つれづれに

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 晩秋の早朝のポタリング、そろそろ終りに近づいている。雨が降らない限り、今週いっぱい。
そして、来週が、午後三時から一時間程ポタって、来年の3月一杯まで休みに入る。
早朝の雨上がりのポタリングのスリップに注意しているが、やはり怖い! 流石に誰も、
散歩も自転車のライダーも、ほぼいない! しかし、気分は爽快である。

・・・・・・
2064, あたりまえなことばかり -15
2006年11月27日(月)
           o( `▽´ )Ψオハヨウ!         
 7歳の頃、一番上の兄が死んだ時、姉に「死んで兄ちゃん、どこに行ったの?」と聞いた。
そのときの姉の答えは、「白い馬になって、空の上の昇っていたいったのよ」であった。
数日後、本当に兄が白い馬になって空に昇って行った夢をみた。
子供ながらに、その時の両親と兄・姉の悲しみは敏感に感じ取っていた。
こういう経験を重ねて、死は怖いもの悲しいものという先入観が植え付けられるのだろう。
亡くなってから何度か「どこかに行っていた兄が帰ってきた夢」をみた。
空の彼方からというより、そのつど事情が変わっていた。
兵隊から帰ってきたり、旅行より帰ってきたり・・・   
 人は元気で長生きをしなくてはならない。世界も、自分も変わっていく。
それは遥かに予測や想像をこえている。いま、ここは全てである、しかしその全ての背後に
得体の知れない想像をこえた世界がある。それは、変化していく自分の世界と経験の
蓄積の範囲でしか知り得ない。    
ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー②
ーーーーーーーーーーーー
言語と論理に即して考える限り、「死は存在していない」。自分の死は言うに及ばず、
他人の死すら「見つからない」。しかし、だからこそ、「他者が死ぬ」とはいったいどういうことか、
悩ましいなぞとなる。死は存在しないが、死体は存在する。他者の死体の存在によって、
現実の出来事になる。
 死の境によって動いていた体が動かなくなる。この変化の意味、これが理解できない。
理解できないまま、死体は然るべき手順で処理され、無くなる。死体として存在していたものが、
もう触れることも出来なくなる。我われが他者の死を理解したと思うのは、やはり物理的肉体の消滅、
その確認ということだ。逆にいえば、物理的確認がなければ、我われは、「その人が死んだ」
ということを、どこまでも理解できないことになる。
人類における葬式、葬送の儀式とは、この、理解できない他者の死を、理解しようとするための
方策に他ならない。文化的社会的なけじめを与えるのでなければ、我われは「その人が死んだ」
といえない。繰り返しになるが、死は存在せず、死は言葉としてしか存在していないからである。
 子供が、他者の死を理解できないで、たとえば「オジイチャンどうしたの?」と聞いたときの答えが
親「死んだのよ!」
子「死ぬってどういうこと?」
親「いなくなることよ」
子「今どこにいるの?」
親「お空よ!」OR「天国よ!」
おそらく多くの子供が、この答えに納得する。何かが腑に落ちるのである。無になることが
理解できない存在者としての我われにとって、このような回答は何かが自然なのである。
これが大人になったときにも、基本的に変わらず「彼岸」もしくは「あの世」と名を変えて
無自覚的に変わってないのである。「死者への語りかけ」、しかし、多くの我われにとって
他者の死を「他者の死」として一般化することは出来ないだろう。
「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とは、フィリップ・アリエスによる
卓越な分類だが、ふつうに我われにとって問題となり得るのは、「二人称の死」としての他者の死であって、
「三人称の死」としてのそれではない。通りすがりに見知らない人の死は、人は泣くものではない。
泣くのは見知っている人である。
我が死んだ子、記憶の中の死んだ子は、決して成長することはない。
肉体として存在せず、しかし、記億としてありありと存在する子供と、生成する関係を共に
生きることができずに、人は悲しむ。悲しみとは、子供の死というより、むしろ記憶の所有だろう。
その人の肉体の消滅とともに、なぜその人の記億もまた消滅してはくれないのか。
 --
 「お空の彼方」ー良い言葉である!
 お空の彼方からきて、お空の彼方へ行くのだろう。
 熟睡も「お空の彼方」なのだろう。
 たまに、帰ってきたくなくなることもあるが!
 いやないか? ここがお空の彼方だものな~
              
・・・・・
2005年11月27日(日)
1699, 人生の価値について -1
                 -読書日記 
『人生の価値について』西尾幹二著 新潮選書  (-_ゞnemu
                 (~O~)ふぁ
 この本では、どうしたら人生に成功するかという
いわゆる人生での成功の秘訣や、いかに生きがいを見つけるかといったことは書かれておらず、
生きがいとは何か、 成功は価値に等しいのか、が述べられている。       
 成功失敗、 幸福も不幸も、希望も絶望も、生も死も、
 結局は同じものの二面性にすぎないという。
「人生は偶然に支配され、何が起こるか分らないからこそ、生きるに値する」という、宿命を
認めているところは本人の人生体験を重ねて深いところを見据えている。 104節からなる
各々の文章が、どれを読んでも解りやすい文章で読者を深いところで納得させている。
              ♪~♪~     ((  
                      匚P  
 ー90節の「希望について 」が、心に残った。
 重病患者ばかりが入っている病棟に入院したときの著者の記述が鋭い。
著者がそこで不思議に思えたのは、明日にも死ぬかも知れない
人々にも「社会生活」があることである。
余命幾ばくもない患者たちが、日常のささいなことに心をとらわれていることである。
明日の命も知れぬ人が、ナイター中継に夢中になっていたり、同じ病室の人に悪く
思われないように気をもんでいたりすることなど、「死」という大きくて困難な問題を
直視しないようにしていることを知る。 Σ(゚Д`;)ア…ア…アッハァァァァァァァァ?!!
                       死にたくない!
このような経験から感じたのは日々の小さな出来事に敏感になることで、
困難で恐ろしい(死)を考えないですむようにする人間のたくましい実態である。
パスカルはこんなふうに言っている。
 「人間と言うものは、どんなに悲しみに満ちていても、もし人が彼をなにか気を紛らわす
ことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけ幸福になれるものである」 
                         Σヽ|゚Д゚|ノ┌┛☆死
また102節の「人生の長さについて」もよい。
「人生は快楽や楽しみごとや不安や緊張や困難でいっぱいに満たされているのが通例である。
 だから時間は素早く過ぎていく。しかしそういう物を何かの偶然で突如欠いてしまうと、
 時間はとたんにだらだらと怠惰に流れ、退屈という新しい苦痛が発生するのである。
 時間はそのさなかではむやみに長く感じられる。」   (′O`)hima~
「今過ごしつつある時間を長く感じることを人間は一途に嫌悪し、これを避けようとするのだ。
できるだけ時間を短く過ごすことが生の確証であり、生きがいの充足をしていると思っている。」 
 著者は「あらゆる人間の行動はすべてその人の暇つぶしである」と述べている。
この人間の行動というものの中には仕事や家事、学術的な研究まで含まれる。           
 暇であるという状態は、その人に自己の生の無意味感を与える。
それを感じたくないがために、我々は何かを行っていなくては生きていけないのである。
何かこの辺を読むと人生とは何ぞやとか真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
                          (^_-)つづく                    
・・・・・・・
2004年11月27日(土)
1334, 「おカネの発想法」ー読書日記
父が末期ガンで死期を悟った時、私に意味深のことを言ったことを思い出す。
「紙に一千万と書いて、この一千万と通帳の一千万と自分にとって何が違うだろうか。
今さら一千万の現金を手にとって使おうとしても何に使えない」と。
死を目前にした父にとって、いくら現金があろうが、それが何にもならない。
お金も、元気なうちに使わなくては価値がない。
「使えるから価値があるので、使えないのは価値がないのと同じである!」と言いたかったのだろう。
好きな事業をしてきて、地方としては戦前・戦後と二つの時代に渡って成功をしてきた人である。
そして、道楽も幾つか持ち人の数倍も人生を楽しんでいた。
「全く同じ人生を、いま一度生まれてきた繰り返したい!」が、父の最期の口ぐせになっていた。
父は事業の恐ろしさを知り尽くしていたので、最悪のヘッジとして不動産や、証券や、古道具や、
現金にして溜め込んでいた。しかし死を目前にして、何だったのか疑問を持ってしまったようだ。
反面、事業をしていると、資金は命の次に大事であるとを思い知る。会社の血液である。
「ある日突然、思いもよらない時代の激変が起こって裸になってしまう!」ことが、経営の宿命である。
そのため、経営はそれに備えて置かなくてはならない。
しかし、あるところまで生きてきたら、生き方そのものを転換をしなくてはならないことを、
その時に父から教えてもらった。
 ーーー
 =この本の印象に残ったところを抜粋してみる=
ーあなたは、おカネである金貨を大きな袋に詰め込んで船に乗り込んでいます。
ところが、乗っていた船が激しい嵐に襲われて、船を捨てて避難しなくてはならなくなりました。
そこであなたは、金貨の袋を腰にくくりつけて、海にとびこみました。
海底に沈んでいきながら、あなたは人生を振り返りこう思い悩みます。私はお金を所有していたのか、
それとも、お金が自分を所有していたのだろうか、・・・と。お金は所有するものであって、
所有されるものではありません。お金に振り回されないためにも、お金を所有することの向こうに
あるはずのリアルなコミュニティの重要性に気づくべきです。
ーーー
ーヤップ島の石のおカネの話と我われの通貨とどこが違うというのか。
ヤップ島には、車輪のついた乗り物がなかった。したがって、道路も整備されていなかった。
そこで、、1898年にドイツ政府がコロリン諸島をスペイン政府から買取り、所有権を引き継いだ時、
荒れ果てた道を修繕するように通達を出しました。ところが、全然修繕が進みません。
そこで、ヤップ島の通貨として指定したドイツマルクで金を取ろうしたが、島民達は、笑うだけで
自ら修繕しようとしません。
そこで一計を案じました。
通達を出した村や町に役人を送ると、価値ありそうな現地の通貨の「フェイ」に「×印」をつけて、
政府所有にしたのです。この政策がウソのように効果をあげ、ドイツマルクに対して、
何とも思わなかった島民は「フェイ」を失ったことを悲観して、ひっしに働きだした。
修繕が終わると、政府は「フェイ」に書かれた「×印」を消して回りました。
島民たちは、自分達の財産が戻ってきたことを心から喜んだという。
ヤップ島のひとを笑うのは自由だが、本当に笑えるだろうか。
というのは、私達がお金と信じている預金通帳のデーターも、
本質的には「フェイ」に書かれた「×印」と大同小異だからだ。
                              つづく
・・・・・・
2003年11月27日(木)
967, PDPテレビをいれて一年、の感想
 一年前の随想日記を振り返って読んでみて、PDPテレビをいれて一年経ったことに気づいた。
丁度その頃、会社の近くにDVDのレンタルショップが開店したため毎週のように借りて見ていた。
オーバーにいえば、そこの見たい映画を殆ど見てしまった、といってよい。
 普通のTVがハイビジョン並みの画面である。それと画面の大きさが一番のポイントである。
映画館にいっているようで、綺麗で迫力がある。その為、劇場中継や音楽番組や自然紀行などの
番組がすばらしい。
 次の世代は「実際見るよりより綺麗な画像」になる可能性があるという。
人間の眼よりも世界を鮮明にとらえてしまうのだ。プロの使うカメラの世界は、ずっと前にその段階まで
入ってしまっている。これからは映像の世界がそうなるというから、想像を超えた世界になるだろう。
 PDPの値下がり幅がもっと進むと思っていたが、それほど下がってない。しかし「カタ落ち」では
1インチ一万円(50インチー50万)に近づいている。価値はあるかと問われれば、
「充分ある」というのが答え。
「36インチのブラウン管のハイビジョンと変わらないのでは?」といえば、そうではない、
それなりの価値はある。来年から爆発的に売れ出すであろう。3年後、1インチ5千円あたりが
落ち着きどころだろう。それよりも一緒に買ったDVDがよい。ハードに録画を貯めておくのが
非常に便利である。DVDに録るということは皆無である。どんどん録って、見て面白くないのは
消去できるからだ。あのビデオの物理的な煩わしさから開放されたのが良い。

・・・・・
593, 八ちゃんの時代
- 2002年11月27日(水)
 八ちゃんという言葉が私のアイデンティーである。8人兄姉の末っ子で、
父親の42歳の子供であった。両親と兄姉と従業員の中で可愛がられ育った。
特に父親に溺愛されていた。但し物理的には何も与えられなかった。
当時は誰もがそうであったが。今も人好きなのは三つ子の魂いつまでもである。
 今でも姉が憎憎しく「あの八ちゃんは何処にいったの?」という。
「しょうがないだろう、あれから五十年経ったのだから」これが私の答えである。
 今考えてみても刺激の強い幼児期だった。映画のような世界であった。
刺激は強く貧しいが、明るく豊かな世界だった。
今も鮮烈に当時の記憶が残っている。子供心に当時の出来事を全て受け止めていた
・無尽上がりの??相互銀行のKが成り上がってきたとか。
十日町イチムラが近くに百貨店をオープンした。
・同じく三条の香具師が百貨店を開いたとか。
・母の従兄の内山由蔵さんが市長になった。
北越銀行の頭取が何処かの未亡人に熱を上げて通っているとか。
 見ていても、聞いていても刺激の強い世界であった。
自殺、夜逃げ・妾の話が子供ながらに面白くワクワクして聞いていた。

・・・・・・
[240] 土日.祭日のすごし方
- 2001年11月27日(火)
土日.祭日は
・5~6時起床。パソコンに30分向かう。
・6時前にウォーキング、8時前に帰る。
・風呂に入り、食事、新聞・TVと続く。 午前はこれにパソコンいじりが加わる。
・午後はTV(愛の貧乏脱出大作戦、新婚さんいらっしゃい、ETC)
 図書館、スーパー、読書、ショッピングセンターか何処かにいく。
・夕方は散歩をかねての居酒屋か、郊外の飲食店で食事。 更にウオーキング
・そして夜はTVかパソコン、これで一日が過ぎる。
 単純だがこれが私にとって楽しい。
1~2月に一回は柏崎の家内の実家に行く。BSハイビジョン放送が始まって以来、TV が面白い。
あと数年たったら50インチの液晶TVを買うのを楽しみにしている。50万くらいになったら、
今は100万する。(この前石丸電気で見たら、そのままそこに入っていけそうな別世界があった。)
一週間で今が一番楽しい時間だ。土曜日,散歩と風呂の後、TV を見ながらパソコンと美味しい
コーヒーを飲んでいる時だ。

・・・・・・・
ある時間の断片
 1968年 11月27日
 10時10分に学校。川崎と会いノートを返す。彼と食事をして、
独りで図書館で勉強をして帰寮。部屋で、明日の中間試験の勉強。その後に風呂にいく。
夕食後、瓜生君が部屋に遊びに来る。そこに米林君も来る。彼をからかうと、かなり怒り
心頭のようであった。独り大声を発した。そして佐藤嬢のところに行ったようだ。
この男、イヤな奴だ。卑しい奴と言ってよいだろう。
友人では、こういう男と純粋を保っている男に二分される。いや2割がこういう男だ。
寮で来るなといえないので仕方がないが、普通は傍に寄せ付けない。
夜半の3時まで試験勉強。洗濯後、就寝。