日 火曜日 1969年

朝8時半、母屋から電話で起こされる。
誰だろうかと、思ってでると中条さんだ。
アルバイトで知り合った人だ。
石原慎太郎と美濃部の都知事選挙で、数日間宣伝カーでマイクを
ガナッタ連れであった。
数日間、そのアルバイトからの帰路、寮が近くにあり
飯田橋の駅から二人で話をしながら帰った。
富山県のおっとりした芯の強い人だった。
その後オーストリアに留学をした寮隣の部屋の河路さんと親しくなった。

その妹分の洋子が、今日これから荷物をまとめて帰ってしまうという。
洋子は躊躇をしていたようだった。
本人と話をしていると、胸がつまって何も言えなくなる。
自分がおかしくなって涙が出る。
彼女も泣いていたようだ。

三年の時によく合コンで気があって何時も一緒だったが。
学生時代で女性では一番心が通じた一人であった。
私の好きなタイプの品の良い、素素としたお嬢様タイプの美しい人だ。
一年間全くの接触が無かったのに、このタイミングの電話は厳しい!

中途半端に、何もいえないで電話を切ってしまったが。
見送りに行くべきであったのだろうが、不意なので思いもつかなかった。
でも、これから故郷に帰ろうという直前に電話をくれたのは嬉しい。

そういえば、去年の二月初めやはり(仁科)ヨウ子という名前の人が、
これから帰るという電話が来たことを思い出した。
女性の場合、そういう時誰かに電話や手紙を出したくなるのだろう。

毎日のように一人一人と別れになる。

部屋に帰ってきて再び寝る。
何かどうにもならない自分に対してヤケ寝しかない。
13時に起きて食事をして、そのあと試験勉強をして風呂に行く。

その後、彼女に2時間かけて手紙を書く。
恋愛感情はなかったが?やはり寂しい。
はっきりいって、自分でも自分の気持ちがわからない。
しかし一度も誘わなかったことが恥ずかしい。
心からぶつかってきてくれた事がよい思い出だ。
いい加減さを突いてくれたことも、はっきり憶えている。

と強がっていても、今かなり動揺をしている。
仕方のないことだ、今さら時間は戻せない。
お前は傷つくのが怖いだけなのだ。
その自分をどうしようもない。
また、1人と最後のお別れだ。
いまの、それは一生会う事がないだろうから、キツイ。

いまは学生時代そのものと別れているのだ。

自分ももうすぐ旅立つ!